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道徳武芸研究 山西派形意拳小考(3)

  道徳武芸研究 山西派形意拳小考(3) 三体式で最後に掌で打つのは「鷹捉」から掌(劈拳)、上段への拳(讃拳)、中段への拳(崩拳)、横に入身をしての上段への拳(砲拳)と変化し得ることを示すためである。山西派で劈拳を、拳での攻撃としたのは三体式との区別としてはより術理を明確化したものとも言える(三体式は掌、劈頭は拳)。私見によれば、こうした変化を促すヒントになったものとして八卦拳の影響があるのではないかと思うわけである。八卦拳には基本の構えの推掌(一般に単換掌と称される)の変化として挑打がある。これは擺歩で踏み出すと同時に片手で相手の攻撃を払うように受けて、更に一歩踏み出して拳で中段を打つものである。つまり山西派の劈拳とほぼ同じ動きをしているわけである。盤根などで八卦拳との深いつながりを見るならば、山西派の劈拳も八卦拳の挑打に影響されて変化したとすることもできるのではなかろうか。

道徳武芸研究 山西派形意拳小考(2)

  道徳武芸研究 山西派形意拳小考(2) 形意拳では見出された「鷹捉」をベースに他の技法を展開して行ったわけである。ために五行拳などはどれも似た形になってしまっている。このように形意拳の形はひじょうにシンプルなので、よく術理を理解していないと有効な練習が出来ない。こうした点が形意拳の面倒なところである。実際に三体式と五行拳の劈拳との区別がついていない修行者は実に多い。「鷹捉」を行うには横勁が働いていなければならない。これが充分に出来るようになったら劈拳を練る。劈拳では三体式で上下に分かれていた手を前で合わせる。それは前に行く勢いを重視しているからである。この段階では小さな横勁で相手を補足できるようになっている必要がある。そして前に出て間合いを詰める練習をするわけである。三体式で最後に掌で打つのは、これが五行拳のどの形にも変化できることを意味している。

道徳武芸研究 山西派形意拳小考(1)

  道徳武芸研究 山西派形意拳小考(1) 山西派では、河北派などで掌で行う劈拳が拳に変更されている。ここでは、その原因を八卦拳に求めようとするものである。山西派は孫禄堂が八卦拳をもたらしたことで際立った特色を持つようになった。円周上を歩く盤根などもこれは八卦拳の走圏そのものである。また形意拳の三体式は形意拳の原形ともいうべきものであるが、これは擺歩で踏み出すと同時に拳を出して相手の攻撃を受けて、更に一歩を踏み出し掌を打つ技法である。これがどうして数ある中国武術の中でも「高級」とされる形意拳を形作る基となったかといえば、それは「鷹足」という技法(擺歩で入身をして相手の攻撃を捉える)があったからに他ならない。「鷹足」を開発したことで、相手の攻撃を充分に捉えて反撃できるようになったのである。それ以前は反応の速さで攻防における優位性を求めようとしていたのであるが、それだけでは限界のあることが分かり、新たなる方法として「相手を捉える」ということが見出されてたのであった。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー8) 軍隊に入っても、戦いに出させられることはない、と言う。 【軍隊に出会っても、害せられることはない、と言う】 歩いていて獣に遭遇することがないだけではなく、また軍隊に出会っても害されることはない。軍隊と遭遇することはなかなかに無いことであるが、ただ善く生を得て道を分かっている人は、そうした状況にあっても問題はない。どうであっても害せられることはないのである。どのような大軍でも、どのような厳重な装備の軍隊であっても、そうした軍の害にあうことはないのである。一方で善く生を得ている人ではなければ、軍隊を退けてしまえる術を用いたり、軍隊を制する術を用いたりしなければなるまい。ただ、こうした人は善く生を得ている人とすることはできない。心は常に清静で、周囲の人と争うことがない。そうした人は例え軍隊に遭遇しても、軍隊の長官は親しくその重んずべき人であることを理解してくれ、兵たちもその徳を慕ってくれるであろう。そうして畏敬の念をもって遇されるので、その人が害せられるようなことはないのである。そうであるから「害せられることはない」とあるのである。 〈奥義伝開〉ここで宋常星は前の猛獣との遭遇に合わせて、軍隊との遭遇をいうものと解釈しているが、普通に読めば軍隊に入っても戦場に出されるようなことはない、という意味である。個人が軍隊と出会って云々というのは場面としても考えにくい。要するにどのような窮地に至っても、生き抜くことができる、ということを古くからの言い伝えは述べようとしているわけである。武術もその力をあまりに得てしまうと、それを使いたくなって、自らを滅ぼすことになりかねない。太極拳が優れているのは、強くなり過ぎないシステムであることにもある。これは日本の武術で試合を禁じているのも同様である。極論すれば「無敵である」と思った時、その人は既に「死」にとらわれているといえるであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー7) 聞くところによれば、善く生を養っている人は、歩いていても猛獣の害にあうことはない、とされる。 これより以下は「生」を保つことの不可思議な効果について述べられており「無死の境地」の妙義が記される。「死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人」は、全く情欲にとらわれているのであり、適切でない行為をしてしまう人で、よく「生」を得ることのない人である。「善く生を得ている人」は心は生まれたままの嬰児のようであり、少しの情欲を持つこともない。「性」は瑠璃のように明浄で、一点の穢れもない。その行為には全く「死」へと通じるものがない。そうであれば「歩いていても猛獣の害にあうことはない」ようになるのである。これはまさに「無死の境地」の不可思議な効果と言えよう。それは獣を遠ざけるような方法を用いるというのではない。呪術によるのでもない。およそ「善く生を得ている人」は、天の理を完璧に実行しているのであり、道徳において欠けるところはなく、常に心は物への執着から脱している。そうであるから根本的に物にとらわれることによる弊害の生ずることはない。つまり天の理を明らかに悟っている人は、獣の害にあうようなことはないのである。そうでなく鬼神に守ってもらおうと考えるような人は、往々にして獣の害にあうようなことが生じてしまう。 〈奥義伝開〉これから述べられる「猛獣」「軍隊」などによる害に関する話は、当時のことわざのような言い伝えであったと思われる。それを老子は正しく(新しく)解釈するわけである。「善く生を養っている」というのは原文では「善く摂生する(善摂生)者」とある。この「摂生(養生)」がどのようなものであったのかは分からないが、何か特別な方法があったのであろう。そしてそれを得たならば不可思議な力で守られると考えられていたようである。しかし、老子は「生」を得た人、つまり「生」きるべき状況にある人は猛獣に害されることはない、とする。猛獣に害された人は「生」きるべき状況になかったからであるというわけである。ただそれだけのことである。神仏の「おかげ」というのも、病気が治る状況にあったから治ったのであり、宝くじが当たる状況にあるから当たったに過ぎないのであって、そこに神仏の力などは働いていないというわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー6) それはどうしてか。生きることにあまりにとらわれているからである。 この一文は、これまで述べられたことを更に明らかにしようとするものである。人が正しくない行為をすると、それは「死」へと至ることになる。これは小波(注 小さな欲望)が大波(注 大きな欲望)を招くようなものであり、静かな海面から小波が生じ大波となる。そうした人は大波から小波そして静かな状態に至ることのできる道筋を知らない。例え身は「死」ぬとしても、「死」を速める入口を考えるならば、それは正しくない行為にあるわけで、あえて「死」へと向かおうとしている人は、それが分かっていない。迷い迷って、どうして自分が「死」へと急速に向かっているのかを知ることがないのである。ここで老子は、世の人の心を救おうとしている。「死」へと急速に向かう原因が心にあることは、あらゆる人に関係しているものの、それを知る人は少ないない。そうであるからどうして急速に「死」へと向っているのかが分からないわけである。その問いかけが「それはどうしてか。生きることにあまりにとらわれているからである」ということである。人は肉体を持っている。短い人生という旅路を生きる人は、長生きをしたく思うものである。そして「生」のとらわれからも「死」のとらわれからも脱することのできた境地を求めようとする。そうした「不生」「不死」の境地は個々人の「天性」でもある(注 本来的に有しているもの)。「天性」は増やす必要もないし、減らす必要もない。欠けたところも、足りないところもない。混沌として完全であり、それを悟れば「性」も「命」も正しく働くようになる。生死のとらわれから脱することができるようになる。どのような人が、「生」を貪っているのであろうか。それは「性(注 天性に同じ)」を養うことを知らない人である。功名、富貴にとらわれ、利を求めて、色に迷っている人である。こうした欲望から脱することのできない人は、全て欲望のままに「生」を得ようとして、自分の「生」を害していることを知らないのである。 〈奥義伝開〉三割くらいとイメージされる「生」にとらわれている人、そして同じく三割くらいとイメージされる「死」にとらわれている人、そしてこれも同じく三割くらいとされる若返り、不老不死を求めるような人、これらに共通しているのは「生」への執着であると老子は

