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宋常星『太上道徳経講義』(52ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー4) 兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は亡くなるが、(生きている間は)労(わざらわ)されることはない。 ここで述べられているのは、守「母」の奥義である。「兌(あな)」とは、人の「口」のことである。「門」とは「耳」のことである。これを「塞」ぐとは、沈黙をして、言葉を発せないことである。これを「閉」じるとは、神(注 意識のこと)や心が外に遊び出ることがないようにすることである。もし内的な神の充実がなされたならば、それは外に向かうことになる。外にある物に向かい、事に触れて適切に働くことになる。そうなれば特に努力をしなくても適切に事が成る。為さずして自ずから成るのである。これは、つまりは「母」の気を守っている結果として自然にそうなるわけである。そうであるから「兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は亡くなっても、(生きている間は)労されることはない」とされている。現在、修行をしている人は、はたしてよく六門(口、目、鼻、耳、性器、肛門)を閉じることができているであろうか。神や気をよく守っていれば、身に働いている大いなる「道」は、それとして形を求めることはできないが、全体の働きとして「道」は存していることが分かる。身の中の陰陽は、意図して煉らなくても煉ることができる。「一」を得てそれを長く保つことができれば、自然に「道」と一体となることができる。これがつまりは「兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は労されることはない」ということなのである。 〈奥義伝開〉自分以外と交渉を持たなければ、心身が疲労することもない、ということである。しかし、亡くなることは避けられない。これも当然である。他人と交渉を持てば、そこには自分では制御できないことも生じるので、いろいろな心身の苦労が発生するものである。情報もあまりに広く集めすぎると、かえって役に立たないばかりか弊害が生まれる。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(8)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(8) 「御式内」の語を考えて分かったことは、それが「合気」をいう教えであり、太極拳の秘訣である「引進落空」と同じことを示唆するものであるということであった。太極拳の他の秘訣に「合即出」があるが、これは「合」つまり「合気」を得たならばすぐに「出」なければならないとする教えであり、「拳術」の前には「合気」がなければならないとする秘訣である。ただ、やはり太極拳においても「合(合気)」と「出(拳術)」とは体系としてひとつのものとはなっていないようである。ただ、この矛盾のほぼ無いのは推手である。相手体勢の詳細を感じることを練る推手では「合」があるだけ、「合気」があるだけであるので、体系上の矛盾は生じ得ない。一部に推手の試合として押し合いをやっているが、そうなればこれは「合」と「出」との矛盾が生まれる。こうして見ると「御式内」とは太極拳の推手のようなものではなかったろうか。座った状態での推手である。植芝盛平が専ら座技を練ることを厳しく教えていたもの直感的に合気道、大東流の核心に「御式内」のあることを感じていたからなのかもしれない。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(7)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(7) 武田惣角に大東流柔術として授けられた時には「御信用之手」は伝書にその名称を残しており、大東流の柔術が「御信用之手」によるものであることは明示されていた。また実質的には「御信用之手」と同じである「御式内」は、そうしたこともあって伝書に記されることはなかった。ただ大東流において「御信用之手」や「御式内」は柔術体系の中に完全には組み込まれていなかった。それは本来は剣術と一体化して生まれた方法であったからである。こうしたシステム上の不備を内包したまま現在においても柔術と合気は分離したままで現在まで伝承されている。また近代になって柔道の隆盛と共に柔術が見直されることとなると柔道との差別化の意味でも合気がより重視されるようになる。そして大東流柔術は大東流「合気」柔術と称するようになるのである。そして更に時代が下ると「合気」の特異性が注目されるようになって行き、本来の武術から逸脱するような「技」も見られるようになって来る。これは体系として柔術と合気が完全には融合していないことによって、必然として導き出された「結果」であるということもできよう。

徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(6)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(6) およそ大東流の成立を考えてみると、当初は剣術に付属する柔術として抜刀を制せられた時の対抗手段が「御信用之手」として考案された。ただこれは剣術においては大きなパーセンテージを占めるものではなかった。しかし、一方で「御信用之手」は感覚を養うためのメソッドとして座相撲のような遊戯的なシーンで独自の発達もして来た。それが「御式内」である。こうしたメソッドをどのような人たちが修練していたのかは明確ではないが、その伝書に日本伝統の「一」「一」と並べて書く箇条書きではなく、「一」「二」とするような西洋の憲法を思わせる書き方をしていることからすれば、近代初頭に民間で独自に憲法草案を研究するような知的レベルの高い層ではなかったかと思われるのである。こうして養われた「御信用之手」や「御式内」は武田惣角に授けられる時に「大東流柔術」と称されるようになる。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(5)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(5) 私見によれば「御式内」は「折敷打ち」あるいは「押し来打ち」ではないかと思う。「折敷打ち」であれば、複雑な関節技につなげて相手を制する大東流の特色とも合致するといえる。また「押し来打ち」であれば、これは「合気」を示していると解される。相手を押す、相手が押して来る、こうした状況をうまく利用して合気を打つわけである。ここで思い出されるのが、太極拳の秘訣の「引進落空」である。「引進落空」は、相手が押して来ればそれを引き込み、引いて来たならばその勢いに乗って進む、そうすることで相手の重心を崩すことができる、という教えである。柔術では「柔とは水に浮く木の心持て 引かば押すべし 押さば引くべし」という道歌もある。相手が引けば、こちらは押して、押して来たなら引き込めという相手に逆らわない動きの中に崩しのタイミングがある、という教えである。「押し来打ち」も、こういったプロセスにおいて合気を打つことを教えていると理解することができるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(52ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー3) 既にそこに「母」があるとしたならば、そこには「子」があることになる。その「子」があって、そしてその「母」が保護をする。そうなれば「子」の身は没しても、(「母」が守ってくれているので生きている間は)害を受けることはない。(宋常星は「「母」が守ってくれているので)亡くなるような危険を受けることはない」と読んでいる) 既に「道」が万物を生むことは分かっている。そしてそこには「母」があるとする。つまり万物は「道」から生まれているのであるから、「道」は「母」であり「万物」は「子」であるということになる。物は「道」から生まれるのであるから「道」と物とは同質であるということもできよう。「子」は「母」より生まれる。そうであるから「子」と「母」とは同質ということになる。つまり、そういうことなのであるから、どうして「道」のことを顧みることなく物の本質を知ることができようか。「子」と「母」は同質の存在であるから、どうして「母」を顧みることなく「子」のことを知ることができるであろうか。既に「子」のことが分かっているなら、「母」のことも重視されなければなるまい。「子」が「母」を離れることがなければ「母」も「子」と離れることはない。そうして「子」と「母」とが同じところに居たならば、そこには始めの「理」も、終わりの「理」もそろうことになるので、本源の「道」が得られることになる。そうなれば、この身が亡びるという害にあうこともなくなる、そうであるから「既にそこに『母』があるとしたならば、そこには『子』があることになる。その『子』があって、そしてその『母』が世話をする。そうなれば『子』の身は没しても、(『母』が守ってくれているので)亡くなるような危険はない」とあるのである。古の修行者は、常に「子」「母」をして「同居」せしめて「道」を行い、怠ることがなかった。そのため神気は安定しており、全てが整っていて、全身があるべき状態にあったのである。これは本来の自分に帰り得るべきの「理」を得ている(復命の理)状態なのである。これを身に用いることで本来の自分に戻るための修行となるのであり、これを家に用いれば家は整い、これを国に用いれば国をよく治めることができる。また、これを天下に用いれば天下は泰平となる。しかし、もしそうでなければ、それは本質を見失うことになるのであ...

宋常星『太上道徳経講義』(52ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー2) 天下には始まりがある、それは「天下の母」である。 天下には存在している物がある。それには始めがある。存在している物には始まりがあるのであり、それは太極の初めでもある。太極には始まりの初めがあり、それは名を持たないが、理としては存している。これが天地の始めである。万物もここが始まりである。つまりこれが、つまりは「万物の母」なのである。これを太極でいうなら「道」ということになり、ここから物が生まれているので、それを「母」ということができる。つまり万物はここから生まれているわけである。万物はこれより生まれ、天地の間の一切の物は「道」に潜在している。有情、無情、有色、無色、こうしたものも、「万物の母」から生まれている。そうであるから「天下には始まりがある、これが『天下の母』である」とあるわけである。 〈奥義伝開〉「天下」とは「存在」という意味である。存在しているものには「始まり」があるとすると、それを「(天下の)母」ということができる、ということであるが、これは次の部分と繋げなければ意味が取れない。つまり「母」には「子」があり、となるわけで、「始まり=母」があれば「終わり=子」があるということで、ここでは人が生まれて亡くなることは、合理的で当然のことであることを言う。中国の古代には永遠の生を求めて仙人たちが探求をしていてたが、老子は「理」を推し進めて考えれば、そうしたもののあり得ないことを見抜いていたのである。

