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姚姫伝『老子章義』(呉啓昌「あとがき」)仙仏合宗から三教合一へ

  姚姫伝『老子章義』(呉啓昌「あとがき」)仙仏合宗から三教合一へ 先に「仙仏合宗」については触れた。これには性命双修の観点から「性」を仏道、「命」を仙道から採ろうとするものと、仏道も仙道も「自然のままの法則に人はあるのであるから、それを良く知ることが大切である」という立場を等しくしている、という二つの視点があることにも言及している。仙道は「自然のままの法則」を「道」であるとか「天」として象徴的に示しているが、仏道では「法」そして「縁起」や「空」など具体的にも提示している。こうしたこともあって修行の精神的な側面である「性」においては仏道が大いに参考になるとするわけである。一方、肉体の面では導引をベースとする仙道が優れているとする(仏教には健康を目的とした修行はない)。 仙道と仏道との融合の他には、儒教を加えた三教の合一が説かれることもある。中国では老子、孔子、釈迦を三大聖人とする見方もある。朱子学以降は儒教でも、仙道の瞑想法が取り入れられているので、仙道(道教)と儒教の親和性はあるわけである。三教合一は、大体において仙道の側から言われることであり、仙道では明確でないとされる、主として社会的な思想の面を明らかにしようとすることろからの発想である。 仙道が仏道に求めたのは「慈悲」の考え方で、所謂「菩薩道」の実践のことなのであるが、これは『老子』第九章で「功をとげて身を退くは、天の道なり」として示されている。この「功」は他人への思いやりの行為のことである。思いやりの行動をしても、それにこだわってはならない。自然のことと思うべきと教えている。これは墨子の「兼愛」思想にも通じるものである。今でいうなら博愛主義である。老子は博愛は自然の行為であり、すべからく自然は「博愛」つまり「調和」の中にあると考えているわけである。 また儒教から得たのは革命思想で、これは全ての存在は等しいとする「万物斉同」による。特に「万物斉同」は荘子が唱えたことで知られているが、老子も等しく語っていることである。こうした仙道の平等思想は唯物的な観点から出ている。第五章に「天地は不仁にして」とあるように、存在している物は全て等しくあるのであり、特別な神もようなものはない、ということである。第二十五章には「道は大なり。 天は大なり。地は大なり。 王もまた大なり」とあって、王も等しく自然の中の存在である...

道徳武芸研究 「裏」合気としての呼吸力〜振魂、天の鳥船は「発勁」の練習法〜

  道徳武芸研究 「裏」合気としての呼吸力〜振魂、天の鳥船は「発勁」の練習法〜 ここで「裏」合気というのは「表」の合気を「引力」としての「斥力」をいうものである。引力のあるところに斥力も生じる。これは合気道の動きとしては「求心力」と「遠心力」としても表れている。よく合気道の技において「合気」が言われないことを疑問に思う人も居るが、合気道において「合気」は宇宙の本来的な力の働きである「和合」であるからに他ならない。つまり「和合=合気」は意図しなくても本来的に働いている力なのである。それを適切に用いることで相手をも「和合」に促すことが可能となる。これが呼吸力である。つまり現実的には「合気」だけでは相手との「和合」を完成させることは難しい時(攻撃の意志が強い時)に呼吸力が用いられるのである。 かつては日本の武術の特色として「合気」があり、中国武術には「発勁」があるとされた。しかし太極拳の「粘」に典型的に見られるように中国武術にも「合気」は存している。つまり「合気」と「発勁」は力の使い方を一方から言っていることによる違いであるに過ぎないのである。つまり「発勁」による打撃でも適切なタイミングと角度で相手に当てなければ適切な威力を得ることはできない。それを知ることが「合気」であり「粘」なのである。 なぜ合気道には大東流にない振魂や船漕ぎ運動が加えられているのか。これは戦前に広く行われていた川面凡児の提唱していた行法を取り入れているのであり、振魂や天の鳥船は滝行で水に入る前に行われていた。植芝盛平が単に川面の行法を取り入れただけではないことは、川面の行法には、この他に印を切りつつ唱えごとをする「雄建(おたけび)」や気合を入れる「雄詰(おころび)」、呼吸法である「息吹(いぶき)」があることでも分かろう。こうして見ると植芝には何らかの意図を持って川面の行法の一部を取り入れたと分かるのである。 これは植芝の全てに言えることなのであるが、植芝はかなり安易に「良いと思ったこと」を取り入れている。それは大本教においても見ることができる。そうであるから植芝の言っていることを大本教を研究して理解しようとしてもかなわない。植芝は自分のイメージしていることと近い言葉があれば、それをそのままに使ってしまう。そうであるから大本教の独特の用語も、大本教そのものの解釈と完全には一致しないのである。あ...

