丹道逍遥 文始真経(三極篇十一〜十五)静坐秘伝「一霊独覚法」
丹道逍遥 文始真経(三極篇十一〜十五)静坐秘伝「一霊独覚法」 静坐に入ろうとしても、なかなか「静」を得るのは難しいと感じるものである。それに「静」は得ようとして得られるものでもない、ということがある。「静」は単なる「集中」とも異なっている。無念無想というのではなく、なんとなく安定した精神状態にある、ということである。 今回、説明しようとしている「一霊独覚」法は、一般的には「煉己」と称される。これは内的な「本来の我」を見出して安定した状態への入口を見い出す、ということでもある。これは仏教で「慈悲の心」が発現した状態が瞑想への入口とするのと同じである。仙道では自己の内面を見つめる体験を瞑想への第一歩とする。自己の内面へのアプローチを可能にするのが「良知」の発現である。自己の内面との対話ができるようになった時に「良知」は開かれている。「良知」を重視したのは孟子で、王陽明はさらに「致良知」を言う。これは孟子は「良知」へのアプローチを言ったのであり、王陽明はそれによる行動を「致良知」としたのである。「良知」が得られれば、それによる行動は自ずから為されると考えるのが孟子で、あえて「致良知」を言うことはしなかった。しかし、行動を特に重視する陽明学では殊更に行動を強調するために「良知」を致(いた)す、つまり「良知」による行動に注意を向けさせようとしたわけである。これは老子では「道」を感得して、それによって行動するのが「徳」ということになる。 また孔子は「慎独」を教えていた。「慎独」は「良知」を得るための具体的な方法である。「独(ひとり)」にあって「慎(つつし)」む、それはつまりは内面を見つめるということである。同じことを陽明学では「敬(つつしみ)」とする。世俗の判断ではなく「道」に通じる内的な普遍的判断によって行動するということである。陽明学の「敬」は中国語では「ジン」であり「静(ジン)」に通じている。中国人であれば「敬」をイメージすれば「ジン」の連想で「静」が思い浮かんで来ることになる。ちなみに「慎」は「チン」であるが意味としては「つつしみ」で「敬」と同じである。つまり陽明学で「敬」を提唱したのは「慎」にも「静」にも通じるからである。儒教の瞑想である静坐では、これを「敬」字訣と称する。 「一霊」の「一」は「道」のことである。「霊」は「心」であるから、心が道と一体となる...