道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(4)

  道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(4) 中国大陸では「武術(ウーシュ)」なるものが公案されて、従来の武術を床運動のようなものとして評価することがなされている。こうした中で優れた選手は運動能力も高いが、武術の動きとしては、やはり「違和感」がある。それは動きに「法(攻防の理論)」が伴っていないからである。「法」が無ければ、それに準じた「功」を練ることもできない。結果として「形」にも攻防の間合いが失われるので、武術を知っている者からすれば「違和感」を覚えてしまうことになる。「法」がなければ、どのような鍛錬をして良いのか分からなくなる。鍛錬の方向性が適当でなければ、適切な「功」を積むことができないので、「形」も適正を失ってしまう。こうしたことは「武術」ではよく起こっている。空手なども個々の「形」がいろいろな地域で伝承されていたため、当然にその背景となる「法」も違っていたのであるが、それが本土に伝わる時に「一緒」になってしまった。結果として空手としての統一的な「法」が見出しにくくなっている。そうしたこともあって、かつては中国の南拳なども参考にされてなんとか「法」と見出そうとする試みもあったが、南拳もそれぞれに「法」があって一つではない。おそらく空手でこうした矛盾を解決するためには「法」を同じくすると思われる「形」を分類して、かつての村々で練られていたように一つか二つの「形」だけを最終的には練るようにするべきであろう。中国では少林拳などはそうしたやり方で指導者となる以外の人は自分の気に入った一、二の「形」のみを練習している。このように形、功、法はそれぞれが密接に関係しているので、よくそれを弁えて練習をして行かなければならない。

道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(3)

  道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(3) 「形」とは「法(理論)」を現実の世界である「功」と結びつけるものであるが、武術の場合に問題となるのは「法」が分からなくなることである。特に八卦掌は掌だけを使ったり、円周上を歩いたりと特異な「形」を持つので、その「法」がなかなか正しく伝わっていないようで、「形」をどのように練ったら良いのか分からないで練習していると思われる演武がほとんどである。八卦掌で「掌」を用いるのは上半身を緩めて下半身にストレスを掛けて「上虚下実」の安定した姿勢を得るためであり、これは沈身功などと称することもある。ちなみに太極拳でも掌が多用されるのはこれと同じ理由からである。また円周上を歩くのは入身の鍛錬である。そうであるから無闇にクルクル回って単なる転身を繰り返しても武術的には全く意味がない。こうした「形」の乱れは「法」が正しく理解されていないからであり、結果として「功」が正しく得られていないためと言える。

道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(2)

  道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(2) 「呪物」と「物」の違いを生み出す要素としては「(奇異な)形」「物語」「伝承者」がある。これを武術の「形、功、法」で言うならば「形」は套路で、「法」は術理、「功」は練習ということになろう。そしてこれらによって武術の「力」である「勁力」が生み出されるのである。反対に言えば「形」「功」「法」のいずれを欠いても「勁力」は得られないということでもある。そのため中国では特に真伝を得ることが重要視されている。もし、こうした要素のいずれかを欠いた状態で稽古をしたならば、そこで偉えるのは単なる「力」である。これは「蛮力」とも称される。つまり武術の技とむすび付いていない単なる筋力に過ぎない力なのである。よく柔道家や相撲取りがプロレスラーに転身した場合には数ヶ月を費やして「見せる筋肉」を付けるという。本来、柔道や相撲では必要のない筋肉を強そうに見せるために付けるわけである。そうなるとその余分な筋力は蛮力を生むことになり、本来の柔道や相撲の動きにとってはむしろ邪魔になってしまう。