丹道逍遥 文始真経(四符篇十一〜十七)静坐秘伝「凝神寂照法」

  丹道逍遥 文始真経(四符篇十一〜十七)静坐秘伝「凝神寂照法」 これは小周天(回光返照)と同じ構造の瞑想法である。つまり神(意識)の安定は内面を眺める(寂照)ことで生ずると考えるわけである。「回光」の「回」は「返る」という意味であるから、外を見ている「視覚」を内面へと変更することを言う。一方、これを陽気を巡らせることとするのが龍門派である。現在の日本では龍門の小周天が一般的とされているが、本来は内面を眺める方が好ましいとされている。つまり周天とは自然の運行のことで、月日が巡り、季節が巡り、時間が巡るように、天地の運行と自己の内面が等しくなることをいう。つまり大宇宙としての天地の運行が大周天であり、小宇宙としての人体の内面の運行が小周天なのである。しかし小周天を陽気を巡らせることとしてしまうと大周天の説明が難しくなる。全身に気を巡らせるのが大周天などとも説明されるが、この場合は「周天」の感じはないし、ルートも明確ではない。全身周天が大周天であるとの誤解は龍門派によるものといえるであろうが、龍門派でも陽気を巡らせることにある程度、習熟したら温養の段階に入って意図的な周天はしない。つまり、この段階で天地の周天と一体となるわけである。 「凝神寂照」の「照」を体の外を観ることとすると天台止観になる。止観は心の余計な働きを「止」めて、世の中を正しく「観」ようとするものである。止観的にいうなら「凝神寂照法」は「凝神」が「止」であり、「寂照」が「観」となる。ただ仙道では世界を正しく観察して「縁起」や「空」を悟ることを意図していないので、特に森羅万象の実相を見ようとはしていないが、結果としては似た認識(虚)に至るものでもある(仙仏合宗)。 また仙道では「止」にあたることにおいても雑念をあえて止めようとはしない。仙道では「凝は凝せずして凝す。照は照すことなくして照す」との奥伝がある。つまり意図的なことをしなくても一定の安定状態に入るのが適切としているわけである。この時に重要なのは「凝」と「寂」が等しいということである。「寂」であるから「凝」となり、「凝」となるから「寂」となる。これらが相互に深め合って深い境地に入ることが可能となるわけで、この時に用いられるのが「元神」である。一般的な「神」をしても一定の集中は可能であるが、それでは「寂」の境地に入ることはできず、自然に瞑想を深...

