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道徳武芸研究 「合気」の柔術史的展開について〜その矛盾と止揚〜(1)

  道徳武芸研究 「合気」の柔術史的展開について〜その矛盾と止揚〜(1) 「合気」はそれを単に技術として太極拳のように「粘」と捉えたならば、それをして相手を倒すことに何らの矛盾もないが、これを「和合」であるとか「愛」であるとかの理念を介することになれば相手を倒すことに「合気」を用いることに矛盾が生じてしまう。これが合気道を実戦で使う場合のいうならば「足かせ」となっている側面もある(有効な技への展開が難しい)。日本の柔術史から言えば合気道はそのシステムにおいて現在のところ頂点にあるとすることができるであろう。日本の柔術史のベースにあるのは「柔(やわら)」である。これは日本人の民族性から出たもので、既に聖徳太子の十七条憲法の時には争いを解決する手段として「和」が示されていた。「和」は古い文書には「やわらかき」と仮名が振ってある。つまり争いには「和=柔」をして接することで解決をせよと教えていたのであって、どちらかが正しいとか、力の優劣による等の解決策は教えられていない。こうした争いを回避する「和」の理念を「柔」として具体的な攻防の技術にするには近世の柔術の出現を待たなければならなかった。ただ「柔」のイメージは既に出雲神話にタケミカヅチがタケミナカタを投げるシーンで、その腕が「氷の柱」のようになって、掴んでも力が入らなかったとする記述に見られる。それは、あるべき理想としては語られていたが、あくまで「神話」の世界の話しであった。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー4) 子孫の行う祭祀も途絶えることがない。 至善の道徳は、天下にあっても、後世に及んでも、不朽なものである。つまり道徳とは広く深い「道」であり、人々はそれから離れることがないばかりか、子孫に及ぶまで人々は「道」と一体なのである。そうであれば子孫の祭祀も絶えることはない。古くから伝わる祭祀は全てが慣習となっており、決まった日に行われるものである。そして、その日に備えて潔斎をして、供え物を整えて、祭器を洗っておく。当日には供物を整えて謹厳に祭祀は行われる。遥か古代の祖先に思いを致し、子孫の孝養を尽くすのである。そうして祭祀を絶やすことなくして道徳の恵みを得る。「道」の修行をする者は、必ず天下や後世、子々孫々まで、道徳の恩恵を得ることができるのであり、それは尽きることがない。ここに道徳の妙がある。 〈奥義伝開〉「不脱」と同様の例として祭祀が挙げられているが、ここでは「不輟」として「輟(てつ)」の語が用いられている。この字は「又」が「部品」を表し、それが組み合わされて「車」になることを示しており、そうなれば全ては「車」となって個々に「又」のあることは見失われてしまう。つまり「輟」は「又」の意味が途中で失われて「車」となるということを表しているわけである。祭祀でいえば一回、一回の祭祀が連なっているのが途中で途絶えるのが「輟」であるが、「善」を実行していればそうした事態は生じないとする(不輟)のである。この「不輟」も太極拳の「粘」が相手の状況に応じて細かく変化をして「綿綿不断」となるのと同じである。ここの状況への変化の対応は見えなくなって、連続して相手をキープできているように見えるわけである。特に興味深いのはここで「不脱」と「不輟」が同じフレーズで語られていることであろう。やはり老子は何等か後の太極拳に通じるようなエクササイズを実践していたのではないかと思われるのである。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー3) 「善」をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはできないし、 常に離れることがなく、心身が合一している。これが「抱」である。始めがあっても終わりが無いのは永遠であると言えよう。つまり「抱」という始めの行為が「脱」として終わりを迎えないのは「善」が実践されているからなのである。こうしたことがつまりは至「善」の理なのである。そうした状態で建物を建てれば崩れることがないばかりか、人がよく「善」であれば、そこに行為のよろしきを得ることができる。自己の中の大いなる「道」を保持していて、一時も離れることはない。「道」のままにあって、少しもそれを脱することがないのである。それは自然であり、天地と等しく限りがない。徳は日月の如くに明らかで、その功は天下に及んでいる。そしてそれは万物に及んで尽きることがない。それは時が移っても変わることはない。そうした状態が「善」を抱いているとされる。そしてそれは終わる(脱する)ことはないのである。こうしたことを「『善』をしてよく抱きかかえれば、それを脱することはない(注 宋常星の解釈に合わせて「不脱」をこう訳した。これは冒頭の訳とは違っている)」としている。 〈奥義伝開〉相手をホールドして逃げさせないのは、まさに太極拳でいう「粘」であり、「合気」でもある。中国でも、日本でも老子のいう「善」を体得するためのシステムは常に模索されていた。そのひとつの完成形が太極拳であり合気道である。「善」の実践という視点から見れば、相手と一体化した時点、相手をホールドして「脱」っすることのできない状態にした時点でそれは終わっているのであって、相手を投げたり、固めたりするのは「善」の実践からは派生した行為ということになる。これがよく分かるのは太極拳の「按」で「按」は掌を下に推して相手の攻撃を流したところで終わっている。次に前に掌を推すのは「按」に付属する動作である。こうした展開は老子の教える「善」そのもので「不脱」の状態がつまりは「按」というわけである。太極拳も合気道も相手を攻撃することを最終的な目的として見てしまうと、その本質を見失ってしまうことであろう。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー2) 建築において「善」を実行すれば、建物が崩れるようなことはない。 「善」とは最も適切であるということである。建築とは建物を建てることである。建物が崩れてしまうと建物は無くなってしまう。それと同じく自分が「善」の立場にあれば、それは自然のままなのであるから天地はそれを崩すことはできない。鬼神もどうすることもできず、陰陽の変転にあってもそれが崩されることはない。あらゆる存在がそれを犯すことはできず、それは至堅、至固なるものといえる。またそれは変わることのない至常であり、至久なのである。そうであるから「善」をして建物を建てれば、それが崩壊することはないのである。そうしたことを「建築において『善』を実行すれば、建物が崩れるようなことはない」と述べている。 〈奥義伝開〉建物が崩れないというのは「不抜」という言い方がされている。これは太極拳でいう「抜根」の「根」と同じで「安定の基礎」ということである。これを武術的にいえば「根」は重心のことで、重心を崩すのが「抜根」である。太極拳はまず「抜根」を行い相手をコントロールしようとする。それはつまりは「善」の実行、つまり「道」を行うことであり、自然のあるべきを為すことなのである。建物も自然のままに無理のない建て方をしていれば崩壊することはないわけである。