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宋常星『太上道徳経講義』(14ー4)

 宋 常星『太上道徳経講義』(14ー4) これを搏(う)つも得ず。名を微と曰う。 大道は無形であるから、それを持つことはできない。そうであるから「微」という。「微」とは、おおいなる虚、無の妙(太虚無妙)のことで、大きさは果てがなく、小ささも限りがない。周り巡って窮まることなく、微妙であって見ることもできない。もし、それを手にしようとしても、手にできるのは形あるものだけで、そうした物では(物質の根本にあって)陰陽を御することはできない。それは造化に関係している(先天の形の捉えられないものである)、そうであるから「これを打とうとしても打つことはできない。その名を微という(これを搏つも得ず。名を微と曰う)」とあるのである。大道は微妙なる存在であり、それを打ったり持ったりすることはできない。もし少しの塵にも染まってしまえば「一」なる法を知ることはできない。小、中の自然から大なる自然をうかがう。無である自然の中から有である何かが生まれる。こうしたことは微にして微なることの深い意味といえないであろうか。どうして太極である人を戯れに搏(う)つことがろうか。 〈奥義伝開〉最後の「どうして太極である人を戯れに搏(う)つことがろうか」というのは、ここで老子が搏(う)つとしているのは「先天」であって「後天」ではないということである。当然、後天の「太極」を搏つことは可能である。太極は後天であるから、「太極」つまり「陰陽」すなわち「女男」である「人」を打つ(搏)ことは可能なのである。先天は混沌として形を持たない。そうであるから打とうにも打つ対象が無い。先天そのものはこのように捉えることができないが、後天の自然の働きをよく見れば、先天の働きを伺うことも可能となる。「無」からある機が生まれて太極が生じ、それより万物が生まれる。これは関係のない男女が出会いの「機」を得ることで結ばれて子供が生まれるのと同じである。ただ歴史的に考えれば、この反対で男女が結ばれて子供が生まれるという事実から天地の造化もそうであろうと類推したものと思われる。

道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(4)

  道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(4) 実は「採腿」は古代日本で使用された記録が『日本書紀』に残されている。相撲の起源ともされる野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)との試合で、野見宿禰は当麻蹴速の腰を踏み砕いたとされるのである。これはまさに採腿そのものといえるであろう。また野見宿禰は葬儀を司る土師(はじ)氏の祖先とされ埴輪を考案したとする伝説もあるように霊的な部分に深くかかわる存在でもあったのである。霊的なことを扱うには微細な感覚がなければならないことはいうまでもあるまい。やはり野見宿禰は「御信用之手」と等しいものを習得していたと考えるのが妥当ではないかと思われるのである。このように「採腿」は日本の武道の歴史とも深い関係を有している。またそれは単に攻防の技術というだけではなく霊的な部分とも深い関係を有している。こうした体重の移動を主とした腿法は、相手に触れてから最も適切な角度で力を発する(暗勁)のでそれを避けることは難しい。これは一般的な攻防のように腕や足などの速さと力によって攻撃の力を得る方法(明勁)とはまったく異なっている。こうした「暗勁」を開く方法として「採腿」はひじょうに有効である。採腿に習熟して足により力を発することができるようになれば、拳や肘をしても力を発することができるようになる。これをシステムとして最も有効に使っている拳術に形意拳がある。呉家太極拳を考案した呉家は本来が中国相撲を伝承していたために、投げ技への展開にも特徴を有しており、四郎の山嵐のような「蛸足」を用いている。こうした視点から太極拳を考えるとまた新たな発見があるかもしれない。

道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(3)

  道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(3) 太極拳の奥義に「採腿」がある。これは踏み込むような腿法で、蹴りと解することもできる。その場合にはトウ脚としてとらえることもできよう。なぜ「採腿」が奥義であるとされるかといえば、それが歩法の変化であるからである。太極拳の歩法にはすべて「採腿」という踏み込むような蹴りが含まれており、それがトウ脚や分脚へと変化をする。歩法と蹴りとの一体を示し、それを修練する方法として採腿の秘訣があるわけなのである。これは形意拳では狸猫倒上樹とする技として残されている。これは崩拳の回身式でもあるし、十二形拳の龍形はまさに狸猫倒上樹の奥義をよく示している。形意拳ではこれを主として相手の攻撃を止める手段とする。八卦掌でいえば「截腿」である。八卦掌では足先を外に向けて踏み込む擺歩がこれに当たる。八卦掌には他に足先を内に向ける扣歩もあるが、これは暗腿とすることができる(入身の歩法)。採腿のような歩法を使うには当然のことであるが、聴勁が高度なレベルにまで至っていなければならない。聴勁が深まれば粘勁といって相手と離れることなく密着して相手の動きをコントロールできる。これは「合気」と同じであり、四郎が山嵐で使ったのもこうした高度な感覚を用いる技術がその奥に内包されていたのではないかと思われるのである。

道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(2)

  道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(2) 実に西郷四郎が西郷頼母が伝授されたのは「御信用之手」(合気を養う方法)で、これは微細な感覚を開く能力開発法であった。つまりこれに大東流の柔術が付属して大東流(合気)柔術となったのであり、四郎の場合には柔道技に合気が組み込まれて「山嵐」が考案されたわけである。ここで問題となるのは足の位置で、通常は脛のあたりに足を当てていることが多いようであるが、合気ということからすればこれは膝でなければならないように思われる。少し上から踏みつけるようにして膝を抑えると膝が伸びる。そのまま力を加え続けると折れてしまうが、膝が延びて体が浮いたその時に、今度は膝の下の報を足の指ですくうようにして腰にのせて投げる、これが合気を使っての「山嵐」の考えられるセオリーである。初めは足の裏で相手の膝の上のあたりを抑えるようにし、次いで指で膝の下のあたりからすくうようにする。こうした切り替えは足裏にまで微細な感覚が育っていないと行なうことはできない。

道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(1)

