宋常星『太上道徳経講義』(27ー8)
宋常星『太上道徳経講義』(27ー8)
そうであるから「善」なる人は不「善」なる人の師となる。
「『善』なる人」とは、これまで述べられた五つの「善」を備えている人である。己において「善」である人は、他人へも「善」をして対さないということはない。一方、不「善」の人は「善」なる人の有する「善」がどのような効果をもたらしているかを見ている。そうなると不「善」の人も教化されて「善」を行うようになる。そうであるから「『善』なる人は不『善』なる人の師となる」とされているわけである。
〈奥義伝開〉注意しなければならないのは、これでこの文章が終わっているわけではない、という点である。この文章だけであると、「善」を実践する人は、不善なる人の手本(師)となるとされているように見えるが、これは後に「師を貴ぶことはなく」と記される。つまり「善」を行うという行為そのものにおいては見習うべきであるが、「善」行う「人」やその行為は見習う必要はない、というわけである。「善」なる行為は、ただ当たり前のことをしているだけなのであるから、行為そのものは尊ぶことも見習う必要もないのである。