道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(1)

  道徳武芸研究 「呪物」と套路〜形、功、法の視点から〜(1) 「形、功、法」は」中国武術で使われる用語であるが、これらが密接に関係することで「形」は一種の「力」を持つとされている。武術で言えば「勁力」であり、「呪物」で言えば「霊力」ということになろう。さてネットの怪談界で「呪物」なるものが注目され始めて何年か経つと思われる。「呪物」には呪いに使う物であったり、神仏の像、不思議を起こすとされる人形などいろいろなものがあるという。そういった「物」が「呪物」となるには、そこに「物語」が付随していなければならない。そして、この「物語」の部分が「怪談」として語られることになる。つまり「物」が「呪物」となるには、またそこに付随する「物語=怪談」を受け止め得る「形」をしていなければならないわけでもある。人はそうした「形」の不完全さや特異性に不安や慴れを感じるわけである。ただ「呪物」といえば新しいもののように聞こえるが「物」が「霊力」を持つことは古くは付喪神として知られていた。九十九年を経て百年存在し続けることのできた「物」は付喪神となって特別な「霊力」を持つとされたのである。武術の「套路」もそれが単なる「動作」と違うのは、そこに何らかの「力」の存在を感じさせるところにある。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー5) 人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人が、十人の内に三人くらいは居る。 【人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人もまた「十三」と関係している】 この文章を詳しく見ると「生」にとらわれている人も、「死」にとらわれている人も共に「七情六欲」にとらわれているのであるが「生」を求める人は、その害から脱していることが分かる。「生」の欲望にとらわれていれば、心は正しく働くことはないし、視、聴、言、動は少しも「七情六欲」から離れることができない。あらゆる行為において、そうした害にとらわれてしまっていれば、それは全く正しい行為をすることはできず、「死」の門へと急速に向かうことになる。本来的には「生」を求めていても、欲望にとらわれてしまえばかえって「生」を失うことになるのである。「死」を避けようとして、むしろ「死」へと向かうことになる。それは(あえて燃えやすい)麻の衣を着て自分で火を付けるようなものであって、自分で自分を害しているのである。あるいは薬を満腹になるほど摂るようなものであり、これも自分で自分を害していることになる。これらは「生」を求めてかえっておかしな行動をして、「死」へと向かっているものであり、すべては「六情七欲」のとらわれが原因している。そうであるからは「人は生を重んじるものであるから、死へと向かうことから生へと転じることにこだわる人もまた『十三』と関係している」とあるのである。人が生まれると、天により完全なる理が与えられる。父母から生まれた体は全く天地の理そのままで、頭は天を足は地を象徴している。性命、陰陽は大いなる道の理そのものである。人の行うべき倫理は天地に働いている理と等しくある。我が身の内外には、全て「生」の理が働いているのであり、本来的には「死」の働きは認められない。「死」の働きが出て来るのは、人の心が正しくない動きをする時で、そうなれば「死」へと向かうことになる。その原因は全く「六情七欲(十三)」にある。例えば異性の声や体に執着してしまえば、それは「死」への門となる。財貨に執着してしまえば、それも「死」へと至ることになる。好悪の感情にとらわれてしまっても、「死」へと至ることになる。僅かな時間しか生きることのない普通の人の体で「死」

宋常星『太上道徳経講義』(50ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー4) 死にとらわれている人は、十人に三人くらいである。 【死にとらわれている人は、「十三」にある】 神が身を離れて、気も散じてしまうと人は死んでしまう。死にとらわれている人は「十三」と関係している。つまり「七情六欲」である。七情六欲を浄化する修行をする人は、生の門へ入ることができる。ただ生の門も、ついには死の門へと至ることになる。生と死の門との関係性は、人がどのように養生するかによる。世の人を見るのに、大体が生を求めている。そうではあるが死にとらわれている人は、全て情欲によって自分の真の心を失っている。情欲で自らの真性を失ってしまっているのである。それは情欲の害悪を知らないからである。そうなれば猛獣に害せられることもあろうし、また戦争で命を失うかもしれない。もし情欲に任せて、それに流されて生きていれば、情欲のままに生き死ぬことになる。一日中、情欲のままに生きることを心地よいと思って、あらゆる行動が、情欲のままに為されることになる。そして死へと日々、速やかに向かって、亡くなる時が迫ってもそれを知ることがない。七情六欲をよく知る者は、死へと急速に向かうことはない。そうであるから「死にとらわれている人は、『十三』にある」とされている。これは「十三(七情六欲)」が自らを害するのであり、その原因は貪りにあるわけである。それによって人間関係が崩壊してしまい、天の理の働くことはなく、自分だけの思いにとらわれてしまう。徳性は覆い隠され、生、老、病、死は正しきを得ることなく、ただに弊害をもたらし、諸々の穢れが覚えず生じてしまう。身の周りのあらゆるところに「死」の影が付きまとう。五臓六腑は、思わぬ時に病魔に犯され、次第に死へと至るのである。それは天の行うことではなく、全てが「十三(六情七欲)」のとらわれによっている。 〈奥義伝開〉死へのとらわれにある人とは網阿弥陀信仰のように死後の世界に救済を求めるような人のことである。こうした方向の考え方も普遍的に存している。「生」を深く考えると、どうしてもそれと切り離すことのできないものとしての「死」の問題に突き当たることになる。これは釈迦なども同様であった。「生」にこだわるのは人の本能でもあるが、「死」まで行くとそこに何らかの思索的なものが介入して来るので宗教的なものに触れることにもなる。これはただ安閑と「生」