  道徳武芸研究 太極拳秘伝「採腿」と柔道「山嵐」(1) 山嵐は講道館で西郷四郎が使って無敵であったとされる技であるが、現在は試合などで用いられることはなく「幻の技」などと称される(しかし一応は講道館の「形」として認められてはいる)。これが西郷頼母から伝えられた「合気」を使った技ではないかといわれているのであるが、そこで注目すべきなのは、前の稿でも言及したように四郎の足が一旦、相手の体に触れるとけっして離れることがなかった、とされている点であろう。富田常雄は『柔道創世記』の中で「相手の足首にかけると、それが予定の位置をはずれて、上の方に流れると云う様な事がない」であるとか「相手の踝を目的とすれば、そこにぴたりと喰いついているのであった」などと記している。これはまさに「合気」によるものでこうした手以外の部位によって掛けられる合気は「体の合気」などと称されることもある。ただ足の裏を相手の足に密着させるやり方は柔道的な動きの中では難しいようで、現在実演される「山嵐」の多くの場合はただ相手の足を払うだけになっている。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー3) これを聴いても聞こえざる。名を希(き)と曰う。 道には音がない。そうであるから道の音を聴こうとして、耳をそばだてても、何らの音も耳に入ることはない。そうであるから「希」といっている。「希」とは音が希(かすか)であるということで、寂として音がないということである。聞くことのできる音声のないのが道なのであって、もし聞くことのできる音声があったなら、そうしたところで、どうして天地を生育することができようか。万物の造化を行なうことができようか。そうであるので「聴こうとしても聞くことができない。その名を希という(これを聴いても聞こえざる。名を希と曰う)」としているのである。大道の妙は、聴こうとしても聞くことができないところにある。ただそうしたところに人は性命の真の音を聞くことができるのである。聞くことなくして聞く。三界(過去、現在、未来)に聞くべきは、聴くことなくして聴かれる「音」で、それによりあらゆるレベル(過去、現在、未来)での「音」を聴くことができるようになる。そうして大道の「希夷」の妙に深く入ることが可能となるのである。 〈奥義伝開〉宋常星は耳に聞くことのできる「音」は後天の音であり、内的に感じることができる「音」が大道、つまり先天の「音」であるとしているようであるが、よく読めば分かるように大道の「音」は聞こえないと明記している。先には、あらゆる物質の平等が解かれていたが、ここではあらゆる時間における平等が説かれる。過去、現在、未来にわたる「音」を聞くとは、それらが時を超えて同一線上にあることを悟ることである。あらゆる空間、あらゆる時間において、あらゆる存在は平等なのである。それにも関わらず多くの人は身分の上下を付けたがる。結果として矛盾が生まれることになる。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー2) これを視ても見えざる。名を夷(い)と曰(い)う。 道には形はない。それを視ようとしても見ることはできない。それを「夷」と言っている。「夷」とは変わるということで、これは大いなる変化のことで定まった形を持たないことなのである。人が見ることができるのは一定した物である。見ることができないのは「道」である。つまり、見えないからこそ、それは「造化の中核」であり、あらゆる物の根源なのである。もし、見ることができたなら、それは単なる物ということになる。そうした物を天地の始めとすることはできないし、万物の母とすることもできない。そうであるから「視ようとして見ることができない。その名を夷という(これを視ても見ず。名を夷と曰う)」としているのである。道には形がなく、見ることはできないとはいっても、もし内に、その心を観れば、心は心ではなく、外に形を観れば、形は形ではない、物も我をも忘れて、内も外も空となる。そこに道を見ることは可能となる。 〈奥義伝開〉最後に静坐による「道」の感得について述べられている。宋常星は「空」を感得することが「道」の感得となるとする。このあたりは禅の影響といえようか。あえていうなら「道」そのものは感得することはできない。これは「空」も同様である。一種の神秘体験としてそれを感得したかのような誤解を得ることはあるが、それは感得し得たという事実をして「空」ではない(相対的、固定的な存在となる)し、「道」でもない。一箇の限定された観念に過ぎないのである。これは仏教との大きな違いで、静坐においては悟りのような究極的なものを求めることはなく、常に生じてくる事象に適切に対処できる状態が得られれば良いとする。

宋常星『太上道徳経講義』(14ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(14ー1) 大道の妙は上にあって明らかであるが、それは明らかなように見えても明らかではない。潜んで下にあるようであるが、それは見えないようであっても見えないこともない。限りなく広く(円機広大)、その広さは宇宙の果てにまで及び、法則に沿って動きの絶えることがない(至理無窮)。大道を小さく見れば、ごく微細なところにも及んでいる。その始まりを知ろうとしても知ることはかなわず、その終わりを考えても考えの及ぶことはない。終わりもなく始まりもないが、古今の(変化の)「機」に応じている。信(まこと)があって天があり、地があるのであるから、よく天地の真を体現して、造化の源を究めれば、事物の理をこの身に備えられ、あらゆる微妙な感情の機微(性情の妙)を尽く理解することができよう。それは遠くに求めなくても、自己の内において自然に「道の眼」が開かれ、「道の体」を見ることができるようになる。労することなく無理をすることなく、自然に心は活性化し、それによって俗世間の道に反することを見抜くことができるようになる。この天地にあって、寒い湖から月が上り、峻嶺な峰には雲がかかる、こうした風景には(心に深く迫る)道の法則の絶妙さ(玄微)がある。自分は見ることができても、他人はそうではない。自分は聴くことができても、他人はそうではない。自分は捉えることができても、他人はそうではない。微かにして穏やか(希夷)で微妙、一にして三、三にして一、これら総ては我が身の中の変化である。これを執ろうとすればそれは「有」るが、これと一体となればそれは「無」となる。つまりこれが「性」の中の道の法則なのである。よく考えてみて頂きたい。 この章では、混沌とした中の「一」を重視している。大道がもし混沌とした「一」に帰することがなければ、聖人もこうした古の道を執って、今の「有」を御することはできないであろう。 〈奥義伝開〉ここで「一にして三、三にして一」とあるのは、老子のいう「一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む」(第四十三章)によるもので、「三」は万物ということである。混沌の「一」から万物の「三」が生まれ、万物はまた混沌と一体であるとする。これは先天(混沌)と後天(万物)の合一といわれるものと同じである。要するに先天後天の合一が道の法則つまり「道紀」であることが述べられる。これはまた万...

