鄭環『老子本義』(四章 五章)一字金輪像とアマテラスの秘法
鄭環『老子本義』(四章 五章)一字金輪像とアマテラスの秘法 東寺では余りに力が強すぎて長者のみが修法を許されている「最深秘奥」の法があったという。それが一字金輪像を用いる修法であった。この法を修すると既に行っていた他の法が全て無力化されてしまうともされる。一字金輪の秘図は現在では「文化財」として容易に見ることができるが、それは月輪の中に金剛界の大日如来の居るものである。これは、この法が月輪観をベースにする法であることを示している。月輪観は、その次に月の中に「ア」字を観ずる阿字観へと深められる。これを「バン」と観ずれば金剛界の大日如来となる。月輪の中に大日如来が居る形は、月が太陽の光で照らされている状況を示すものである。こうした「照らす、照らされる」の関係が、まさに古代の天照大神の信仰そのものであることは、ひじょうに興味深いことであろう。一字金輪像の法が修されるようになる中世は、仏教の中に神道的なものが大きく融合した時期でもあった。密教の修行者が修法を通して自己の内面と向き合うことで、意識の奥底にある「神道」的なものと出会うことになる時期が中世なのである。 天照大神は「あまてらす」なのか「あまてる」なのか読み方が判然としない。これは『古事記』や『日本書紀』に読み方が記されていないのが原因であるが、古代においては余りに周知のことであったので、特にそうしたものを書き残そうとは思わなかったのであろう(一部の難読と思われる神名には読み方が示されているものもある)これが今となってはかえって災いしている。もし、これが「あまてる」なら「天が光って照らしている」ということになる。「天」は「太陽」そのものとはしがたいので、これでは意味がとれない。一方「あまてらす」なら「あまを照らす」であるから、この時の「あま」は「天」ではなく「海」とされる。つまり「あまてらす」は「海を照らす」神なのである。ただ、この信仰が広がると海の近くだけではなく内陸部にも及ぶことになる。そうなると「海」に代わって「照らされるもの」が必要となる。ここで日本人が発見したのは大陸から渡来した「鏡」であった。鏡に太陽光を反射させることで、その司祭者は天照大神を祀ることのできる者となったのである。『魏志倭人伝』には卑弥呼が銅鏡100枚を得たとある。このように大陸から得られる鏡は天照大神祭祀では欠くことのできない...