宋常星『太上道徳経講義』(50ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー3) 生にとらわれている人は、十人に三人くらいである。 【生にとらわれている人は、「十三」にある】 これは欲望のことを言っている。「とらわれている人」とは執着のある人のことである。「生」といってもそれは一つではない。「十三」の種類の情欲があるとされる。これらは全て生きることに執着しているために生まれるもので、「十三」とあるのは七情六欲のことであって、喜怒哀慴愛悪の欲と七つの情と眼耳鼻舌身意の六欲のことである。人の「性」は本来は清浄である。心の本来は霊明である。「性」は情を生み、心は欲を生む。情欲が正しく働かなくなると、自らの「性」を害するようになる。もしよく欲のとらわれを脱して、情が正しく働くようになれば、真を守って乱れることはない。「十三」とは、情欲のことであるが、それらも本来は清浄無為の道にあるものであって、正見、正知そのものなのであり、まさに「衆妙の門」なのである。またそれは「真一の理(注 おおいなる「一」の「理」そのものということ。天の理と同じ)」でもある。しかし、それは「十三」の地獄の門ともなり得るが、それぞれを超越すると、まさに身心は軽やかとなろう。そうであるから「生にとらわれている人は、『十三』にある」とあるのである。もし、少しでも執着があれば、必ずそれにとらわれてしまうことになる。そうなると心身にダメージを受けて、死の門へと入らなければならなくなる。 〈奥義伝開〉原文では「十有三」とあるところを宋常星は「十三」と読んでいる。これは一般的な読み方でもある。しかし、現在の多くの老子の研究者はこれを「十人に三人」と読む。そうしないと意味が取れないからである。「十三」とした宋はこれに七情六欲をあてるが、こうした概念は後のもので老子の時代にはなかった。「三割くらい」というのは大体のイメージである。よく健康に気をつけて養生に熱心な人は今の日本にも多く居るが、そうした人をイメージしている。古代中国では丹薬として水銀を飲んで中毒死した人も居た。現在のサプリの流行にも似たようなものを感じてしまう。

道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(4)

  道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(4) 陳家では片手を挙げる白「鶴」亮翅はあり得ないと考えて「鵞」としたのではなかろうか。それを武禹襄が受け継いで「鵞」の方を本来の正しい字と考えたようである。そうであるとしても、どうして太極拳では片手を挙げる動作を白鶴亮翅としたのであろうか。それは老架を見れば分かる。丸い両手の形は片手を挙げる前にあるのである。ちなみにこうした動きのあったことは、古い歌訣の「全体大用訣」に「海底撈月、亮翅に変ず」とあることでも分かる。これは「海の底に手を入れて月を取る」という動きから「亮翅」に変化をする、という意味であるが「海の底に」という部分が、両手を斜め下に出す動きを示すものであることは明らかである。そして「亮」には「開く」という意味があるので、続いて片手を挙げる動きが翅を開く動作ということになる。ただ曽昭然の『太極拳全書』の拳譜では「亮」ではなく「日」に「京」の字が用いられている。これば「乾かす」「曝す」という意味で鶴が翅を乾かしている様子のこととなる。おそらく白鶴「リョウ」翅は本来は「日」に「京」の字であったのであろう。そうであるなら「全体大用訣」も「海の底に手を入れて月を取るのは、翅を乾かす動きでもある」と読むことができる。つまり「変亮翅」の「変」を海底撈月から亮翅への「変」化と考えるか、海底撈月がそのまま「変」じて亮翅となる、という意味にも取るかである。なにはともあれ「全体大用訣」で描写されている動きは老架完全に一致して矛盾がない。私見によれば、おそらく白鶴リョウ翅は海底針のような技であったのであり、「日」に「京」の曝すという意味が妥当と考える。つまり白鶴「リォウ」翅は、鶴が翅を乾かしているところを採っていると見るべきと考えるのである。 付記 『白鶴亮翅』(多和田葉子)という本が出ている。そこでは白鶴亮翅は「鶴が右の翼を斜め後ろに広げるように動かして、後ろから襲ってくる敵をはねかえす」技として解説されているが、これは余りに荒唐無稽である。

道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(3)

  道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(3) 太極拳の白「鶴」亮翅は、陳家では白「鵞」亮翅とされることがある。そして陳家の影響を受けた武家や孫家でも「鵞」が用いられている。これは後に触れるように「白鶴亮翅」と太極拳の白鶴亮翅の動きが合っていないことを武禹襄も感じていたことを示すものと言えよう。中国で「鶴」は仙人の乗り物としてのイメージがある。一方「鵞」は家の庭などで飼われていて親しみが深い。書聖とされる王羲之が好んだことでも有名である。では本来の太極拳である楊家の伝承と、それから派生した陳家の伝承でどうして「鶴」と「鵞」という字の異同が生まれたのであろうか。考えられることは中国武術には白鶴亮翅を初めとし黒熊出洞や白蛇吐進など、一定の決まった形を持つ技の名があることがその背景にあるように思われる。白鶴亮翅も多くの門派でこの名を有する技がある。八卦拳にもある。そのパターンとしては鶴の形であるから「両手を丸く挙げて片足で立つ」というのが一般的である。ちなみに太極拳のように片手を挙げるのは丹鳳朝陽の形とされる。この矛盾を解決するために呉家太極拳では、両手を丸く挙げる形に白鶴亮翅を改めている。こうして技法名と技法とを一致させたわけである。

道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(2)

  道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(2) 八卦拳におけるショウ泥歩は、歴史的には「足」に「尚」が本来で、後に八卦掌が広まると、ただ歩くという意味の「走」に「尚」となった、と考えられることは既に述べた。こうした違いを練習のプロセスから考えてみるとショウ歩と泥歩があった可能性もある。実際問題として、初めから鶴歩を練るのは難しいので、初心のうちは足を挙げない歩法で練習をすることもある。そうすることで沈身などができるようになってから、速く変化のできる足を挙げる歩法を練って実戦にも対応できるようにして行くわけである。また足を挙げる歩法は沈身ができるようにならなればできない。ただ足を挙げれば良いのではなく、沈身つまり「下がる勢い」の反発として生ずる「上がる勢い」が用いられなければ真の意味での鶴歩はできないのである。つまり泥歩で沈身を練って、それからショウ歩で足を挙げる歩法を練る。こうした段階があったことも考え得るわけである。