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(8)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(8) 柳生心眼流も流派名としては特異である。仙台藩の記録では心眼流として記されているようであるが、これに柳生があるのは流祖ともいうべき竹永隼人が柳生宗矩から新陰流を学んだためとされている。しかし、そうであるなら柳生より新陰流の方の名が取られるべきではなかろうか。また柳生家では新陰流とのみ称していて、その本流としての矜持を持っている。ちなみに小野派一刀流を伝承する小野家でも自分の流派は「一刀流」であるとしている。竹永隼人が新陰流を学んで流派を開いたならば、新陰流から心眼流で良いであろう。あるいは新陰流柔術、将軍家の学ぶ剣術であることを憚(はばか)るならば新蔭流なども考えられる(居合の田宮流には民弥流と称する伝承もある)。そもそも柳生新陰流という名は講談などで広まった名称であり、武術の世界では用いない。思うに心眼流は四代目とされる小山左門を中興の祖としていて、この頃に関東などにも広く伝えられたようであるから、小山あたりから柳生を冠した呼称が広まったのではないかと推察される。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(7)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(7) 意拳はまた大成拳と称することもある。大成は中国武術では小成、大成の語があり、一通り武術の形に習熟するのが小成で、これには六年ほどかかるとされる。一方、大成は自分で拳を深めて行くことのできる段階でこれには十年の歳月を要するとされる。そうしたところからすれば、大成拳には大成にまで至ることのできる完成されたシステムの拳という意味があると考えられる。張壁は「大成拳の命名と大成拳の解説」で「大成」とは「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということであり、王陽明の「知行合一」でもあるとしている。つまり心身が適切なバランスを保たれて、正しく活用されている状態ということである。太気拳は正式には太気至聖拳というらしいが、この「大成」と「至聖」をつなぐものとして「大成至聖文宣先師孔子」があるのではなかろうか。これは孔子の呼び方のひとつであり、孔子廟には大成殿があるし、至聖廟と称されるものもある。つまり澤井が学んだ時には大成拳が使われていたのではないかと思われるのである。そしてそれは孔子、儒教をイメージさせるものであったために、大陸が共産化して孔子が批判されるようになってからは意拳の方を主として使うようになったのではないかと推測されるわけである。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(6)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(6) 陳発科が北京に出て陳家太極拳を教えた時に既に広まっていた楊家などの「太極拳とは違う」と言われても、発科は「我々はこのように拳を練っている」というだけであったとされる。つまり発科が生きた二十世紀初頭あたりの陳家溝では陳家太極拳という名称が必ずしも定着していなかったことをこれは示していよう。つまり他との交流がなければ個々の名称がことさら意識されることは少ないということである。ちなみの日本では太気拳という流派があるが、これは太極拳が発想の基にあるのではなかろうか。「太極」「太気」ともに「タイ・チー」である。また「太気」という語には特段の意味が無い。一般に中国武術にはそれぞれに意味を持つ名が付されるものである。太気拳の基になった意拳は形意拳の形(かたち)を排してその奥にある「意」のみを重視したという流派の技法の特色を名としている。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(5)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(5) 太極拳は陳長興の頃に陳家溝に伝えられた。これを学んだのが楊露禅である。一方、陳家溝には通臂拳の理論を独自に発達させた砲捶という武術があった。太極拳の動作に砲捶の理論を応用して作られたのが陳家太極拳である。そうであるから厳密に言えば陳家太極拳は「太極拳の源流」ではない。楊家の系統の呉家、武家などには太極拳の理論が継承されているが、陳家太極拳は陳家溝に伝わっていた砲捶の理論を応用している。陳家溝ではおそらく陳長興が編んだであろう陳家太極拳を太極拳として意識することはなく頭套拳などと称していたらしい。これは現在でも見られる一路、二路(砲捶)という分け方と同じである。頭套拳とは第一の拳という意味になる。また砲捶というのは一般的な名称でいろいろな武術の実戦形が砲捶と称されている。陳家溝の砲捶はその地域から外に出ることがなかったので、単に砲捶とだけ称されていたわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー1) 日月は天にあって、大いなる「道」によって光を放っている。それは「私」によるものではない。聖なる王がかつて政治をとっていた時には、大同の徳による統治が行われていた。それも「私」によるものではなかった。日月の働きにも「私」はない。そうであるからその光は遍くあらゆるところを照らしている。聖なる王の徳は無私であったから、天下のあらゆるところにその統治が及んでいた。そうなれば天下が善く治まっていることに人々は疑いを持つこともなく、自分だけのことを考えることもなくなり、貪りの気持ちを持たず、富や権力を求めることもない。このように「道」によって天下は感化されていたのである。そしてその徳はあらゆるところに及んでいた。天下の民は「道」の徳を抱いて、その美を愛で、それを実践して、それを楽しんでいたのである。他人のことも自分のことのように思い、あらゆる人が自分と等しくあると考えていた。つまり天下の人を自分の家族と同じように考えていたわけである。また皆、同じ故郷の人のように、同じ国の人のようにも考えていた。天下は「一」つの天下と見なされていた。こうした状況にあっては身は修められ、家は整えられて、故郷で人は和し、国は安らかに治まり、天下は泰平となる。そうでなければ大同の徳を修めることはできないし、人々が自分のことだけを考えるようになって天下は騒がしく、安らかさを欠いて、乱れ乱れてしまうことになろう。ここで述べられているのはこうした状況においてなされる「善」の実践についてである。この章では「善」ということが重点的に述べられている。「善」とは無為を行なうことであり、自然のままにあるいうことでもある。もし、これをよく会得することができれば、あらゆるところにおいて「善」は実行されるであろう。 〈奥義伝開〉ここでは「善」が実行されればどうなるか、が述べられている。先ずは「善」とは自然であるということで、人は本来「善」を有しているとする。そしてその特徴として協調性と親和性が挙げられる。もし個々人が「善」に覚醒したならば、理想的な世の中が実現されるとする。それは「大同」の世といわれるもので、人々は自由であり差別も搾取もない世界である。かつては搾取や差別のない世界は階級闘争や武力革命によって実現されると考えられても居たが、老子は争いによっては、あるべき世界は...

