宋常星『太上道徳経講義」(9ー1)
宋常星『太上道徳経講義」(9ー1)
聞くところによれば、(太古の聖なる王の)堯帝は天下を貴いものとは見なしていなかった。そうであるからこれを舜に授けた。舜もまた天下を得ていることを楽しいとは思わなかったので、禹にそれを授けた。では天下とは何物であろうか。それは吾が心を煩わせるものに過ぎないのではなかろうか。現在の人は何時消えてしまうかもしれないような名声にしがみついていること久しく、何時無くなってしまうかもしれないような金銭にしがみつくことを常としている。そうして名や財を得たならば喜び、失ったならば悲しむ。これはまさに「(有り余るほど持つ)持ちて盈(みつ)る」ということであるが、この時こそが身を引く時期であるということが分かっていない。聖人は名を得ても、それが永遠なものであるとは思わない。財を得たとしても、それが失われないとは思わない。無欲無為で、完成された道徳を実践しており、すべてが天の道、自然と一体となっていて、生涯において道徳を外れることはない。この章では「望み通りに得る(盈を持つ)」ことについて述べられているが、これは「虚」(つまに何をも持っていないの)が人の本来であると教えるためである。「雌」の働きを専らに行い、進退にその時を逸することがなく、上は天の道と一体となっている。それがここでの教えである。
〈奥義伝開〉老子は内的な修養がある程度の完成を得ていれば社会的な成功を収めることができるとする。しかし、それに囚われてはならないとも教えている。財産や名声はその時々で得られたり、得られなかったり、あるいは失ったりもする。それを気にしないで居られるのは内的な充実があるからである。また財産や名声を得たならば、そうした自分を凌ごうとする人が現れることもあるわけで、そうなると争いが生まれ、道を外れてしまう。そこで争いが生まれる前に身を隠すのが引き時であるとしている。