宋常星『太上道徳経講義』(52ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(52ー4) 兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は亡くなるが、(生きている間は)労(わざらわ)されることはない。 ここで述べられているのは、守「母」の奥義である。「兌(あな)」とは、人の「口」のことである。「門」とは「耳」のことである。これを「塞」ぐとは、沈黙をして、言葉を発せないことである。これを「閉」じるとは、神(注 意識のこと)や心が外に遊び出ることがないようにすることである。もし内的な神の充実がなされたならば、それは外に向かうことになる。外にある物に向かい、事に触れて適切に働くことになる。そうなれば特に努力をしなくても適切に事が成る。為さずして自ずから成るのである。これは、つまりは「母」の気を守っている結果として自然にそうなるわけである。そうであるから「兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は亡くなっても、(生きている間は)労されることはない」とされている。現在、修行をしている人は、はたしてよく六門(口、目、鼻、耳、性器、肛門)を閉じることができているであろうか。神や気をよく守っていれば、身に働いている大いなる「道」は、それとして形を求めることはできないが、全体の働きとして「道」は存していることが分かる。身の中の陰陽は、意図して煉らなくても煉ることができる。「一」を得てそれを長く保つことができれば、自然に「道」と一体となることができる。これがつまりは「兌(あな)を塞げば、門は閉じることになる。そうなればその身は労されることはない」ということなのである。 〈奥義伝開〉自分以外と交渉を持たなければ、心身が疲労することもない、ということである。しかし、亡くなることは避けられない。これも当然である。他人と交渉を持てば、そこには自分では制御できないことも生じるので、いろいろな心身の苦労が発生するものである。情報もあまりに広く集めすぎると、かえって役に立たないばかりか弊害が生まれる。