宋常星『太上道徳経講義』(29ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(29ー2) 天下を取ろうとしても、それは自分ではどうにもならないことであると分かる。 正しい考え方を持たない者が、いろいろと妄想してもそれが実現することはあるまい。ましてや天下を取ろうとするような大きなことはできるはずもないし、またそうしたことは自分がどうこうしようとしてできるものでもない。そうであるべきことではないのである。古えの聖人を見てみるのに、聖人はやむを得ないことだけをしていた。どうしてもしなければならないことだけをしたのであるから、例え名誉が得られてとしても、当然のことをしたまでと思っていたので、そうしたことにこだわることもなかった。例え名誉が与えられたとしても、それに左右されることはなかったわけである。時によっては良い時もあるし、悪い時もある。事によってはその変化によって、やらなければならなくなる事もある。例えば舜が天下を守り、周の武王が殷を討って天下を取ったようなこともある。知っておかなければならないのは、これらは舜や武王が求めて行ったことではないということである。やったことは違っていても、その「道」とするところに違いはなかったのであり、これらはすべてどうしてもしなければならないことがなされたのである。取ろうとして取ったのではないし、行おうとして行ったのでもないことを見るべきである。老子には過去を手本として今を批判する意図がある。そうであるから「天下を取ろうとしても、それは自分ではどうにもならないことであると分かる」としているのである。 〈奥義伝開〉「天下を取る」ということで表現される「統治」は「無為」において為されるべきと老子は教えている。かつての聖なる王は、どうしてもやらなけばならないからあえて「統治」をしたのであって、その根本には無為があった。自己が意図したのではなく「自然」に行うべきことをやった、それを行った結果が「統治」となったわけである。このように無為自然とは何もしないことではなく、行うべきことを行うことにある。現在、多くの人は行うべきことを行わず、行わなくても良いことを熱心にしている。そうであるから、こうした中に社会の矛盾が生まれるのである。