宋常星『太上道徳経講義』(52ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー1) 万物は「道」から生まれている。そうであるから「道」は、万物の母とされる。つまり万物は「道」の子なのである。文中に母が居れば子があるとあるのは、限りなく母である「道」と、子である万物とが一体となっているためである。その母の気を保って失うことがなければ、(母は「道」であり、気は万物であるので)まったく母の命と万物とがひとつであるということになる。一切の物は作られ為されることによっているのであり、これは多くのことに及んでいる。それは安静であり、自然であって、そこに「子」としての役割が尽くされている。「兌(あな)」を開けば外的な事に係ることになるとあるが、それは塞がれなければならない。そうでなければ母気を保つことはできないからである。そうでなければ、生まれたとしても、我と「道」とは一体となることはできない。そうなれば我が命を、どうして長く保つことができるであろうか。そうなれば身に災いがもたらされるのも自然な成り行きとなろう。ここで述べられているのはこうしたことである。また、ここでは世の人が「道」の「理」を適切に理解することができないことによって「道」を見失うことが述べられている。波乱万丈の環境にあって、大いなる「道」の根源を求めることがなければ最終的には生涯にわたる不幸を背負うことになるのである。そうであるから「道」を実践することは天下の統治を助けることであり、どんな人でも「道」の本質に反して行為をしたならば、身を保ち命を長らえるとはできず、天寿を全うすることもできないのである。 〈奥義伝開〉ここでは「道」の「理」つまり合理的な生き方をすることが、不幸を招かないことになると教えている。迷信などに頼るのではなく、あるべき「理」を見つめて、それをよく理解することができれば(明)、物事に柔軟に対応することができる(強)ので、不幸を呼び込むこともないとしている。そして最後にこうしたことは当たり前のこと(常習)であるともする。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(4)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(4) 「御信用之手」にしても「御式内」にしても、どうして意味の分からない言葉が伝承されているかと言えば、それは実際を隠すためである。新「陰」流では伝書によれば、新「影」流と書いてわざわざ「影」を線で消しているものがある。これは「陰」と「影」を間違えてはならないことを特に教えるためである。「影」とあっても、それが何を意味しているのか分からない。しかし「陰」であれば「陽」に対するものであることが分かる。つまり相手の攻撃に直接に対抗するのが「陽」で、入身を使うことで相手の攻撃に直接は関与しないのが「陰」である。新陰流は陰流で見出された入身の技法をさらに発展させて「転(まろばし)」として結実させた。合気道ではこれを「入身転換」としている。新陰流でいうところの「転」が「転換であり、これは大東流ではあまり強調されていない。また八卦拳では「印打」という特殊な打ち方があるが、これは往々にして「陰打」と伝えられている。そうしたことから相手を打つのが「陽打」であって、相手から打たれるのが「陰打」であるとの戯画的ともいうべき誤解があって、相手から散々に打たれたのであるが、数日後には相手の方が亡くなった。「それは陰打を使ったからだ」などと言ったとされる話もある。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(3)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(3) 「御信用之手」の実態は「合気上げ」と考えらえれるので、これが刀を抜けないという緊急事態に際して自分を救ってくれる「護身用之手」であるとすることは首肯できようが、「御式内」は「殿中での武術」という意味合いとはされるものの「御式内」という語からは、そうした意味を汲み取ることはできない。これは大東流が会津藩の一部の高位の武士の間だけで伝承されて来たものとする「伝説」を前提とした解釈に過ぎない。大東流が会津藩で伝承されていたことは史料を通しても明らかにすることはできない。ために「一部の」「高位の」といった限定を付けることでなんとか会津藩での伝承があったことにしようとしているだけである。ただひとつ明らかなことは「御式内」が大東流を指していると思われる点である。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(2)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(2) 「御信用之手」については「護身用之手」ではないかとする説も見られるが、おそらくはそうであろう。私見によれば現在「合気上げ」とされているものが「御信用之手」であったと考える。これは剣術の裏技で、手を抑えられた時に抜刀をするための技術であった。ただ剣術の場合、腕を抑えられるということは多くあるわけではない。そのため「合気上げ=御信用之手」が「合気剣術」のように「合気」が全面に出てくることはなかったのである。江戸時代が終わり、明治になると剣術は日常的には使わなくなり、柔術の時代となる。そこで「御信用之手」は近代になると剣術ではなく柔術と合体されて、しかも柔術の場合には相手に持たれることが一般的であることもあって、そうした中で「御信用之手」は大東流の中核的な位置を得ることになる。当初は「合気」という語がいまだ付されていなかったと思われるが、後には(おそらく『合気之術』(1900年)の影響と思われるが)「御信用之手」は「合気上げ」と称されるようになるのである。最も重要とされる「合気上げ」が全く伝書に記されていないのは、既に「御信用之手」があるからに他ならない。

道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(1)

  道徳武芸研究 「御信用之手」と「御式内」そして「引進落空」(1) 大東流では「御信用之手」や「御式内」といった日本語として他に見ることのできない用語が使われている。また大東流は西郷頼母が武田惣角に伝授した時には「大東流柔術」とされていたが後には「大東流合気柔術」と呼ぶようになった。これも一般的な柔術というカテゴリーからすれば特異な名称といえる。近世に発達した柔術は柔道の源流になった起倒流柔術などのように流儀の名の後に柔術を付すのが通例である。また柔道は天神真楊流柔術からも影響を受けているが、天神真楊流は真楊流柔術に天啓を得てイノベーションを加えたもので、そうした場合には「天神」のように本来の名の前に付することが多い。もし大東流柔術に合気を加えることを思いついたのであれば合気大東流柔術とでもする方が妥当といえよう。つまり「合気柔術」とした場合には合気は柔術を修飾することになるので、それは単なる「柔術」ではない新しいカテゴリーを生み出したことになってしまう。しかし、あくまで大東流が柔術の範囲に内包されるものであることは言うまでもあるまい。ただ「合気柔術」としなければならなかったことには必然的な理由もあると思われるので、それに付いては後に考察を加えることとする。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー8) それは生まれても、そこにこだわることではないのであり、何かを為してもそれにとらわれない。功績があってもそれを誇らない。こうした徳を玄徳という。 ここで述べられているのは「道」を尊重し「徳」を重視することの大切さであり、それがより明らかにされている。つまり、それは「造物の妙」を観ることなのである。そこには形もないし、シンボルもなく、動くことも働くこともない。そして「性(本来の性質)」はそれを完全な形で有されており、物であり、空であり、有であり、無でもあって、それらが渾然として一体となっている。動、静、虚、実、それらが生まれるのは等しく「機」によっている。つまり生まれるべきものは生まれるのであり、物が生まれるのは、それが意図されて為されているのではない。物は生まれるが、そうしようと誰かが意図して生み出されるのではないのである。まさにそれは自然の働きなのである。そうであるから「それは生まれても、そこにこだわることはないのであり」とある。既に物が生じているのであれば、それは自然に為されている。もちろん形があれば、そこには形を作ることのできるエネルギーがあるであろう。万物の造化には原因と結果があるが、それらが意図して為されることはないのである。意図なくしても適切に行われるし、意図なくしても働きを有している。こうしたことは特に言わなくても、分かるであろう。造化は無為であってもあらゆることを行っている。そうした物事を成す力があっても、それにこだわることはない。これは、まさに自然に物事が成されているからである。こうしたことを「何かを為してもそれにとらわれない」としている。既に物事が生まれて、行われている。そうした中で自然に万物の中核となって、万物を育てているのが「至道の妙」であり、それは大きくもなく、小さくもない、「至徳の理」であって、尊卑を比べることも出来ず、存在はしているが、その本質を特定することはできない。物として現れてはいるが、その本質の働きは自然のままである。万物の中核となっていても、自らはそれを意識することはなく、無為にして万物の中核となっている。またその働きはあらゆるところにまで及んでいる。こうしたものを「玄徳」という。そうであるから「こうした徳を玄徳という」とある。つまり万物おいては「徳」 が重視されるのであり、その...

