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姚姫伝『老子章義』(第四十三章から第四十四章)誤伝された「知」の体系〜求聞持法〜

  姚姫伝『老子章義』(第四十三章から第四十四章)誤伝された「知」の体系〜求聞持法〜 秘教的な「知」の修行法としては空海も修行した求聞持法が知られているが、これについては「記憶力を高める行法」であるとの誤解がある。その発端となったのは空海の『三教指帰』で、空海は求聞持法について「この真言を百万遍、誦(じゅ)すれば、すなわち一切の教法、文義を暗記することを得る(誦此真言百万遍。即得一切教法文義暗記)」としている。ここで「暗記」の語が出て来ることから求聞持法を修することで超絶的な「暗記」能力が偉えると思われるようになったわけである。 しかし「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」では「一に経、耳目すれば文義ともに解し、これを心に記して、永く遺忘すること無し(一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘)」とある。つまり一度(ひとたび)、経文を聞いたり、見たりすることができれば、その内容を理解して、それを心に記して、永遠に忘れることはない」というのであって、経文そのものを暗記するとは全く書かれていない。つまり求聞持法の経典と空海の言うところを重ね合わせて見ると「暗記」の意味が現在の日本でのそれと違っていて、空海は「暗(くら)き記し」つまり「秘教的なシンボル」として理解することができるとしていることが分かるのである。「記」とは「しるし」「記号」のことであるから、それは経文そのものではなく何らかの象徴的なこと、つまり「空」のシンボルとして心に刻まれるという意味と解するべきなのである。そうであるから空海はこれを修して明星が口の中に入るという釈迦の悟りと同じ体験をしたことを『三教指帰』に記しているわけであり所謂、記憶能力としての「暗記」については何ら触れることがないわけなのである。つまり求聞持法は「暗記」とは全く別の「知」の体系を開く方法であったわけである。また、その本尊が「虚空」とあるのも意味があろう。何ら文字や言語、形にも表すことのできない「知」の体系を「虚空」という語は示しているのである。 老子は「家の中に居て天下のことを広く知っている。戸の内にあって天の道に触れている」という当時の格言と思われることを引用している。これも瞑想により得られる秘教的な叡智のあることを教えるものなのである。老子の集団もまたそのような瞑想をベースとしていたことは、老子の述べるいろいろな言葉の端から...

道徳武芸研究 なぜ孫派八卦掌には単換掌、双換掌がないのか〜システムとしての走圏〜

  道徳武芸研究 なぜ孫派八卦掌には単換掌、双換掌がないのか〜システムとしての走圏〜 八卦拳の拳訣で「百練は一走に如かず」は、よく知られていることであろう。これは円周上を歩く「走圏」が八卦拳(八卦掌)の練習において第一に重要であることを教えるものである。ただ、このことが八卦拳において単換掌式として明確に位置付けられているのを知る人は殆ど居ないのではなかろうか。 八卦拳において単換掌や双換掌、上下換掌などの「掌」は「掌式」を表現した動きなのである。掌式によれば現在の八卦掌の単換掌や双換掌、上下換掌を始め全ての動きは双換掌式に属することになる。つまり双換掌などは双換掌式になるのであるが、単換掌は単換掌式ではないのである。こうしたことを解消するために孫派では他派で単換掌、双換掌とされている動きを両儀、四象としているのではないかと思われるわけである。おそらく孫禄堂は何らかの掌式に関する情報を得ていたのであろう。そのために、このような特異な体系を構築したものと思われるわけである。 単換掌式は、ただ前に出している左右の腕を入れ替えることで左転、右転を転ずるだけのものである。一般的な単換掌はただ左右の腕を入れ替えるだけではない。いくつかの動作を加えている。そうなるとこれは双換掌式となってしまう。こうしたことに関して孫禄堂がある程度の情報を得ていたと思われるのは『八卦拳学』の第五章に「八卦拳、左右旋転と左右穿掌の区別」とする一章のあることでも分かる。つまり穿掌とは腕を出す動作のことなのであるが、ここでは左旋転、右旋転と左右の穿掌とが密接な関係にあることが説かれている。ただ孫禄堂は右旋転、左旋転があり、そこには右穿掌、左穿掌があるように述べているだけで、穿掌が単なる走圏時の構えなのか、左右を入れ替える動きなのかは明確ではないように思われる。しかし穿掌とあるのは腕を伸ばす「穿」ということを強調しているのであるから、単に構えではなく腕を伸ばすことで左右の旋転(走圏)を入れ替えるものと理解するべきであろう。ただ単換掌式であるべき両儀も孫派では「青龍縮尾」「青龍返首」を経て左右を入れ替えているので、これは双換掌式になっている。おそらく孫は実際の単換掌式の動きは知らなかったのであろう。しかし孫の学んだ程派の単換掌は単換掌式ではないことだけは分かったので、これを単換掌式を連想させる単換掌...