宋常星『太上道徳経講義』(53ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー6) こうしたことを「盗誇(とうこ 盗むを誇る)」というのであり、「道」に非ざるものである。 ここで述べられているのは、ここまでの総括である。先には宮殿や衣食、飲食の華美であることや余りある財貨のことが述べられていた。これは民を苦しめて楽しもうとするのであり、そうして奪ったものを自分の為に使う。そうして楽しみを得るのは民と共に楽しむことにはならない。財貨にあっても民と共有することが無ければ、それは民を「光」の外に置くものであり、そうしたところでは「道」は行われることなく、その本質は失われている。そうなれば内政は脆弱となり、行われるべきことも行われないようになってしまう。こうした中に楽しみを得ている者は、自分でそれを得ているのではなく民の楽しみを盗んで楽しんでいる。富を得ている人も民の富を盗んで得ている。そうであるから「盗誇」と言われている。これは盗賊に例えているのであり、盗賊が自分の行っていることを誇っている、というわけである。民から盗んで楽しみ、富んでいることが知られても、それを自責の念を持つこともない。こうした人は「道」を得ているとはいえない。行っていることを見れば、それが分かる。つまり外を飾ることがあまりに過度であれば、民はそれを止めてもらいたいと思うわけである。所謂「無為の道」は、天地が無為であるままなのであり、そこにあらゆる物が生きている。聖人は無為であり、そうして天下を治める。こうしたことを聖人の無為の道という。こうして天下の有為の民をして「道」に帰せさせるのである。上にある者が無為であれば、下の者も無為となる。そうして上下は等しく無為を実践していれば、(天下は「道」のまま治まることとなり)民が意図的に何かをしようと思うこともなく、上の者が財を蓄えようとすることもなくなり、天下の民と財は自然に共有されるようになる。そうなれば剣をして威を示すことがなくても、自然に民はなびくようになり、田は荒れることもなく、倉も自然に満たされる。衣食や宮殿、財貨の華美であることも自ずから無くなる。天下を治めようとするのであるなら、謙虚でなければならないのである。 〈奥義伝開〉最後に老子は「搾取」を「盗誇」という語で示している。これからは老子が「搾取」のあることを完全に意識していたことが分かる。現在でも税金などは「仕方のないもの」と...

