鄭環『老子本義』(六章 七章)「オカルトの古代」と「古代のオカルト」〜自由思考としての「オカルト学〜
鄭環『老子本義』(六章 七章)「オカルトの古代」と「古代のオカルト」〜自由思考としての「オカルト学〜 オカルト的な考え方は荒唐無稽なことのように思われているが、そうした「オカルト」の特色を「自由思考」として捉えて自由に考えるためのツールとして使えるのではないか、というのが、ここで述べようとしていることである。我々は考えるだけならどこにあっても自由に考えることはできる。しかし自らが「常識」とされること等によって自由を放棄してしまっていることがある。そうした状況から逃れる思考実験として「オカルト」は実に興味深いものを持っている。 例えば、アカデミズムは「権威」のあるものであるが、そこには一定の論理展開の方法があり、それによらなければ評価を受けることはできない。しかし歴史を鑑みればアカデミズムなるものが多く間違って来たことも事実である。そうであるならアカデミズムに「一定の評価」が与えられるとすれば(世間では往々にして「全幅の評価」が与えられているが)、オカルト学にも「一定の評価」をしても良いのではないかと思われるわけである。 ここでは古代史に関するオカルトについて述べようとしている。つまり「オカルトの古代」と「古代のオカルト」なのであるが「オカルトの古代」とは「古史古伝」のような実際には存在しない「古代」のことで、そこで展開されているのは実在の古代ではなく「古史古伝」が偽作された近現代の思想である。これに対して「古代のオカルト」は、考古遺物や遺跡を「宇宙人が作った」などの独特な解釈をするもので、よく知られている人物にデニケンなども居る。こうした「古代のオカルト」には世界に関心を持つ人が居る。デニケンの唱えるような「宇宙人説」は陰謀論と同じで、論理展開としてはかなり単純なものとなる。それは全てが「宇宙人説」で解決してしまうからである。一方、シュタイナーのようにアカシックレコードやムー、アトランティスなどの「概念」を使うと、これらは等しく霊的な世界に実存したことなので等しくそれらの関連を見出さなければならず、複雑な論理の展開が可能となる。オカルト学としてはシュタイナーの方が、いろいろな「抜け出し口」が提示されていて、おもしろいといえよう。オカルト学は複合的な視点で論理が展開されればされる程、一定の「権威」のとらわれから逸脱することが可能となるのである(神智学協会で...