宋常星『太上道徳経講義』(51ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー7) そうであるから道は生み出されるものであり、徳は蓄わえらるものであり、成長させられるものであり、育まれるものであり、働きを成すものであり、熟されるものであり、養われるものなのであるが、またそれは覆われ(保護され)てもいる。(別訳 覆されてもいる) ここでは「道」を尊重し「徳」を重視することの意味を明らかにしている。万物の生まれる「機」を蓄え養うことで万物は成る。それは陰陽の働きのエネルギーを蓄えることでもある。昼夜の変化は生成を助長し、五気が和することで万物は育まれる。こうして万物の形が完全なものと成る。神(霊的なエネルギー)は充分であり、気(物的なエネルギー)も足りている。そうなれば「熟」した状態といえる。また性(意識)と命(肉体)も乱れることなく保たれることになる。これが「養」われている状態である。そして万物が守られているのが「覆」われた状態である。これらの奥深い働きは、始めや終わり、本末や体用(注 基本と応用)といった区別を持ってはいない。全てが一体となって養い育てられているのであり、そこにあっては「道」は十全な働きをし「徳」も等しく十全である。そうであるから「道は生み出されるものであり、徳は蓄わえらるものであり、成長させられるものであり、育まれるものであり、働きを成すものであり、熟されるものであり、養われるものなのであるが、またそれは覆われ(保護され)てもいる」とされているのである。 〈奥義伝開〉ここでは「徳」とされる事柄の傾向性について、蓄える以外にいろいろなもののあることが示されている。全体として生成の働きを助けるようなことが「徳」であると老子は考えていた。老子は見出されるべき「徳」は、万物の成長を助長し、促すようなものであるべきと教えるのである。当然「善」もそうした方向で捉えられている。最後は原文では「覆之」とあり「これを覆(おお)う」と読むのが一般的であるようであるが、「これを覆(くつがえ)すの方が妥当と考える。例えば見出された「徳」は決定されたものではなく、間違っていることもあるということである。つまり「徳」として一般に認められているようなことも、実際は「徳」ではないことがあることに最後に注意を促して次へと続けているのである。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー6) つまり万物にあっては、道は尊重され徳は重視されている。道を尊重し、徳を重視するのは意図して行われることではなく、常に自然になされている。 万物の「形」は全て「道」や「徳」によって作られている。万物が生まれるのは「道」や「徳」があるからである。つまり「道」や「徳」は「万物の父母」なのである。万物は尊重されるべき存在である。それは万物が天の気を集約して、地の働きによって形を得ているからに他ならない。それは意図することなくして、造化の働き、陰陽の変化によって、そうなっている。こうしたことを「道」を尊重して「徳」を重視すると言っている。そうであるから「つまり万物にあっては、道は尊重され徳は重視されている」とあるのである。万物は「道」を尊重し「徳」を重視するが、「道」や「徳」はそうしたことにこだわりを持つことはない。また万物にあっても何らかの意図があってそうなっているのではない。ただ自然にそうなっているに過ぎない。それぞれの物にはそれぞれの性質がある。そしてその性質のままに働いている。誰が命令することがなくても、万物は生まれ、(天地のエネルギーが)蓄えられ、形を持って、それぞれの性質の働きを成している。これが自然の計り知れない働きである。そうであるから「道を尊重し、徳を重視するのは意図して行われることではなく、常に自然になされている」とされている。 〈奥義伝開〉人が見出した「徳」はあくまで自然の中に存しているものであると老子は教えている。そうでない「徳」は本来の「徳」ではないということである。かつて王権神授説などもあったが、こうしたものは間違った「徳」といわなければならない。また生まれによって特別な人の居るということも全くの妄説である。孫文は清朝を倒して民主的な共和国を建設しようとしたが、死後は中山陵という皇帝陵に等しい墓に埋葬されてしまった。これは孫文の思想に民衆が付いて行けなかったことを証している。共和国の時代になっても皇帝の居る時と多くの人の意識は変わり得ていなかったのである。