宋常星『太上道徳経講義』(53ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー5) 服はきらびやかで、名剣を帯して、飽きる程の飲食を摂り、財貨もあまりある程もっている。 大いなる「道」のないところで、良い結果を求めようとするのは、有為の「道」である。そうなると民を疲弊させるだけではなく、壮麗な宮殿が築かれたりすることにもなる。また服装は派手になり、ただ人々の目を惹くことばかりを考えるようにもなる。また名剣を持って、それを誇ろうとする。あるいはいろいろな美味を求めても満足をすることがない。天下における重大事に関心を持つことがなく、些事にばかりこだわっている。ただ美しい服は自己の欲望を満たすに過ぎないのであり、名剣も人々に権威を示すだけのものである。美味である食べ物も、ただ口を満たすだけで終わってしまう。余りある財貨も、身を養う糧となることはない。こうしたことが起こるのは全て本質が失われているからであり、有為によっているからである。大いなる「道」が行われれば、全くそうしたことは起こらない。それを「服はきらびやかで、名剣を帯して、飽きる程の飲食を摂り、財貨もあまりある程もっている」としている。そうであるから「道」を得ている人は、華美なる服を着ることはなく、ただ大いなる「道」を大切にしている。名剣を帯して威張ることがなくても、その行なう仁義によって自ずから敬畏を得ている。過度に美味な飲食を求めなくても、徳を味わっている。余りある程の財貨がなくても、充分であると思っている。天下であっても、国家であっても、全ては一つの「道」が実践されるべきなのであり、それ以外に国政の寄るべきはなく、民の生活の寄るべきはないのである。君臣でも父子でも、それぞれの大いなる「道」の実践がある。上下、尊卑であっても、大いなる「道」は行われている。皆が大いなる「道」の中にあることを意識することなく、共に無為による統治をを楽しむ、そうなれば天下に広まる歌において「有道の君」を万民が讃えるようになるであろう。このような太古の聖なる時代の聖なる君主のような統治が行われていれば、どうして有為をして大いなる「道」を忘れることがあるであろうか。 〈奥義伝開〉ここでは、おおいなる「道」に外れた事例が示されている。これには物的なとらわれが「過度」であるところに特徴がある。内的な充実がないので、外的な充実を「過度」に求めすぎるわけである。つまりは心身のバ...