道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(1)

  道徳武芸研究 ショウ泥歩と白鶴亮翅(1) 八卦拳のショウ泥歩の「ショウ」は「尚」に「足」が付く字と、「走」が付く字がある。「走(そうにょう)」であれば「踏み歩く」という意味となる。一方、「足」で「尚」になると「高くする」という意味があるので、足を挙げて歩くということになる。八卦拳、八卦掌の諸派では「足」と「走」の字が混在しているようであるが、それはほとんどの八卦掌で、地面を滑らせるような歩法をとるからであろう。これが「足」であれば、足を挙げて歩くということになるので、実際と合わなくなってしまう。しかし、八卦拳では足を挙げて歩くので、「足」の方が適当であるといえる。一部に足を挙げて歩く歩法は鶴(行)歩などとして伝わってもいるが、「泥」という字のイメージからか、地面を滑らせるような歩法として捉えられることが多いようである。こうした異同は、多くの場合、このような語が口頭で伝えらるのみであったことによる。教えられた方は、自分がやっていることと意味の合う字を考えて、これを理解する。そこに誤伝、齟齬が生まれてしまうのである。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー2) 生を出ると、死に入る。  人の欲望にはそれぞれに関係する感覚器官がある。そしてそれぞれの感覚器官には(見たり、聞いたり、感じたりといった)特色がある。「出る」とは感覚器官のこだわりから抜け出ることであり、「入る」とはそれぞれの感覚器官にとらわれることである。つまり「出る」と「入る」とは、つまりは人の感覚器官のことなのである。感覚器官にとらわれ(入る)、感覚器官から自由になる(出る)。それはまた例えば春分の後には陽が開いて万物が生まれ、秋分の後では霜や雪が降るようになって、万物は死ぬのと同じである。こうした万物の「出入」は、卯酉の門(注 子午は陰と陽で、それが交わるのが卯酉である)にあるのであり、それは天地では開閉の時(日出、日没)で、これが「出入」ということになる。人と物の生滅は、何ら違いのあるものではなく、その本質は天地にある。それは陰陽の動静であり、男女にあっては性情の「出入」である(注 男女の交わりのこと)。また物の生滅も陰陽の動静にあるし、人の生死も同様である。ここで述べられている「出る」とは、情のとらわれから「出る」ことである。「入」は情欲のとらわれに「入る」ことである。「出る」とはつまりは「生」につながるもので、「入」はつまりは「死」につながっている。そうしたことを「生を出ると、死に入る」としている。人がもし本来の天性を完全な状態で維持できたならば、それぞれに真の心を養うことができるであろう。そして情欲を完全に脱することが可能となろう。情欲の外に超然として居られるようになるのである。つまり身の中の万神は、自然にその存在が安定されて、性の中の至理は自然に保たれる。視、聴、言、動は、全て本来的な働きに帰して、命(注 本来の体のあり方)に復することになる。何か物に接しても、心の動くことはなく(致虚)、静を養うことができるようになる。これがつまりは「生を出る」ということなのである。ここにあって自分自身の本質を悟ることになる。我が性命は、そこから生まれているのである。そこに真の心の誠のあるのであり「性」に本質がある。しかし情欲に陥ってしまうと、心は穢れて、性もその静を失うことになる。万物にとらわれて情において欲を去ることができなくなり、あらゆる欲望が噴出してしまう。私欲のままに行動すれば「性」の本来の働きは失われてしまう。

宋常星『太上道徳経講義』(50ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー1) 生死とは、性命が我が身に来て去ることである。性命が我が身に来ると「生」となる。それが去れば「死」となる。「性」は陽であり「命」は陰である。これが天にあれば天命となり、これが我が身にあれば性命となる。「性」と「命」は本来的に理においては「一」であり、別のものではない。理をしていうならば「性」と「命」は一つであり、同様に「動」「静」も違ったものではなく一である。天命は本来的には来ることも去ることもないし、生もなければ死もない。しかし個人の性命についていうなら、それには去来がある。生死もある。生死は天に心があって、その意図によって生み出されているのではない。ただ人の気質によってあるに過ぎない。それが天の理である。天の理と気が感応し合って、陰陽の気が相交わる。そうしたところに「生」はある。つまり父母の交わりによって気質を得て人は生まれるのである。理と気は天の命を受けている。理は気の働きであり、それは天の理に合っている。そうした理と気が人に下って、それらが互いに深く関係しているところに生生の働きがある。ここに人が生を受けることになるのである。つまり、死とは天の働きから外れることであり、そうして人は亡くなる。ただこの世の人を見てみると、生を軽んじて死を考えることもない。自暴自棄となって、自分の体を大切にすることもない。自分の気を大切にすることなく、その命を保つこともできていない。自らの神(こころ)を愛することもない。こうした生活をしていれば、天の命の至理はその身に存し続けることはできず、性命の本体も常にこの身に留まることができない。そうなれば「元気」の安定することなく、精神的に消耗してしまう。こうして全く自分で死を選んでいるわけである。本来の真の自己を離れてしまっているのである。そうなればその人は死んだも同然となってしまう。ここで老子は「生死の門戸を出る」ことを指摘している。世の人に求められるのは、俗情から離れて、私欲を忘れることである。これは「出機」「入機」を知ることでもある。そうであれば「生を求めて死に入る」といったこともないし、「生を軽んじて死に赴く」といったこともなくなる。ましてや戦争で命を失うようなこともない。猛獣に襲われることもない。どのような高位にある人でも、護衛をしてくれる人が居なければ、身を守ることはできないと思うかも

