投稿

8月, 2022の投稿を表示しています

宋常星『太上道徳経講義」(10ー7)

  宋常星『太上道徳経講義」(10ー7) 四達、明白なれば、よく無知たらんや。 「明」とは、心の慈しみの光(内光慈照)で、これを「明」という。「白」とは、心の本質のこと(本体素存)で、これを「白」といっている。これは「虚」により「光」を発するということであり、「静」から「白」を生むことである。虚静明白とは、まさに四方に光が発する(明白四達)ことである。「四達」とは、何ら阻むものがなく通っているということで、「無知」は感情や意識がないということとなり、落ち着いて静かな純一の妙がここには存している。人の心の本体は虚明であり、本来が清らかであるが、物欲によってそれが見られなくなってしまう。このように本来の心の働きが抑制さている状態では「明白」さを保つことはできない。ただ聖人だけが「虚明」で「円明」であるのであり、そうした「聡明」である「明」がここには存している。見ることがなく、聞くこともない。為すこともなく、欲することもない。こうした中に「空明」の境地を感じ、それに通じる。こうした境地を体験するのが「明」である。知ることは極まりない。そうであるから常に愚かであるようにしている。ある程度のことは知ってはいるが、知らないことも多いのが普通である、それが「無知」ということである。また知らないことがないと思っている人はは、つまりは「無知」でもある。そうであるから「あらゆるところに通じているとは、知る必要のあることをもれなく知っているが、必要のないことは知らないということである(四達、明白なれば、よく無知たらんや)」としている。 〈奥義電開〉情報はそれが過度にあっても使えない。老子は最小限の情報だけを得るようにしなければならないとする。たとえば死後の世界や神などは、その存在が明らかではないが、それを必要とする人にはそうした情報が求めれれるべきあるが、それがなくても良い人はあえてそうした不確かなものについては「無知」であって良いと教えるのである。つまり老子は「それが本当に必要な情報であるのかよくよく吟味せよ」と言っているわけなのである。

宋常星「太上道徳経講義』(10ー6)

  宋常星「太上道徳経講義』(10ー6) 天門、開ガイすれば、よく雌となるや。 「天門」は「人心」ということである。「人心」は体全体を統御している。そうであるから「天門」といっている。「開ガイ(開閉のこと)」は「陰陽」であり「動静」である。「雌」は「安静」「柔弱」を意味する。人の心の「竅(あな)」からは「出入」「動静」といった変化を出すことが可能であろうか。「安静」「柔弱」といったものを出して、その道によって一切のことに対応することが可能であろうか。どのような時であっても、無心であればそれに応じることができる。静である時も、無心であれば自ずからそれを受け入れて静となることができる。これが「天地の門の開け閉め(開ガイ)を知る」ということであるが、すべては自然の妙であり、そうであるから聖人はただ内面を見つめる(内照円明)だけで、物事が生じても「理」によって適切に対応できるのである。むりに陽をして陰に勝たせるようなことはせず、感情によって「性(本来の心)」を傷つけるようなこともしない。物欲に迷うことなく、流されることもない。そうであるから「性」は傷つけられることなく、心の乱れることもない。気は志を迷わせることもない。これがつまりは聖人の天門の開け閉めなのであり、外からの影響を受け入れるがそれが不適切なものであれば流されることのない「雌」の妙なのである。何時、人心が外からの影響を受け、それに反応する「出入り」をするか分からないと、動静は一致せず、物事へのこだわりが生まれて、私欲が生まれることになる。喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲といった七情の迷いが興るわけである。何かを感じて感情は発せられる。修道をする人は、すべてはこのところをよく分からなければならない。私欲といった不適切な感情(陰情)に負けてはならない。つまり「心の門が外界に対して開いたり閉じたりしていて、その影響を受けるがそれに流されることはない(天門、開ガイすれば、よく雌となるや)」ということが大切なのである。 〈奥義伝開〉「天門」とは頭のことで、そこに穴(眼や耳、鼻、口)があって、そこを通して我々は外界の影響を受ける(宋常星はこれらを通した先で情報を受け入る「心」を「門」とする)が、その門は開いているべき時もあれば、閉じているべき時もある。それを適切に行うようにしなければならない、というのである。そのためにはい...