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(8)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(8) 植芝盛平は晩年に合気道の形を「気形」であると感得するようになる。盛平は早くから大東流の形は実戦には使えないことを知り、その解決を当身に求めたりもしたが、結局は「呼吸力を養うための鍛錬法」と位置付けたわけである。そして呼吸力の成立するのは心身の統一にあることも述べるようになっていた。大東流、合気道の「技」の不幸は剣術家であった武田惣角により技が積み上げられて行ったことにある。それは主として剣術に付属する柔術であり、剣術の動きそのままを柔術の技として応用したものであった。ちなみの剣術に付属する柔術とは抜刀をするためのもので、刀を抜こうとしてそれを抑えられた時にいかにして刀を抜くか、というもので、両手を取られた状態での合気上げを行なうのはそうしたことを前提としているためである(本来の合気の鍛錬法は新羅明神の像の手に見ることができ、それが御信用之手であることは先の稿で触れている)。もし御信用之手が柔術技法としても優れている柔道、あるいはその源流の起倒流、天神真楊流などをベースにしていれば、その「柔術」は山嵐レベルの技であったのかもしれない。知を開く術としての「御信用之手」はどのような優れた知の体系と出会うかが、ひじょうに重要なのである。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(7)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(7) 西郷四郎の山嵐は「御信用之手」と柔道とが出会って、ひとつの卓越した技を生んだ事例といえよう。また穴太衆は「御信用之手」と石積みが出会って高度な城の石垣へと結実した。あるいは三井寺では僧兵がそれを学んで中世の最強軍事集団ともいうべき僧兵が生まれた。このように「御信用之手」はそれが単独では特別な働きをすることはないが、一定の技術と出会うことでそれを大きく開花させることを可能とすることができるのである。先に太極拳も微細な感覚を開くことを目的としているシステムであることを紹介した。それに比べて方法としては御信用之手の方が数段優れているといえよう。太極拳において御信用之手の訓練に相当するのは推手である。推手の場合は触れている部分が手の一部に留まること、また相手を崩しても立っている状態であれば、相手の身体の状態が変化して崩れの度合いがうまく知覚できないことが多くあることなど、なかなか相手の内的な動きを把握でき難い部分がある。一方「御信用之手」ではしっかりと手を握っており、坐った状態であるので、身体を変化させることは難しい。そうであるから相手の力がどのように働いているのか、または自分の力がどのように作用しているのかを比較的容易に知ることが可能となる。このようにして微細な感覚を育てることで、あらゆる学問、技術の奥義を知ることが可能となる。改めて見直されるべき鍛錬法ではなかろうか。ちなみに鄭曼青が五絶老人として詩文、絵画、書法、医学、武術の五つの分野にわたって絶技を会得したいたとされるのも、太極拳に能力開発法としての側面のあるためである。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(6)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(6) 西郷四郎は山嵐で有名であるが、山嵐は柔術技法としては腰投げの一種でそれに足払いが加えられたものということができるであろうが、「御信用之手」からすれば足払いこそが重点といえる。実際に四郎がこの技をすると足が相手から離れることはまったくなかったとされ、それは「蛸足(たこあし)」といわれていたらしい。この離れることのない技法こそが「合気」であり、これをしても西郷頼母が伝えた御信用之手を四郎も会得していたことは確実である。特にこの技は足の裏全体を相手に当てているところが肝要で、そうすることで足の裏を通して相手の内的な動きを知ることができるわけである。柔道的なセオリーであれば大腰(おおごし)のようなただ腰にのせて投げる方がはるかにやりやすいことであろう。山嵐の足の使い方を見ても、そこには柔道的な身体の運用のセオリーではなく、これを使うには微細な感覚を育てる訓練「御信用之手」の存在を無しにしては「技」としての合理性が見えてこないのである。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(5)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(5) 太極拳では推手の段階を覚勁、トウ勁、神明としている。これは勿論、より微細な感覚が開かれるプロセスをいうものである。覚勁は相手の動きの中に含まれる内的な働きのあることが分かる段階であり、トウ勁はそれを意図してコントロールすることができるようになる段階、そして神明は意図することなく相手の勁の動きに反応することのできる境地である。御信用之手も勿論、同様なプロセスを経て相手の内面の動きを知って、そして自らの動きのそれをも分かるようになることで、自他の動きの勢いをコントロールできるようになる。また神明の境地に入れば身体の動きだけではなく、心の動きに対してのアプローチも可能となる。これを太極拳では凌空勁などということもある。凌空勁を触れないで倒すような「技」と誤解する向きもあるが、触れることなく相手を倒すことはできないのは当然のことである。これは相手と接触するより前にその動きを知ることができるという意味で、すべてはただ感覚が微細になることをいっているに他ならない。

宋常星『太上道徳経講義』(13ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(13ー5) 故に貴きは身をもって天下となす者、もって天下を寄すべし。愛するは身をもって天下となす者、もって天下を託すべし。 聖人は生きて行く上で、我が身を貴ぶこともないし、愛することもない。どうして天下を貴んだり、愛したりすることがあろうか。自分を貴いと思う心がないので、天下も貴いとは思わないし、自分を愛することがないので、天下を愛することもないのである。自分を貴ぶことなく、愛することもなければ、その身を忘れることになる。つまりこれが無為の道なのである。無為の道をして天下に臨めば、治まることのない天下はない。しかし身を貴ぶ心をして天下に臨めば、たとえ天下を得たとしても長持ちのすることはない。身を愛する心をして、天下に臨んだならば、たとえ天下を得たとしても、一時的に留まるだけになろう。誰かが物(天下)を自分に託したとして、自分はそれを一時的に預かったに過ぎない。最終的に自分の所有物ではないのである。ここでは「我が身を貴いとするように天下を貴ぶ人には天下を預けるべきである。我が身を愛するように天下を愛する人には天下を託するべきである(貴きは身をもって天下となす者は、もって天下を寄すべし。愛るは身をもって天下となす者は、もって天下を託すべし)」とある。人がこの世に生まれてくることを考えてみるのに、それば走っている白い馬が壁の隙間から、ちらりと見えたようなもので、すぐにやって来てすぐに立ち去ってしまう短い人生である。天下を貴いものとし、世界の財宝を望むのは、すべて長生きをして死なないと思っている者のようである。人の生きることの理を悟らなければならない。虚静、恬淡(心静かで無欲)、自牧(修養する)をして貴んだり愛したりすることを忘れる。そうしたことをしないで、その身に「大患」の降りかかることを、どうしてそのままのして良いものであろうか。 〈奥義伝開〉宋常星は自分を貴んだり、愛したりしない人に天下を任せるべきとしているが、むしろそれは反対で自分を貴いと思い、愛する人のところにこそ天下は任せられるべきであると老子は感がていたと思う。つまり、自分自身が天下と等しい価値があると分かっている人、自分自身を天下と等しく愛している人、そうした人物には自然と天下の統治を任せられる、と老子は言っている。それは「天下」というシステムと、「身(個人)」というシ...

