道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」〜「合気投げ」を考える〜
道徳武芸研究 矛盾する「愛の武道」〜「合気投げ」を考える〜 合気道・開祖の植芝盛平は「合気道は愛の武道」と称していた。しかし実際に教えられている合気道は柔道などと同じく相手を制圧する技法である。合気道の中核となる団体の合気会では「愛の武道」ということもあり「試合をしない」を鉄則としている。しかし合気道を教える団体の中には積極的に試合を行っているものもある。こうした団体で教えていることと、合気会などの試合を行わない会派で教えていることに基本的には大差はない。そうなると「愛の武道」というのは単なる「空念仏(からねんぶつ)」ということになってしまう。一方では「自分を倒しに来た人と友達になるのが合気道」とする指導者も居るが、どうすればそのようなことができるのか、は明確ではない。また「街中で金を出せ、と脅されたら、合気道の技を使って戦うことなく、金を出します」と言う指導者も居る。しかし、そうであるなら合気道を練習する意味がなくなってしまう。ここで問題とするには「合気道にはシステム上『愛の武道』に通じるものがあるのではないか」という視点であり、それを考える上で幻の技でもある「合気投げ」を鍵としている。 合気道では呼吸力、呼吸投げは、よく言われ教えられているが、合気投げについてはほとんど語られることもないし「合気投げ」とされる技法も一定していない。かつて植芝吉祥丸は『合気道』(講談社)で、わずかな体の変更だけで投げる技のような紹介をしていたが、合気投げと呼吸投げの術理上の区別は明らかではない。合気道における合気投げは、大東流の「合気」を使って投げる技とは違っている。大東流では「合気」を使っての崩しを使うものが合気柔術、そうでないものは柔術として区別する。一方、合気道における合気投げは呼吸投げの上位にあるものと見なされている。植芝盛平は「合気」は「引力」であり、呼吸力の根源にある働きとする。つまり「合気」を武術的に展開したのが呼吸力であり、それを用いた投げ技が呼吸投げということになるわけである。 植芝盛平は『武産合気』で「合気の稽古は止めました」と述べている。これは岩間で霊体と稽古をしていた時のことである。その間、いまだ相手(霊体)や自分が意識の中で存している最後に感じたのは「呼吸」であったとする。そして自他が共に消えた時に相手に合わせるという意味での「合気」の稽古は止...