宋常星『太上道徳経講義』(10ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー5) 民を愛し国を治めるは、よく為すこと無からんや。 ここでは無為の道が説かれている。民を愛し国を治めることの意味を明らかにするならば、それはまさに自然に順ずるということである。民を愛して国を治めるということは自然の状態のままである、ということであるから、必ずしもそれを意図して行ってはならないのである。もし意図的に民を愛しようとするならば、そうした愛はどこかに偏りが生まれてしまうものである。そうした状態で国を治めようとしても、その統治はあまねく万民に行き渡らない。ただ聖人は「民を愛する」などということを語ることはないが、それを身をもって天下に実行して教えている。無為の道をして、万民の心の変化を促すのである。これによって天下万民は、日々国を治める者の愛を受けてはいるがそれに気づくことはない。日々安穏な生活を送っているがそれが無為の統治によるものであることを知ることはない。人々に知られることも、気づかれることもない。これこそが聖人の道徳なのであるが、それを天下の人々は知ることがない。具体的な統治の方法として見ることができないが、無為にして人々の心は自然に変化をし、特別なことをしなくても民は自然に豊かになり、そう望まなくても民は自然に過度な欲望を持つことがなくなる。そうであるから「民を愛して国が治まるとは、特段に行うべきことをしないことなのである(民を愛し国を治めるは、よく為すこと無からんや)」としているのである。 〈奥義伝開〉本来、自然のままであれば「秩序」は完全に保たれている。これは天の星々の運行を見れば明らかである、とするのが老子などの「道」や「天」の働きが存するという考え方の基本である。民を愛するのは君主の基本であるが、それは「自然」のままであるべきで、特別なことをしないことが重要であるとする。つまり税金などと称する収奪などしなければそれはそのまま「愛」の実践となるわけである。そればかりではない「国を愛し、民を愛するが故にこの戦いに勝利して」などと言って「愛」を押し付けて命まで「収奪」しようとする権力者は実に多い。そうであるから「よく為すこと無からんや」と、余計なことはとにかくしないでくれ、と言っているのである。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(4)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(4) 「前提」を設けることは武術の稽古における必然でもあるのであるが、あまりに「前提」にこだわり過ぎると「技」としての真実性が失われてしまうことになる。一定の「技」で相手を少し崩すことができたとして、それがややバランスを失う程度であるのか、投げられてしあう程度であるのかは、正しく範囲が限定されなければならない。そうでなければ練習している「技」そのものの価値が失われることになってしまう。そうなると自分の実力も分からなくなるし、相手の実力も見えなくなってしまう。それは相手の力を見抜く基準が自己にあるからに他ならない。自分の力がよく分かっていて、それより「強いか」「弱いか」が判断の基準となるからである。こうして正しく「技」が稽古されなければ、実戦において重要な「体力」を正しく得ることもできないし、「時術」を練ることもできないし、「運命」に関してもおかしな考え方を持って、迷信におちいるようにもなりかねない。孫子も自己を知ること、相手を知ることが実戦で失敗しない原点であると教えている。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(3)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(3) マジシャンの演出する「不思議」は見る側の「思い込み」を確定することによって演出される。つまり右手なら「右手にカードがある」という「前提」が継続されることで、最後に左手にカードが移動していれば見る側に「不思議」と受け取られることになるわけである。上達法を説く古武術の師範も同様に「前提」の確定にひじょうにこだわっている。何度も同じ動作を繰り返して「前提」を作った上で、それとは別の動きをする。そうすることで、「不思議」を演出している。この場合で重要なことは等しく「前提」が継続されていると相手には思わせることであるから、いきなり技を行うことはしない。しかし実戦においてはこうした「前提」を設定する暇はない。相手はいきなり攻撃して来る。「前提」を設けての稽古は形稽古がその典型であるが、人の体は手足などの可動範囲が一定であるので、それに対する最も合理的な攻防の動きというものが当然に存している。それを学ぶには「前提」を設けて場面、場面に分けて体の使い方を練習をする以外にはないのも事実なのである。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(2) さて武術における「実戦」性が「体力」「技術」「運命」によって成り立っていることは前回に述べたが、「運命」についてもかつてはなんとかそれを制御しようとして、神仏に祈る法が武術の一部とされていたこともあった。近世にはこうした「迷信」を最高の伝授とする巻物も多く作られている。しかし、こうした「迷信」に頼るよりは、相手を思いやる気持ちを常に持って敵を作らないようにした方が、はるかに有効であることを忘れるべきではなかろう。それはともかく武術における「実戦」性を考える上で具体的に最も大きな関心が寄せられるのが「技術」であることはまちがいのないことである。おもしろいことに現在、古武術の「技術」を解明していることで有名な師範の動きを見ると、通常の武術家のそれとは大きく雰囲気が違っていることに気づく。よくよく考えて見ると、それはマジシャンの動きにそっくりなのである。マジシャンは、カードならカードを、実際に持っている腕は何も持っていないように見せて(筋肉が緊張していないように見せる)、実はカードを持っていない腕はあたかもカードを持っているように見せる(筋肉が緊張しているように見せる)。こうした見る側の視覚を通した「思い込み」の違いを誘うことで「不思議」を演出するのである。くだんの師範も、力を入れていないと見せてそこには力が入っており、入れていると見せて入れていない。そうであるから技を受ける方は、その意外性に驚くことになる。

道徳武芸研究 武術における「実戦」性(1)

  道徳武芸研究 武術における「実戦」性(1) 武術を練習している人にとっては、その濃淡はあっても「実戦」性をまったく考えない人はあるまい。つまり武術における「実戦」性とは、何らかの「技術」によるもので、それは通常の力を使った場合よりも大きな効果を得るものでなければならない。相手を投げるという行為は、その形が同じであれば、それが力任せであっても、精緻な技法を駆使したものであってもダメージとしては何ら変わりのないものである。また武術における技術の「力」は無限ではない。技法をいくら駆使しても、基本的な体力にあまりに大きな差があれば、それを凌駕することはできない。いわゆる「蛮力」に負けてしまうこともあるのである。また戦場などでは純粋な攻防の力の優劣以外に「運」のようなものもおおきく関係して来る。これは日常における実戦でも、何時襲われるか分からないということでは同様なことがいえよう。こうして見ると武術における「実戦」性とは「体力」「技術」「運命」の三つの要素が関係していることが分かる。その中で個々人が練習して習得できるのは「体力」と「技術」の部分に限られる。これが武術における「体」と「用」である。

宋常星『太上道徳経講義』(10ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー4) 玄覧を滌除(じょうじょ)すれば、よく疵(きず)無からんや。 「滌」とは洗うということである。「除」とは取り去るということである。「玄覧」は多く見て、多く聞くということで、古いことに広く通じて今をよく知っていることである。「疵」は病のことである。私見によれば今日の学者は、広く古いことから新たしいことまで良く知っていて、物事を広く追究している。しかし『射猟簡編』には「もし耳目を通して学んだだけであれば、それは真の知見ではない」とあるが、こうした知の修行を、まったく問題なく「無傷」で行おうとすることは、難しいことなのであろうか。そうしたところからここでは「よく多く見聞きしたことを洗い流してしまえば、無傷でいることも可能なのである(玄覧を滌除すれば、よく疵無からんや)」としている。真の知見というものを詳細に考えるなら、物事の本質は形の外にあるものとすることができる。見たり聞いたりできる範囲を越えたものであり、そうであるから見るところは極めて広く、知るところは極めて大きいとしても、またあらゆる儒教の教典は聖人の心の内を記しているが、そうしたものをことごとく読破したとしても、いまだ道を得ていなければ、川を渡る筏を借りたに過ぎない。しかし道を得た後に、儒教の本に書かれていたままの表面的な内容をきれいに洗い流し忘れて、それを書いた聖人の心を忘れないようにすれば、寂然不動の境地に入ることができるであろう。そうであるので、兎を捉える罠を仕掛けただけで兎を取った気持ちになったり、魚を取る罠を仕掛けただけで魚を取ったように思ったりしてはならないのである。一切の法における夾雑物をすべて洗い流さなければならない。それは病気が治れば薬を飲むのを止めるのと同じで、「疵」という病がなくなって後も薬を飲んでいればそれはかえって害になることを忘れてはならない。 〈奥義伝開〉その物事の持つ意味の奥深いところを知ったとしても、それだけにこだわり過ぎてはかえって本質を見失うことになる。太極拳の推手なら推手に習熟し過ぎると、他の方法での攻防に対することができなくなってしまう。かつて塩田剛三は植芝盛平の道場に見学に行った時、「やってみますか」と言われて、柔術の先生であるから蹴りには弱いであろうと思って蹴っていったという。柔術の修行者はその範囲に特化した技術を磨いて...