宋常星『太上道徳経講義』(49ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(49ー6) 人々は皆、耳目によって物事を知ろうとするが、聖人は子供のようである。 この文章からは聖人というものを深く知ることができる。それは人々と渾然一体であるということである。人々は聖人の教えに導かれ、その「性」の「善」に復する。そうなれば心の「信(まこと)」も完全なものとなる。聖人と人々の心とに違いはない。人々の心も「渾然」としたものであり、聖人の心と同様なのである。そうであるから聖人の「善」を見たならば、人々もまた己が「善」に気づくことになる。聖人の「信」を聞いたならば、人々もまた己が「信」を開くことになる。これらはつまりは耳目を通しての啓発である。ただ聖人は視覚や聴覚を通した啓発では、まだ十分ではないのではないかと恐れている。それは自分勝手な解釈をされるのではないかという点である。もちろん本来の「性」は「善」である。本来の心は「信」である。しかし多くの場合はそうなっていない。一方で聖人は「」のようなのである。「子供」とはまさに子供のことで、生まれたままの「性」が保たれているということである。「子供」は愚かであるし、何も理解することができない。善悪も分からず、知恵もない。また耳目を通して何かを知ろうとすることもない。つまりそれは視覚や聴覚が、何かを知る方法として機能していない、ということである。そうなればそうした知見にとらわれることもないわけで、これが聖人のあり方なのである。そうであるので「人々は皆、耳目によって物事を知ろうとするが、聖人は子供のようである」とされている。人々もこうした「子供」のようにとらわれないようでなければならない。そして本来の「性」の素朴さを失わないようにしなければならない。「善」は「善」であるが、「不善」もまた「善」である。「信」は「信」であって、「不信」もまた「信」である。天下とはこうした「渾然」とした状態にあるのである。そうであるから人の心も「渾然」としているのである。 〈奥義伝開〉人の根源的な心の働きを「性」という。これが活動して実際の思いや行いとして現れたのが「心」の働きである。そうであるから「性」そのものは無為であり自然である。しかし、人は年を取るにつれていろいろなことを学習して欲望を持つようになる。そうなれば「性」と「心」は乖離して行く。つまり乳児の時が最も「性」と「心」との乖離が少ないわけで、

道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(4)

  道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(4) 子母澤寛の『新選組遺聞』には沖田総悟の平星眼は「殊(こと)に目立って剣の先が右寄りになっていた」とある。また「刀を平らに寝せて、刃は常に外側に向け」ていたともされている。つまり中段の構えが相手に対して刀が切っ先の「点」で対するのではなく、横に寝かせて「三角」とし、その底辺が作る幅を得ることで自分の身を防御しつつ突ける体勢を確保しようとしたものと思われる。それに沖田は「三角」の底辺部分をさらに広くしていたことは「殊に目立って剣の先が右寄り」であったとされるところからも分かる。つまり沖田は刀で自己を防御しつつそのままの形で継足を用いて突いていたのではないかと思われるのである。これは攻防一体となった形であるといえる。八寸の延金は八寸(24センチ)くらい伸ばす、つまり間合いを縮めることができたということであろうからこれも継足の応用であると思われる。槍や矛の継足は始めに槍や矛を突き出してそれに足がついて来る。一般の剣術のように踏み込んで切って足を寄せるというものではない。先に武器が動くので間合いを一気に詰めることができるわけである。こうしたあたりに技術的な有利さがあったのではなかろうか。ちなみに形意拳の梢節(手)から動くというのも、槍と同じく拳が先に動くことで継足を導くところに特色がある。

道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(3)

  道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(3) 少林寺の棍術が有名であったのは、それが槍術の技法を含んでいたためといわれている。よく少林寺の映画などで棒の先で30センチくらいの円を描いてひたすら回す訓練をする様子が見られることがあるが、これは槍術の「圏」という技を鍛錬しているのである。これにより相手の槍を絡め取って中心ラインから外して突くことができるようになる。この絡める技法を棍に応用したところに少林寺の棍の優位性があったわけである。一方で槍術にも棍術の技法が取り入れられたとされる。このように異なる技術を取り入れることで技術の革新が可能となる。私見によれば沖田総司の三段突きも小笠原玄心斎の八寸の延金も共に槍(矛)術を取り入れたものではないかと思っている。ちなみに八寸の延金は矛の術の応用であるとされているが、槍と矛の違いは先の刃にある。槍は小さくただ突くことに特化しているが、矛は幅広で薙いで切ることもできる。それはともかく、これらに共通していて剣術にはない技術としては独特の継足がある。

道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(2)

  道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(2) かつて少林寺の武芸は棍術で知られていた。中国で拳術が中心となるのは近代以降でそれまでは棍や槍を主としていた。形意拳や八極拳が「槍から出た」とされるのも近代以前に拳術が中核になかったことを示している。他に軍隊などでは刀も使われていたが、剣は16世紀の兵学書の『紀効新書』に伝承の絶えていたことが記されている。ただ、剣は道教呪術などでは使われていたこともあって、武術ロマンを含む神秘的なイメージをもって近代以降、武当剣を嚆矢として広く套路が公案されるようになった。現在の太極拳には剣の套路を有する派も多いが、例えば楊家と呉家では拳術は大体において同じ動作で構成されているものの剣術は全く違っている。呉全佑は楊露禅そして息子の班侯より教えを受けているので、剣はそれより後に編まれたと考えられる。剣の套路は楊家では澄甫のころ、呉家では鑑泉のころには確実にあったので、露禅からすれば孫あたりに編まれたものと考えるのが妥当であろう。

道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(1)

  道徳武芸研究 沖田総司の三段突きと「八寸の延金」(1) 沖田総司の有名な技に三段突きがある。これは沖田の修行した天然理心流にある技ではなく、沖田の得意技がそういわれているだけであることもあり、現在は三段突きがどのようなものであったのかは明らかではない。突きであることは判明しているものの「三段」が三箇所所を素早く突くことを意味しているのか、あるいは三回の突きが連続して行われたのかも判然とはしていない。一方の「八寸の延金」は沖田から300年くらい前の剣術家である小笠原玄心斎が使ったものであるが、これも実態は明らかではない。ただ大陸から帰って「八寸の延金」なる技を会得して無敵であったとされている。一説には矛の技の技術を応用したものとされているので、あるいはこれも突き技のひとつであったのではないかと考えられる。日本で矛が使われたのは弥生時代あたりで、それ以降は舞楽や神道儀礼の飾りとしてはあったが武器として使用されることはなかったようである。

