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道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(2)

  道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(2) 競技化により「引手」を中心とする強引な崩しが欠くことのできないものとなることは、嘉納も予想していなかったようで、これには苦慮していたらしい。そこで強引な崩しのない合気道にその解決の方途を求めようとしたのであった。嘉納は講道館から後に合気道の指導者ともなる望月稔などを派遣して植芝盛平に師事させた。こうした状況の頃に主体となって動いたのが三船久蔵である。三船は合気道からヒントを得て「空気投げ=隅落」を考案したが、これにおいてもかなり強い引手が用いられている。嘉納自身も柔道のシステムが変更されていることの理由に充分な認識を持ってはいなかった。そのために柔道と合気道が別のシステムであることの理由にまでは理解が及ばなかったようである。ただ結果として柔道が攻撃型となることは、他の柔術と試合を主導的に、つまり優位に進めることができることにもなったこともあり、柔道そのものに何らかの矛盾点を見出そうとする人も居なくなって行ったようである。柔道には古式の形として起倒流に由来するとされる形があるが、それは全く防御型であることからも本来の柔術が防御型であったことが分かる。およそ「柔(やわら)」が、強引な力を使わないで技を行い得るのは、相手の攻撃して来る力を使うからに他ならない。

道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(1)

  道徳武芸研究 柔術から柔道へ〜変容したシステム〜(1) 柔術は「武術」であり、柔道は「スポーツ」である。嘉納治五郎は柔道を国民体育と位置づけてもいた。はたして武術のスポーツ化とは一体どのようなものであったのであろうか。その大前提となるのは競技化である。嘉納が武術のスポーツ化のベースとして競技化を考えていたことは間違いあるまい。そのために柔術の危険な技や時代に合わない技(帯刀を前提としているような技)を整理したとされている。そして、重要なことは、その本質においても武術からスポーツへの大きな変容が為されたことである。つまり、それは防御型のシステムから攻撃型への転換があったことである。本来、柔術は相手の攻撃を受けて、それに対処するためにシステムが組み立てられていた。しかし、相手の攻撃を待っていたのでは「試合」にならないので、従来の防御型のシステムを攻撃型へと変更させたのであった。具体的には相手の攻撃の力を受けて技を行うのではなく、強引に崩して技を仕掛けなければならなくなったわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(44ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー7) 常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる。 ここまででは「名誉(名)」を貪ること、「財産(貨)」を貪ること、そして過度な執着、過度の所有について述べられているが、これらにおいては、すべからく「一定の満足感」が持たれることがない。そうであるから満足感が得られないのは過度な貪りの害とすることができよう。ここでは「常に一定の満足感を持つこと(知足)で、社会的な失敗(辱)をすることがなくなる」とある。「知足」とは天が与えてくれた使命(天命)を楽しむことである。その正しきを受け入れて、決して過度な貪愛の思いを抱くことなく、無欲、無為であること、これがつまりは「知足」なのである。そうであるから「知足」の人は、過度に美しい衣服などを求めることなく、ただ衣服は体を温めることができれば良いとする。食べ物にあっても、過度な美味を追求することなく、ただ粗食で足りるとする。見たり聞いたり、言ったり、行動したりすることにおいても、適性な範囲に留まるように自分を制する。そうしていれば、身は安全であり、道のままに生きることができる。世俗にとらわれることなく、心配や困惑を抱くこともない。それはどうしてか。「知足」であればもともとが、社会的な失敗をすることがないからである。強引なことをしないので、無理が生まれることもない。社会的な失敗とは、天がその行為が正しいかどうかを判断した結果である。それは自分が如何に行動したかにかかっている。もし、天命のままに行動していれば失敗したとされることも最後にはそれが正しいことが分かるものである。 〈奥義伝開〉この章で老子はひとつのことを内と外とで説明をしている。「知足」は内的な満足感であり、「知止」は外的な行為である。老子は結果について執着をしないので、それをそのままに受け入れる。これが「知足」である。もし、改善点などがあれば、それはまた次の段階のこととする。「社会的な失敗」がないというのは、失敗と認識しないからである。松下幸之助は「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければそれは成功になる」と言っていたようであるが、まさにそうした考え方を老子は教えている。さらにこれを老子的に言うならば「 失敗したところでやめてしまうから失敗になる。それに構わず続ければ...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー6) 多く持ったならば、必ず手放す時のダメージは大きくなる。 「極端なこだわり」があれば、多大な浪費をしてしまう可能性がある。多くのものを有していると、それによってかえって身を滅ぼすこともある。人は天地の間に生まれて、どのような行為も、それのあるべきが決まっている。本来、富貴である天命を持っていればそうなるであろう。本来が貧しくなるものとして生まれて来ていれば、自然に貧しくなるであろう。どのような行為も、すべて天の理によっている。長生きであるのも、短命であるのも天の理である。あらゆることは天の理なのである。「極端なこだわり」はむだに力を費やすのみである。「多くもつ」者は大きなストレスを覚えることであろう。世間を見ると、天の命を分からずに居る者があるようであり、天の命を守らないで行動している者があるようである。自分は貧しいと思い込んで、少しでも利益が得られそうであれば、人としてのあるべき行動をすることもない。常に不足を思っていて、自分の現状に対して真の理解をすることもなく、ただ不幸であると思っているだけで、真の不幸であることの意味を理解しようともしない。そうであるから、とにかく得られるものは何でも得てしまうので身に危険の及ぶことになる、得ることも、捨てることにも正しきを行うことができず、そうなれば誤って得て、誤って捨てて、後悔も生じるこにもなろう。自分が害を被ることもあるであろう。過度に所有していると失うとダメージも大きくなる。