宋常星『太上道徳経講義』(10ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー3) 専ら気を柔に致せば、よく嬰児たらんか。 一歳にも満たない嬰児は、元気が傷つけられていることなく、乾体(純陽の体)は破られてはいない。何も知識を得ることのない時には、気は「専ら(純粋)」の妙を有している。何もできない嬰児は、和の妙に至っている。そうであるからただ気が柔らかなのであり、無欲、無知で、無思、無慮、神気はよく一を抱いている。魂魄はそうであるから互いに相従っている。私の見るところ今の内煉をしている人(丹を煉っている人)は、神気を集中させて、雑念を除いているに過ぎず、ただ呼吸を調えているのみである。そうであるから神は気の中に入ることはできず、気はよく神に帰することがなく、真息も発生することがない。つまり「一」を抱くことができないわけなのであり、専ら気を柔に致すことができないのである。嬰児には自然の妙があるとすることができよう。そうであるから老子は「ただ気を柔らかにして、よく嬰児のようであるべきである」と教えているのである。 〈奥義伝開〉この「嬰児」の状態は太極拳などでも教えとして説かれることが多い。気を柔らかにするには「嬰児」のようであれ、ということなのであるが、この「嬰児」とは「一」を抱いている状態であって、そうであれば神、気、精が一体となっているとされる。あるいは行動と意識が一体となっていることをいうとすることもできる。確かに「嬰児」は打算がないので、空腹であればそれを訴えて泣き、楽しければ笑うに過ぎない。しかし人は成長する過程でいろいろな打算を覚えるようになり、意識と行動とをあえてひとつにしないことがある。

宋常星『太上道徳経講義』(10ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー2) 魄(はく)を載(の)せ営み一を抱いて、よく離れること無からんや。 体は魂魄を受けている。それは車に物を乗せているようなもので、物は必ず車に従って動いている。「魄を営む」とは、体の中に魂魄があるということである。人には三魂七魄があるとされ、もしよく安静をしてこれを養うことができれば、魂は肝に治まっていて、魄は肺に存し、この身そのままでの道がここに立つことになる。我が体は「真土」であり、「木」をよく養うことができる。これを「金」に蔵することができる。息は「火」であり、「水」において止まることになる。五行を集めて、四象を整えるのは、すべて我が体の「真土」の妙用ということになる。もしよく「神(意識)」が外に遊んでしまえば、意は集中することができない。精神・魂魄は、自然にひとつに合わさるのであり、それぞれが離れ離れになることはない。そうであるから「魄を載せ営み」とする。そこで「一を抱いて」いれば問題となるようなことは生じない。「真土」とは、我の「意」のことである。「意」とは「土」であり、そうであるから「真土」と称されるのである。この「真土」の玄妙さは、「五行の祖」であるところにある。これは大丹の基であり、これをして神は気と融合する。気をして精と融合されることができるのである。真息は綿綿としており、四象五行は、乱れることがない。「一を抱く」ことを求めることがなければ、魂魄は自然に一を抱くことになる。 〈奥義伝開〉三魂は「天、地、人」で、魂には天によるもの、地によるもの、人によるものがあるとする。「天」とは人であればだれでも持っている心の働きで、「地」はその土地(環境)によるもの、「人」は学習などによって得られた心の働きである。七魄は「喜、怒、哀、懼(おそれ)、愛、悪(にくしみ)、欲」である。七魄も、たとえば満腹して「喜」のは人間誰しもであるから「天」によるものであるし、ダイヤモンドをもらって「喜」のはその価値が認められるところとそうでないところがあるので「地」によるもの、好きな俳優のサインをもらって「喜」のは「人」によるものといえよう。こうしたものをあるべき状態にするのは「真土」である「体」であると教える。つまり「体」の使い方、日々の生活の実践の中で正しい魂魄の働きが得られるように修行がなされるべきとしている。

道徳武芸研究 ○、△、□の力(4)

  道徳武芸研究 ○、△、□の力(4) 現在は形意拳、八卦掌、太極拳を共に練習するのが普通であるように見なされているが、これをはじめて意図的に一つのシステムとして捉えたのは孫禄堂であろう。孫は形意拳学、八卦拳学、太極拳学としてこれらが等しく「学」という心身の深い働きを探求するための方途であることを提唱したのである。形意拳と八卦掌(拳)がひとつになることはすでに「△」と「○」で説明をしておいた。ここに太極拳が加えられるのは孫がたまたま太極拳を学ぶ機会を得たということもあるが、現在三拳を同時に練習することが孫派云々を関係なく広く行われているところを見れば、そこに何らかの必然性、つまり「□」である静坐の代わりとして太極拳が取り入れられたのではないかと考えられるのである。陳微明の『太極拳答問』には静坐と太極拳の修行について、静坐はそれを修するのが難しいが太極拳は容易であるとしている。それは太極拳は動きをただ行うだけで一定の集中状態に入ることができるが、静坐では意識を制御して集中を得るのが困難であるとしている。この静坐評の当否はともかくとして陳微明は太極拳と静坐が同じものとして煉ることの可能性に答えているわけである。つまり形意拳(△)と八卦掌(○)の修練は太極拳(□)を加えることでシステムとして完成するわけである。そうであるから現在、多くの人に三拳を共に練ることが受け入れられているのである。

道徳武芸研究 ○、△、□の力(3)

  道徳武芸研究 ○、△、□の力(3) また陳家太極拳では「一路」もかつては現在よりかなり激しく練っていたが、次第に「太極拳」としての一般的なイメージに合うように(それは楊家などと共に演武をするようになったこともあると思われるが)大きくゆったりとして低い動作に変わって行く。これはまた一方で実質的に一路を「○」、二路を「△」としてシステム上の完成をはかる上では、一路はより楊家などに近いものとならざるを得ない必然性も存していたと考えられる。陳家の法捶を太極拳として完成せしめる上で重要な働きをした楊家太極拳は「行功」と称する「○」の套路しかない。もちろん武術的な力を得ようとするのであれば「△」の練習が必要なのであるが、それは伝統的には「長拳」として練られていた。楊家太極拳を初めて北京で教えた楊露禅ははじめに「長拳」を教えた。その名残りはこの時に教えを受けた全佑を通して呉家に快拳として残っている。呉家では露禅の後に北京に来た息子の楊班侯から「行功」の教えを受けたので、それは呉家の慢拳となった。このように呉家には楊家の二つの套路が伝えられている。実は楊家では「長拳」はきまった形があるわけではなく各自がそれぞれに工夫をすることになっている。これにより他の武術の優れた技を取り入れることをも可能としているわけである。楊家の系統の快拳で有名な指導者に董英傑が居るが、台湾でわたしが師事した鄧時海老師も独自の拳を編んでおられた。