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(4)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(4) 交通が発達すると人の交流も増えて情報の伝達も盛んになる。そうした中で楊澄甫の伝える太極拳と呉鑑泉の伝える太極拳が違っていることへの疑問が呈されるようになったらしい。そうした中ある時、上海で楊澄甫と呉鑑泉の推手の演武が行われることになった。それぞれの弟子たちは一触即発の危機感を持って見ていたが、何事もなく終わった。楊澄甫は「呉家には太極拳の奥義が伝わっている」と弟子に語ったとされている。つまり表現の形は少しく違っていても、内実は同じ太極拳であるとの評価を下したわけである。こうした経緯も含めてであろうが、呉家の伝える拳も、楊家の拳も共に太極拳として認められてそれぞれ呉家太極拳、楊家太極拳と称されるようになったと思われる。ちなみに太極拳は、本来は十三勢と称されていた。これは張三豊が考案した十三の技法の原理によって動作が構成されているからである。これが後に王宗岳によって太極拳と称されるようになった。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(3)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(3) 太極拳は楊露禅が北京へ伝えたのであるが、この時に学んだ呉家に伝えられた伝書には単に「太極拳」とのみ記されていて、楊家太極拳とはしていない。後に太極拳は北京から上海へと南方へも広まるが、それは近代になって交通が発達して人の交流が盛んになったからである。上海では「ドラゴン怒りの鉄拳」の設定場所であった精武体育会で教えられたことが南方地域へ伝わる大きなきっかけとなったといえよう。その時に北京出身の呉鑑泉の北京の言葉が、上海の人には分からず、鑑泉が「うー」とか「あー」とか言うのを聞いて「次!」と言っているものと解釈して次の動作に移っていたという。これは、かつて太極拳では一つ一つの動作をしばらく止めて鍛錬することが重視されていたからである。鑑泉は一定の高さに糸を張って生徒の頭がそれを越えると(足がつらくなって姿勢が高くなると)容赦なく打ったという。楊家、呉家という名称が何時頃から言われ出したのかは分からないが、上海では楊家と呉家の太極拳の正統が問題視されたこともあったらしい。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(2)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(2) 空手は唐手が元の言い方であるが、琉球時代は一般的には「手」とされていたらしい。「手」とは方法、技術といった意味で格闘術のようなニュアンスがあったものと思われる。この「手」は全て中国から伝えられた中国武術が基になっているので、わざわざ唐手いうこともなかたのであろうが、長い歴史の中で地域による独自の発展もあったらしく那覇手や首里手などに分化して行くが、これも後に琉球以外に「手」が知られるようになって、そう呼ばれるようになったに過ぎない。これは唐手も同様である。「手」だけであれば意味が分からないので中国拳法といった意味で唐手と称されるようになったわけである。それが日本本土に伝えられると、より思想性を持った雅名として「空(くう)」の文字に変えられて空手となった。また地域的な背景でいえば琉球時代は地域の閉鎖性が強く、その交流はきわめて限られたものであったとされる。そうであるからこの地域の「手」と、あの地域の「手」を区別する必要は無かった。互いに交流がないからである。これは蟷螂拳でも同様で、衛笑堂が雑誌のインタビューで「我々はただ蟷螂拳とだけ言っていた」と証言している。七星や梅花などが冠せられるようになるのは別の地域の人が蟷螂拳の存在を知るようになってからなのである。

道徳武芸研究 武術の流派名について考える(1)

  道徳武芸研究 武術の流派名について考える(1) 武術の流派の名称からは、その流派の持ついろいろな背景をうかがうことができる。それは勿論、武術に限ったことではなく、あらゆるものにおける名称はそうした背景を有している。それは言うまでもないことであろう。一般的に武術の流派の名称は、その創始と深く関係していると言えよう。日本最古の柔術とされる竹内流は竹内久盛によって創始されたためにその名がある。また新陰流は陰流がもとになっており、陰流は愛洲移香斎が創始している。この場合は流派の技術的な特徴をして流派名とした。これに新たに工夫を加えたのが上泉信綱で、ために新を付して新陰流としたわけである。このように元の流派から枝分かれするような場合には「新」がつけられたり、「派」が付されたりする。一刀流からは小野忠明の系統で小野派一刀流を称することがある。このように流派の名称をたどって行けば、その背景とするものを知ることができるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(53ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー4) 朝廷はまったく存することなく、(税金を払わせるための)田は全く荒れ果てて、(税金を入れておくための)倉には何も入っていない。 ここで述べられているのは、人々が行くのを好むところの「道」について具体的なことを述べている。朝廷において「存する」ことがないというのは「階段が無い」ということである。土や石を積んで高台を作り、そこに建物を建てて階段を設けて上り下りをする。これを「存することなく」させるのである。老子は当時の宮廷の建物を見て、高く立派で、厳しく建っているのを、やり過ぎであると思ったのであろう。そして、そうした宮殿は存するべきではないと言っているわけである。「荒れ」ているというのは、田で耕作が行われていないということで、そうなれば雑草が多く生えて来る。これが「荒れて」いる状態である。「入っていない」というのは、耕作がなされていないからで、そうなれば倉に入れるようなものも無くなる。倉に何も無いことを「入っていない」としている。もし、大いなる「道」が行われることがなければ、それは人々だけではなく、朝廷の中や、あるいは国政全般にも広がってしまう。そうなると壮麗な宮殿が建てられたりする。そして農業は妨げられ、宮殿が壮大になるとなれば、そうした朝廷は好ましくないものとなろう。この時に民の力は朝廷に支配されているわけで、そうなれば農業は必ず廃れてしまうことになる。しかし民の力が田にあって適切な耕作が自由にできれば、けっして田が荒れることはない。田が荒れているのは、国が好ましくないコントロールを農家にしているからであり、そうなれば倉に入れる収穫もなくなってしまう。倉に入れる収穫がなければ、民を安んじ、国を富ませることなどできるはずもない。国が富むことがなければ、いくら朝廷の建物が美しくても、大きくても、これを民は好ましいとは思わないであろう。それは見かけだけの美しさであって、内実が備わっていないからである。本質が失われていれば、結果もそのようになものとなる。つまり無為の「道」が行われていないということである。有為の害があるということである。そうなれば国も治まることがない。家も安泰ではない。身も整わない。民はあるべきではなくなる。これは全て「道」を外れているからである。そうしたことを「朝廷はまったく存することなく、(税金を払わせる...