そうであるから道を養おうとする人は、目をして過度の華美を見ることを欲することなく、耳をして乱れた音楽を聴くことのないようにしなければならない。鼻をして特異な匂いを嗅ぐことを好むことなく、舌をして心地よさを貪ることのないようにしなければならない。また身をして、卑しい振る舞いをしてはならなず。意をして、邪な考えを持ってはならない。体の器官が正しく働けば、真気は円滑に流れて、生成の働きが日々になされ、無為、無欲となり、徳性は失われることなく、よく保たれる。精神は天地と一体となって徳は長久で、その道性(道と一体となっている自分本来の心の働き)も太極と同体となる。こうしたところにはけっして過度であることの憂いの生まれることはないのである。 〈奥義伝開〉先の文では精神的な執着を述べ、ここでは物質的な執着について触...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー5) そうであるから極端なこわだりのあるものであれば、大きくそれを失うことになる。 ここまでに述べられていることを、よく考えてみると、「名」や「富」を貪るのは、すべて「欲愛の心」によるものであることが分かる。それが「名」や「富」を貪る心を起こしている。またそれが甚だしければ、自分の心身を消耗してしまうことになる。そして気力を奪われ、最後には自分で正しい判断をすることもできなくなってしまう。そうであるから、ここでは「極端なこわだりのあるものであれば、大きくそれを失うことになる」として、世の人を戒めている。何ごとにあってもやり過ぎるべきではなく、執着の度を越せば、心身の消耗も甚大となる。それはまたひとつの定まった「理」であるとすることができる。道を修している人は、必ず己の身を大切にして、外的な事柄に執着してはならない。自らの性命(根源的な心と体のエネルギー)を大切にして、社会的な栄誉にこだわってはならない。そうしたものにかかわれば、心身に大きな負担となることであろう。 〈奥義伝開〉執着の深いもの程、それを失った時のダメージは大きくなる。あらゆるものは永遠に有することはできないのであるから、そうしたものに深い執着を持っても、所詮は叶わない夢なのである。仏教では「苦」から離脱しようとして、かえっていろいろな「苦」しい修行をしている。キリスト教では本来、考えなくても良い「罪」があるとして悩まなければならなくする。人が生きていく内には多少の「苦」や「罪」なるものが出てくるのは仕方がない、と執着をなくせば、あえてそうした迷信に係る必要も消えてしまう。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(4) 実際のところ大東流のような手の操作による合気が極めて限定した場面でしか掛けることができないのは、合気が本来的に逃げるための技法であるからに他ならない、刀を使わせないように必死で抑えて来るのを解いて、どうにか刀を使おうとするための方法として考案されたのが合気なのである。そうであるから合気だけで相手を投げたりするようなことは、本来的に想定していなかったわけである。剣術に付属するものであった合気が柔術へと展開する中でシステム上の齟齬が生まれてしまう。武田惣角は「柔術は教えるが、合気は教えない」と言っていたともされるが、これは裏を返せば合気を使わなくても柔術を使うことはできるということでもある。瞑想でも武術でも、単にリラックスすれば良いというものでもないし、テンションを高めすぎるのも好ましくない。その場その場で、どのような心身の状態が適切なのかをよく考えて修行する必要がある。リラックスの方法を知っている人には合気はかからない。井上鑑昭はそれを知っていて武田惣角を翻弄したとされている。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(3)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(3) 親指と人差し指で作る掌形は、返し技に掛かり難いと述べたが、これはそのまま合気に掛かり難いということでもある。合気は相手の腕を通して身体の中心軸をコントロールしようとするものである。そのため相手のホールドが弱いと掛かり難い。演武の時などに、わざわざ「強く握って」と言われるのは、そのためである。強く掴ませることは一見して合気を掛ける方に不利になる状況を作るように思えるが、実際はその反対でむしろ合気を掛けやすい状態に導いているわけである。実際のところ五指に力を入れて掴ませることで、相手の肘にも力が入るので、より合気を掛けてのコントロールが容易になる。一方、親指と小指だけで掴むと、肘に力が入らないので、合気によるコントロールは切れてしまう。かつて大東流の名人が、合気道を修行している女優に全く合気を掛けることができなかったのも、合気会の呼吸法(合気上げ)では強く掴むことがないからである。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(2)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(2) 阿弥陀定印と法界定印の違いは、指にテンションを掛けることで緊張とリラックスの度合いを調整しようとするところから生まれている。法界定印よりも、阿弥陀定印の方がより緊張の度合いが強いが、それは阿弥陀教では観想というイメージを瞑想に用いるからである。イメージを多用するのは密教で、大日如来の知拳印は両手を拳にしている(金剛界)。これはかなりの緊張を持つ瞑想、つまりイメージを伴う瞑想であることが分かる。ただ胎蔵界の大日如来は法界定印で、従来の仏教と同じである。日本では金剛界と胎蔵界の修法を共に習うが、手印からしてこれらは別の系統の修行法であることは明らかであろう。こうした心身の緊張のコントロールという視点から手印を見ると法界定印と阿弥陀定印との違いと同じようなものを、蟷螂手と牛舌掌に見ることができる。蟷螂手と同様な掌形は酔拳や秘宗拳などでもある。それは親指と人差し指とでテンションを作る掌形である(ちなにみ蟷螂手ではこれに中指を添える場合も多い)。この掌形は相手を引っ掛けるためのもので、鷹爪掌のように五指を用いて握ることはしない。当然、五指を用いた方が掴む力は大きくなるが、返し技を掛けられる危険も大きくなる。そのため適度なホールド(緊張度)を得るための方法として蟷螂手のようなものが考案されたわけである。蟷螂手では親指と人差し指で相手をホールドしているだけなので、容易に外れてしまう。外れやすいことは返し技に掛かり難いということである。ちなみに牛舌掌でも相手を掴むことなく、身体を擦る程度で相手の体制を崩そうとする。これには一定のテクニックがなければならないが、こうしたテンションのほぼ無い掌形では返し技を掛けられる心配はない。太極拳なども、この掌形を用いている。

道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(1)