道徳武芸研究 ○、△、□の力(2)

  道徳武芸研究 ○、△、□の力(2) それでは胎蔵界曼荼羅ではどうであろうか。これも「□」で結界が切ってあるが、それは同心円状「○」に積み重ねられている。そして中央には「△」が明確に描かれる。胎蔵界の大日如来はすでに曼荼羅に「△」が描かれているので智拳印で瞑想をしている姿で「△」を示す必要がなくなり、一般的にな仏教の瞑想に用いられる印である法界定印を結んでいる。このように密教の二つの曼荼羅は「○、△、□」の象徴で構成されていることが分かる。またこうした記号を武術的に解釈するなら「△」は力の集中であり、「○」は螺旋のような巻き込む働き、そして「□」は安定、静ということになろう。武術ということを狭く捉えるならば「△」と「○」で完結する。そしてそれに静坐である「□」をさらに修することで心法を煉ることが可能となることがこうした記号の解釈を通して構造的に知ることができる。形意拳と八卦掌がともに練習されるようになったのは、形意拳の「△」には八卦掌の「○」が必要であったからに他ならない。すでに説明したことがあるが形意拳では滾勁という螺旋の力を奥義として研究していた。それを表現するものとして最も適当であったのが八卦掌であった。ためにそれを取り入れたわけである。陳家太極拳は昔は陳家砲捶という激しい「△」の形を専らとしていたが、陳長興の時に太極拳を取り入れて現在「一路」とされる套路が考案される。これにより「○」の練習か可能となり陳家砲捶は陳家太極拳「二路」としてシステム上、大いに完成度を高めることになるのである。

道徳武芸研究 ○、△、□の力(1)

  道徳武芸研究 ○、△、□の力(1) 禅僧の掛軸などでは、よく墨で円だけを書く「一円相」が知られているが、他にも「○、△、□」を書くこともある。禅では最終的な境地を「○」で示すわけであるが、「△」は坐禅をしている姿、「□」は囲まれているとらわれの状態をいうとする解釈がある。また植芝盛平もこうした象徴を用いて合気道の理を説明していた。ここではこれらの記号を「力の象徴」と考えてみようとしている。中国では「天は円、地は方」とする宇宙観がある。また「天人地」という「三才」によって空間を認識しようとする考え方もあるので、そうしたことも含めるならば「△」は人と解することができる。つまり天は「○」で、人は「△」、そして地は「□」ということになる。こうした空間認識、宇宙観は密教の曼荼羅にも見られる。曼荼羅は基本的には「□」で区切られた中に神仏が展開している。それは大日如来の居る結界の中ということになる。金剛界曼荼羅は大きな「□」の中に九つの「□」が並んでいる。これであれば「□」しかないことになるが、横に三つと縦に三つの九つの「□」は右下から螺旋状に巡って中央へとその境地を高めるものとする。つまりここには螺旋である「○」の動きが生じているわけなのである。それでは「△」はどこにあるのか。金剛界の大日如来は智拳印を結んでおり、それは体の中心に上昇するエネルギー(クンダリーニ)が開かれることを象徴している。これが「△」である。このように金剛界曼荼羅では「□、○、△」のすべての力が示されていることが分かる。

宋常星『太上道徳経講義』(10ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(10ー1) ここでは人の体とは、つまりは「国」を持っているようなものであるとする。体には「気」がある。それは「国」に「民」があるようなものである。この「国」の中には君臣、父子、夫婦、陰陽があって、国にあって人の体に欠けているものなどない。そうであるから修道の人にあって、もし体は安らかで、気が順調に流れているなら、それは体という国土は安泰であるといえる。もし、よく無欲、無為であったなら、「体」の中の「万民」は自ずから静を得るであろう。ここでは「一」を抱いて気をあるべき状態に保つことが述べられているが、それはまさに自分の体が安らかで気が順調に流れているということなのである。ここではまた「玄覧を滌(あら)い除く」ともある。これは「国土」を清静にすることであり、無為であるということである。それはつまりは私欲をして民を乱すことがないということでもある。また「知ること無し」ともあるが、それは隠れて徳を厚く行うことで、その姿は一般の人々と何ら異なるところがないということである。ここで述べられていることの秘密の教え(密旨)は、体において用いて体を修めるる、というところにある。またこれを家に用いれば家を調えることができる。これを国に用いれば国を治めることができる。仮にもしそうでなければ、ただ自分の中には利欲や怨念が少なからずあって、そのためにわけの分からない行動をしてしまうことになる。つまり体を修めることはできないわけである。家を調えることはできないわけである。国を治めることはできないわけである。そうであるから丹を煉ろうとする者は意図して煉らないことをして、あえて丹を煉るのである。道は無為にして為されることを為すのであって、それは譬えば三茅真君の言うように「霊台は清く澄んでいて氷壺のよう。ただ元神がそのに居るのを許すのみ。もしこの壺の中にひとつでも物を留めたならば、どうしてよく道が虚清と同じであることを証しできようか」ということになる。体の中の「国土」は自然であり清静である。またここでは「玄徳」が述べらているが、これはすべては心において道が明らかにされるということである。こうしたことを体を修することをして国を治めることに例えて教えている。 〈奥義伝開〉宋常星は老子の教えの中に儒教の四書のひとつである『大学』にある考え方を読み取ろうとしている。そこ...