道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(4)

  道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(4) 太極拳が実戦でゆっくり動くことがないのと同じで、八卦拳でも実戦でショウ泥歩の「形」にこだわることはない。実戦では練習形を離れて自由に動けるようにならなければならない、とするのが変架子である。そうであるから変架子では歩法というものもなく、まさに自然に歩みを行う。しかし、八卦拳をよく知る人が見れば、ただ普通に歩いているように見える動きの中に、確実に「平起平落」「扣歩、擺歩」の働きを知ることができるであろう。これはかつて行われた呉公藻と陳克夫との試合を、太極拳を知らない人が「ただの打ち合い」としか見られないのと同じである。またくずし字も、デタラメに書いたものと、草書や行書の崩し方によって崩した字との区別が書法を知らない人には分からないようなものである。書法もその究極においては自然であることを良しとする。技工を見せないで、そこに何か感じるもののある字が良いとされるわけである。八卦掌の「自然歩」はそれ自体はまちがいではないが、ただ「自然歩」だけを練習しても、ショウ泥歩の核心を得ることはできない。こうしたところに武術の伝承の難しさがある。

道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(3)

  道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(3) ショウ泥歩には「平起平落」と「扣歩、擺歩」の要求があることは冒頭で触れているが、それにおいて定架子では「扣歩、擺歩」を、活架子で「平起平落」を練るのが妥当である。そしてそれは定架子では沈身、活架子では軽身を練るということでもある。実際を言うなら定架子の「扣歩、擺歩」は地面のごく近いところで足を運んで、気を沈めるようにする。つまり、安定して円周上を歩けるように練習をするわけである。それに習熟したなら、今度は気を上げて軽やかに動けるように練るのであるが、この段階では足を上げての練習となる。足を高く挙げると当然のことに体は不安定になる。しかし、反対に言えば不安定であるということは動く体勢になっているということであり、常にそうした状態を保持することで速く動くこと、変化をすることがが可能になるわけである。多くの八卦掌ではここで言う定架子の「扣歩、擺歩」が伝えられているだけのことが多いようである。また形意拳での伝承では「擺歩」が失われていることもある。それは形意拳との兼ね合いの中でそうなった(扣歩は形意拳で練る)わけであり、そうなる必然性もあったのである。

道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(2)

  道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(2) 八卦拳には三つの段階の練習がある。定架子、活架子、変架子である。ここであえて言うなら一般の武術が、基本(死套路、母拳)と応用(活套路、砲捶)に分かれるのに対して八卦門では変架子を加えているところに、その特徴がある。八卦門は「巧」を主とするというように、その技術においては変化を特に重んじる。ちなみに何静寒老師は「定」と「変」として八卦拳を捉えることを述べておられる。これは定架子と活架子を「定」、変架子を「変」とするもので、より「変」の重要性を強調した区分であるということができる。つまりショウ泥歩も、この三つの段階で分けていうなら「自然歩」は変架子に属するとすることができるわけである。定架子、活架子はショウ泥歩という規矩を守らなければならないが、変架子となれば、そうしたものから自由になって動くことが求められるからである。

道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(1)