宋常星『太上道徳経講義』(53ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー3) 大いなる「道」は、ひじょうに「夷(たいらか」なるものであり、人々はこれを行くことを好むものである。 ここで述べられているのは、無為の大いなる歩みそのものであり、それは天下の有為の害を無くさせるものでもある。平坦である歩みのことを「夷(たいらか)」とする。それは無為の大いなる「道」のことであり、平穏で好ましい状態にあって、あるべきに準じている。それは平らかであり、何らの障害もない。天の働きのままに為し、意図的に動くことはない。ただ少しでも何かを為そうとしたならば、それは無為ではなくなってしまう。大いなる「道」は天地に働いているが、(そうした働きを見せない)天地の無為の妙がそこにはある。物事にあっては、それを行うのに無為をして行う。人の心にあっても無為の妙がある。それは大きな路のようであり、何らの歩み難さもない。古から聖人の聖人たるは、こうした大いなる「路」に順じているところにある。そうであるから聖人といわれる。聖人の賢いところもまた、この「路」に順じているところにある。そうしたところから賢さは出ている。どのような世俗の人でも、迷って執着をして、邪な考えを抱いていては、決して平坦な「路」を歩むことはできない。あえて歩み難い曲がりくねった「路」を歩むのは、名声や富貴を求めたり、何か良いことがないかと思っているからである。また「理」に反して、「私」にこだわり、うまく世渡りをしようと思ったりしているからである。おかしなことをして、本来の心身のあり方に反して、自分だけのことに執着している。そうした偏った思いを持って、自分がひたすら誤った「路」を行く。そうなればいよいよおかしなことになってしまう。こうしたことを「大いなる『道』は、ひじょうに『夷(たいらか)』なるものであり、人々はこれを行くことを好むものである」と述べている。 〈奥義伝開〉大いなる「道」は、それが行われていることに気づくことのないような存在であるのであるから当然に何らのストレスも感じることのない「夷(たいらか)」な状態であるとすることができよう。またそれは生きることと同じであるから、人はどちらかといえば、その「道」にあることを好むものである。「夷」であれば、争いの起こることもない。あらゆる存在が共に生きていくことができるのが「道」の実践されている世界なのである。

宋常星『太上道徳経講義』(53ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー2) 自分が僅かに知っているのは、大いなる「道」を行う時には、ただ注意をして行うということである。 「(自分)が」とあるのは、老子だけが知っているというのではない。自分も知っているが誰でも分かっていることである、という意味がここにはある。誰であっても、大いなる「道」を知っているのであり、そうでなければ無為の「道」を行うことはできない。このような意味を込めて老子は「(自分)が」としている。そうしたことを踏まえた上で、自分が僅かに知っているのは、大いなる「道」であるとしているわけである。そして、それを行うのは実に容易であるから、ただ注意をして行えば良いとする。これはどういうことか。大いなる「道」を軽視してはらなないということである。天下に「道」を行うに時には、それに外れていないかどうか、よく留意しなければならない。大いなる「道」には無為の深い教えがある。大いなる「道」が、あらゆる所で働いているのは周知のことであろうが、それはそれを行おうとして行われているのではない。大いなる「道」は行われるべきものではなく、為されるべきものでもない。天下を統治しようとする者が、もし有為をして法を定め政治をすれば有為の国政ということになるが、そうなれば、世は乱れてしまうであろう。民はどのようなことをしても、(為政者が勝手なことをするので)先の見通しが立たない。そうした状況では、いろいろな問題が出て来ることであろう。大いなる「道」を行うことをよく理解していれば行為が「道」を離れることはない。気をつけなければならないのは、こうしたことである。そうであるから古の聖人が統治をしていた時は、民は大いなる「道」のままの生活をしており、統治する者と統治される者の間に何らの齟齬も生ずることはなかった。共に楽しく安らかでいることができた。これは、まさに無為のおおいなる「道」が実践されていたからなのであり、これが天下に行われていたわけである。太古の聖なる王の時代が終わると、人々は名利を争うようになり、弱肉強食の世となって、国は乱れて民の生活も安定を欠くものとなる。統治する者と統治される者との間は和することない。そうなれば無為の「道」を行うことはできない。老子は現在の世の誤りを憂いて古を見ている。そうした気持ちを持って「自分が僅かに知っているのは、大いなる道を行う時に...