宋常星『太上道徳経講義」(9ー6)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー6) 功を成し、名を遂ぐれば、身を退くは、天の道たり。 最後の一文は、これまでを総括するものといえよう。それは朝が来て夕方になって一日が終わる時の流れ、日や月が登って沈むその運行といった天の道そのままであり、そこに何らの遅滞のあることもない。そうであるからそれは人においてもまったく正しいこととすることができる。もしよく世に功を成すことができたならば、それ以上を求めないことである。名をついに遂げたならば、それくらいで止めておくべきである。そうでなければならない。盈(みつ)ればそれが欠け始めることに注意をしなければならない。鋭すぎる(やりすぎる)と、それは折れ始めるのであるから、その鋭さを保つことなどできないのである。金や玉も貪りすぎてはならない。富貴もそれを驕ってはならない。天の道を見て、天の運行を知って天の道を行うのである。そうであるから「世の成功を収め、名声を得たならば、身を引く時で、それが天の道である(功を成し、名を遂ぐれば、身を退くは、天の道たり)」と述べられているのである。 〈奥義伝開〉満ちれば欠ける。その自然のままに生きれば災いにあうこともない。しかしあえて満ちたままの状態をなんとか保とうとするとそこに破綻が生じる。こうした自然のあたりまえの働きをよく知るべきと老子は教えている。あらゆるものには「終わり」があるのである。しかし人は往々にして「永遠不変の価値」を夢想する。そしてそうしたものが「ある」と言われれば、それに頼りたくなる。ここに誤りの第一歩が生まれる。

宋常星『太上道徳経講義」(9ー5)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー5) 富貴にして驕れば、自らその咎(とが)を遺(くわ)う。 富貴の栄を得ても、それで完全に満足が得られることはないのであるから、富貴を誇ることなく自分の身を保つことである。自分を牛飼いのように卑下して、金持ちであるからといって驕りの気持ちを持たないようにする。他人を見下すようなことをしなければ、相手も必ず謙譲の態度を示してくれよう。そうして自分も相手も争うことなく、あらゆるものが「和」すれば、どうしてそこに問題が生じようか。どうして処世の誤りが生じようか。そうであるから「金持ちを驕れば、人生の失敗を招く(富貴にして驕れば、自らその咎(とが)を遺(くわ)う)」とあるのである。ここで思うのは人の「性」の中には、金持ちになりたいと思う気持ちがあることである。精気神の三つの宝を人は有しているが、精気神は天地の「生成の気持ち(生意)」そのものである。それを我が身に帰すれば、天地の造化を得ることになろ。そしてそれは永遠の働きを得ることでもある。寿命は延び、生死の囚われからも脱する。それが本当の意味での「金持ち」となることであろう。もし貪りの心が深く偽りの「金持ち」となることに執着したならば、精は消耗し、神は定まるところを失う。そうしていろいろの病におかされるのが落ちである。億万の金をしても、不死を買うことなどできないのである。 〈奥義伝開〉宋常星はここで「性」には「金持ちになりたいと思う気持ちがある」としている。一見して性悪説をとっているようであるが、この「金持ち」というのが、天地の造化と一体となることであり、そうしたことが本来の「性」によって立つものであることが述べられる。中国では人の本質的な心の働きである「性」に欲望のあることを否定することはない。ただその欲望は天地と一体であり、自然と一体であるとするわけである。さらに正確にいうなら、それは欲望として持ったり、持たなかったりするようなものでなく、自ずから心の働きとして発してしまうものと考えられている。そうした「性」の働きである「造化」とは万物を生み育てる働きであるから、たとえば人を殺すようなことはどのような場合であっても、人の本来的な心の働きとして存することはない。軍隊で厳格な規律が重んじられるのはこうした「性」の働きを抑制するために他ならない。

道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(4)

  道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(4) また八極拳も接近戦を基本としていて、これは「靠」に特徴を見ることができる。「靠」は太極拳の基本でもあるが、こうした体当たりは実はひじょうに効果が高い。うまく体当たりをされると息は止まるし、重心は浮いてしまう。かつては剣術でも体当たりの練習は行われていたくらいで、タイミングと当たり方の秘訣を習得できれば大きな武器となる。もちろん太極拳の「靠」と八極拳の「靠」とはその方法は違っているが、間合いが詰まってしまった場合にはこうした技は有効であり、頭突きなども「靠」の一種とすることもできよう。また日本では剣術の他にも心眼流や諸賞流などでも体当たりを見ることができるし、柔道の古式の形に残る起倒流の技(真捨て身技)も「靠」の応用とすることができる。これは相手と密着した状態からあえて自分が倒れることでその遠心力を使って相手を投げようとする技である。かつて八極拳と心眼流が似ているといわれたこともあったが、確かに近い間合いで体当たりを用いるところなど戦略的にはほぼ同じ立ち位置にあるといえるのかもしれない。日本での八極拳のブームはある意味で失われた古武道(体当たりなど)の復活という側面もあったかと思われる。

道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(3)

  道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(3) ブルース・リ熱(ブーム)の残したものとしてアメリカでは詠春拳、日本では八極拳のあることを指摘しておいたが、これらは共に接近戦を基本とするシステムである。通常の武術は一歩踏み込んで攻撃を当てることのできる間合いを基本とするが接近戦をベースとするものは半歩の間合いとなる。これは腕を触れ合わせた状態での間合いで、中国武術の試合や対人練習での基本の間合いでもある。詠春拳はこうした近い間合いで相手の攻撃を受けるために腕を斜めにするなど工夫をしてその衝撃を最小限としようとする。そして細かな腕の角度と衝撃とのバランスを会得するために木人を使う。太極拳などが相手の攻撃を引き入れている「距離」をとってその間に相手の攻撃の角度を変化させる(化、走)のに対して、そうした「距離」の存しない間合いにある詠春拳では自分の腕の角度を調整することで相手の力を受け流そうとするわけである。そして肘などで頭部を、掌で頸部を攻撃する。よく映画などで詠春拳を拳の連打で相手を倒すように描いている場合もあるが、これは一歩の間合いとして詠春拳を間違って理解しているからである。また映画の演出として詠春拳の本来の間合いでは分かりにくいということも関係していよう。接近戦では当然、蹴りの攻撃は難しい。こうしたことが手技中心のボクシングに近い中国武術として詠春拳が受け入れられたのかもしれない。ただ詠春拳は拳による攻撃を主とするのではなく、鶴拳の奥義である「掌」が基本であることは注意しなければなるまい。そうでなければ詠春拳全体のシステムの誤解を招くことにもなりかねないであろう。

道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(2)