丹道逍遥 文始真経(三極篇四〜十)仙道とチベット密教

  丹道逍遥 文始真経(三極篇四〜十)仙道とチベット密教 仙道の瞑想法として最も知られているのは小周天であろう。これが有名になったのは、許進忠の『築基参証』による。勿論それ以外にも小周天は仙道関係の本に記されてはいたが、同書は一般にも分かりやすく書かれていたので広く読まれたようである。また仙道の瞑想法としては、ユングの心理学を通して「陽神」などが特色あるものとして知られてもいる。陽神は瞑想に熟達して純粋な陽気が開かれるようになると、それを「嬰児」のようなものとして育てる、とするもので、これは西洋の錬金術のホムンクルスともイメージ的に重なるものがある。ユングはこうした交流のないところで共通するイメージが見出されることを重視していたが、陽神が記されているのは『太乙金華宗旨』で、これが『黄金の華の秘密』として紹介されたわけである。 陽神を得る瞑想の前提となるのが小周天である。小周天などにより純粋なる陽気を得なければ陽神を作ることはできないとされるのであるが、これらは何ら実態のあるものではなく、全てがイメージによって作られている。そうであるから最終的には陽神も虚空と一体となって消えてしまう。こうした瞑想法は仙道では中乗(’中級レベル)とされている。無為自然を前提とする仙道にあっては、あまりに意図的であるからである。そうであるなら仙道からすれば異質ともいうべきこうしたイメージを使う瞑想法が何処から来たのか、ということになる。それはチベット密教からなのである。清朝は満州族の建てた王朝であり、そうした中国の北方ではチベット系の密教が盛んであった。それが中国にも流入して来て、さまざまな影響を及ぼしていたわけである。 密教ではイメージを多用する。つまり仏をイメージすることで仏と一体となれる、と考えるのであるが、こうした方法は仏教にはなくバラモン教に由来する技法であった。小周天や陽神のことを詳細に説明している『性命法訣明指』には体の中に「オム・マニ・ペメ・フム」をイメージする方法が記されている。これを見てもチベット密教からの影響は明らかといえるのである。 以下にあるように、この世には「本質には色もないし、形もない」(四)のであるが、色や形があると思えるのは「全ては人の意識によっている」(五)のである。小周天をすれば体の中の脈(ルート)を陽気が通るような感覚を確かに得ることができ...