  道徳武芸研究 八卦拳と「自然歩」(1) 八卦拳は歩法に特徴のあることで知られている。それは「ショウ(足偏に尚)泥歩」であり「扣歩、擺歩」と「平起平落」が原則となっている。歴史的にいうならば八卦拳は、それ自体は広まることなく、津派の形意拳(李存義、張占魁)が名をあげると共に、その存在が注目されたという経緯がある。このため八卦「拳」ではなく八卦「掌」という名称が一般的に用いられている。そして八卦掌では特に歩法に意を用いないで、自然に歩く派もあり、これを「自然歩」と称したりもする。歩法に特徴を有する八卦拳にあって、それに意を用いない「自然歩」などは「あり得ない!」という感じもあるが、はたして「自然歩」は八卦門(八卦拳、八卦掌)においてどのように評価するべきなのであろうか。これは全く正しい伝承が失われている、と見なされるべきなのであろうか。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー5) 勢は成るものである。 「勢」とは「ある原因によって生じる一定の働き」のことであり、それは原因があれば自然にそうなるものである。季節の変化や陰陽の交代、こういったものは全て「勢」によって為されている。「勢」はどこであっても生じている。どこでも働いている。春の気が生ずれば、万物は生まれる。それは春の気が生まれるという「原因」があって万物が生まれるという「勢」が生じているからである。つまり万物はその生ずる「機」を得て、その生ずる「勢」が働くことになる。秋の気は万物に実りをもたらす。秋の気が「原因」となって、実るという「勢」が生まれるわけである。万物には始まりと終わりがあり、万物の生まれる兆しがあれば、陰陽は変化をして四季が移ろって行くことになる。こうした始まりと終わりは、永遠に循環している。つまり万物の生まれる原因(道)が生まれることがなければ、その形が(徳)が生まれることはなく、形がなければそれが実際に現れる「勢」もないことになる。つまり「生まれる(道)」ことと「蓄える(徳)」ことは、大いなる道の「勢」を導くものなのである。そうであるから「勢は成るものである」とされている。 〈奥義伝開〉道理(道)があり、概念(徳)が見出されて、方法(形)が確立されると、それが実践(勢)できるようになる。共産主義は優れた思想であったので、それが実践されたが、結果としては失敗をしてしまった。今から考えると、やはり形の段階で問題があったようである。人の霊的な「進化」は自由から平等へと向かっている。それは競争から和平への推移でもある。本来的には資本主義より共産主義の方が競争の少ない和平な社会であるのであるが、結果としては一党独裁による強い弾圧が生じてしまい、より争いのある社会になってしまった。これは政治体制を間違えてしまったからであるが、あまりに共産主義という理念(徳)が理想的であったために政治体制の不十分さを考慮されることが少なかった。ただ急速に共産主義が拡大したのは、老子のいうように「徳」にそった「形」は「勢」を持つからに他ならない。中国武術で唯一、太極拳が世界的に広がっているのも、その「形」が正しいものと認められて「勢」を得ているからである。一方で競技用の太極拳が一向に広まらないのは、その「形」に問題があるからである。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー4) 物は形を持っていて、 「道」が生まれて、「徳」が蓄えられているところで、万物は「形」を持つことになる。万物は名を持つことになる。これらは全て無形の中から生み出されている。物が生み出されると、それは「形」を持つことになる。これが「至道の理」である。こうした理は万物に関係しており、万物が「形」を持たない先にあって、至徳の働きによって「形」が生まれる。いまだ万物が「形」を得ていない時、既にその「形」は至徳によって決まっているのである。それは万物が「道」と「徳」によって「形」を成しているからに他ならない。そうであるから物を見れば「道」のあることが分かるのであり、物を見れば「徳」の働いていることが明らかになるわけである。こうしたことを「物は形を持っていて」としている。 〈奥義伝開〉この世の存在の中から「道」つまり道理を見出すことで、人はいろいろな有効な働きの原理である「徳」を知ることができる。それが「善」であるなら、次には「善」を実現するための「形」が必要となる。「専守防衛」という「徳」は見出されたが、それを実践するための「形」はいまだ充分に構築されたとは言い難い。平等も政治的な平等は普通選挙で、経済的な平等は累進課税で、実現されようとしているが、いまだ完全なる平等には程遠い現状がある。「柔」は老子の見出した「徳」のひとつであるが、それが「形」を得るには太極拳の出現を待たなければならなかった。このように「道」「徳」「形」はそれぞれに時間が掛かって見出され、構築されて来たものなのである。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー3) 徳は蓄えられるものであり、 「道」は本来は無形である。「徳」も本来は一定の形を持っては居ない。「徳」は「道」の働きであって、「道」のあるところには「徳」も存している。つまり「徳」とは「道」に実践が蓄積されることで、形として現れているものなのである。物は「道」を得ているので、その形は「徳」を持っている。つまり「徳」は物に蓄えられているのである。つまり「蓄」とはこうした意味であり、天地万物にあって「道」によらないで存している「徳」はないのである。「徳」を持たない物はないのである。「蓄」とは積み重ねることであり、そうすることで形は働きを持つようになる。飛んだり、潜んだり、動いたり、動かなかったりして、物は生生を繰り返している。つまり「徳」とは、そうした働きを養うことなのであり、それは自然にあっては限りなく行われている。そうであるから「徳は蓄えられるものであり」とされている。 〈奥義伝開〉「徳」として表されるものには、いろいろな道理・法則がある。「善」もそうであるし「自由」「平等」もそうである。また「仁」や「儀」、それに「兼愛」(墨子が唱えた全てを愛せよという教え)や「慈悲」もそうである。また科学の法則もその中に入る。こうして「徳」は蓄えられて、それを学ぶことで人は本来の姿を取り戻すことができるようになる。現在、どこの社会も自由や平等などを完全に実践し得てはいない。そうしたものを実現するためにまだ発見しなければならない道理(道)が残っているのであろう。

道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(4)

  道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(4) 武術のひとつの技法である入身を歩法と等しくし得たのは八卦拳だけであるが、孫禄堂の『拳居述真』には師の程廷華の教えとして八卦拳の円周上を歩く稽古を「口に南無阿弥陀仏を唱えるように」という教えのあったことが記されている。これは天台宗で行われている常行三昧をいうもので、現在でも天台宗では阿弥陀仏の周りを不眠不休で念仏を唱えながら巡る修行が行われている(かつて、八卦拳の起源が道教の祭祀である転天尊にあるとされたが、転天尊はおそらくは常行三昧から生み出されてもので、天尊のまわりを巡る修行法である)。要するに程廷華の教えは円周上を歩いている時にある種の「三昧」の境地に入ることを言わんとしたものと考えられるわけである。フラヌールとしての八卦拳修行者は「三昧」に入ることで、通常の意識状態を超えたレベルでの入身を実現させようとしているわけである。かつて王樹金は、公園で八卦掌を練っていたが、買い物に出た人がその姿を認めて、帰りにも同じく円周を巡る様子が認められたという。やはり王もある種の「三昧」の境地に入っていたのではなかろうか。王樹金も「フラヌール」であったのかもしれない。