  道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(2) 八極拳は中国の一地域で練られている武術に過ぎなかったが、たまたまそれを学んだ劉雲樵が台湾に渡っており、松田隆智が師事したために日本で八極拳が注目されるようになった。一方、アメリカではブルース・リーが香港で習得していた詠春拳や創始した截拳道が広まった。香港は日本にも近いが不思議なことに詠春拳に関心が集まることは驚くほど少なかったように思われる。それは南拳は力任せである、とする価値観が定着していたからかもしれない。こうした価値観を松田が広めたとことは先にも触れたが、伝統的に日本では「力を使わない武術」が高級とされる傾向が前提としてあったことも事実であり、それは近世から続く「柔(やわら)」の伝統につらなるものでもある。武術家としてのブルース・リーのブームは日本ではしばらくすると失われて行くが、アメリカでは現在でもブルース・リーのファンはかなり多く、截拳道への関心も深いようである。截拳道は「截拳道概念」という考え方がベースとなっていて、技そのものいろいろな武術から取り入れたりして自由に組み立てることができる。

道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(1)

  道徳武芸研究 詠春拳と八極拳(1) ブルース・リーの映画「燃えよ!ドラゴン」が公開されてから世界的な中国武術ブームが起こるわけであるが、こうしたブルース・リー熱は中国武術への関心を多くの人に促すことになる。その結果としてアメリカでは詠春拳が、日本では八極拳が人気を博することになった。ただ日本では当初はブルース・リーの映画を「カラテ映画」としており、空手や少林寺拳法を習う若者が急増したという事実もある。しばらくして、中国武術への認識も深まるようになると、こうした映画は「功夫映画」であり、ブルース・リーが使うのは空手ではなく、中国武術であることが知られるようになってくる。当初から映画雑誌などで中国武術の正しい情報を提供していたのは松田隆智で、それによって日本での中国武術への認識が深まると共にそれは松田の持つ価値観がそのまま広まることにもなって行った。ために「最高の中国武術は八極拳である」「陳家太極拳は一般的な太極拳とは違って実戦的」「南派の武術は力任せで、勁という特殊な力を使う北派に比べて劣っている」などとする誤解も受け入れられてしまうのであった。そのため日本では「最強の中国武術」としての八極拳の習得を希望する人が多くなって行った。

宋常星『太上道徳経講義」(9ー4)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー4) 金玉、堂に満るも、これをよく守ることなし。 金や玉は自分自身の外にあるものである。本当に内にある道徳が重要であると分かっているなら、あえて外にあるものを取り込もうなどとは思わないであろう。身命こそが重要であることが分かっていれば、金や玉を多く得ようと誤った貪りの心を持ってしまうこともあるまい。かりに家の中が金や玉で一杯と成ったとしても、亡くなる時には、それを死後の世界に持っていくことなどできはしない。そうであるから「金や玉が家一杯であっても、それを永遠に自分のものとすることはできない(金玉、堂に満るも、これをよく守ることなし)」とされているのである。修道の人は、もしよく身の中の「金や玉」を得たなら、「性命の真常」をよく養うことができよう。そして身の外の「金や玉」は穢れたものとして映ることであろう。そうなれば心は自ずから清浄となり、進退の時を知っていて、貪ることも誤った考えを持つこともない。永遠に清浄な心のままで居られるのである。 〈奥義伝開〉身の内の「金や玉」とは、先天真陽の気のことである。これは「虚」であるとされる。つまり「実」の世界の他に「虚」の世界のあることを知る経験が身の内に「金や玉」を得ることになる。これを「得丹」などともいう。「実」の世界では社会秩序により故人は厳然として支配しているが、内的な「虚」の世界にはそうした一切の支配の及ぶことがない。しかし、こうした本来は自由な内的世界も、外的な秩序を経なければ入ることはできないと宣伝されていることが多い。組織に属したり、教えを受けないと「正しい道」に入れないというのである。こうした固定した行為や考えはすべて「実」であり、これを通しては真に「虚」の世界に入ることはできない。

宋常星『太上道徳経講義」(9ー3)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー3) 揣(おさめ)てこれを鋭くす。常に保つべからず。 聡明であったり、才知に優れていたりする人は、それを収めることを重視するべきであり、けっして見せびらかしたり、誇ったりしてはならない。それは鋭い刃を収めるようなものである。初めは磨いて鋭くする。そして注意して磨いて適当なところで止める。とめどもなく鋭くして行って、一本の毛が触れて、それに息を吹きかければ切れる程になったならば、それ以上にすることはないであろう。しかし、こうした刃には物を切る以外に、それが折れて使う人を傷つけるということがあるのを知らなければならない。刃をととのえることが余りに過ぎたならば、折れやすくなってその状態を永く保つことはできない。人の聡明さや才知も、あまりにそれを誇ったならば、鋭すぎる刃と同じく永く無事ではいられない。そうしたことを「調整をして刃を鋭くしたなら、何時もそうした状態であることはできない(揣てこれを鋭くす。常に保つべからず」としている。古の聖人は天下のあらゆる「知」を「知」として得ていたのであり、天下のあらゆる「善」を「善」として得ていたのであるが、こうした大いなる知を得ている聖人は愚かであるように見えるものである。本当に巧みであるものはその中に拙劣なるものを含んでいる。ただ一般的にはそれが見えないだけで、そうであるから不都合の生じることがないのである。 〈奥義伝開〉これはある特定の目的に特化し過ぎると、変化に対応できなくなるということである。刃物で「切る」という目的に特化し過ぎると、「折れる」という事態に対処することができなくなる。武術も攻防に特化し過ぎると、心身の健康に破綻が生まれる。また攻防にしても、常に「組手」をしていると、その「組手」の範囲の攻防には長じてくるが、それ以外のパターンにはかえって対応が難しくなったりする。どのようなものにあっても、ある程度の「無駄」「遊び」を確保しておくことが重要なのであり、中国武術でひとりでの形が多いのもそうした理由によっているのであって、あえて強くなることに特化しないようにしているわけである。

