道徳武芸研究 演武と表演、観摩
道徳武芸研究 演武と表演、観摩 最近、SNSなどで合気道の演武の動画を見て「技がきれいに掛かりすぎている。八百長ではないか」などという疑問が出されているとも聞く。しかし、これは論理矛盾である。およそ演武では「技」を最もあるべき形で提示するのであるから、ことに掛けやすいようにするのは当然のことであろう。「掛けやすい」というのは対応する技の条件を正しく整える、ということでもある。正面から打って来る攻撃に対する技を行う場合に、少しでも動きがズレてしまったのでは本来、示そうとする技を崩して応用的な動きをしなければならなくなってしまう。そうなると「正面打ち」の演武としては適当性を欠くことになる。これは科学の実験でも同様で、不適切な条件が加わってしまうと、期待されるべき結果に導けなくなる。これと演武での条件設定は同じことである。 近代以前の武術は秘密にされており、その動きが他に見られることには、ひじょうに警戒をしていた。道場の窓も格子窓で外から見えないようにしていたくらいである。現代では一部の道場は通りに面したところを宣伝もあってガラス張りにするなどの傾向も見られるようである。武術に対する人々の意識も大きく変化して来ているのであろう。近世あたりでも演武が行われることはあったらしいが、その時には演武用の形を見せていた。居合では三宝の上に藁束を横にして、それを八分くらい切って、真ん中を残したまま藁束を左右に落とす。それを富士山に見立てる。こうした演武は今でも時に見ることがある。また水練では立ち泳ぎで文字を書くなども、通常の稽古にはない演武用の形である。柔術では諸賞流に演武用の形があり、現在でも演武会でそうした形が演じられている。また柔道では古式の形なども演武用の形といえるであろう。このように演武は実際の稽古とは異なる「見せる」ことを目的としている。また往々にして「本当の動き」は見せないようにされているケースもある。「演武」に「本物」だけを期待する風潮が現在あるとすれば、武術というものの秘伝性を大きく誤解していると言わねばなるまい。 ただ「演武」に「本物」を求める人が居るのは「演武」という語が「見せる」ためのものという以外に「稽古拝見」や「看取り稽古」といった側面があるからでもあろう。これが誤解の元となっている。「稽古拝見」は主として剣道で使われる語で、必ずしも一般的では...