道徳武芸研究 文功と武功、そして文武の合一
道徳武芸研究 文功と武功、そして文武の合一 中国武術では文功をいう。一般的に武術では攻防の動きとは別に「文」功を練るということはしない。これは中国武術における大きな特徴というべきであろう。文武の功という以外には形意拳では道芸と武芸として区別されている。あるいは内修、外修ということもある。他には静功、動功とする場合もある。あえて中国武術で「文」功をいうのは、それを重視するからに他ならない。一般的な攻防を行うだけであれば「文」功を練る必要はない。 日本では武術から武道へとして、時に精神性が強調されることがある。これはまた「剣禅一味」などとして近世あたりから剣術と禅宗との接近が説かれるようになった。これは中世に既に立花や喫茶において禅宗との接触があり、立花は華道、喫茶は茶道へと展開して行き、単なる「花を生ける」「茶を飲む」という行為に芸術的な精神性を見出そうとしたことを背景としている。剣術はこうしたものに遅れて武道としての精神性を坐禅の中に求めたのであるが、華道にあっても茶道においても坐禅の修行は必ずしも必須のものとされてはいない。システムの中に組み込まれているか、そこが文功との違いである。 文武の功をいう場合にはシステムの中に文武の功が組み込まれているわけであるが、日本の「◯◯道」での「文」功ともいうべき「坐禅の修行」は「ある種の精神的な開放性」や「自然との一体感」のようなものの象徴的な「記号」としてあるのであり「どうして坐禅をやるべきか」の明確な答えを示し得ては居ない。 八段錦では「文」八段錦、「武」八段錦がある。この場合には坐式が「文」、立式が「武」とされている。また文、武は合一されなければならないともいう。この場合、文と武が共に融合するというのではなく、武が文へと統合されることを意味する。「文」功は「静」功といわれることでも分かるように「静」を養うことを眼目とする。一方「武」功である「動」功は「動」を鍛えることが第一となる。こうしたことは中国武術の発祥が少林寺である、とする伝説においても見ることができる。少林寺では易筋経と洗髄経があったとされている。具体的には易筋経は拳術であり、洗髄経は坐禅である。こうしたものを含むシステムとして中国武術は考えられているわけである。 過去のことは分からないが近現代になって最も「文」功に特化したシステムとして現れたのが意...