宋常星『太上道徳経講義』(13ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(13ー4) 何を謂う、大患を貴ぶは身のごとしと。吾ゆえに大患有り。吾に身有る為に、吾に身無きに及べば、吾に何の患有らん。 ここでも重ねて冒頭の文をあげている。世の人は「患」が「貴」より生じていることを知ることはない。「禍」は「福」から生まれる。ここで「貴き大患は身のごとし」とあるのは、人がこの世に生まれて、身を持つとそこに「患」が生まれるということである。この身をして「患」を思うならばこの身は「患」が形となったものということにもなろう。逆に「患」をしてこの身を考えたならば「患」はまた身に沿う影のように離れることのないものとなる。そうであるから「患」と身とは不可分の関係にあるのであり、これらを離すことはできない。そうであるから「大患」とあるのは、それが吾にこの身がある限りは離れることがないために他ならない。もし吾にこの身が無ければ、「大患」も存することはできないのである。そうであるからここに「貴い大患とは身のようであると、はどういうことか。それは自分の身があるからこそ大患があるのであり、つまりは自分が身を有しているからこそ大患があるわけなのである。もし自分に身が無ければ、どうして患の生ずることがあろうか(何を謂う、貴き大患は身のごとしと。吾ゆえに大患有り。吾に身有る為に、吾に身無きに及べば、吾に何の患有らん)」としているのである。人がこの世に生まれてくることを考えてみるのに、人は生まれるとその形に捉われることになる。そうであるから飢えを感じることもあるし、どうしようもなく寒かったり暑かったりすることもある。生きること、老いること、病気になること、死ぬことへの不安を常に抱いている。そうであるから身を「患」うとしている。衣服をして寒さを防ぎ、飲食をして飢えをしのがなければならないのはすべてこの身があるからである。そして生まれれば必ず老いることは当然であるのにそれをよく分からず心配し、病気にかかれば亡くなることのあるのは当然であるにもかかわらずそうしたことも理解していない。これらはただ陰陽の変転において起こっていることにすぎない。人はこうした造化の順逆の理から逃れることはできないのである。命が終わり身が滅んで行く時、これは「大患」に帰しているということができる。ただ聖人には好悪の私欲がない。寵辱を受ける微妙な「機」を知って、身とは患であ...

宋常星『太上道徳経講義』(13ー3)

 宋 常星『太上道徳経講義』(13ー3) 何を謂う。寵辱は驚くが如し、と。寵を上と為し、辱を下と為す。これを得れば驚くがごとく、これを失いても驚くがごとし。これを、寵辱は驚くがごとし、と謂う。 ここでは重ねて前の文章を解説している。人々の注意を喚起しようとしているのである。つまり「寵」と「辱」の二つの極は、危険を転ずる災いの源なのである。先の文では「寵」と「辱」とは「驚」くべきものとあった。「寵」はこれを上のものとして人々は好むし、「辱」はこれを下しとして人々は悪んでいる。そうであるから誰でも「上」に行こうとして、「下」に赴こうとはしない。「寵」を求めて「辱」を避けようとするのである。ただ「寵」が何時得られるのかは分からない。思いもよらない時に得られたりもする。それは自分でどうにかなるというものではない。そうであればどうして安心していられようか。こうしたことがあるので「寵」を得るのは「驚くがごとし」とあるのである。「辱」については、これも何時それが訪れるかは分からない。それは自分ではどうしようもないものである。そうであるから自分で「辱」を捨て去ることもできない。こうしたことであるので「辱」を得るのは「驚くがごとし」としている。高い道を歩み、徳を重んじるような人は、「寵」「辱」については、これらを得てもそこに安住しようとは思わないし、それらを失っても悲しむこともない。つまりは無心の境地にあるのである。そうであるから「寵辱に驚くよう、とはどういうことか。それは寵を上として、辱を下とする。そしてこれらを得れば驚き、これらを失っても驚くようなことである。これを、寵辱に驚くよう、というのである(何を謂う。寵辱は驚くが如し、と。寵を上と為し、辱を下と為す。これを得れば驚くがごとく、これを失いても驚くがどとし。これを、寵辱は驚くがごとし、と謂う)」としているわけである。 〈奥義伝開〉権力者に限らず他人から良く思われたり、嫌われたりするのは気にならないことはなかろう。しかし、他人からの評価は人によっても違うし、時間や環境が変われば異なるものになったりもする。そうしたことに煩わされる必要はない、というのが老子の立場である。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(4)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(4) 新羅からの「合気」の伝承については『植芝盛平と中世神道』でも触れたが、古代には天の日槍(あめのひぼこ)によって伝えられた(新羅の王子とされる)。これと同じ技術が花郎などでも行われていたと推測されるが、それを伝えたのは「円珍」で三井寺にて伝承された。三井寺の「御信用之手」はひとつには僧兵により用いられ、抜群の武力を朝廷にも見せつけた。また一方で寺の石垣などを築いていた穴太衆へも伝えられて、近世城郭が築かれるようになると一気にその高度な能力が示されることとなる。それが近代になって現れるのが大東流であった。大東流を武田惣角に教えたとされる西郷頼母は多くの文献も残しているが、武術を熱心に練ったとするような記述は一切ない。大東流の佐川幸義も「頼母の体は武術鍛錬をしたようには見えない」と言っていた。また惣角と頼母とのエピソードでも、何時も汲んでいくるところの水と違うと、たちどころにそれを指摘したとするような武術の強さではなく、むしろ「感覚」的に卓越したことを証しするような話となっている。つまり頼母が惣角に伝えたのは感覚を開く鍛錬法としての「御信用之手」ではなかったかと思われるのであり、これはまた頼母の養子であった西郷四郎についてもいえることなのである。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(3)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(3) 安土桃山時代、大津地域には穴太(あのう)衆という石垣作りの職人集団が突如として生まれる。歴史学的な研究では先に寺院などの石垣を作っていたのでその技術が応用されたと推測するが、寺院の石垣と城郭の石垣では一般住宅と高層建築ほどの違いがある。その差を一気に埋めて、しかも城の石垣の建築は急速に全国に広がっていく。穴太衆は各地に出向いて石垣を作っていったという。高度な石垣を積み上げる技術はどのようにして伝えられたのか。それは石を積む「感覚」を育てる方法が穴太衆の間に伝承されていたからではないかと考えられる。始めの頃の石積は野面(のずら)積みといって自然石をただ積んだだけのものであった。こうした方法であればより「感覚」が重視されることであろう。円珍がもたらした「御信用之手」は三井寺に伝えられ、中世には僧兵の武技として展開したのではなかろうか。そして近世には穴太衆が石組みの技術として展開をさせた。そう考えることもできるのではないかと思っている。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(2)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(2) 新羅明神は円珍が唐から帰国する時に感得したとする伝説がある。その頃の朝鮮半島、新羅の国には花郎(ファラン)なる集団があった。花郎は貴族の子弟が集団で心身の鍛錬をしていたもののようで、そこでは文学、武学、呪術(弥勒信仰)など多彩な修養が行われていたとされる。これが六世紀から十世紀あたりまで続いたと記録に残るが、円珍が唐から帰国するのは天安二(845)年であるから、まさに花郎の活躍していた時期にあたっている。おそらく「御信用之手」は花郎の間で行われていた能力開発法ではなかったかと思われる。こうした開発法が「呪術」とされるものではなかったろうか。花郎の時代には迷信めいたものもあるいは含まれていたかもしれないが、後には「御信用之手」として次第に洗練されたものになって行ったと考えられる。そしてそうした伝承を象徴するのが「新羅明神の感得」であった。円珍は唐に仏教を学びに行ったのであり、新羅とは何らの接点もない。そうであるのに帰国の船でいきなり新羅明神を感得したとするのは極めて不自然でもある。またこの神が本来、大津あたりの地主神であったとしても、こうした伝承が受け継がれている背景には「新羅」との特殊な関係があったことがうかがえる。また新羅明神が象徴する優れた「秘儀」は円珍のような偉い僧侶が伝えたと考えるにふさわしいものとして受け止められたこともあったのではなかろうか。

