姚姫伝『老子章義』(第二十九章から第三十二章)『老子』と『道徳経』
姚姫伝『老子章義』(第二十九章から第三十二章)『老子』と『道徳経』 今回あるように姚姫伝は『老子』の第三十二章の終わりに第四十四章の最後の部分から第四十五章を続けるべきとしている。これは本来、姚が『老子』の章を立てる編集を適当としない観点によっている。そうしたこともあって第四十四章の終わりに「情報を得すぎないようにすれば間違うこともない。そうであれば長く安定した状態を保つことができる(坐不殆、可以長久)」とあるところを、第三十二章の「こうしたこが分かれば失敗の恐れはないであろう(夫亦将知止知止所以不殆)」に続けることが思いつかれたのであろう。ただ、こうした内容の類似は他でも多くある。姚の『老子』の編集が不十分である、との考えも間違いではないが、あえてあまり手を食わない方が老子の語りをよく知ることができるのではなかろうか。 『老子』という書名も老子の教えを集めたものであるところから、そう言われているだけであって、道教では『道徳経』と称している。これは上篇が「道」のことから語り始められ、後篇が「徳」から語り始められているからであるが、必ずしも前篇が主として「道」に就いて述べているということも、後篇が「徳」を専ら説いているということもない。現在も発掘で古い古典の「原文」が見出されているので『老子』もより古い形のテキストのあることが確認されるかもしれない。そうなると今日とは違った『老子』が原形であったということもあるかもしれない。 「道」は原理・道理であり老子は、この世は一定の原理・道理で動いていると考える。そうした合理的な原理・道理によって行動するのが「徳」である。それは自然と同じく動くことであり、無為自然であることであるわけである。「徳」は「ぎょうにんべん」に「目」と「心」からできている。「目」と「心」とは「認識」を示している。人が物事を認識するのは目で見て、心でそれを意味付けることによっている。「ぎょうにんべん」とは「人の行動」を意味している。つまり「徳」とは「認識(行為)」のことなのである。つまるところ「道徳」とは「原理を認識して行動する」ことなのである。 姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注) 天下を取ろうとするならば、それをあえて行なおうとしてはならない。私は天下を取るのはそうである必然性がある人だけであると見ている。天下は「神器」である。あ...