宋常星『太上道徳経講義」(9ー2)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー2) 持ちてこれ盈(みつ)れば、それ已(や)むにしかず。 天の道にあっては「虚」が貴ばれるが、「盈」はそうではない。「虚」であればなんでもそこに入れることができるの妙がある。しかし「盈」ではこぼれ落ちてしまう心配があろう。「盈」を持つとは、一杯になった器を持っているイメージで、少しでも器を傾けてしまうと溢れる心配があるわけである。そうであるので、一杯になった器を持つことは止めた方が良いということになる。むしろ持たない方が良いというわけである。一杯になった器を持つことを止めれば、つまりは「盈」てどうなるかといった心配はなくなる。器を傾けてこぼしてしまう心配はないわけで、体も心も緊張がなく安心していられる。これは善いことではなかろうか。そうであるので、「(一杯になった器は)持ちこれ盈れば」「(持つべきではない)それ已むにしかず」とあるのである。「盈」を持つとは、ただ一杯になった器を持つということだけではなく、高位高官を極めたり、范蠡(はんれい)のように巨万の富を蓄えたりすることでもある。そうなればなったで、そこまでには自分の実力は至らないのではないかと心配したり、得られた名も財もたいしたことはなく、まだその上があるのではないかと思ったりして、常にそうしたものを失うような危険は避けるようにして、小さなことでも気になって仕方がない。こうして心配ばかりしているのは、どうして器が一杯で心配をしているのと異なることろがあるであろうか。道がそうであれば進み、道がそうでなければ退く。得ることに執着することなく、貪ることもない。このように道のあるがままでいれば永く安らかでいることができるのであり、たとえ「盈」を持ったとしても、その災いを生涯受けることはないのである。 〈奥義伝開〉やり過ぎにならないように適当なところで止めることを考えなければいけない。これは自分が「適当」と思う一歩手前くらいが適切な時機のようである。「まだやれる」「いま止めるのは惜しい」と思うくらいの時に止めるのが良いのであり、この時機を逸すると自分では止めることができなくなってしまうことがある。ものごとを止めるのにも気力が要るのであり、その余裕を失ってしまえば、もうどうすることもできなくなってしまう。こうしたことを「天機を逸する」という。

道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(4)

  道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(4) 聖なるエネルギーへと変容した「龍」は、次には「天」へと飛び出す。「龍、飛びて天に在り」と「易経」には記されている。ヨーガでいうならムラダーラ・チャクラからサハスラーラ・チャクラへクンダリーニが昇ったということになろう。静坐では進陽火が頭部の泥丸へと至った、上丹田へと至ったとされる段階である。そして最後には「群龍を見るに首無し」とある。龍は群をなしているが、どれも首をもっていない、というわけである。これは静坐などのエネルギーの浄化だけでは日常生活に何ら資するものは生まれないということを教えている。つまり静坐や坐禅だけをやっていても武術は上達しない理由がここにある。こうしたところを王向斎は「気を勁に換える」としているが、まさにそうした段階がなければ静坐で養われたものを武術的な力として展開することはできない。つまり「龍」に「首」をつけなければ、何らの静坐を何ら日々の生活の役に立てることはできないのである。そのためには套路の練習によって合理的な心身の動かし方を習得しなければならない。套路を練ることで「気」は「勁」へと変化する。これら武術への展開にツイテは「用」を示す坤卦において説明することになる。「易経」は何度も易占をした結果が集められているものであるからいうならば「思いつきのメモ集」である。そのため全体を通した理解を求めようとしても意味は通じない。乾卦なら乾卦で大枠、似たようなイメージの情報が集められているに過ぎないからである。こうした「易経」の特質に留意しなければ「易経」はまったくの理解不能の書となってしまう。

道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(3)

  道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(3) 静坐でも先天真陽の一気を感得してもそれを進陽火によって頭頂へと上げなければ、それは生殖の欲望にひかれて「精」となって流れてしまうとされる。もちろん「潜んでいる龍」を感得しただけの状態の心身は、完璧に聖なる状態を希求するレベルからは程遠い。ただ「虚」の一端、聖なるもののあること、その重要性を感得し得たに過ぎない。それは往々にして「実」に流れ、欲望に支配されてあるべき方向に進むことができなくなることもあるのである。田にあった龍つまり「蛇」はいよいよ淵にあって「龍」となる「易経」には「躍(おど)りて淵に在り」とする。「淵」は老子も語るように深い瞑想の境地をイメージする語と解することができる。老子はしばしば「道」を「淵」のイメージで語っている。ここに「田」にあった蛇は、「淵」にあって「龍」と化すのである。つまりここに「変容」の生じていることが示されているわけである。つまり深い瞑想の境地である「淵」を体得することによる生命の根源の力である先天真陽の気は聖なるものへと「変容」を遂げようとすることになるのである。

道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(2)

  道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(2) 乾卦は純陽で「陽」だけの卦であり、そこには「龍」のシンボルを多く見ることができる。最初は「龍潜(ひそ)む(潜龍)」とある。この「龍」というのは先天真陽の一気のことで、「龍」という象徴からすればヨーガのクンダリーニの方がより分かり安いのかもしれない。要するに先天真陽の一気とされるエネルギーは「龍」や「クンダリーニ(蛇)」のような螺旋の状態もものとして感得されるわけである。中国武術で往々にして「螺旋」の動きが重視されるのはここに淵源している。そしてそれを実際に体験するのが次の「龍を見る」である。静坐では「煉己」と称される段階で「虚」を感得して、ある種のオカルティックな力を体験することになる。「龍」は肉眼では見ることができない。そうしたものを「見る」つまり体験するのがこの段階となる。これは「静」を得ることによって実現するといわれている。この「龍を見る」でおもしろいのは「田に在り」としていることで、龍が田に居るのを見ると「易経」にはある。龍といえば深い池や海の底に居るのが普通で田の中に居るとするのは奇異のように思えるが実はここでの「龍」とは「蛇」のことなのである。ヨーガではクンダリーニ・シャクティともいわれるように、クンダリーニという聖なるところに向かうエネルギーの根源にはシャクティなる生命の始原的な力が宿されているのであって、それを浄化して聖なるレベルまで高めるのがクンダリーニの覚醒とされる行程となるわけである。こうした始原のエネルギーは「蛇」と感得される。

道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(1)