道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(1)

  道徳武芸研究 知を開く秘儀としての「御信用之手」(1) 合気道のベースである大東流、そしてその根幹をなす「御信用之手」(合気上げ)については先の新羅明神に考察を加えた稿において触れた(御信用之手と合気上げの違いにも言及している)。新羅明神は合気道、大東流の霊的系譜を考える上でひじょうに重要な存在であることはいうまでもあるまい。ここでは御信用之手の本来が知を開く技術であったことについて述べようと思う。知を開くとは、簡単にいえば微細な感覚を育てるということである。こうした細かな感覚を育てることができれば、いろいろな学問でも技術でも深いところまで習得することが可能となる。よく上達法を説くシーンで、たとえば武術の達人が、他の分野の人を指導しようとしても、なかなか成功しないのは、どの分野においても高いレベルに達するには、感覚と技術の二つが必要であるからに他ならない。武術の達人は武術という技術と感覚においては優れている。そうであるから感覚の部分で他の分野の人を指導することは可能であるが、技術を教えることは当然できない。野球選手などが例えば密教の修行をして啓発され、後に大きく成績を伸ばすようなことがあるのも、感覚の部分である種の覚醒を得たからなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(13ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(13ー2) 寵辱は驚くがごとく、大患を貴ぶは身の如し。 君主に仕えてその恩恵を被る。こうしたことを「寵」という。位を失い、禄を失い、職場を奪われ罰を受ける。こうしたことを「辱」という。そうしたことを恐れることを「驚」という。心が憂鬱であるのが「患」である。君主と臣下との間の得失をいろいとろ考えてみるに、君主からよく思われ、寵愛を受ける、それは喜ばしいことであると同時に恐ろしいことでもある。喜ばしいのは高い報酬が得られ、高い位に登ることができ、功名が得られるからである。恐ろしいのはそうしたものは常に失うことがあることの恐ろしさである。毀誉は決して等しいものではない。そうであるから、あるいは少しでも寵愛が得られたならば、それを失う恐ろしさはあるし、そうした危険がまったくないとしても、心のどこかには君主の寵愛を失うのではないかとする恐怖は兆しているものである。自分の中に自然とそうした心が発生しているのに「驚」くかもしれない。このようにまだ現れてはいないことまで自ずから思いが及ぶことを「寵愛を受けていても陵辱を受けるのではないかとする心が自ずから生じていることに驚く(寵辱は驚くがごとく)」としているのである。もし寵愛を受けたとしても、それを特別に喜ぶことはなく、もし陵辱を加えられたとしても、寵愛を失ったことを憂えることはない。普通の人は栄誉を受けたり高い位に昇ったりすることを極めて好ましいことと思っているが、私はそれを大いなる患いにかかったようなものと思っている。そればかりではない。四大(地、水、火、風)がかりに寄って出来ている我が身もまた、大いなる患いの産物と考えている。ただこの身を大いなる患いと考えるばかりではなく、その心の働きも大いなる患いと考えている。これは「根源的な患ではない寵辱のような大いなる患いを貴いものと考えるのは、自分の体がそうであるのと同じであるからである(大患を貴ぶは身の如し)」のであり、そうであるから何かを得ても患うことなく、何かを失っても患うことはない。自然のままに、どのような状況であっても無心であれば、どうして得失を憂えることがあろうか。それは寵辱にあっても同様であるので「大いなる患いを貴ぶ(尊きこと大患)」としているのである。 〈奥義伝開〉ここで老子は当時の諺で使われていた「大患」を反対の意味に解して新たな...