道徳武芸研究 截拳道とクリシュナムルティと〜形式からの自由〜

  道徳武芸研究 截拳道とクリシュナムルティと〜形式からの自由〜 時に「太極拳は実戦に使えるのか」であるとか「現代空手の突きは有効か」などと疑問を持つ人も居るが、不思議でならない。そうであるなら適当に改良を加えれば良いだけのことである。それが出来ないのは、その人が何らかのとらわれなくても良いものにとらわれているからではないか、と思われる。そうした思い込みからの脱出の方法としてブルース・リーは截拳道という優れた体系を考えていた。ただ現在において、その思想的な枠組みは充分には機能していないが。 ブルース・リーの提唱した截拳道で特に見るべきは「概念(コンセプト)」ということが意識された点であろう。現在、截拳道には、コンセプト派とオリジナル派があるとされている。コンセプト派は截拳道のコンセプトを基にブルース・リーの教えていた技にとらわれない独自の技術体系を立てることを良しとする。一方のオリジナル派は比較的ブルース・リーの教えていた技に近いものを中心としている。本来、截拳道は、決められた技を習うのではなく、自由に技を選ぶことができる体系である。その意味では本来の截拳道に近いのはコンセプト派であるということができよう。 そうであるから截拳道を限定して言うなら、それは「截拳道コンセプト」であり何ら実態を持たないものでなければならない。あえて言うならブルース・リーが教えていた武術技法は「振藩拳法」とするべきであろう(振藩はブルース・リーの本名である李振藩による)。ただ、こうした截拳道(概念)と振藩拳法(武技)との違いを明確にし得ないままブルース・リーは亡くなってしまった。コンセプト派とオリジナル派の差異は武技の「伝承」の違いにあるように思われているが、本質的にはそこにブルース・リーという「権威」の否定が根底になければならない。盲目的にブルース・リーの概念でも技法でもを受け継ぐのは截拳道ではなく、自分で考え、吟味をして、全く「白紙の状態」から伝承を捉え直さなければならないというのが、截拳道の教えである。つまり截拳道とは個々人が「権威」によらず独自に表明されるべきものなのである。そこで欠くことができないのは「概念」と「武技」の分離である。 ただ、こうした考え方はブルース・リー独自のものではない。中国武術には広く見られてもいる。例えば太極拳は「概念」であり、楊家太極拳は「武技」で...

姚姫伝『老子章義』(第三十九章から第四十二章)静坐と手印〜「静」から始める〜

  姚姫伝『老子章義』(第三十九章から第四十二章)静坐と手印〜「静」から始める〜 静坐では特に決まった手印を使うことはないが叉手を用いるものが多いようである。一方、坐禅では法界定印を組むのが一般的である。また現代のヨーガでは智印(阿弥陀定印の変化)を用いていることが多い。これらの違いをいうならば中国系の静坐は掌心を自分の方に向けているのに対して、インド系の坐禅やヨーガは掌心を上にしている。掌心を上にすると、ややストレスが生まれる。こうしてストレスを生じさせることで、心にもストレスを生むのであるが、心身にストレスを生じさせる、とはどうしてであろうか。それは集中を促すためである。これに対して掌心を自分の方に向ける静坐のような手印はストレスがない。つまり静坐では集中を行わないわけである。 興味深いこのは臨済宗で白隠以降は叉手をも用いるようになったことである。本来、坐禅はヨーガに由来するから叉手を用いるのは意識のあり方として適当ではない。しかし坐禅は中国に入った仏教が中国化、道教化して生まれたものである。そうであるから坐禅は瞑想の観点からはインド系と中国系の二つが混じり合っていることになる。実際に坐禅をする人の印を見ると法界定印が崩れている場合も少なくない。これは意識の状態が、中国的なものに近づいて手印の変化を促した、と言うことができるであろう。 静坐では集中ではなく「凝」という境地に入る。これは自ずから意識が鎮まる境地である。坐禅では「雑念」を払って「無」になることを良しとするが、静坐では雑念という考え方はない。生きている限り何らかの思いは生じるというのが基本的なスタンスであり、いろいろな思いが起こっても、そのままただ見つめていれば良いとされる。これは『老子』第十五章にあるように、濁っている水は「静」をもって対すれば自ずから清らかになる、という教えのようにただ「静」であるだけで「濁=雑念」はあるべき状態に鎮まると考えるわけである。「何かをしようとするならしなければ良い」とは今回、紹介している「老子」の部分でも再三説かれている。何かをしようとするなら、先ずは「静」となって、自ずから「動」の生ずるのを待ち、その赴くままに行動する。これが老子の教えの基本であり、それを静坐ではその通りに実践して、結果としてあらゆる生活のシーンでそうした「静」から始める行動原則を身に着けよ...

