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道徳武芸研究 太極拳「単鞭」学〜太極拳学試論〜

  道徳武芸研究 太極拳「単鞭」学〜太極拳学試論〜 単鞭は比較的形に違いの少ない楊家系の中でも特異な差異を見せている興味深い技法である。また陳積甫はこれを「丹変」として記している(『陳氏太極拳入門総解』)。また単鞭はイスラム教神秘主義のスーフィーの舞とも酷似していることなどからしても、陳積甫の伝える「丹変」なる名称が何か意味深いものを示唆しているようにも思えるのである。以下では単鞭を歩法と手法の二つの面から考察して行きたいと考える。 太極拳は楊家に伝わるものが本来の張三豊の創始した太極拳であり、その系統から陳家、武家、呉家が分かれ、武家の系統からは更に孫家が派生した。歴史的には楊家を北京に伝えて広く太極拳が知られる嚆矢となった楊露禅は陳長興から太極拳を学んだことから、陳家の太極拳から楊家は派生したと誤解している向きもあるが、楊家と陳家では拳理の異なることは誰が見ても明らかであろう。現在の陳家の太極拳は実質的には陳長興により作られている。陳一族の住む陳家溝では通臂拳の影響を強く受けて独自の拳・砲捶が創始されており太極拳も、その理論によって改められている。そのため楊家から派生した武家、呉家、孫家は基本的な拳理は共通であるから大きな違いはないが、陳家だけは拳理が異なるのでこれをひとつの「太極拳」として見るのが妥当かどうかの議論もある。 そこで単鞭であるが、その歩法と身法は以下のような違いがある。 楊家 弓歩  前向き 武家 弓歩  横向き 呉家 馬歩  横向き 孫家 反弓歩 横向き(反弓歩という語はないが、重心を後ろ足においた弓歩ということである) 陳家 弓歩  横向き これらからは重心が弓歩の「前」から馬歩の「中」そして反弓歩の「後」へと移動していることが分かる。また同じ弓歩でも陳家は身法が完全に「横」を向いているので重心は全く「前」にある訳では無い。つまり一般的な弓歩からすれば、やや「中」へと移動していることになる。こうしたことが起こるのは単鞭が太極拳の「採」を用いるものであるとする解釈によっているからである。右手で相手の右手を掴んで(採)、引き込もうとすると重心はより後ろにあった方がやりやすいことになる。 ちなみに十六世紀の兵書である『紀效新書』では単鞭と似た技法に拗単鞭と一条鞭とが挙げられている。これらは共に弓歩であるが、単鞭は「拗」とあるように左手と右足...

宋常星『太上道徳経講義』第六十七章

  宋常星『太上道徳経講義』第六十七章 (1)天の道は争うことなく変化をして行く。聖人も争うことなく万民は自ずから感化される。 (2)これは物それぞれが、それぞれのあるべきになる、ということである。 (3)その働きは無為において行われる。それは、ただ個々の物の本質に帰るに過ぎない。あらゆる物は無為であれば、あるべきようにあることができるのである。 (4)無為とはつまり「弱」くあることで、それによりかえって「強」い働きが現れるのである。 (5)怒ることのない人は、その「勇」を完全に履行することができる。それは怒りによって目的が限定されないからであり、また怒りがなければ、どう働いて良いかも明らかになる。 (6)よく自分を「下」に置けば、多くの人は自ずから服するものである。それは道によっているからである。 (7)兵を用いて敵に対する。そうなれば敵との完全対立となる。争えば国であれば国を保つことは難しいであろう。 (8)自己を修して自己を治める。それは道のままなので容易に行うことができるであろう。その修行を成就することも難しくはない。 (9)天地は天地のままであるからそのままに存している。聖人は、人そのままであるから聖人たり得ている。 (10)争わないことには終わりはないし限りもない。 (11)このような教えが、この章では説かれている。争わないとを、用兵の道をして、どういったことなのかを明らかにしている。 (12)こうしたことを軽んじていれば、よく自らを滅してしてしまうことになろう。深く自己の内奥に沈潜して、自分を前に出すのではなく謹んでいることが大切である。 1、よく真の人であれば、武力を用いることはない。 (1−1)「善」を行うことは最も好ましいことであり、真の人はそうである。 (1−2)争うとは武力を以て対することであるが、真の人は身を争いの外に置いている。 (1−3)どのような軍隊であっても、それがどのように働くかは、その武力が外に向けて発せられるところに見ることができる。 (1−4)これがどういったことかと言えば、そうしたことを行うのは「不善」の人であるということになる。 (1−5)善なる人とは、その武力を表すことなく、他人に使うこともない人である。その勇を隠して他人に見せることのない人である。 (1−6)優しい態度で他人に接しても、相手はそれに服してしま...