宋常星『太上道徳経講義』(13ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(13ー1) 聖人の進退は自然の理によるものとされ、その得失は当然の道から外れるものではない。その時になれば迷うことなく、その時が過ぎればまったく気に止めることもない。こうして道と大いなる一体を得て動いている。上下についても無私の徳をして接し、それは公私に及ぶものである。安危の状況に応じて判断の分かれることはなく、好悪によってその心が変わることもない。ただ道徳を天下に行なうに過ぎず、功名や富貴の得失、寵辱には関心がない。老子を読めば聖人の心を知ることができる。ここでは待遇の良し悪し(寵辱)に聖人がどのように対するかが記されている。 ここで老子は世の人々に警鐘を鳴らす。およそ得失、寵辱のどのような状況にあっても、泰然としており、心はそうした外的な状況に惑わされることはなく、身もそうしたものに煩わされてはならないとしている。 〈奥義伝開〉老子ではよくあることであるが、この章は始めに老子の時代に普通に知られていたであろう格言をあげて、それを老子なりに解釈する。要するに社会的な毀誉褒貶を受けると人はひじょうに気にするものであるが、それは物理的な次元で我が身に作用を及ぼすに過ぎない。またその範囲で気にすれば良いだけで、それ以上のことを思い病む必要はない、と教えるのである。この章は解釈や読み方に異同がある。他のテキストも参考にして頂きたい。

宋常星『太上道徳経講義』(12ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(12ー7) これをもって聖人は腹と為して、目と為さざる。故に彼を去りてこれを取る。 「これをとる」の「これ」とは普通の人をして聖人のようにさせるもののことである。そうであるから「これ」は「腹」であり「目」とはしない。その理由はこれまでに述べられている。陰符経には「心は物に生じ、物に死す」とあるが、こうしたことの「機」はすべて「目」にある。人は何かを「目」にすれば、それに影響される。物よって死ぬ、と陰符経にあったがそれは、まさに「目」によって影響を受けることの「機」をいっているのである。人が物事を忘れ捉われなくなるのは「目」によって得た情報から解放されるのであり、ここには大いに徹底した悟りを得ることのできる「機」がある。まさに「眼、耳、鼻、舌、意」とされる感覚器官は、共に感覚認識を行なうものであるが、そうして得られた情報は全て「幻」である。ただ自分の「性」の中の「本体」だけが「真空」であり正しく情報を判断できるのである。そうであるから聖人はそれを「腹」とする。「腹」とは「性」を養うことの「本体」のことなのであって、それを「目」とすることはない。忘れ、捉われから脱せられる物とは「目」を通して認識した情報である。そうした情報を貪ることもないし、影響されることもない、全ては幻であるとの悟りを得る。全ては正しい認識ではないので、これらは捨て去られるべきであると悟るわけである。こうしたことを「彼を去り」としている。既に「腹」の中の「性」の本体が全ての正しい情報を得るもとであると分かったならば、よろしく「目」ではなく「性」の本体の働きを重視されるべきであろう。そうであるから「これを取る」としている。それは取り去るべき心の本来的な働きではないものを取り去り、取るべき心の本来的な働きを取るのである。これが「目と為さざる」と「腹と為し」であり「彼を去る」と「これを取り」なのである。これらは全て「自然の道」である。人には六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)があるが、ここではただ「眼、耳、口」の三つだけが述べられている。それは六根の中でこの三つが要となるからである。また六根において「腹と為して、目と為さず」を考えれば、「目」の働きを内に向け外からの情報を遮断ると六根の全てが自ずから静を得ることになる、ということになろう。そうなれば六根のあらゆる「塵」を浄化で...

道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(4)

  道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(4) ただ現在の合気上げと新羅明神が示している動きは全く同じではない。新羅明神が示しているような動きはコバ返しとされる技の導入として見ることができるが、それは合気上げそのものではないのである。しかし「合気」ということを考えて見るのに、合気とは「相手に合わせる」ことであるから、現在の合気上げのように相手に押し込むような動きは、あるいは合気的ではないといえるのではなかろうか。新羅明神が示しているような指が内に向いて相手を引き付けるような動きこそ合気にふさわしいものと思われる。そうして見ると本来の「御信用之手」は新羅明神が示しているようなものであり、現在の合気上げは後に柔術として展開して行く中で変形されたものとも考えられるのである。大東流の流れからしても惣角の頃は相手を足下に崩すような技の使い方が多かったようであるし、多人数を崩して一気に固めるパフォーマンスなども、相手を足下に崩さなければ掛けることができない、ただその弟子の時代になって来ると派手に投げるように変化して行ったようで、これは対外的に活躍していた植芝盛平の影響も考えられる。盛平は固技にはあまり興味を示さず、大きく投げることに執心があったように思われるが、それは「動きの流れ」を合気として捉えていたからで、こうしたことが晩年には呼吸力という別の概念を導き出さなければならなくなる。

道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(3)

  道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(3) そこで新羅明神である。この神蔵は左手は軽く拳にして腰のあたりに置き、右手は胸のあたりでこれも軽く拳にして手を水平にしている。これは合気からいえば相手を引き付け(合気を掛け)て、右手を上げ相手の腕の内側から、手を返して右方向へと崩した形になる。興味深いことに像は手に何も持っていないが、絵では右手には巻物、左手は錫杖を持たせている。厳密に調べたわけではないが、絵は比較的公開されているのに対して、像は「秘仏」としている場合が多いように思われる。そうしたところからすれば、新羅明神にあえて巻物や錫杖を持たせているのは、それが合気の手を示しているものであることを知らせないようにするためではなかったかと思われるのである。その証拠に像の場合に錫杖は別にあつらえなければならないかもしれないが、巻物は像と一体として彫り込むことも可能であるのに、一体として手と巻物がひとつに彫られたものがないようなのである。こうしたところからすれば、源義光は新羅明神によって象徴される御信用之手(合気)を授けられたために新羅三郎と称するようになったのであり、それを大東流では実質的な流祖として位置つけていると考えられるのである。

道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(2)

