宋常星『太上道徳経講義』(14ー4)
宋 常星『太上道徳経講義』(14ー4) これを搏(う)つも得ず。名を微と曰う。 大道は無形であるから、それを持つことはできない。そうであるから「微」という。「微」とは、おおいなる虚、無の妙(太虚無妙)のことで、大きさは果てがなく、小ささも限りがない。周り巡って窮まることなく、微妙であって見ることもできない。もし、それを手にしようとしても、手にできるのは形あるものだけで、そうした物では(物質の根本にあって)陰陽を御することはできない。それは造化に関係している(先天の形の捉えられないものである)、そうであるから「これを打とうとしても打つことはできない。その名を微という(これを搏つも得ず。名を微と曰う)」とあるのである。大道は微妙なる存在であり、それを打ったり持ったりすることはできない。もし少しの塵にも染まってしまえば「一」なる法を知ることはできない。小、中の自然から大なる自然をうかがう。無である自然の中から有である何かが生まれる。こうしたことは微にして微なることの深い意味といえないであろうか。どうして太極である人を戯れに搏(う)つことがろうか。 〈奥義伝開〉最後の「どうして太極である人を戯れに搏(う)つことがろうか」というのは、ここで老子が搏(う)つとしているのは「先天」であって「後天」ではないということである。当然、後天の「太極」を搏つことは可能である。太極は後天であるから、「太極」つまり「陰陽」すなわち「女男」である「人」を打つ(搏)ことは可能なのである。先天は混沌として形を持たない。そうであるから打とうにも打つ対象が無い。先天そのものはこのように捉えることができないが、後天の自然の働きをよく見れば、先天の働きを伺うことも可能となる。「無」からある機が生まれて太極が生じ、それより万物が生まれる。これは関係のない男女が出会いの「機」を得ることで結ばれて子供が生まれるのと同じである。ただ歴史的に考えれば、この反対で男女が結ばれて子供が生まれるという事実から天地の造化もそうであろうと類推したものと思われる。