  道徳武芸研究 合気破法としての阿弥陀定印(1) 阿弥陀定印とは阿弥陀如来が結んでいる手印のことで、親指と人差し指の先を触れさせて両手を重ねる形である。これは「定」印とあるように瞑想をするための印でもある。瞑想の印として禅などで知られているのは法界定印で、これは親指の先を触れ合わせる。そうすることで一定のテンションを保とうとしている。この時、両手の親指と掌とが楕円形を作るのが緊張と弛緩とのちょうど良いバランスのようで、インドなどの仏像や神像ではこうした印を組んでいる。一方、東南アジアなどでは、緊張が緩んで親指の先は離れてしまっている。日本でも、同じく親指が離れている場合が多く見受けられる。どうやら東南アジアや日本のような中国化した禅宗が広まった地域では、禅宗が道家的な思想に影響されているので、インドなどよりもリラックスの度合いの強い瞑想が実践されていたようである。また反対に日本では親指の先が上がって両手で三角の空間を作っている人も居る。これはかなり緊張して親指に力が入っている形である。日本の坐禅では姿勢を厳しく整えることが求められてたりするので、かなりの緊張を強いられている様子が伺える。ちなみ現在、ヨーガの瞑想で多用されている知恵印は阿弥陀定印を分けて膝の上あたりに置いている。膝の上に置くのは姿勢を保つのには便利で、坐禅のように手を部に置くと、どうしても姿勢が前傾して崩れやすい。そのために座布を用いて腰の位置を確保する必要がある。

宋常星『太上道徳経講義』(44ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー4) 得ることと、失うこと、どちらが好くないことなのであろうか。 「得る」とは「名」や「富」を得ることである。「失う」のは「名」や「富」を失うのである。「好くない」とは「害を受ける」という意味である。生きていて「名」を得ようとするならば、いろいろと計略を巡らせなければならない。「富」を得ようとするならば、よくよく先のことまで考えて行動しなければならない。そうであるから「名」と「富」とを共に得ようとするのであれば、知略に全精力をつぎ込むことになる。それらを得るにしても、得られないにしても、心身の消耗は甚だしいと言わなければなるまい。あるいは他人を蹴落として自分が利益を得ることもあろう。あるいは自身の身を滅ぼしてしまうこともあろう。またあるいは成功して世に「名」を知られるようになることもあろう。そうして「名」や「富」を求め続けて行けば、巨万の富を得ることができるかもしれない。しかし、そうなっても貪りの心は止むことはなかろう。一時は満足が得られても、すぐに不足を覚えるようになるものである。そして永遠に貪りの心が止まなければ、ついには自分自身を傷つけてしまうことにもなろう。また同様に社会的な成功を求めても、かえって指弾を受けるようになることにもなる。こうしたことに陥るのは「得失の理」「存亡の故」を知らないからである。あるいは社会的な地位(名)が得られたならば「富」を得ることもできるかもしれない。そして「富」を得たとしても、それが負担になることもあろう。また社会的な評価を得たならば、必ず周囲から優遇されることであろう。しかし、そうなれば敵対する人物も必ず現れるであろう。利を得れば、必ず害を得て滅びることになる。栄誉を得れば必ず足を引っ張られることになる。こうして「得る」ことと「失う」ことを比べてみると、どちらが「好くない」というものではないことが分かるであろう。それと同時に、共に「好ましくない」とも言い得よう。それは、これが単に「好ましくない」ということではないからである。そうであるから「得ることと、失うこと、どちらが好くないことなのであろうか」と老子は問いかけているのである。正しく修行をしている人であれば、「得る」ことに執着することもないし、「失う」ことにこだわるのでもない。「名」にもこだわらないし、「富」にも執着しない。つまり、...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー3) 自分自身(身)と財産(貨)とはどちらが重要なのであろうか。 永遠に滅びることのないもの、それが「道身(本来の自己)」である。一時的に存しているのが「幻身」である。「道身」は、天地の正しい理を得て、万物の造化の働きを備えている。それは貧しく身分が低いところに、その「心」を求めるものではないし、富んで身分の高いところに、その「意」が存するのでもない。「道身」と「幻身」の違いは「身中の富貴」の有無に依る。「身中の富貴」と「身外の富貴」は違っており「身中の富貴」は財貨を貪ることでは得られない。つまり財貨を貪るようになってしまえば我が「身中の富貴」は成り立たなくなるのである。ただ幻のような身にあって、妻子や一族と離れることもできず、衣食の欲に囚われて、社会的な地位や財産(名利)を争い、ひたすらに財貨を求めて貪る。それのためであれば、どのような地の果てであってもそれを求め、どのような苦労も厭うことはない。虎や狼の穴に入ることも辞さないで、自分の生命も顧みることはない。まさに刀で切られようとしても、欲望のためであれば恐れはしない。こうした人は、その身を軽くして財産を重んじているわけである。しかし、この身が無ければ、財産を持つこともできはしまい。今、財産を求めている人は、どうして身と財産がどちらが重要であるか比べてみないのであろうか。身と財産はどちらが重要なのであろうか。だれでもそれは財産の方が重要であると言うことはできまい。つまりどちらが重要かは全くもって明らかなのである。そうであるので「自分自身(身)と財産(貨)とはどちらが重要なのであろうか」と老子は問い掛けている。よく考えてみると富貴を得るのは天の命によるものである。人はそれをよく聞かなければならない。もし財貨を貪って道を得ることができないならば、その災は必ずもたらされることであろう。不幸を必ず被り、身を立てることも出来なくなってしまうことであろう。持っている財産さえも保つことはできなくなってしまうことであろう。古くから天の命を聞く者としては(孔子の弟子の)顔回が第一とされている。顔回は一膳の飯を食べ、一杯の水を飲むばかりの生活であったが、そうした貧しい暮らしは、よく人の耐えることのできるものではない。しかし顔回はそうした生活を楽んで変えることはなかった。そうした顔回の心も知...