道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜

  道徳武芸研究 文と武の鉄布衫〜排打功の真義〜 武術には相手の攻撃を避ける方法があると同時に、その攻撃が当たってしまった時に対処する方法も考えられている。勿論これは中国武術だけに限るものではなく、あらゆる武術に一応はそうした方法が用意されているといえよう。そうした対処を練る方法を中国武術では排打功という。またこうした功法は鉄布衫(てつふさん)と称される。英語圏ではアイアン・シャツとして知られている。日本でいうならば鎖帷子(くさりかたびら)のイメージであろうか。こうしたことがどうして可能かといえば「運気」によるとされる。「運気」はどうして行うかといえば「呑吐」という呼吸法によるとされている。つまり呼吸により全身に気を巡らせることで打たれ強い「体」を得ようとするわけである。 鉄布衫には文の法と武の法がある。この違いの根本は「呑吐」の違いにある。激しい呼吸で全身の緊張を促すような方法は「武」であり、反対に放鬆を起こさせるのは「文」となる。鉄布衫では攻撃が効くのは内臓に衝撃が及ぶからであると考えるので、ひとつには内臓全般に適度な衝撃を加えて衝撃に慣れさせるということがある。この時に当たった部位を緊張させて衝撃を断とうとするのが「武」の鍛錬で、力を抜いて衝撃を緩和しようとするのが「文」の鍛錬である。これは攻撃が体の表面に当たった時と、その力が更に体の奥に及ぶのにタイムラグがあるのを利用しようとするもので、当てられた時にリラックスをすることで皮膚の感覚でその力の及ぶ角度を察知して、その衝撃の方向を変えて威力を削ごうとするわけである。 「文」の鉄布衫を代表するものとしては太極拳の体当たり(靠)の鍛錬がある。太極拳では背中で互いにぶつかり合ったり、壁に背中で当たったりする。こうすることで内臓に適度な衝撃を与えるのであるが、当たった時に息を吐く。それによって放鬆を起こさせるわけである。太極拳では危機的な状況にあっても放鬆の状態にあるのが「自然」であると考える。往々にして人は危機的状況にあうと緊張して固くなってしまうが、そうすることでより事態を悪くしていると考えるわけである。『荘子』(達生篇)にも酔っ払いは車から落ちてもケガをしないとある。 一方、南派拳術でよく用いられる緊張を用いる「武」の鉄布衫には白鶴拳や空手の「三戦」がある。空手の三戦(サンチン)は白鶴拳と全く同じではな...

丹道逍遥 古代日高見の国の秘儀「太祝詞事」について〜「大祓祝詞」小考〜

  丹道逍遥 古代日高見の国の秘儀「太祝詞事」について〜「大祓祝詞」小考〜 大祓祝詞は神道の祝詞の中でもよく知られ唱えられているものである。他には天津(あまつ)祝詞がある。これは短いが大祓祝詞は長く、その取り合わせは仏教では般若心経と観音経に似ている。共に状況に合わせて唱えられる調子の良いもで、それぞれ長いバージョン、短いバージョンの代表とされている。大祓祝詞は本来は六月と十二月の大祓の儀式に際して唱えられるものであるが、中世あたりからは、それから離れて常に唱えられるようになった。こうしたこともあって中臣祓とも称される。加えて近代以降は大祓祝詞の一部が改められて新しいものが大祓祝詞、古いものを中臣祓と称することもある。 このように広く親しまれている大祓祝詞であるが、その中に記されている「天津祝詞の太祝詞事(ふとのりとごと)」については諸説がある。この部分は大祓祝詞が大きく前段と後段に分かれており、ちょうど前段の最後となるあたりに唱えられる。それが、 「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)れ」 であり、これに続くのが、 「かく宣らば 天津神は天磐門(あめのいわと)を押披(おしひらき)て」 である。「かく宣らば」は「このように述べたならば」ということで、つまり「天津祝詞の太祝詞事」を述べたならば、ということになる。そこでこの間に「天津祝詞の太祝詞事」が抜けているのではないか、という疑問が出て来るわけである。この問題は特別な祝詞があった、とする説と大祓祝詞全体がそれであるとする説とがある。もし祝詞の間に異質の祝詞か呪文のようなものが入れられるのであれば、これは他にはない特殊な祝詞の形式といえる。ああるいはこうした発想に至ったのは般若心経の影響があるのかもしれない。般若心経では説明があって最後に最も重要な呪文が入る。それは「即説呪曰(そくせつしゅわつ)」に続くもので「つまり呪文を唱えるならばこう言うことになる」と導入をしているわけである。 それではどうして、こうした混乱が起こっているのか。それは本来的には大祓祝詞が大和朝廷に伝わる祝詞ではなかったからである。これは大祓祝詞そのものにも記されていることであるが大祓祝詞は「日高見(ひだかみ)の国」の祝詞であった。日高見の国は古代東北にあったとされる王権(あるいは文化地域)で、北上川の流域のあたりであろうと思われる。北上川の「北上...