道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(4)

  道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(4) 現在、東京国立博物館には一般的には「三本指の土偶」と称される「土偶」が展示されている。ただ、この土偶をよく見れば、かすかに親指と小指を認めることができる。しかも、その腕はひどく拗(ねじ)られている。これを八卦の観点からとらえれば、そのネジリの形から「龍爪掌」であることを認めることができる。加えて肩が外れるように肩関節のところが大きく開いている。これは腕に拗りを加えることで体が開かれることを示していると分かる。そこで改めて鎮魂法のことを思い出してみると、石上神宮には「フル」の他に「フツ」という古社名もあることに気づく(石上坐布都御魂神社・いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)。一般には「フツ」は刀剣で物を切った時の形容であるという。また「ふつふつと湧き上がる」というようにエネルギーが活性化される様子でもあるとされる。こうしたことを合わせて考えると「フツ」は関節が外れる(開く)ことでエネルギーが活性化されることを示しているのではないかと思われる。つまり「フル」の系統の鎮魂は体などを震わせることでエネルギーの活性化を行うもので、「フツ」は拗りを加えることで体を開いて活性化をする鎮魂法であったことが予測されるわけである。こうしたことから、かつて日本には通臂拳につらなる「フル」と、八卦拳と同じ「フツ」の系譜にある二つの鎮魂法のあったことがうかがえるのである。

道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(3)

  道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(3) 八卦掌の游身とは何かというなら、それは「揺身」に他ならない。通臂拳ではこれを重視していて張志通は「揺身」と「揺神」のあることを明らかにしている。張志通が考案して、かつて台灣全土で大流行した外丹功は主として「揺身」をベースとし編まれたものである。一方、秘伝とされた内丹功は「揺神」を主としていた。ただ外丹功でも予備式は比較的「揺神」に近いものがある。通臂拳では自在の動きを得るには肉体を開く「揺身」と、精神を開く「揺神」が必要であるとしている。もっとも外丹功は、通臂拳の「揺身」功を一般的な健身法として(いうなれば薄められた形に)編成し直しているので、それを練ることで、そのまま通臂拳の功を身につけることはできないとされている。「揺身」とは身体が開かれる、ということであり通臂拳では腕を振ることでそれを得ようとする。一方、八卦拳ではネジリを加えることで関節を開いて「揺身」を実現するのである。

道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(2)

  道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(2) 石上神宮は奈良にある古社で、古代においては朝廷の武器庫であった。また石上神宮は古くから「ふる(布留)」の社と呼ばれて鎮魂法を伝えるとされていた。現在でも最も神聖視されている禁足地は布留社と称されている。「ふる」とは「魂(たま)ふり」のことで、これは振動により魂を活性化させることである。現在、石上神宮で伝授されている鎮魂法は近代以降に作られたものであるが、古来より石上神宮で鎮魂が行われていたことは「 布留」という神社の古名によっても知ることができるわけである。また古代において軍事を司っていたのは物部氏である。物部氏の「もの(物)」とは「霊」「魂」のことであって、「部」は朝廷での役職を意味する。つまり物部氏とは「魂を扱う役職の一族」ということなのである。それでは物部氏はどのように「魂」を扱っていたのか。それは石上神宮との関係を考えれば「ふる」であり「魂ふり」であったことが推測される。およそ鎮魂には「魂ふり」と「魂しずめ」があるが前者は活性化、後者は沈静化する方法であるとされている。おおよそ軍事に使うのであれば当然に活性化(魂ふり)でなければならないことになる。

道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(1)

  道徳武芸研究 游身八卦連環掌と鎮魂法(1) 八卦拳は筆頭弟子であった尹福が朝廷に仕えていたこともあり、民間には主として程廷華の系統が行われていた。そのため「游身八卦練環掌」といった名称が広く知られて、本来の「八卦拳」を知る人はかえって少なかった。ただ一部には「八卦拳」が本来の名称であることは認知されていて孫禄堂は程派の八卦掌を紹介しつつも『八卦拳』として著書を出しているし、孫錫コンも『八卦拳真伝』として程派の八卦掌を紹介している。孫禄堂や孫錫コンが共に「八卦拳」の名称にこだわったのは自分の著作が「真伝」を記したものであることを言わんとしてのことであった。つまり八卦掌の「真伝」を語ろうとする時には、それはあくまで「八卦拳」でなければならないことは、かつては周知のことであったのである。それはともかく八卦拳に「游身」や「連環」が付されるようになったのは、どうやら程廷華の頃のように思われるが、それにはどのような意図があってのことであったのであろうか。