宋常星『太上道徳経講義』(44ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー2) 名声(名)と自分自身(身)とでは、どちらが自分本来のものなのであろうか。 「名」とは名声のことである。人は社会にあって「身」を有していれば、何らかの「名(社会的な評価)」を持つものである。社会的な評価(名)は自分自身(身)が存在することで生まれる。また自分自身は社会的に評価されることでその中で生きて行ける。もし、自分というものが存在していなければ、社会的な評価を受けることもない。そうであるが社会的な評価は一定のものではなく、常に変わって行くものでもある。つまり今、得ている評価も、何れはなされなくなり、また新たな評価を受けるようになるわけである。そうして社会的な評価(名)は常に変化をする。かつての評価は忘れられて、新たな評価を受けることになるわけである。こうしたことが起こるのは、社会的な評価そのものが何ら実態のないものであるからに他ならない。そうであるから自分の「身」を大切に考えて、その社会的な評価はあまり気にしない、というのが好ましいのではなかろうか。往々にして世間には社会的な評価にこだわっていて、自分の「身」とそれと、どちらが大切であるかよく分からなくなっている人が居るようである。あるいは偽りの名声を得て、自分を見失ってしまう人、または高い名声を得て、かえって自分を害することになったりする人も居る。それは「名」にのみこだわって、「身」の大切さを忘れているからである。むしろ「名」は軽んずべきものであることを知らないからである。「身」は重要であり、それは「名」よりも重んじられるべきものである。そうであるから「名声(名)と自分自身(身)とでは、どちらが自分本来のものなのであろうか」と老子は問いかけている。歴史上に「名」のある人は数多居るが、こうした人は徳を多く積んだ人である。これは行為によって与えられた「名」であり、たまたま得られたといった類の「名」ではない。そうであるから天下に広く、あらゆる人に知られているわけである。万世不朽の「名」となっているのである。こうして、その人の身(身)は社会的な評価(名)によって知られることなり、それはたとえその「身」が亡くなっても「名」は永遠に残ることになる。そうであれば「名」が「身」を害することもない。(既に本人は亡くなっているのであるから)自分自身が「名」を損なうようなことをすること...

道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(4)

  道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(4) 倭寇の刀法がなぜ「苗刀」でなければならなかったのか。それは倭寇の刀法が苗族から由来するものであるといったイメージをそこに付与したかったからではないかと思われる。日本民族のルーツは苗族である。そうであるなら日本人の使う刀法も苗族に由来すると考えられる。こうした発想はデニケンの宇宙人が文明をもたらした、とする説と同じである。どうしても西洋人以外に優れた文明を持つことを認めたくないための苦し紛れに「宇宙人」が持ち出されることになる。シュタイナー(人智学)にも似た傾向があって、どうしても西洋に起源をもって来ようと論理を緻密に組み立てたことで、かえって各所に矛盾を生んでしまった。それを後の人が破綻のない論理として理解しようとするので、「シュタイナーの神秘学は難解である」ということになる。それはさて置き、曹コンも日本の大陸侵略の激化していた時に、優れた刀法が日本に由来するものとは認めたくなかったのであろう。長い日本と中国の文化交流史においては専ら中国から文化はもたらされるものであったが、倭寇の刀法は現在のアニメと並んで中国に逆輸入された得意な例であったとも言える。

道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(3)

  道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(3) 辛酉刀法あるいは単刀法とも称された「倭寇の刀法」が苗刀と呼ばれるようになるのは1921年、曹コン(金偏に昆)が定めてからであるとされている。曹は高級軍人でもあり政治にも携わっていた。それが滄州で武術を教えた時に苗刀という名称を初めて用いたとされている。「苗」といえば苗(ミャオ)族が思い出される。現代でもそうであるが、変わった風習や名前などは「少数民族のもの」という共通認識が中国ではある。中国刀と全く異なる操法の刀術は、これが少数民族のものと捉えられるのは自然であり、その時に「ミャオ(苗)刀」と聞けば「苗族の」と思うのも当たり前と言えよう。しかし、実際のところ苗族にはそうした刀法は伝わっていない。何故、曹コンはあえて苗刀という名称を用いたのか。加えて中国での名称は一字名は分かりにくいので、二字であるのが普通である。一部に苗刀を「細身の刃」であるからとする解釈もあるが、そうであるなら細身をいう「苗条」を冠して苗条刀とするのが妥当であろう。これをあえて分かり難い一字名を用いているのには相当の理由がなければなるまい。そのヒントとなるのが「苗族、日本人起源説」である。二十世の初頭、人類学を研究していた鳥居龍蔵は東アジア各地で調査を行ったが、その中で中国南方の少数民族の調査もなされている。そして苗族の民俗に日本との共通性を見出したのであった。これは後に照葉樹林文化地帯(インドの東あたりから中国の南方そして日本までも含み、餅や納豆などの発酵文化を初めとして多くの共通点が見出されている)ともいわれる「稲作」文化地帯に共通するもので、苗族も日本人も共にそうした文化地帯に属している。そのために生活習慣などに共通性が認められたわけなのである。こうしたことから一部には「苗族は日本民族のルーツ」とする俗説も出されるようになって行く。曹が苗刀を唱えるのが二十世紀中葉であることからすれば、あるいは曹は「苗族、日本民族源流説」を知っていたのかもしれない。

道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(2)

  道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(2) 苗刀が日本の陰流であることは明白であり、実際に倭寇から刀法を習ったことは『単刀法選』(程宗猷)にも記されている。また戚継光(『紀効新書』の著者)は1561年に「影流之目録」を得たとして、この年である辛酉を刀法の名とする。それが「辛酉刀法」である。こうした目録を得ているところからすれば、見て覚えた、といった程度ではなく、ある程度は正式に刀法を学んだ様子が伺える。しかし、目録の内容は仮名も交じっているので読めなかったようで、その内容についての解説は全くなされていない。また倭寇の刀法は二打、三打で勝負を極めてしまうとも賞されているが、これはまさに日本の刀法の特色をよく捉えているといえる。一般に中国刀は縦横無尽に振り回して相手を制するが、日本の刀法は上から切り下しで一気に相手を制してしまう。