道徳武芸研究 システム論より見たる「酔拳」について

  道徳武芸研究 システム論より見たる「酔拳」について 「酔拳」は「酔った姿を見せて相手を油断させて戦う武術」のような解説をされることが多い。また映画などでは実際に酒を飲んで「飲めば飲むほど強くなる」との設定がなされている。これは荒唐無稽な話ではあるが、多少の酩酊状態に入ることは攻防を行う上で、恐怖心などを鈍化させる効果が期待できはする。しかし、一方で酔うことで運動能力は低下する。システム論から「酔拳」を考察する上で鍵となるのは、こうした「意識」と「運動」の関係性である。これらの関係性は、また競技スポーツでも広く注視されていて「リラックスをして如何にパフォーマンスを高めるか」については、イメージ・トレーニング等いろいろな方法が提唱されているが「酔拳」が目的としたのは深層意識の中にある潜在能力への夢想であった。 ちなみに「酔拳」という名称は、現代の表演武術において広く用いられるようになったものであり「酔拳」という門派は存在しない。古くは魯智深拳や酔八仙(拳)などと称されていた。「酔拳」は酔態を示し、難度の高い動作を含むことから表演武術(床運動)としては芸術性、難易度を含む優れた套路となっている。拙稿では「酔拳」をシステム論の上から考察しようとしているのであるが、ここでは魯智深拳、酔八仙拳、酔拳の変遷を設定している。これは歴史的にそういった経緯がたどられるということではない。あくまでシステムの変遷が、そのように関係付けられるということである。 魯智深は『水滸伝』に出てくる豪快な人物で、大酒を飲んで暴れまわるのが人気となっている。ただ酒を飲んで強くなるということはない。また酔態が強さと関係することもない。魯智深が「酔拳」のシンボルとされたのは、魯智深が酒と強さによって演出される豪快さのシンボル的な存在であったからであろう。当然のことに「酔拳」は酒と関係が深いわけであるが、これは酒を飲むことで恐怖などの表層の意識を鈍化させて、人が本来もっている潜在能力を発揮できると考えたからのように思われる。こうした現象は中国ではタンキーなどの憑依シャーマンに見ることができる。中国では憑依シャーマンは多くあり、孫悟空や関羽などに憑依すると火の付いた線香を体に当てたり、棒で体を打ったりしても平気な様子を示す。また刀やトゲの付いた棒で体を激しく打っても何ら苦痛を感じないといったパフォー...

姚姫伝『老子章義』(第七十一章から第七十六章)仙道と仏教はひとつ〜仙仏合宗について〜

  姚姫伝『老子章義』(第七十一章から第七十六章)仙道と仏教はひとつ〜仙仏合宗について〜 「仙仏合宗」とは仙道と仏道は根本において共通している、という考え方である。これは仙道、仏教ともに基本としているのは「自然の法則」であり、これを仙道では「道」、仏教では「法」と称している。そして「自然の法則」のままに生きれば人はストレスなく暮らして行くことができるわけで、そうした教えが仙道であり、仏教であるとしている。 釈迦が「法」を発見したのは、満たされない欲望への苦しみを自覚したことによる。そして欲望は人の生存欲から発するものであることを知った。それはあらゆるところに及び、尽きることがない。バラモン教などの呪術を使えば、その幾つかが満たされるかもしれないが、しかし、そうした方法を採っても欲望を満たし終わらせることはできない。そこで釈迦は欲望から解放されるには「自己完結」でなければならない、と思いついたのである。「欲しい」と思わなければ、あらゆる欲望に発するストレスはなくなってしまう。そこで欲望のストレスから離脱するには「あらゆるものは変化してしている」と思い込めば良いと気づいたのである。つまるところ釈迦は「欲望が成就しないのは、それが自然の理であるからであり、それは諦めるしかない」と考えたわけである。 一方、仙道では天地の動きを観察することで、そこに一定の「法則性」のあるのを見出した。これが「道」である。そして「あらゆることが自然の理によって生じているのであるから、それ以上のことを願っても仕方がない」と考えたのである。そうであるから「自然」のまま、具体的には「無為」であれば良いと教えている。仙道では仏教のように「どのようにして諦めるか」について語られることはない。諦めるように努力すること自体が「有為」であるからである。つまり諦めようと努力すること自体が「道」に外れた余計な行為であると考えたのである。仏教は「どのように諦めるか」を理論的に詰めようとした。そのために「空」であるとか「縁起」であるとかの精緻な論理を積み上げた。しかし結局はそれによっても「苦」からの完全なる解放を得ることはできなかった。結局のところ本来「苦」である人生に更に「苦」である修行を重ねることになってしまったのである。そうした有為の努力を拒否した仙道の方がシステムとしては優れているのかもしれない。 釈...