道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(3)

  道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(3) フラヌールという語は、日本ではあまり耳慣れない語であるが、現在、町田市の国際版画美術館では「幻想のフラヌール―版画家たちの夢・現・幻」展が行われている。そこで配布されているパンフレットには「展示室を彷徨いながら作品を鑑賞ー観察することで次第に疲労していく眼と精神は一種の陶酔をもたらすだろう。言うまでもなく鑑賞者ー観者も〈フラヌール〉なのである」と記されている。そこに展示されているのは超「現実」ともいうべき世界で、外的な世界に触発されて働く人の意識の根源を見つめようとした作品である。また日常生活では覆い隠されてしまうような根源的な意識のあり方をなんとか作品に結実させようとする努力をうかがわせるものでもある。こうした作品は広い意味でマンダラということができるかもしれない。つまり「幻想のフラヌール」展の会場は、歩くマンダラ瞑想の場であるともいえるわけである。

道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(2)

  道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(2) 歩くことを修行としたものとしては修験道などもそうであろうし、比叡山の回峰行などもそれに当たるであろう。また二足歩行は他の動物にはない人類の特徴的な動きでもある。ロボットで二足歩行を実現することはかなり困難で、姿勢を制御するためには高度な装置が必要とされる。実際に少しでも意識が正常に働かなくなると人は立って歩くことが難しくなってしまう。打ったり、蹴ったりする行為は他の動物でもできる。しかし、歩いて入身を行うことはできない。八卦拳は人の最も高度な行為として歩くこと(入身)を認定したのであった。そして、それの「入身」こそが人の攻防における最も高度で知的な行為であるとして修行のシステムを構築したのであった。こうした「発見」は日本の武術でも、合気道などに見ることができる。また中国武術では七星歩などの入身の歩法の重要性が説かれている。しかし、こうした入身の方法を歩くことに、そのまま結びつけるところまでは至っていない。

道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(1)

  道徳武芸研究 フラヌールとしての八卦拳(1) フラヌールとは「遊歩者」という意味である。始めは単に目的もなく歩くという意味で散歩のような行為をいうものであったらしいが、後には遊歩をして観察をし、思索にふけるような人物のことをいうようになり、自由な芸術家をいう言葉としても使われるようである。確かに歩いていると一種の「無」の境地を体験できる。これをシステム化したのが禅宗の「経行(きんひん)」であるが、日本ではそれを瞑想として積極的に行うことはしていない。一方、ティク・ナット・ハンなどは、これをウオーキング・メディテーションとしている。八卦拳もかつての名師の逸話などによれば、その多くが単に円周上をひたすら歩いていたという。彼らもまた「フラヌール」ではなかったのではなかろうか。また孫禄堂は『拳意述真』で八卦拳を易(八卦)に関連付けて、そこに「不可思議」があるかのように書いている。すなわち董海川は壁の側で静坐をしていたが、その壁が突然、崩れてしまった。しかし既に董はそこには居なかった、といった類である。孫の書きぶりからすれば、董は八卦拳によって易理を体得していたことで、身辺に生ずる天地の変化が予測できた、と考えていたようでもある。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー2) 道は生み出されるものであり、 「道」とは無極であり太極でもある。先天の先にあるものであり、それより更に先には何もない。また「道」は後天の後にあるものでもあって、これより更に後にあるものはない。本来的には名も象(シンボル)も持つことはなく、それを具体的な姿として捉えることはできない。そうしたものに強いて名を付したのが「道」なのである。そうであるから「道」は造化の枢軸であって、物質の根底でもある。万物の始まりに先んじてあるものであり、万物の終わりの後にも存している。それが「道」なのである。 〈奥義伝開〉「道」とは自然の中から人が見出した道理・法則である。これは自然科学では法則として見出されて来た。自然の中にはいろいろな法則があるが、人がそれを発見しなければ道理を生み出すことはできない。言うまでもないことであるが、自然の法則は人が見出さなくても、存して働いている。しかし、法則を見出さなければ、人はそれを使うことはできない。武術も人の取り得る動きの中からしか、その道理を得ることはできない。そうした中から有効な攻防の動きを見出して、一定の形を作ることになる。形のベースに則(道)のあることを理解することなく、単に形だけを練習しても得るものは少ないといえよう。