道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(1)

  道徳武芸研究 倭刀と苗刀〜照葉樹林文化論の周辺から〜(1) 中国で苗刀は広く伝承されている。またこれが倭寇から習った刀法であることも広く知られている。確かに実際にその形からして陰流の刀法の特色を色濃く残していることも明らかである。しかし、何故、倭寇の刀法が苗刀と称されているのか、いささか疑問でもある。かつて八極拳と心眼流との「類似」が話題となっていた頃に蘇昱彰一門と島津賢治一門との演武会を取材したことがあるがこの時、苗刀の演武を見た島津賢治は「陰流そのままですね」と言っていたのを覚えている(心眼流は「柳生」を冠して柳生心眼流と称されるように、陰流との関係が深い。余談であるが「柳生心眼流」という名称は「柳生新陰流」を強く想起させるものであり、その「柳生新陰流」が講談などで広まった流儀名であることからすると「柳生心眼流」という流儀名の発生も考究の余地があるように思われる。ちなみに柳生新陰流は「新陰流」が江戸時代に一般的に用いられた呼称で、柳生心眼流は仙台藩の記録などには「心眼流」として散見される)。史書によれば倭寇の刀法は明代の武器術を席巻して、中国の刀法はそれ一色になったとされる。また今では重要な武器とされる剣もその頃には武器術としての伝承は絶えてしまい(『紀効新書』)、それが復活するのは近代になってからという。

宋常星『太上道徳経講義』(44ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(44ー1) 人は太極の理によって生まれ、体を得て形と気を正しく受け、天地の間にあって万物の霊長たり得る。これは「至貴」というべきであろう。人には天地の総ての「理」が備わっている。そうであるから一定の寿命以上に長く生きることはできない。そうでなければ天地の「理」に背くことになりかねないからである。もし無闇に長生きをしてしまえば、あるいは求めるべきではない「名」を求めたくなることもあろう。百歳、千歳も生きていれば得るべきでない「富」を得たくなることもあろう。こうなると社会的にも(名)、個人として(実)も正しく生きることができなくなってしまう。そうなれば、たとえ「富」を得たとしても、それは害でしかあり得ない。果てしなく「富」を貪っても、満足が得られることはなく、永遠に貪りを続けることになる。そうなれば凶事にも遭うことであろう。不幸が続き、ますます生活は荒れて、日々、太極の理から離れて行く。これを邪な道に入るというのであり、それは天の「理」に合うものではないし、人として行うべきことでもない。そうであるから人には常に「慎」が必要なのである。この章では、あらゆる物は永遠に存するのではない、そうであるから物が永遠にあると思ってはならず、そうでなければ、必ず人生において失敗をすることになることを教えている。 〈奥義伝開〉ここで老子は「長久」であることが「道」と一体であることの証となると言う。「長久」とは長生きをすることなのであるが、ケガや病気あるいは事故や災害、戦争、犯罪など人は時にいろいろなことで寿命を全うできないで、その生の終わりを迎えてしまうことがある。中国では「病なくして死す」というのが好ましいとされている。老衰で「自然」に亡くなるのが良いわけである。そのためには老子の教える「知足」「知止」が重要であろう。「知足」は現在でも使われているが、一定程度のものが得られたならば満足をして、過度な追求をしない、ということである。「知止」は止め時を知る、ということで、これも過度にならないで、適当な時に止めることを決断しなければならない、という教えである。

宋常星『太上道徳経講義』(43ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(43ー5) 「不言の教」「無為の益」、これらを知る人はこの世では殆ど居ない。 ここで述べられているのは、これまでのことと同じである。先には「無為」は有益である、ことが述べられていたが、それは「天地自然の道」でもあった。また同じく「天地自然の道」においては「不言の教」も実践される。そうしたところに「無為」の益があるのである。つまり、この世の一切の万物は全て「無為」の中にあるのであり、そこから生じている。こうした「無為の道」とは、つまりは「至柔の理」でもある。また、この「至柔の理」は、あらゆるところに通じてもいる。「至柔の理」は有無を貫く「無」に属してるのであるから、あらゆるものの中に入り込んでいる。それは色も形も無いし、名さえも有してはいない。そうであるのであらゆる物にこの「至柔の理」は入り込んでいるのである。特別に入れようとしなくても自然に入り込んでいるのであり、自然のままに入り込んでいるわけである。特別なが働き掛けがなくても入り込んでいて、意図しなくても入り込んでいる。そして何の働きかけもなくて万物を成長させているのを見ることができる。何らの働きかけがなくても変化が為されているわけである。それぞれにおいて「生成の理」が働いているのであるから万物は等しく造化の妙を得ていることになる。こうしたところに「無為」の有益性がある。そうであるから「無為の益」「不言の教」「無為の益」は万物に生じている。つまりそれは「至精(物的なエネルギーに満ちている)」であり「至微(どのようなところにも入り込んでいる)」でもあって、「至極(極まりない)」「至柔」ものであり、ここに「神(物質の霊的な側面)」は完全なる充実を得ている。この世のあらゆる万物法は全て「至柔の理」から生まれている。総ての「物」はこの「法=理」によって生じていて、。これに違う物はない。ただ「至柔の理」は直接見ることができないので「それを知る人はこの世では殆ど居ない」わけである。古(いにしえ)より聖人は、身を修め家を調え、国を治めて天下を平らかにすることができるとされているが、こうしたことは全く「理=心」と「物=体」が一体であるからに他ならない。当然のことであるが意図して「法=理」に特に頼ろうとしなくても、人は自然にそれに依っている。ただそれを知る人は多くはない。道の修行をしようとする人...

