丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇十一〜十四)静坐秘伝「存想谷神法」
丹道逍遥 文始真経(五 鑑篇十一〜十四)静坐秘伝「存想谷神法」 ここに「存想」とあるがイメージを用いるのではない。これは「本心」のあることを観じることに尽きる。「本心」とは「本来の心」のことであり、これを「性」と称する。孟子は「大人は、赤子の心を失わざるものなり」としているこの「赤子の心」というのが「性」である。これを開くには虚無でなければならない。老子は第六章で「谷神」に触れているが、これを「天地の根」と称することを紹介している。そしてそれが活動している状況を「綿綿」と形容する。柔らかで、有るようでもあるし、無いようでもある、ということである。それは静坐をしていて自ずから心が定まることであり、これはまた「玄関」が開くことでもある。「玄関」は老子のいう「玄牝の門」と同じで、これらは全て「性」が開くことを言っている。太極拳の動きの秘訣である「綿綿不断」は単に「柔らかく、途切れなく」動くというだけではなく「性」が開いて心身が「自然」なあるべき状態にあって動いている、ということでなければならない。こうした状況に入るには強いて集中したりするようなことは好ましくない。 (参考 蕭天石『道海玄微』) 文始真経 人の心の働きの根本にあるのは「性」である。儒教で「性」は善なるものであるとされ、道教では太虚であると教える。文始真経は、どちらかと言えば「太虚」の方のニュアンスが強い。心と「性」との関係はインドでは「真我アートマン」と「梵ブラフマー」との関係に似ている。これはインドでは自己の中に「真我」があるのであるが、それが正常に働いていないのが「我」である。「我」は欲望に惑わされたりして誤った判断を下していると考えるわけである。そうした中で「我」が「梵」と一体となった時に「真我」が顕現することになる。心身が正常な状態でない時「真我」は自分の中に隠れているとされる。一方「性」は隠れているのではなく、心と共に常に働いている。そうであるからこれを善とすると、自己の欲望によって不適切な判断を下すことの説明ができなくなると考えた儒者も居たが、そうした場合にも人は自己正当化をしないでは居られない。こうなれば、やはり「性」は善であるのではないかと思われる。「性」の善は普遍的なものであるが、心の善は普遍的なものであることもあ...