宋常星『太上道徳経講義』(51ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(51ー1) 「道」は「徳」の本であるとされている。「徳」とは「道」を実践した結果である。万物は「道」に依っているのであり、それは身体を通して世に実践される。自己が行って他人に及ぼされる。これらは全て「道」の流れの中にあるものであり、そこに「徳」が現れている。天下の物にあって「道」から生じていないものはないし、その存在が「徳」として現れていないものはない。そうであるから「徳」は天下の至尊であって、至貴なのである。どのようなところでも「徳」の存していないところはない。それはどのようなところにもあるのであって、その大きいことは天地に比べるものもない程であり、その小さいことも比類のないのであるが、全ては自然に存している。そこには作為もないし、何かを成そうとすることもない。あえて「徳」はそれを実践されることもない。こうした(自然に実践される「徳」の)ことを「玄徳」という。ここでは、天地の万物は全て「道」から生まれているのであり、「徳」でないものはないことが述べられている。「道は生み出されるものであり」とあるのは、ただ「道」は存しているということだけではない、ということである。「徳は蓄えられるものであり」というのも「徳」はただ「徳」というものがあるのではない、ということである(注 「徳」は実際に現れる時には「善」や「仁」などいろいろな形となる)。「道」はただあるのではないからこそ貴いのである。「徳」が行われている時にはその存在は忘れられている。そうであるから「道」は限りなく尊く「徳」は貴ばれるのである。 〈奥義伝開〉「道」とは道理、法則のことである。老子は人がそれを見出すことで本来のあり方に戻ることができると考えた。それを具体的に表したものが「徳」である。そうであるから実際に「徳」として表されるものは実に多岐である。天地に働いている法則は全て「徳」であり、それを人類は見出して来た。ブラヴァツキーの神智学では人間の霊的進化を唱えているが、それはどうやら霊的な器官を開発して「超能力」を得ることにあると考えていたようである。こうして「進化」した人間が生き残って、未来には「超人」だけの世界になると考えていたのかもしれない。一方、老子は道理、つまり新しい概念を見出すことにより人類は本来の姿を取り戻すと考えた。老子以降は「人権」であるとか「自由」である...

宋常星『太上道徳経講義』(50ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(50ー9) シ(野牛に似た一角獣)もその角で突くことはできず、虎もその爪を立てることはできないし、軍もその刀を振るうことはできない。どうしてか。それは「死」すべき状況にないからである。 ここでは、まさに「無死の境地」について述べている。本来的に人は清浄であるので急速に「死」へと向かうべき状況にはない。それがあるのはただ情欲の存するところにおいてのみである。生と死を分けるのは動静にある。行為において情欲による動静の乱れを制することができていれば、「生」の境地にあるとすることができよう。そうなれば「死」の状況にはないことになる。そうであるから善く生を得ている人は、情欲のとらわれから離れており、妄執を棄てて真実を得ている。そしてその動静も禍福において適切であり、進退もその安危を見て行われる。そうであればシや虎や軍隊にあうこともないわけである。もし、そうしたものに出会ってしまっても、シの角に突かれることはなく、虎は爪を立てることもない。軍隊は刀を持っていても、それで斬られることはない。こうしたことが起こるのはどうしてか。それはただ善く「生」を得ているからである。心身の内外において「死」すべき状況がないからである。そうであるからシにも虎にも軍隊の刀にも害せられることはないのである。こうしたことを老子は「どうしてか。それは『死』すべき状況に居ないからである」としている。まさに世間の人を見るのに、ただただ名誉を求めて、ひたすらに利益を追っている。ぜいたくな衣食を貪り、美味を味わい、欲望を満たそうとする。こうしたことは全く貪りの中にあるのであって「死」をも恐れない行為といえよう。こうした人は「生」を貪ることを知らないで、ただ「死」の道をひたすら歩んでいるのである。情欲の貪りの心から発せられる思いだけにとらわれて、心は害せられ、性も本来の働きすることはできない。意識は不安定で、感情は乱れている。こうしたところには自ずから「死」ぬべき状況が生まれることになる。そうなればシや虎や軍隊の害から離脱することができないばかりではなく、あらゆる場面で災害や不幸にあうことにもなろう。つまり天国も地獄も全ては心の状況によって決まるのである。生も死もそれは、すべて性が天の理のままであるかどうかによって決まるのである。意識を静めて(抱神以静)、欲望に気持ちが乱される...

道徳武芸研究 山西派形意拳小考(4)

  道徳武芸研究 山西派形意拳小考(4) 形意拳の三体式では一歩目の擺歩で横への勢いが生まれるものの二歩目では真っ直ぐに前進する。しかし、これを擺歩の勢いのまま斜めに踏み出すと、入身の連続として円周上を歩くことができる。ちなみに形意拳の系統の八卦掌の多くは擺歩をしないで扣歩のみを行って円周上を歩く。これは三体式で擺歩を練っているからということがあると思われる。また形意拳は拳を先に出してから歩法が付いて来るのに対して、八卦掌では歩法が動きを先導する。これも形意拳本体とは反対となっている。こうしたシステムが確立されたのは形意拳で不十分なところを八卦掌で補おうとするためと思われる。本来の八卦拳では円周を歩く「八卦掌」の系統と、直線上で拳を打ち出す「羅漢拳」の系統があるが、山西派では「八卦掌」の系統を盤根として、「羅漢拳」の系統(挑打)を劈拳として取り入れたのではなかろうか。孫禄堂も、その著書『八卦拳』で特に羅漢拳のことを記しているように、孫の段階で何らかの伝承があったのかもしれない。興味深いことではある。