道徳武芸研究 老子と合気道〜「慈」と「戦則勝」〜

  道徳武芸研究 老子と合気道〜「慈」と「戦則勝」〜 『老子』第六十七章には「慈(いつくしみ)」をして対すれば「戦えば則(すなわ)ち勝(まさ)る」「守れば則ち固し」としている。ただ「戦」については「勝(か)つ」と読まれることもある。ではなぜ「慈」をして相手に対すれば「勝」や「固」を得ることができるのか。それはまた「天まさにこれを救う」とあることで分かるのであるが「慈」を以て相手に対すれば、天の助けによって「勝」や「固」を得ることができるとしている。しかし、これは現実的ではあるまい。また『老子』では、これに続けて「慈をもってこれを衛(まも)る」ともある。「慈」をして対すれば「天」の助けがあって、その人を衛ってくれる、ということである。『老子』では「慈」は「天」の働きのひとつの表現であるとする。こうした文脈の中で以上のようなことが述べられているわけである。他に「天」の働きとしては「倹」や「先とならない」があるとする。「慈」の実践は「天」の働きそのものであるから、そこでは自ずから「天」の働きが見られるわけである。こうしたロジックが成り立つとしても、例えば実際に「慈」をして対するのはイメージとしては無抵抗であるような対し方であると思われる。しかし、そうしたことでは相手を制することも、自分を衛ることもできないことは明らかであろう。 同じ章の前段で繰り返し老子が説いているのは「天」の働きは「大」である、ということである。そして、ただ「大」といっても単なる「大」ではないと言う。それは似て非なるものであるとするわけである。そうなると「慈」も単なる「慈」ではないということになる。単に相手に無抵抗であるような対し方ではない、ということである。老子が「天」の働きを「慈」であるとするのは、天と地が交わって生成が為されており、またオス・メスが交わって生成が為されていることを根拠としている。このような「和合」の働きが根本にあると考えるのであり「慈」もそのような「和合」の働きをいうものとして示されている。攻撃をして来る相手に単なる「慈」を以て接しても「和合」は生まれない。そうなると、それは「天」の働きではないことになる。「天」の働きとしての「慈」は相手と「和合」するところにあるからである。それは具体的にはどのようにすれば可能なのであろうか。一般的に攻撃をして来る相手には、それを遮って防御...

宋常星『太上道徳経講義』第六十七章

  宋常星『太上道徳経講義』第六十七章 (1)聖人の道は、きわめて「大」である。道の本体は終始「一」である。 (2)それは至簡であり、至約(約は小さい)である。 (3)そうであるから道を単純に「大」きいものであるとは言えない。道の妙用は、いろいろであり、尽きることはなく、限られることもない。そうであるから「小」さいと言うこともできない。つまり「小」さいといっても、単に「小」さいのではないので誰も道を「小」さいと決めつけることはできない。 (4)「大」きいといっても、単に「大」きいのではないので誰も道を「大」きいと決めつけることはできない。 (5)道は「小」さいが、単に「小」さいのではなく、それは「大」なるものでもある。それは小さいといっても黍や米、玄珠(無為自然を象徴する「珠」極小であると共に極大であるとされる)に、小ささの三つの違いがあるのと同じである。こうして常に変化をするのが「天=自然」である。 (6)道は「大」きいといっても、単に「大」きいのではない。その「大」きさは「小」ささをも含んでいる。それは小さな月の中に山や海に似た影が見られるようなものである。鏡の裏に天地の形を見ることができるようなものである。こうしたことが意味するのは、あらゆるものを大きい小さいと決めつけることはできないということである。 (7)こうした至理(究極の道理)の実際には計り知れないものがある。 (8)文中にある「似ていない」とは、まさにこういった意味となる。もし人が道を大いなるものと決めつけたならば、それは道が分かっていないということである。 (9)つまり道とは何かに「似ていない」と同時に「似ている」ものなのである。 (10)それはけっして「似ている」だけに留まるものではない。もし、似ているだけであれば、あらゆるものが一定の形に固定されることになり、実に形が「虚」なる存在であるとはいえないことになる。 (11)「有」と「無」とは共に存することはできない。「小」と「大」はそれぞれが対である。 (12)天地の万物は集散しており、また離合もしている。変化、生成の妙にあってあらゆるものは一定の形に限定されるものではなくなってしまう。 (13)そうであるから「似ている」ところの「本来の形」を人は知ることも、見ることもできない。 (14)そうであるから老子は、そうした中に三宝の妙があると...