丹道逍遥 文始真経(六 匕篇五一〜十)「静坐を学ぶとは」
丹道逍遥 文始真経(六 匕篇五一〜十)「静坐を学ぶとは」 静坐は人生修養の最も重要な基本であり、最高の学問でもある。あるいは静坐というと消極的であるような印象を受けるかもしれないが、これは極めて積極的なものである。つまり一見して具体的な生活に資することはないと思われ勝ちな静坐であるが、実際には役に立つこと計り知れないものがあるわけで、これを静坐の「大用(一見して「無用」に見えるが実が深いところで「実用」に通じている)」という。 諸葛孔明も「澹泊明志」「寧静致遠」ということを言っている。「澹泊明志」とは欲望にとらわれないでいないと(澹泊)、本当に自分のやりたいことも分からない、安らかで静かな心がなければ(寧静)、広い視野を持つことはできない、ということである。つまり、こうした「澹泊」「寧静」を養うには静坐をするのが一番なのである。明確で透徹した意識であることが物事を判断、実行する上で重要であることは言うまでもないことであろう。 昔から大事業家や大学問家、大思想家、大宗教家は、すべからく静坐に親しんでおり、その成功の鍵となっていた。達磨は九年間も静坐(坐禅)をしたというし、宋代の儒家は「半日静坐」を説いていた。道家もまた「坐丹神化(静坐をして「丹」を「神」へと変容させる)」を教えている。つまり静坐により心を静かにし(制心)、外的な事柄に振り回されることなく(治心)、自分自身の考えを養う(養心)」ようにすれば、自己の隠れた能力を見出したり、活力が得られたりするのである。 (以上は、蕭天石『道海玄微』所収の「静の瞑想は徳を養い実生活にも役立つ」の抄訳である。 「坐丹神化」は別には「還精補脳」とも称されるが、エネルギーを無闇に浪費させないで「脳」へと送ることで意識の働きを活性化させ得るとする静坐の教えである) 文始真経 ここで述べられていることはiPS細胞(人工多能性幹細胞)と同じような発想のものである。あらゆる物質の根源は同じであるとするのは、荘子の「万物斉同」にも通じる平等思想のもとである。そこまで行かなくても、どのような地位にある人も「人」であることにおいては万人は等しい。特別な「人」などあり得ない、と道家では教えている。 (五) 関尹子が曰れた。 形あるものは、 分けることもできるし、合わせることもできる。 延ばすこともできるし、隠すこともできる。 一...