道徳武芸研究 「球」と「たま」〜孫禄堂と植芝盛平〜

  道徳武芸研究 「球」と「たま」〜孫禄堂と植芝盛平〜 孫禄堂は太極拳、形意拳、八卦拳を「球」に例えている。それは「皮球」「鉄球」「鉄糸球」であり、孫がそれぞれの拳をイメージしたものである。ただ太極拳は「皮球」に代表されるような柔らかさや浮遊感のあるものに限られているわけではない。こうしたイメージは孫が三拳を共通するものとして練習することを前提としている。孫はこれらをひとつのシステムとしてとらえていた。全てを「球」をベースにしているのは、そうしたためである。こうしたこともあって現在では孫の伝えた三拳を「孫家拳」と称 する。一方で、孫家拳においては、それぞれが特徴を失っていると批判されることもある。 近代中国では門派の閉鎖性の弊害が説かれていた。個々の門派が余りに秘密主義であったことが、あるべき発展を阻害したと考えられていたのである。これは中国における特に自然科学の未発達を前提としている。16世紀あたりまでは西洋を凌駕していた中国の科学文明は近代になると大きく立ち遅れていることがアヘン戦争などの軍事衝突によって明らかとなる。その結果、いろいろな分野で文化的な閉鎖性の打破が叫ばれるようになったのである。孫は武術における閉鎖性を打ち破る方途として先天と後天を考えた。確かに後天の肉体を用いて表現される「技」には、大きな差異があるが、それを成り立たせている内面の先天の「意識」にあっては等しく共通していると考えたのである。そしてそれは「動=技」ではなく「静=意識」であるとして孫家拳を編んだのであった。「静」を成り立たせるには「柔」である。また、それは「簡易」である必要もある。つまり孫のイメージしている「球」とは先天の世界である「意識」のレベルなのである。折口信夫は古代日本人は「魂(たま)」を「球」としてイメージしており、そのために霊魂を「たましい」と言うようになったとしている。これは「曲玉(まがたま 勾玉)」のイメージでもある。「曲玉」は「曲がり玉」であり、その「尾」の曲がった形状からして「曲玉」と称されるのであるが、曲がっているのは「運動」を示すもので「たま(魂)」が運動していることを表しているわけである。つまり「曲玉」は「運動する球=魂」のイメージなのであり「魂は運動している」のである。 孫の「球」のイメージと共通するものとして形意拳には「滾勁」がある。「滾勁」を唱...

丹道逍遥 文始真経(四符篇六〜十)静坐秘伝「心息相依法」

  丹道逍遥 文始真経(四符篇六〜十)静坐秘伝「心息相依法」 感情と呼吸とが深い関係にあることは言うまでもあるまい。極度な不安や喜びなどにより、呼吸は大きく乱れることがある。こうしたことから扱い難い感情や意識ではなく、呼吸を制御することで心を鎮めることが模索されている。 よく知られているのは禅宗の数息観(呼吸を一から十まで数えることを繰り返す)であろう。仏教で釈迦の頃の瞑想法とされるのが「安那般那(アナバンナ)」であるが、これは呼吸に意識を置くだけである。これはマインドフルネスを通して知られるようになって来た。こうした方法は呼吸だけを注視することで、かえって自ずから心が鎮まるという効果を用いようとしている(雑念を払おうとすると余計にいろいろな思いが浮かんでくる)。仙道では、こうした段階の呼吸を「凡息」とする。「凡息」の段階では心と息とはひとつにはなっていない。しかし、次第に心が鎮まるようになると「真息」へと近づいて行く。システム論的にいえば「凡息」から「真息」に入った時に数息観は不要となる。つまり数息観とは「雑念」に対して別の「雑念(息を数える)」を当てているに過ぎないからである。つまるところ数息観を続けている間は「真息」には至らないわけである。そうであるなら「安那般那」のように息を感じるだけである方が良いであろう。これであれば「真息」の入ると自ずと息を感じるという意識も消えて行く。 「真息」はまた「胎息」と称されるが、これは後天的な欲望によって乱された「凡息」となる生まれる前の「胎児の時の呼吸」であるということである。「真息」が生まれるのは「万境皆寂」「一念不生」「人法両空」とされる境地においてであるとされている。ちなみに「万境皆寂」は「全き静かな心の境地」である。また「一念不生」は「とらわれのある思いの生ずることのない境地」で、いろいろな想念はただ浮かんで消えるだけとなる。これは老子のいう「深淵」にニュアンスが近い。最後の「人法両空」は「自身の感覚にも、瞑想のテクニックにも、こだわらない境地」といえる。特にテクニックを用いる場合には適切にそれを捨てる時機を知らなければならない。 心と息とを合一させる方法としては他に呪文を用いるものがある。これには密教での真言、浄土宗での念仏がある。声に出して呪文を繰り返し唱えることで一定の集中状態に入ることができる。この...