姚姫伝『老子章義』(第三十九章から第四十四章)静坐と手印〜「静」から始める〜
姚姫伝『老子章義』(第三十九章から第四十四章)静坐と手印〜「静」から始める〜 静坐では特に決まった手印を使うことはないが叉手を用いるものが多いようである。一方、坐禅では法界定印を組むのが一般的である。また現代のヨーガでは智印(阿弥陀定印の変化)を用いていることが多い。これらの違いをいうならば中国系の静坐は掌心を自分の方に向けているのに対して、インド系の坐禅やヨーガは掌心を上にしている。掌心を上にすると、ややストレスが生まれる。こうしてストレスを生じさせることで、心にもストレスを生むのであるが、心身にストレスを生じさせる、とはどうしてであろうか。それは集中を促すためである。これに対して掌心を自分の方に向ける静坐のような手印はストレスがない。つまり静坐では集中を行わないわけである。 興味深いこのは臨済宗で白隠以降は叉手をも用いるようになったことである。本来、坐禅はヨーガに由来するから叉手を用いるのは意識のあり方として適当ではない。しかし坐禅は中国に入った仏教が中国化、道教化して生まれたものである。そうであるから坐禅は瞑想の観点からはインド系と中国系の二つが混じり合っていることになる。実際に坐禅をする人の印を見ると法界定印が崩れている場合も少なくない。これは意識の状態が、中国的なものに近づいて手印の変化を促した、と言うことができるであろう。 静坐では集中ではなく「凝」という境地に入る。これは自ずから意識が鎮まる境地である。坐禅では「雑念」を払って「無」になることを良しとするが、静坐では雑念という考え方はない。生きている限り何らかの思いは生じるというのが基本的なスタンスであり、いろいろな思いが起こっても、そのままただ見つめていれば良いとされる。これは『老子』第十五章にあるように、濁っている水は「静」をもって対すれば自ずから清らかになる、という教えのようにただ「静」であるだけで「濁=雑念」はあるべき状態に鎮まると考えるわけである。「何かをしようとするならしなければ良い」とは今回、紹介している「老子」の部分でも再三説かれている。何かをしようとするなら、先ずは「静」となって、自ずから「動」の生ずるのを待ち、その赴くままに行動する。これが老子の教えの基本であり、それを静坐ではその通りに実践して、結果としてあらゆる生活のシーンでそうした「静」から始める行動原則を身に着けよ...