宋常星『太上道徳経講義』(43ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(43ー4) 自分は「無為」が有益であることを知っている。 これは先のことを受けている教えで、先には「至柔」が「至堅」を働かせている、とされていた。また「有無は間の無いところに入る」ともされていたが、これらは全て「作用」を言うものではなく「自然」「無為」の道をいったものであった。ここに改めて「無為」の道を考えてみると、それは「自然」の理こ依るものであって、その「順応の妙」であることが分かる。つまり万物は「無形」から成るのであり、万物は「無心」から生まれているわけで、こうした「無為」の益を自分は知っている、と老子は言っている。これはまた「有益の妙」を知っているということでもある。無為の「体」を養えば「性」は自ずから浄化される。そして「心」は正しくなり、自然の「理」に違うことなく、「情」は自ずから「和」するようになる。万法の本来は「一」をして貫かれている「理」にあるのである。 〈奥義伝開〉ここで「無為」とあるのは先の「柔」や「無」と同じである。かつて実戦が主流であった時代の武術では心を養うことの重要性が説かれたのも、同じ考え方で恐怖や驚きで体が動かなくなってしまえば、どのような技も意味をなさなくなってしまうからである。また中国では「武術家は戦って亡くなる」とする教えもある。それは腕に自信のある武術家が、往々にして実戦の場で心を乱されて、卓越した技も使えないで敗れてしまう危険があることを教えている。どのような優れた技術もそれを発揮できなければ知らないのと同じである。老子は目先の「技」だけではなく、真に重要なことは「技」を使う「心」にあることを教えている。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(8)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(8) 歴史的に考察したように近代的な知的遊戯としての「合気」のシステムと、近世的な攻防の技法として構築されたシステムは本来、乖離していたのであり、そうした中で武田惣角の「柔術は教えるが、合気は教えない」といった言葉も出てきたわけである。実戦的な攻防において相手を制しようとするならば柔術的なシステムを発展、拡大させざるを得ず、そうなると「合気」との乖離もますます進んでしまうことになった。実戦の攻防において「合気」は基本的には「合気上げ」のような限定されたシチュエーションでしか使えない。よく「体の合気」などとして「体のどこからでも合気を使える」と言われることもあるが、こうした「合気」は不確定要素を排した稽古では使えても、そうしたものの多くある実戦では使えない。つまり「合気」の稽古は心身の動きを、限定された条件の下で、微細に知るには非常に適しているのであり、それは一種の知的遊戯として見た場合には実に優れた心身の開発法なのであるが、それが安易に実戦で使えると誤解してしまうと、大きな間違いの基となってしまう。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(7)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(7) 近世から近代へと時代が移り行く中で、西郷頼母が「合気」というシステムに見たのは、相手を殺傷するためのシステムとしての近世の柔術ではなく、知的遊戯としての柔術ではなかったのではなかろうか。相手の心身の動きを深く知ることは、対人関係(礼儀)においても重要であるし、そうした視点は自分自身を深く知ることにもつながる。これを「武徳」ということも可能であろう。しかし、こうした近代的な視点は武田惣角には受け継がれることはなく、むしろ次第に近世柔術的な技法が増えて行くこととなった。一方で植芝盛平は、大元教などの宗教にも関心があったこともあり、近世的な柔術からの離脱も視野に入れてた「合気」の存在を感覚として理解していたようであるが、やはり門弟の多くは攻防の技法としての合気道を求めていた。大東流や合気道を攻防の技法として展開しようとした場合に顕著に見られるのは、なんとか関節をとってねじ伏せたり、柔道のような技を使って相手を投げている場面である。「触れた瞬間に合気が掛かり」といったシーンを見ることは全くない。その原因は大東流にしても合気道にしても、システムとして柔術と「合気」が分離していたことがあげられる。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(6)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(6) 合気道や大東流で問題視されるのは入身投げや四方投げが、途中で容易に逃げられてしまうこと、また一か条などは立技から床に抑えることはほぼ出来ない等の問題点である。ただ、これらも坐技であれば矛盾なく行うことができる。更に「合気上げ(御信用の手)」も基本は坐技であることからすれば(大東流のように立技であれば例え「合気」を掛けられても一歩下がればそれを解くことができる)、抜刀術から生み出された「合気」というシステムは坐り相撲的な「遊戯」として行われていたなものであったのではないかと推測されるのである。坐り相撲は坐って行うことで怪我などの危険を回避しようとする遊戯であるが、それは一種の鍛錬でもあった。「合気上げ(御信用の手)」は坐って行うことで、条件が限定される。それは相手の中心軸のコントロールを会得するのに容易であり、条件を限定した微細な鍛錬をすることができる。「合気」とは本来が危機を脱するための手法であったが、それが相手の心身の動きを深く知るためのいうならば知的遊戯として一部に発展して行われていたのではないかと思われるのである。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(5)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(5) こうした近世の武術と大東流がおおきく乖離している事実は、大東流がかつての柔術とは違う存在であることを示すものに他ならない。嘉納治五郎は「体育」と言い、武徳会では「武徳」と称したが、要するに近代日本における武術存在の意義として、健全なる心身の育成ということが、「殺傷」に変わる重要な眼目になったのであり、それは西郷頼母の教えと共通していると見るのが妥当であろう。ただ惜しむらくは柔道が試合に勝つことを主目的とするものになり、大東流も近世的な殺傷技法としての武術に先祖返りしてしまったことである。そして「合気」は「相手を倒すための卓越した手段」といった幻想の中で語られるようにもなる。本来「合気」は抜刀しようとする腕を抑えられた時にそれを脱する技から生まれた。この形が「合気上げ(御信用の手)」となったのである。つまり「合気」は相手を攻撃するための技ではなく、相手からの攻撃を脱するための手法であったのである。近世においては「合気」を使った後に剣術で相手を制する、という展開が考えられていた。