  道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(2) 大東流を広く世に知らしめたのは武田惣角であるが、惣角は本来は「武田」姓名ではなく「竹田」であったらしい。これをあえて武田としたのは、大東流を実質的に考案したとする源義光と何らかの接点を作るためであると思われる。義光は甲斐源氏の祖であり、後に甲斐源氏は武田信玄に代表されるように武田姓を名乗るようになる。つまりどうしても大東流と武田=源義光=新羅明神を結びつける必要がそこにはあったのである。源義光は三井寺の新羅明神の前で元服したことにより新羅三郎とも称している。つまり新羅明神との関係をいうためにあえて竹田を武田に改めさせたわけなのである。この三井寺の新羅明神は新羅善神堂というところに現在も祀られており、絶対に公開されることのない絶対秘仏とされている。新羅明神についてはいくつかの図像が残されているが、それはタレ目の老人で、神としてはなんとも威厳に欠けるような感じがある。ただこうした姿は朝鮮半島の民俗芸能タルチュムの仮面とひじょうによく似ている。こうしたところからも新羅明神が半島の神であることは明白であり、寺伝によれば円珍が唐から帰国する時に感得した神とされる。ただ寺からはやや離れたところにあることもあり、古くからの大津あたりの地主神ではなかったかとする説もある。現在大津に「渡来人歴史館」があるのも、この地が渡来人との深い関係にあったことを象徴しているということもできるであろう。

道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(1)

  道徳武芸研究 新羅明神と御信用之手、合気上げ(1) 大東流の原点となるのは「御信用之手」であることは先に論証した通りであるが、実はこの鍛錬法はひじょうに高度なもので武術を超えた可能性を有するものではないかと考えている。岡本正剛によれば毎週のように日曜には堀川幸道のところに赴いて、合気上げ(御信用之手)を試されたという。堀川が岡本の手を掴むと、合気を試みる。何度かやると堀川は「おーい!お茶をもってきてくれ」と家人に言って、これで終わりとなる。それは未だ合気が正しく用いる段階に達していない、ということであったという。大東流ではこれに柔術技法が付属して、ひとつの武術体系(大東流柔術)を構成しているのである。それを受け継ぐ合気道にも言えることであるが、「技」自体はどうも完成度の高いものとは思えない。入身投げでも、四方投げでも、逃げようと思えば逃げることは容易である。また一箇条にしても、座技であればスムーズに極めることができるが、立技でやろうとすると相手を床に抑えることはほぼ困難である。一方で精緻な御信用之手(合気上げ)があるのに、その展開としての柔術はあまりに不完全ではないかという疑問は当然の如く生まれることになる。ために植芝盛平は「当身」にその実戦性を求め、晩年は合気道の形は「気形」であり、攻防のためのものではないと考えるようになった。また大東流の中でも、技自体を考案したのは武田惣角であるとする見方もあるようなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(12ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(12ー6) 得難きの貨(たから)は人をして行(おこない)を妨げしむ。 「得難きの貨」とは珍しい宝物のことである。「妨」とは傷つけるということである。自分を傷つけるのを「妨」といっている。また他人を傷つけるのも「妨」ということができる。この世のあらゆる珍しい宝物について、いろいろと考えてみるのに、すべてがこれは「得難きの貨」ということになろう。そうしたものを得ようと貪るのは正しい行為ではない(不義)し、そうしたものを得ようとするのも好ましい行為ではない(不善)。災いや失敗はこうしたところから生まれる。盗みを覚えるのはこうしたところからである。或いは国家に害を及ぼし、或いは自己の(根源的な心や体の働きである)性や命を傷つける。そうしたことにもなる。そうであるから老子はこれを戒めて、「得ることの難しい宝物を得ようと必死になると、正しい行動がとれなくなる(得難きの貨は人をして行を妨げしむ)」としている。君子は、得ることの難しい宝物は、すべて自分が本来有してはいないものであり、それが災いの根源であることを知っている。そうであるから貪欲を排して、道徳を重んじ、不義の富貴にまったく価値を見ることはない。そうであるからどうして「得ることの難しい宝物」も、その正しい行為を妨げるようなことがあろうか。 〈奥義伝開〉「貨(たから)」は生きていく上で必要不可欠なものではない。そうしたものは求める必要がない。しかしどうして人々は「貨」を求めるのか。それは社会的な価値があるからに他ならない。しかし「社会的な価値」というものは、人々が作り出した「幻影」であるに過ぎない。芸能人やスポーツ選手のサインなども、そこに価値を見い出す人には千金の値打があるが、そうでない人にはただの紙切れである。自分にとって本当に必要でないものを求めるようになると、行為の基準が狂ってしまう。そうなると正しい行為が取れなくなる。そしてあるべき自然から外れた行為を続けるとその矛盾が災いや病気を招くことにもなる。

宋常星『太上道徳経講義』(12ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(12ー5) 馳駆、田猟は人の心をして発狂せしむ。 「馳」とは馬を速く走らせることである。速く走る馬は一目散であるからこれを「駆」という(注 馳も駆も同意。「也」は走る馬の背中がうねっている様子、「区」は打つの意で馬を打って走らせている様子を示す)。春には耕し、夏には苗を植える。秋には秋の獲物を狩り、冬には冬の獲物を狩る。こうしたことを「田猟」といっている。古代には獣が多かったので、狩りは作物を守るためであった。そうであるからここではむやみな狩りをしてはならないと戒めている。または田野であっても、山川であっても、所構わず猟犬を走らせて、むやに狩りをしようとして、東西南北、あらゆるところに獲物を追って心を移す。そうしたことは心を適切に用いることのできない狂人のすることであるとする。つまりは「見境もなくどこにでも出ていって、狩猟をするような人物は、狂気に陥ったといわねばならない(馳駆、田猟は人の心をして発狂せしむ)」とはこのようなことを言っている。まさに万物は、すべてが「天地一気」によって生み出されているのであり、ただ清濁や偽正の違いがあるに過ぎない。人でも物でも等しく「形」を有しており、これらは等しく「気」で出来ている。これらには等しく「性」があり、等しく「命」がある。人は生まれながらに自然に有している「性命」(心と体)をもって正しい道を歩むことができるようになっている。こうした自然な行為の中に「田猟」は含まれない。 〈奥義伝開〉宋常星は「田猟」を耕作と狩猟の意と解しているが、「田」は区画を示す字であり、それは耕作地の区画と狩猟地の区画の両方の意味がある。そうであるから「馳駆、田猟」は「馬を駆って猟をする」の意とするのが適当である。老子は生命は天地の造化によるものであるからそれを傷つけることを最も嫌っていた。ここでも動物の命を遊びで奪う狩猟は人の生命倫理感覚を狂わすものとしている。軍隊で制服や規律が欠かせないのは、そうした枠に強制的にはめ込まないと、人の本来の「性命」の働きが出てきて人を殺すようなことはできなくなってしまうからである。

