道徳武芸研究 如何に「合気」を練るべきか〜システム論の立場から〜

 道徳武芸研究 如何に「合気」を練るべきか〜システム論の立場から〜

合気道や大東流で問題となるのは「合気」の技が効かないという点である。最近は動画などで他の武術の経験者や全く武術の経験のない人に技を掛けるシーンを少なからず見ることができるが、その場合には二ヶ条や小手返しなど関節技が主であり、本来もっとも特徴的であるはずの「合気」を使った技は行われない。それは「合気」を使った「技」が技として成立しないからである。演武では少し触れただけで派手に飛ばされる「弟子」も説明している時にうっかりしていて「合気」を掛けていることが前提となっていることを聞き逃したりしてしまうと「普通」に先生の手を取ったままで居たりする(「合気」を掛けているという前提がなければ少し腕を動かしたくらいでは動きようがない)。

孫子は「彼を知り己を知れば百戦殆からず」と教えている。技として成立していない「技」を日常的に繰り返すことは「己」を見失うことになるし「彼」をも知ることができなくなる。もし正しく「彼」を把握していれば「合気」の「技」が通常の意味での技として成立していないことが分かるであろうし、そうなればそうした無意味な稽古は是正されることになろう。さらに悪いことに「合気」の迷路は触れないで相手を倒したりするなど他の武術をやっている人からすれば全くの迷妄の世界に迷うことになるのである。ここで述べようとするのは、こうした迷妄に陥る原因が合気道、大東流のシステムから由来しているのではないか、ということである。


大東流は、柔術、合気柔術、合気之術の三大技法によって構成されるのが本来の形であるとしたのは鶴山晃瑞であった。以降、この分類は便利なのでいろいろな人が使っている。しかし、これらの区分の個々の違いは必ずしも明確ではない。どれも基本的には柔術の技と見えてしまうからである。しかし、こうした分類に何らかの妥当性を多くの人が認めているのは、システムとして大東流にそうした分類を成立させる「何か」があると感じられているからであろう。

私見によれば柔術は制圧法であり、それは関節技を主体としている。これに対して合気柔術は離脱法であり、これは呼吸投げなどに代表される。合気之術は現在の大東流では柔術技とされているがシステム論上からは合気上げとされるべきであろう。掛からない技として問題となるのは「合気柔術」の部分である。これがなぜ掛からないのか、それは「合気柔術」が離脱法として構成されているからである。これを制圧法として展開しようとすると技として成立し得なくなるのはシステム上は当然である。そのためあえて柔術技を組み込んでいるのが大東流であるが、そうなると柔術との違いが不分明となって来る。一方の合気道ではより「合気柔術」のシステムを純化し呼吸投げとして展開をした。大東流よりさらに柔術的な要素、関節技としての側面をなくして行ったわけである。


ここで興味深いのは合気上げは普通の人にも掛けることができるという点であろう。ただ合気上げは呼吸投げのような「相手の気(意識)を導く」ことの必要な技ではない。ただ手首の関節を極めるだけなので適切な練習をすれば容易に習得はできる。もちろんこれは他の関節技と同様に、どのくらいの力の差まで効かせることができるかは修練による。小手返しでも初心の内は腕力のある相手には掛けにくい。しかし修練を積んで行くと、掛けるポイントが分かってくるのでほぼ腕力に関係なく技を掛けることができるようになる。関節技のポイントは手首や肘、肩など人体のウイークポイントをどれだけ集中して攻められるかにある。

合気上げは実は二つの動きで構成されている。ひとつは「合気」でもうひとつは「上げ」である。手首の関節を極めるのが「合気」であり、これにより相手の手から肩そして身体の中心軸をコントロールできるようになる。そして腕を「上げ」て実際に相手の身体をコントロールするわけである。この場合、互いに座っていれば相手を投げることができるが、立っている時には相手が動いてしまうと投げるところまでコントロールすることはできない。これを投げるところまでやってしまうと偽りの「技」ということになってしまう。このためバランスを崩した以降は柔術技を行わなければならなくなるのである。

佐川幸義が「合気だけでは(武術として)成り立たない」と言っていたのもそうしたことである。また武田惣角が「柔術は教えるが合気は教えない」と述べていたのは柔術だけで一応は武樹として成立することを意味している。制圧法としての柔術であれば必ずしも「合気上げ」の練習は必要ないということである。制圧法における「合気」はこうした程度(手首の関節を極めて相手のバランスを崩すだけ)の技なのである。それが後には肥大化して触れるだけで相手を投げてしまう、あるいは触れなくても相手が動けなくなってしまうといったまさに「不動金縛の術」のようなものにまで展開することになった。ここまでくると「漫画」である。


合気上げ(呼吸力養成法)は稽古法としては実に優れた方法で、相手の心身の動きをよく把握する訓練として用いることができる。太極拳の推手もそうした訓練であるが、推手では接触面が手首の一点だけなので特に初心の内は相手の心身の動きを知ることが難しい。これに対して合気上げは腕を取る形であるから接触面は格段に広くなる。五指の動きは腕全体の筋肉の強弱を示しており、それがそのまま肩甲骨の状態へと直結している。こうした本来は「彼を知り己を知る」ことのできる優れた稽古法である合気上げが往々にして「彼」も「己」をも迷妄に誘い込む入口となっているのは実に惜しむべきことであろう。


そしてそれを実際の攻防に展開した時に制圧法としての「柔術」と離脱法としての「合気柔術」が混同されることで更にその迷妄は拡大して行くことになる。およそ武術は理論的でなければならない。極端に心身の法則を越えるものと求めてしまうと、それは往々にして迷妄へと陥ってしまう。

以上に述べてきたように大東流、合気道を「柔術、合気柔術、合気之術」に代表されるような三つにパートで構成されているシステムとして把握するのは妥当であり、それにより「合気柔術」は相手を投げることを目的としない、ただ離脱を目的とすることを明確にするべきである。そうした理解を得ることで偽りの「技」の発生を防ぎ、健全かつ高度なレベルでの武術修行が可能となると思われる。あるいは「柔術、合気柔術、合気之術」は「柔之術、呼吸之術、合気之術」ということもできよう。植芝盛平は「合気柔術」的な部分における離脱法としての展開を柔術的な要素、つまり関節技の部分を取り除いて攻撃をかわす「呼吸投げ」として確立して行ったのであるが「投げ」にこだわることで問題が生じてしまった。それは離脱法としての概念が明確でなかったためであろう。いまだ柔術的なものに引きずらていたわけである。

しかし盛平はこうした離脱法の部分を強調することで理念としての「合気」をより明確にしつつあった。ただ、やはり「投げ」への執着から脱することができなかったために理念としての「愛の武道」としての「合気」をシステムとして明確に提示することができないままとなった。合気道が大東流の関節技の多くを取り入れなかったのは制圧法としての柔術が「合気」の理念にそぐわないからである。


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