宋常星『太上道徳経講義』(43ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(43ー3) 有無は無の間に入っている。【有無は間の無いところに入る】(宋常星の読み) 「無」とは、無形、無質のことである。無色、無象のことである。天下の万物は等しく「有」に属している。「無」は「理」であり、「有」は「物」である。「無」は「虚」であり、「有」は「実」である。「有無は間の無いところに入る」とは、例えば「石の中の火」のようなもので、それによって珠には輝きがあるわけである。つまり「無(火)」が「有(珠)」の中に入り込んでいるわけで、これを詳しく見るなら本来「無」とは「無」なのであって、それ以外ではない。つまり「無」は「有」ではないわけである。そうであるならば「体=無」は「有」である物の中には入り得ないということになる。「大」きいという性質(体)を有している物(用)は、「小」さいという性質(体)を有している物(用)の中には入ることはできない。「小」は「小」であり、「大」は「大」であって、そこには入るべき「間」はない。先天(天の体)や先地(地の体)は、あらゆるところに存している。後天(天の用)や後地(地の用)もどこでもそれを見ることはできる。もし「有」の中に「有」を入れようとしても、それは何らの変化ももたらさないことであろう。「有」に「有」を入れても「有」であり、変わることがないからである。そうであるから「間の無いところ」とされている。人の心も同様である。万里の道も、一念が起こることで歩みが始まる。もし行こうと思わなければ、万里の道の果に至ることはできない。千年も前の事でも、それを知ろうと思わなければ、絶対に知ることはできない(行為という「有」は意識という「無」が入ることで働きが生まれる)。金石であっても、意思であっても、(「無」が)あらゆるものに入るべき「間」はあるのである。それは微妙で工夫を要するものかもしれないが、必ず入るべき「間」はある。天地は大きいが、我が心の「理」は小さい。万物には限りがないが、我が心の「理」には限りがある。しかし、そうしたものであっても、相互に通い合うことはできる(天地、万物は「有」で心の「理」は「無」であるから「無」は「有」の中に入ることができる)のである。人がもし小私、寡欲であって「無」に近づいたならば、我が心の「妙」が働いて、大いなる道の「元神」と通じることができるであろう。そこに何らの阻...

宋常星『太上道徳経講義』(43ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(43ー2) この世における至柔は、この世における至堅を働かせている。 この世において「道」は、その存在を認めることはできないし、働きそのものを見ることもできない。それは「至誠」「至真」で、あらゆる物に影響を及ぼしている。そしてどのような時にも働いている。これがまさに「至柔」なのである。「働かせている」とは、大いなる道の物の生まれる「機」においてである。それは走る馬のように留まることなく、万物はそうした移り変わりの生まれる「機」の連続の中にある。それが自然なのである。これは何かの意図によって生じているのではない。こうした「機」によって物の生成が行われ、万物はそれぞれ異なる形を有している。物の形が違うのも、寒暑の違いがあるのも同じで、歳月が巡っていて、それぞれの生成の「機」が働いて違いが生じてるわけである。讃と穿は同じではないし、屈と折も違っている。ただ道の「至柔」は「無倫(一定のルートがない)」から来ているもので、それは「無間」であるところに入り込む、ということなのである。天地には空間があまねく広がっている。それ(空間)は部屋にも満ちている。空間はあらゆるところに遍満しているのであり。それが「至柔」とされている。そして、あらゆる物を働かせているのが「至柔」つまり「空間」なのである。ここに「この世における至柔は、この世における至堅を働かせている」とあるのは、こうしたことを述べている。 〈奥義伝開〉一般的には堅いものが働きを持っていて、柔らかなものは大きな働きを持たないと考える。しかし老子の「柔」の発想は「柔」を組み立てている「矛」と「木」によっているのである。この「木」とは矛の柄のことで、柄がしなることによって払い、突き、巻き込みなど矛の堅い「穂先」を充分に使いこなせるようになるわけである。これが「至柔」と「至堅」の発想の原点となっている。一般的に老子の「柔」は「剛」に勝るなどといった教えは、単に韜晦を述べているだけのように受け取られることが多いが、実際はここに見られるような実体験から得られたものなのである。日本では槍や棒は樫などを使うことが多いが、中国では特に柔靭なシナトネリコ(白蝋樹)が好まれる。これは老子にも通じる文化伝統ということができるであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(43ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(43ー1) 大いなる道の奥深いところは「体」があれば必ず「用」があり、また「用」があれば必ず「体」があるところにある。「体」とは無極であり太極でもあり、それは実理でもある。「用」は陰陽であって、これにより物が生まれる。この陰陽はまた見方を変えれば「体」ということもできる。もし「体」があって「用」がなければ、大いなる道の実理は実現されることがない。これは「体」があって「用」が無い場合である。また「用」があって「体」がない場合では、万物の生成はその根拠を持つことができなくなる。こうしたことがまさに「体」と「用」なのであり、これらが互いに存していれば、それぞれが「体」となり「用」となる。また、こうしたことを五行の気の働きということもある。また「体」が行われるのが「天」で、それが具体的な存在として「用」として現れるのが「地」であるとも言える。こうした「天」には「体」や「用」が働く「機」が有されている。これが働かなれば陰陽の働きが具体的に現れることもない。つまり「地」において具体化されること、「用」の現れることがないわけである。また大いなる道の「体」と「用」の「機」が働くことがなければ、剛柔の形も現れることがない。つまり、こうした状態では「体」と「用」との関係性をうかがい知ることはできないわけである。この章にある「至柔」とは、大いなる道の「用」である。「至堅」は万物の現れである。物的な存在は形を持つのであるから「至堅」とすることができるが、道はそうした中にも入り込んでいる。金石の中にも入っているし、どのような物もそれを貫通して入り込んでいる。そうであるから、あらゆる物は変化をするのである。つまり「至柔」は「至堅」である万物と一体となっているのである。こうしたことは思いも及ばないことであろうが、これこそが大いなる道なのである。同様なことは「心」においても見ることができる。それは「無為の益」で「不言の教」とされている。こうした「無為の妙」がよく体得されれば、有為による行為は多いなる道と乖離したものと分かる。つまり、天の道(大いなる道)をよく悟って、そのままを行うべきなのである。 〈奥義伝開〉ここで示されている老子の考えは後には「陰陽互蔵」と称されるものである。陰は陰だけで存在しているのではなく、陽も陽だけで存在しているのではない。陰には陽が含...