宋常星『太上道徳経講義』(49ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(49ー5) 聖人は天下にあって「ヂュツヂュツ(慎み深いという意)」としている。天下の人の心をその心としているのである。 人はこの世にあって、その身を有している。つまり「性」を持っている。それは「善」であるということができる。そして「善」であれば「信(まこと)」でもあることになる。「善」や「信」はすべて「性」の中に存している心の働きの「実理(現実世界で働いている理)」である。しかし、つまり「性」は「気」を受けて実際に行われようとする時に清濁の違いが生まれる。そして「善」と「不善」が生まれるのである。「信」と「不信」が生まれるのである。こうして、いろいろな様相が出て来るのであるが心の本来の形である。しかし、これと「混沌」とは全く違っている。つまり聖人でいうならば、天下に慎み深く対している。もし強いて天下に心の「混沌」を実践しようとしても、聖人のような慎み深さを保つことで「混沌」は実践されるのであるから、あえてそれを行うことはできないのである。もし、単に相手に流されることをして「混沌」たる心の状態としたならば、それは収拾のつかないことになってしまうことであろう。そうであるから「天性(注 人が本来受けている「性」)」は完全に保たれなければならないのであって、そうでなければその人の「善」や「信」は正しく実践されることがなくなってしまう。また「不善」「不信」たる人は、無欲、無為で、何事にもとらわれることなく、「混沌」とした「天真」に復するようにする。そして殊更には自己の「不善」や「不信」を示すことがないようにするべきである。 〈奥義伝開〉大阪あたりではスマートな男性のことを「シュッとした」というが、ここの「ジュツジュツ」もそうしたニュアンスを表す語である。意味としては文脈によって「恐れる」とか「誘う」などの意味として用いられた。老子がどのような音で慎み深くあるということをこの音に感じたのか正確なところは分からないが、読みとしては「チュツ」なので「ヂュツヂュツ」と読んでおいた。これは後の儒学では「敬(つつしみ)」という語で表されるものと同じであろう。聖人は無為(敬)であるから相手のことを受け入れることができる、と教えている

宋常星『太上道徳経講義』(49ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(49ー4) 世間で信(まこと)とされていることを自分も「信」とする。「不信」とされていることも、自分は「信」とする。これは「徳信」である。 天が与えて、人が受ける。それは実に「信」ということに尽きている。内には心と身、外には家と国、その「理」においては少しの違いもなく「信」が働いている。また「信」の「理」の実践においても全く内も外も同じである。つまり、それは人の「信」にあるのである。自己には自己の「信」がある。そして、それはあらゆるものに当てはまる。そうであるから相手を「信(しん)」ずることもできるわけである。もし「信」ずることができなく、努力して人の「信(まこと)」を信じようとしても、それは長続きするものではあるまい。天の「徳」をよく理解することなく、相手の「信(まこと)」を真に信ずることはできまい。ある時は信じられても、そうでない時もある。時には信じているように見せかけられても、それは本当の「信」の実践ではない。人間関係にあっては当然のことであるが、全く「信」をして対することもあれば、そうでない時もある。いろいろな事情によって「信」をもって対することができなくなることがあるものである。ただ、よく(「信」の根本である)「善」を知ったならば、結果として「信」をも知ることができるようになろう。自己が認識する「善」なるものを推し進めて行けば「信」へと至る。たとえそれが「不信」から始まったとしても、結果的には「信」へと至れるのである。それは「不信」なるものも「善」から外れるものではないからで、結果的にそれは「信」へと帰結する。つまり「信」とは「善」なのであって(注 根本的にはあらゆる存在は「信」である)、それは「徳信」と称される。「不信」もまた「善」なるものの中にあるのであって、これもまた「徳信」なのである。つまり本来的に「善」には「不信」は存していない。また人々は元より「徳信」を実践している。そうであるならどのような場合においても最後には「信」へ至るわけである。そして聖人が人を救うとは、人を「善」に導くことに他ならない。それはあらゆる人に共通している。そうであるから「世間で信(まこと)とされていることを自分も『信』とする。『不信』とされていることも、自分は『信』とする。これは『徳信』である」としている。 〈奥義伝開〉先とここで「徳善」「徳信

宋常星『太上道徳経講義』(49ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(49ー3) 「善」ということであれば、自分も一般に「善」とされていることを「善」とする。「不善」であれば、一般に「不善」とされているものを自分は「善」とする。これは「徳善」である。 天が与えて、人がそれを受ける。それがそのままに受け取られると「善」となる。内にあっては心や身、外にあっては家や国、あらゆるところにこうした「理」は通じていて、まったく偏りはなく、それはあらゆるところに及んでいる。そうした中に人の「善」がある。自分の「善」はそうした自分を取り巻くあらゆる存在と等しい「善」の中に存している。自分が「善」とするものを、他人は「不善」とする。それは「善」というものがよく分かっていないからである。本来の天の「徳」というものが分かっていないからである。それは物欲によって見えなくなっていることもあろう。そうなれば人のあり方も正しくは見えなくなる。こうしたいろいろな場面での「不善」なるものは、あらゆるところにあるが、本来的には「不善」なるものは存していない。自己にあっては自己の「善」を見つめることで、こうした誤った考えを是正することができる。つまり「不善」と思われていることも、実は「善」なのである。「不善」とされていることも、自分にとってはそれを「善」として受け入れることができる。重要なことは「善」は天の「徳」であるということであり、「不善」とされることも、それが存在している以上は天の「徳」であるから、それは「善」ということになる。つまり天の「徳」で「善」でないものはないのである。それは人においても同様で、あらゆる人は天の「徳」を有している。そして、それを捨てることはできない。そのため聖人が世の人に対する時には、必ず自分も相手も共に「善」なる存在であると考える。それは(古代の聖王である)堯舜と同じである。そうであるから「『善』ということであれば、自分も一般に『善』とされていることを『善』とする。『不善』であれば、一般に『不善』とされているものを自分は『善』とする。これは『徳善』である」というのである。 〈奥義伝開〉この世に存在しているものは「自然」において存在しているのであるから、すべて「善」なるものであるとする。そうであるから、そうした中に「不善」なるものもあると考えるのは誤った考え方であるとする。ここでの「善」というのは「善悪」の「善」