宋常星『太上道徳経講義』(12ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(12ー4) 五味は人の口をして爽(ほろぼ)さしむ。 「五味」とは、酸、鹹(かん 塩辛い)、苦(にがい)、辛である。およそ飲んだり、食べたりすると、これら「五味」を味わうことになる。味は舌をして感じるのであるが、それは煩わしいものでもある。しかし何が美味であるのかを知ることは容易である。それも五味と同様に舌の感覚によっているのであるが、これは人が本来、持っている性質から来ているということができるであろう。しかし、五味の感覚はそうではない。それは味の本質である美味かどうかを知ることからすれば余計なことなのである。もし、舌が「五味」を感じることがなかったならば、人の本来の性質において、ただ美味であるかどうかを感じるだけとなる。しかし、もし五味にとらわれてしまえば、それが人の本来的に持っている感性を狂わせることになる。ただ美味なものでも、それを貪れば、正しい味の感覚が失われてしまう。どのような豪華で珍しい料理であっても、それを貪って正しい味わいの感覚を忘れてしまえば、それはここにあるように「食べ物も五味の区別にこだわり過ぎると本当の味わいを感じることができなくなってしまう(五味は人の口をして爽(ほろぼ)さしむ)」ということになる。孔子は「粗末なものを食べて水を飲む」としも「そうした中にも楽しみはある」(述而篇)と述べている。孔子は本当の味わいをどのように味わうかを知っていたのである。修道の人において常に聞かれるのは「あまり味のしない大根や芋を食べても、それはそれで味わいがある」ということである。それは、あらゆる味は舌で感じて初めて生まれるのであって、本来的に食物自体に味が存しているわけではない(空)ということである。百味は空であり、自然のままを味わっていれば、そこに病の存することはない。もって戒めとすべきことである。 〈奥義伝開〉本来、必要なものは「自然」の中にあるのであり、それに余計なものを付け加えることは誤りであると老子は教えている。人は調味料を考え出して、あえて五味のひとつを突出させ得ることができるようになった。最近は激辛などということも話題になっている。こうしたことを行なうには五味の区分をして「辛」という味を強調させるようにしなければならない。これなどは完全に自然のバランスから逸脱する行為である。こうしたことがあらゆる食物に及ん...

道徳武芸研究 合気道と物部神道〜秘儀の系譜「振魂」〜(4)

  道徳武芸研究 合気道と物部神道〜秘儀の系譜「振魂」〜(4) 肩甲骨を緩める方法としての「振魂」は下丹田の位置だけでなく、中丹田、上丹田の位置においても行なうと良い。また日本刀の素振りも同時に行なう必要がある。日本刀がどうして現在のような形状になったのか。またどうして両手で使うようになったのか。それらの答えを明確に知ることはできない。しかし「振魂」を通して考えると、始めに「振魂」があって、柔らかな中心軸を養成しようとしていたが、なかなか軸を定めることができない。古代の日本にあった武器には剣や鉾があるが、中心軸の確立ということから考えれば鉾が用いられていたのではなかろうか。植芝盛平は「天の浮橋」を重視ていた。これはイザナギ、イザナミが天の浮橋の上に立って鉾を下ろして海をかき混ぜたとする神話に由来するのであるが、盛平の棒術の演武を見るとはじめに両手で持った棒を高く挙げかき回すような動作をしている。これは肩甲骨を開き緩めて、柔らかな中心軸を作ることに有効であると思われる。神話の通りであれば「棒」は下にしてかき回さなければならないが、それでは肩甲骨を開く効果が少なくなってしまう。こうした「論理」にとらわれないであくまで「感覚」で「天の浮橋」と言い切ってしまうところに盛平の発想にユニークさがある。さらに肩甲骨を開くのに有効であるのは日本刀を用いる方法なのであるが、振魂や鉾の鍛錬を修して行く中において次第に両手で日本刀を振るという鍛錬法が考案されて形状も今日のようなものになって行ったのではなかろうか。事実、太極拳や合気道では十分に中心軸を通すことができていない人が少なくない。合気道はその霊的背景として大本教や九鬼文書(盛平は合気道の守護神として「天の叢雲九鬼さむはら龍王」を出している)、川面凡児など、「裏」神道との関連を深く有している。こうした視点から合気道を見るとまた別な側面を知ることができる。

道徳武芸研究 合気道と物部神道〜秘儀の系譜「振魂」〜(3)

  道徳武芸研究 合気道と物部神道〜秘儀の系譜「振魂」〜(3) さてこのように軍事や武術とは深い関係のあった「振魂」であるが現在、合気道に伝えられている「振魂」を見てもそのことが十分に理解される。具体的に述べてみよう。両手を握って振るわせる方法は中心軸を緩める効果があることを先の天の鳥船を解説したところでも述べておいた。中心軸の確立は体を使って力を有効に生み出し、運用するためには欠くことのできないものである。それを太極拳や合気道などでは柔軟に用いることを重視する。これにより柔らかな動きや力を生み出すことが可能となるからである。それではこうした柔らかさを得るために中心軸を緩めるには、どのようにすれば良いのであろうか。それは肩甲骨を緩めるのである。この目的のためにあえて「振魂」では両手を握る形をとっている。肘を適切な位置にして拳を振ると肩甲骨を緩める効果のあることは容易に実感されることであろう。このように「振魂」には単なる体を緩めるという以上の目的があるのであり、そのために拳を振るという方法には必然性があるわけである。こうして見ると武術的な体を作る「効果」の点からすれば、現在の「振魂」は古代の物部神道で行われていたものと実質的には同じものといえよう。またその単純な方法からすれば形式的にも物部神道そのものとすることができるのかもしれない。