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(4)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(4) 近世の武術の伝書は技の名が「一、」「一、」として記され(一つ書き)、その名称も禅語( 斬釘截鐵ざんていせってつ等 )や仏教(金翅鳥王剣こんしちょうおうけん等)といった語が使われることも少なくない。しかし大東流では技法名を見ることはできないし、加えて「一か条」「二か条」とする西洋的な表記の仕方を見ることもできる。また大東流では「御信用の手」であるとか「おしきうち(御式内?)」といった日本語として意味の取れない語も伝えられている。そして流派名も「やまと(大東)流」であるとする証言もあるし「合気柔術」といった特定の技術の名称を流派に付すことも他には見られない。「合気は教えない」というのに流派名に「合気」を付すのも理解できない。これでは手の内を明かしてしまうことになってしまう。大東流としておけば、ただの柔術であると見てくれるが、合気柔術と言ってしまえば、「合気とは何か」と疑問を持たれて、それを探られてしまいかねない。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(3)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(3) 「知るや人 川の流れを打てばとて 水に跡あるものならなくに」は西郷頼母が武田惣角に与えた歌で、「知っている人が居るであろうか。川の流れを打っても、そこに一時は波紋を残すことが出来るが、すぐに流れによってその跡は見えなくなってしまう。時の流れに逆らうことはできないことを知らなければならない」という教えが込められている。一般には剣術家であった惣角に「剣の時代は終わった。これからは柔術の時代である」と教えたとされている。これが記されたのは、1898(明治三十一)年であり、これより三年前の1895年には大日本武徳会(剣術、柔術、弓術などを教える)が設立されて、その柔術部門では嘉納治五郎の「柔道」が中核を占めていた。こうした時代背景からすれば頼母のイメージしていたものは剣術というだけではなく、旧時代の相手を殺傷するための武術一般を言うもので、新しい心身鍛錬の方法としての「柔術」が普及されなければならないことを教えていたのではないかと思われるのである。こうした革新性、近世ぶ術との断絶は伝書の形式にも見られる。興味深いことに大東流の伝書は従来の武術の伝書とは全く形式を異にしているのである。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(2)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(2) 通常の稽古という不確定要素を排除された状態(相手はただ腕を掴んでいるだけ等)で「合気」上げ等は練習されるのであるが、一方で実戦では極めて多くの不確定な要素が出て来る。試合なら攻撃するタイミングや方法はルールなどで分かる部分もあるが、実戦では相手が何時、攻撃して来るのかさえも分からない。こうした不確定な要素の多い状態で「合気」を掛けることはひじょうに難しい。簡単な試合形式の場であったとしても「合気」を掛けることの困難さは、例えば柔道やレスリングの習得者に対して、組んだ瞬間に相手が「合気」により硬直して動けなくなる、といった状況を見ることが全くないことでも分かる。空手などで「一撃で相手を倒す」というのも、あまり見ることはないが、練習中でも「事故」で相手に当ててしまい、一撃で倒れるということは珍しいことではないし、ボクシングの試合などではそうしたシーンを時に見かけることもある。しかし「合気」は、ある程度自由に動ける相手に明確に使われることはないのである。こうした「合気」の実戦性を考える上で鍵となるのは、西郷頼母が武田惣角に与えた「知るや人 川の流れを打てばとて 水に跡付あるものならなくに」の中にある。

道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(1)

  道徳武芸研究 知的遊戯としての「合気」術(1) 「合気」については、いろいろな考え方があるが、ここでは「相手の反応を利用してその体勢を崩す方法」であるとする。こうした「原理」は基本的には柔道やレスリングにも使われているので何ら特異なものではない。「合気」が特異であるように見えるのは、そこで使われている「反応」が、極めて微細なレベルのものを使おうとしているためである。そうした微細なレベルでの反応のコントロールを練習するためには「条件」が一定でなければならない。特に「合気」を習得するための稽古においては不確定な条件をできるだけ排除した環境でなければならないのである。これは科学の実験でも同じで、水を凍らせる場合でも、汚れた水を使うと0度で氷り始めることを観察することはできない。野口英世は試験管の洗浄を自分で厳格に行っていたとされるが、これも実験に不確定な要素が入りこまないようにするためである。これは「合気」の習得に限ることではないが、技を習得するには出来るだけ不確定な要素が入らない環境であることが求められる。剣術では攻撃する方を上位者が行うのも、そうした配慮からである。正しい攻撃をしなければ、正しい受けを学ぶことはできないのである。

宋常星『太上道徳経講義』(42ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(42ー10) 吾はそう教えているのであるから「教えの父」といえよう。 「父」とは始めということである。柔和は生であり、ただ強いだけの梁は死である。こうした教訓を天下に示すが、自分は謙って、教え導く等とする振る舞いをすることはないが、実際は教えを示しているのであるから「吾はそうであるから『教えの父』であるといえよう」としている。老子は殷周の時代に、「一」なる身体は全天理の和」であり、「一」なる心は「教父」の化したものであるとする。それは一時的には統治を助けるものとはならないようでも、こうしたことは必ず王の定めた綱領の基本となるものであり、必ず乾坤の理と合致するものなのである。 〈奥義伝開〉おそらく偉大なる教えの父(教父)は、物事は中心さえしっかりしていれば失敗することはない、という教えを「梁が強ければ、死ぬことはない」として説いていたものと思われる。ここで老子は「梁が強ければ、死ぬことはない」と自分も同じことを言ったのであるから、偉大なる教えの父と同列であるとする。同じ情報であれば、誰から聞いても同じである、ということである。「一」は「一」であって、それ以上でも以下でもない。「人」は「人」であってそれ以上でも以下でもない。「情報」は「情報」であって、それがどのように伝えられても、その価値、内容は同じである。つまり、あらゆるものは究極的には平等なのである。こうした思想を荘子は「万物斉同」という語を用いて表現している。