道徳武芸研究 大東流と集合無意識(8)

  道徳武芸研究 大東流と集合無意識(8) 近代以降は西洋のスポーツ的な「相手を倒す」ことを前提とした格闘術として、日本の武道も見られるようになった。システムとして、その先駆的な改革に成功したのが柔道である。一方、合気道ではそうした方向での変化を拒否した(試合の禁止など)。合気道や大東流は、人の心身の微細な働きを知るには、ひじょうに優れたシステムである。こうした「合気」の位置つけが正しく理解されないで「合気」を相手を倒す技術と誤解してしまうと、自己の属する集団だけに通用するようなカルト的、自閉的な展開をしてしまうことになる。それはけっしてあるべき形ではないであろう。ただ、こうしたことが起こりやすいのは、大東流のシステムが日本人の深い意識、つまり集合無意識に触れるようなレベルから出ていることと関係している。また、そうであるからこそ実戦ではあり得ない両手を持たれての「合気上げ」などに多くの人の関心が集まるわけである。ただ集合無意識は、冒頭でノストラダムスのブームにも触れたように、往々にして理性を超越してしまう。ごく真面目に触れないで投げられるようなシチュエーションが生まれしまうのである。こうしたところに十分に注意をして理性の下に「合気」の稽古を行ったならば、心の奥深いレベルでの気づきを得ることも不可能ではあるまい。

道徳武芸研究 大東流と集合無意識(7)

  道徳武芸研究 大東流と集合無意識(7) 九州南部を支配していた豪族のクマソタケルとの争いは、ヤマトタケルが女装してこれを倒したとされている。これによりオウスの命は「ヤマトタケル」という名をクマソタケルから与えられたとされている。「たける(猛)」という「力」の称号を継承したわけである。しかし、そこにあったのは単なる「力」ではなく謀略という「知恵=技」によるものであった。日本人は「生(なま)の力の強さ」を好まない。何らの「技」を通した「力」を良しとする。現在でも「力を使わない」ということが武術では好ましいとされている。こうした日本人の「力を使わないことを良しとする」意識の延長にあるのが柔術であり、その結晶ともいうべきが「合気」なのである。そうであるから「合気」そのものは「実戦に使えない」のにも係わらず多くの関心が寄せられている。しかし本当に合気道や大東流は「実戦」に使えないのであろうか。そうではない。本来、柔(やわら)の道は相手の攻撃から離脱するものであって、決して相手を倒すことを第一義としていないからである。相手を倒す技術は専ら剣術において為されていたわけである。

道徳武芸研究 大東流と集合無意識(6)

  道徳武芸研究 大東流と集合無意識(6) 出雲神話では国譲りの話の中にフツヌシとタケミナカタが互いの手を取り合って争う様子が描かれている。またタケミナカタはひじょうな怪力の持ち主であるともされている。一方、フツヌシは「剣の先」に坐っている姿で出雲に降臨したとされるから、体が必ずしも大きくなかったことをイメージさせる。実際、フツヌシは「雷」系の蛇神(龍神)の系統に属しているので、雷が剣の先に落ちた現象がそのイメージの背景にはある。それはともかく、手を取り合って争った時に、フツヌシの腕は「氷」のようになり、タケミナカタはそれを掴むことができずに投げられたとある。これは単にフツヌシの「力」が強かったのではなく、何らかの「技」がそこにあったことが示されている。日本では古来から「若宮」信仰というものがあって、「神」は少年・少女のようなか弱い存在であるとイメージされることが多かった。また小さな神の代表としてはスクナヒコナが居る。この神は医療や酒造り、呪術を教えた神とされている。つまり「叡智=技」を教える神であったのであり、それは小さな神、若宮としてその存在がイメージされていたのであった。ここに見られるのは「か弱い者が猛者を制する」という日本人が共通して歓迎する意識のパターンである。

道徳武芸研究 大東流と集合無意識(5)

  道徳武芸研究 大東流と集合無意識(5) 集合無意識が、どうして不特定多数の人に共通の感覚を抱かせるのか。それは「元型」というものがあるからであるとされている。つまり人類には共通した意識のパターンがあって、同じような反応をしてしまう、というのである。そのため神話や宗教のシンボルなどには普遍的な「型」があるのであり、そうした根源的な「型」を「元型」と称している。日本の武術における「元型」は「柔=和」にある。これは聖徳太子の憲法十七条の頃から争いが起こるのは「和」が無いからであるとされていて、この「和」は「やわらかき」と読まれていた。つまり「柔」であるということである。そこでさらに具体的に神話や説話の中にこうした「元型」がどのように展開しているのかを見てみよう。それにはタケミナカタの神とフツヌシの神の争いの場面と、ヤマトタケルとクマソタケルとの争いのシーンが挙げられよう。ちなみに佐藤金兵衛は『柔と拳と道』でタケル固めなる技の伝授を暗闇の中で受けたとしている。このタケル固めはヤマトタケルがクマソタケルを制した時の技らしい。ちなみに暗闇というのは、かつては神の出現するのは暗闇の中であるとして、かつては祭祀を暗闇の中で行っていたことに関係しているようである。こうした話はなかなかファンタジーとしておもしろい。昨今、流派の由来を語る(騙る)人が多いが、安易に大東流や中国武術に結びつけるのは知性の無さが露呈して悲惨でさえある。もう少しマニアックな深みが欲しいところである。