道徳武芸研究 太極拳の奥義「慢練」

  道徳武芸研究 太極拳の奥義「慢練」 「慢練」とは、単純な意味をして言うならば「ゆっくり練習する」ということであるが、こうしたことは初心の段階ではどのような運動技術の習得においても見ることのできることである。しかし、太極拳であえて「慢練」という語があるのは、ただ「ゆっくり練習する」ということ以上の意味があるからに他ならない。 中国武術では攻防において「意」と「気」の二つの要素があると考える。「意」とは意識のことであり、これは「将軍」に例えられる。一方の「気」は肉体のことで、これは「兵卒」とされる。つまり肉体は意識によって動かされているということであるが、意のままに身体が動かないのは実戦のように突発的な対応を求められる時には往々にしてあることである。実戦はルールがないので何が起こるか分からない。そうした時に驚かされて「意」の働きを止められてしまうと、いくら身体を鍛えていても全くそれを使うことができなくなってしまう。またこれは相手の「意」を制してしまえば実際の打ち合いの起こる前にそれを止めることが可能となるということでもある。 「慢練」は「意」と「気」の統合を深めるためにひじょうに有効であることにおいて見出された練習法なのである。それでは具体的に「意」と「気」を統合させるにはどうしたら良いのか。それは感覚(意)で動き(気)を詳細に捉えることである。内的な目で自己の動きの詳細をできるだけ細かく把握することである。そうした感覚を養うことで、例え「意」と「気」が威嚇などによって分離をしても、すぐに修復できるようになるし、威嚇そのものが通じなくなってしまう。それは相手の「意」の働きがよく把握できるからである。ボクシングなどでは動体視力といって相手の動き、つまり肉体の動きを視覚で捉えようとするが、中国や日本の武術の中には感覚全般を観る(過度に集中しない)のが良いとされて「相手の全体をなんとなく眺める」のが目付けの秘訣とする派もある。そうしたシステムでは相手を倒すだけではなく、争いを回避する方法をも視野に入れている。 少林拳では「眼神」が重んじられ、集中した目つきが求められるが、これは攻撃型の方法で、ここにおいて「意」と「気」は攻防に集中される。これに対して太極拳などは自然な目つきが求められる。それは「意」と「気」の集中ではなく統合を良しとするからに他ならない。「意」と「...

丹道逍遥 文始真経(二柱篇 十一〜十三 三極篇一〜三)「静」と大同

  丹道逍遥 文始真経(二柱篇 十一〜十三 三極篇一〜三)「静」と大同 ここでは「大同」思想について説かれている。「大同」とは『礼記』(礼運篇)にある古代のユートピア思想である。「大同」の世では人々が互いに助け合い、邪な心を抱くこともない。そうであるから家に鍵を掛ける必要もない、とする。『文始真経』では「大同」の世の実現に外的と内的とがあるとしているが、大体において外的なアプローチを考えるのが儒教で、内的なそれを重んじるのが道教である。儒教では聖なる王が出て統治をすれば「大同」の世が実現される、と考える。一方、道教では人々が人の本来の心の在り方である「静」を自覚すれば自ずから「大同」の世となる、と教える。 こうしたことを『清浄経』では「人の心は静を好むものである。しかし欲望に引かれてしまっている。そうであるから常に欲望に捕らわれることが無ければ、心は自ずから静となるのであり、そうなれば心が澄んで来るので意識も清らかになる」としている。つまり人が「清らかな意識」を持つようになれば自ずから「大同」の世は実現されるわけである。その根源である「静」は誰でも持っているのであるが、それが実現されないのは欲望に迷わされているからに他ならない。こうした現実をよく知ることができれば、心は自ずから「静」となるのである。 劉宗周の「静坐説」には「目を閉じたり、聞こえてくる音に心が動かされないようにしたり(して集中しようとすることも)、足を組んだり、息を数えて(心を乱さないようにすることも)、師匠に自分の心の境地を指導してもらうことも必要ないのであり、ただ日常生活の中に『静』を求めれば良いのである」としている。それを「行住坐臥、すべてに静を観じる」とも述べている。あらゆる生活のシーンで「静」のあることを感じよう(イメージしよう)とするわけである。そして、それを得ることで自身の内に「大同」の世界観が開け、最終的には社会全体に「大同」の理想が実現されるようになるのである。 (十一) 関尹子が曰われた。 五種類の雲の変化により、その年の豊凶を占うことができる。 八種類の風の向きによって、その日の吉凶を占うことができる。 こうしたことからは吉凶や休や災害、幸運が、 一なる気の働きによって生じていることが分かる。 これは人間関係でも同じで、あらゆることは全ての関わりの中で生じているのであり、...