  道徳武芸研究 九華派八卦掌 乾卦解(1) ここでは九華派八卦掌居敬窮理学派の立場からの「易経」の解説を行おうと考えている。九華派八卦掌居敬窮理学派は、九華山が董海川(八卦掌)や王陽明(静坐)と関係していることから居敬窮理学派の静坐と龍形八卦掌が癒合して名付けられたものである。それはともかく九華派では「易経は八卦掌の注釈書」と考える。これは鄭曼青も同様で「易経を読めば太極拳が分かる」と教えていた。八卦掌にしろ、太極拳にしろその根本とするところは自然そのものであるのであるから自然と人とのあり方を知ろうとした「易経」をベースとしてそ武術を深く体認することは当然あり得るべきことなのである。さて九華派では、乾卦と坤卦はひとつのものと考え、そしてそれを「体」と「用」と位置付ける。これは陽と陰であるから「易経」の森羅万象が陰陽で成り立っているとする基本の考えと同じところに立っているということになる。「易経」は六十四の卦があるが、その根本は陰陽(両儀)で、それが八卦に展開され、更には六十四卦に分かれることになる。八卦掌の八本の形をそれぞれ八卦にあてはめることも古くから行われているが、それ自体にはほとんど意味はない。加えて門派によっては六十四卦もそれぞれ形を考案していることもある。しかし、こうなるとあまりに余計な形がそこに混入してしまうことになり、結果として実質的に練習をして行く上で「易経」との関係を考えることもできなくなってしまっている。

宋常星『太上道徳経講義」(9ー1)

  宋常星『太上道徳経講義」(9ー1) 聞くところによれば、(太古の聖なる王の)堯帝は天下を貴いものとは見なしていなかった。そうであるからこれを舜に授けた。舜もまた天下を得ていることを楽しいとは思わなかったので、禹にそれを授けた。では天下とは何物であろうか。それは吾が心を煩わせるものに過ぎないのではなかろうか。現在の人は何時消えてしまうかもしれないような名声にしがみついていること久しく、何時無くなってしまうかもしれないような金銭にしがみつくことを常としている。そうして名や財を得たならば喜び、失ったならば悲しむ。これはまさに「(有り余るほど持つ)持ちて盈(みつ)る」ということであるが、この時こそが身を引く時期であるということが分かっていない。聖人は名を得ても、それが永遠なものであるとは思わない。財を得たとしても、それが失われないとは思わない。無欲無為で、完成された道徳を実践しており、すべてが天の道、自然と一体となっていて、生涯において道徳を外れることはない。この章では「望み通りに得る(盈を持つ)」ことについて述べられているが、これは「虚」(つまに何をも持っていないの)が人の本来であると教えるためである。「雌」の働きを専らに行い、進退にその時を逸することがなく、上は天の道と一体となっている。それがここでの教えである。 〈奥義伝開〉老子は内的な修養がある程度の完成を得ていれば社会的な成功を収めることができるとする。しかし、それに囚われてはならないとも教えている。財産や名声はその時々で得られたり、得られなかったり、あるいは失ったりもする。それを気にしないで居られるのは内的な充実があるからである。また財産や名声を得たならば、そうした自分を凌ごうとする人が現れることもあるわけで、そうなると争いが生まれ、道を外れてしまう。そこで争いが生まれる前に身を隠すのが引き時であるとしている。

宋常星『太上道徳経講義」(8ー11)

  宋常星『太上道徳経講義」(8ー11) それただ争わす。故に尤(とが)無し。 これまでに水には七つの善の妙があることが示されてきたが、それはすべて争わないという道でもあった。水はまったく万物と争うことがない。そうであるから万物もまた水と争うことがないのである。水と万物は争うことがない。これを水の「上善」という。善く万物を和するのである。万物すべてがその和を得たならば、どうして水に怨みや尤(とが)の生じることがあるであろうか。こうしたことを「ただ争わす」と言っている。争うことがないから尤もない。ここではこのようなことが言われている。もし心が止水のようであれば、高いところから下へと流れて低いところに居るのことになるが、これは「善地」に居るということである。もし虚心で志を養えば、意識は外に向かうことなく内面を見つめる(含光内照)ようになるが、これは心が「善淵」の虚地にあるということである。またあらゆるものを愛して捨て去ることのないことを続けたならば、それは「善仁」を行ったことになろう。言うことが誠で、心と口とが一致していれば、これは「善信(まこと)」を言っていることになろう。物を扱うのに、自分にも他人にも執着することがなければ、これは「善治」において対していることになろう。またもしどのような形でも、適宜適用に合わせることができたなら、それは「善能」を働かせているということになろう。また行うべきを行うことができ、止めるべきを止めることができたならば、それは「善時」に動いているということができる。こうした七善が実践されていれば、あらゆる物がうまく行くし、道そのものが実践されているということになる。争わない境地に居れば、またどうして天下に怨みや尤を得ることなどあるであろうか。 〈奥義伝開〉老子は調和を「善」と見るのであり、それを「水」の働きから感得したようである。考えてみれば太極の双魚図も二匹の魚が互いに追い合っている様子といわれるが、これを渦巻きと見ることもできるであろう。「淵」には静かなところ(無極)もあるし、渦を巻いているようなところ(太極)もある。「善能」のところでも述べたように、こうした老子の感覚は後には更に細かな表現となって、ただ「水」とされたものが無極や太極といったものとして表されるようになるのであるが、その根本は同じであることを知らなければならない。ま...

宋常星『太上道徳経講義」(8ー10)

  宋常星『太上道徳経講義」(8ー10) 善時に動く。 物質としての水は、丸い器に入れれば丸く収まるし、四角の器に入れてもそれに収まる。穴に満つればあふれるし、天において活動が盛んになれば雨となる。人のあるべき行いにおいて逆らうことなく、天の時に違うこともない。こうしたすべてが善なる水の時を得たすばらしい働きなのである。人は天の時を違えることはできない。人のあるべき行いの時に違うことはできないのである。そうであるから行われうるべき時には行われ、止めるべき時には止められなければならない。何事も不適切に為されることはなく、何事も不適切に発言されることもない。それはまた水が「適切な時に働く(善時に動く)」ということなのである。 〈奥義伝開〉「善時」は「天機」でもある。つまり変化の時である。変化するべき時に適切な変化が行われなければならない。ただこの「天機」はそれをねらって行おうとしても行うことはできない。人の意図が入れば天機にちょうど合わせることはできないのである。そうであるので無為自然にしておれば良い。無為自然であれば自ずから天機と同調しているので、「善時」に動かないことはない。これまでなんとか占いなどで「天機」を知ろうとする努力がなされて来たがすべては失敗している。それは人為で知ることのできない「自然」の働きであるからである。