宋常星『太上道徳経講義』(53ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(53ー1) 天地は「無為」をして大いなる「道」としている。それをして万物は生まれ育まれる。聖人も「無為」である大いなる「道」をして、国を治め民を安んじる。これはまた無為の道であるから、その「跡」を見ることもできないし、何らかの「範囲」が区切られるものでもない。天地の働きのまま無私の徳のままに行われる。人の心の正しい「理」により、自然のままに行われて、全く私欲によることはない。それが無為であり、有為をして行われるのではない。そうであるから古の聖なる王は、善く天下を治めることができた。誤った統治をすることがなかった。国家の風紀の乱れることもなかったわけである。王は農時を妨げることなく、全て統治は無為をして行われ、それは自然の「理」のままであった。もし、統治を行う者に少しでも恣意的な気持ちがあれば、統治される者も恣意的となるのであり、そうなれば日々「有為の風」は盛んとなろるし、自分勝手なことを行う人も増えて来ることであろう。このような状況になれば「有為の害」は増えて行き、あらゆる所に及ぶであろう。まさに、ここで説かれているのは、こうしたことである。この章では、まさに「大いなる道」の重要であることが説かれている。「道」は天地そのものであるから、天と人とは(共に「道」であることにおいて)等しく、物と人にも区別はない。それらは全て「道」なのである。「無為」なのである。もし、こうした「道」を離れれば、大いなる「道」は行われなくなってしまうことであろう。  〈奥義伝開〉ここで老子は大いなる「道」が実践された世の中は「搾取」のない社会となると教えている。税を搾取する役所は無くなるし、税を治めるための田は荒れ放題、税を入れる倉は空となる、というのである。ここで老子が述べていることは近現代に実践された「共産主義」の欠点を言い当てているものとも言える。つまり党・政府の廃止、国有化される生産労働の廃止、生産の国有化の廃止など、である。ただこうなると共産主義ではなく無政府主義に近いかもしれない。無政府であれば社会を管理する機関がないことになって社会生活が円滑に進まないと思われるかもしれないが、仮想通貨のシステムは通貨の信用を政府に頼らず、使っている人たちが共同で担保する仕組みである。こうした技術開発が見られることからすれば、将来的には老子の言うような社会が...

宋常星『太上道徳経講義』(52ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー8) こうしたことは常にある(習常)ことである。 最後に述べられているのは総括である。ここまでは天下には始めがあり、それは「天下の母」とすることができる。つまり そには守「母」の道があるのであり、それは「道」に帰するということなのである、とされる。そして兌(あな)を塞いで門を閉じて(外との交渉を絶って)しまえば、死は免れ得ないものも、勤(つかれ)ることはない。それは守「母」の道にあるからであり身を守「母」の「道」に帰しているからである。一方「兌」を開いていろいろな事象に係わりを持つと、死が免れないばかりか、危害への救もがない、ということになる。それは守「母」の道に反しているからである。小さなものまで見て、柔を守るというのは、つまり守「母」の道を行くことであり、この「道」を内に蔵して生きるというなのである。光があれば明るくなる、とあるのは、これも守「母」の道を行くことであって、外的な事柄に対するのに、この「道」によるわけである。既によく「道」に帰することができていれば、それは身に備わっているわけで行為においても「道」に外れることがない。物事に対するにしても、その対応は「母」を離れることはないのであり、随機応変して適切な行為がとられることになる。これが、まさに日常的に起こる(習常)わけで、こうした人を常真の大いなる「道」にある人とすることができる。そうであるから「こうしたことは常にある(習常)ことである」とされている。この章では、全体として守「母」について語られているとすることができよう。つまり「子」があり「母」のあることを教えているわけである。それにより物的なことを通して精神的な静かな境地を知ることができる(反本復静)と教えてもいる。そうであるから決して物的なことにとらわれてはならないわけである。 〈奥義伝開〉最後には、合理的な考え方で起こることは当たり前のこと「習いの常」であるとする。人は天地の間に生きている。そうであるなら天地の間にある「理」を外れて生きることはできない。ただそれをよく知ることが「道」を知ること、となると老子は考えている。しかし、我々の周りには「思い込み」が実に多い。それは見せかけの「習いの常」である。しかし、そうしたものは、よくよく観察すればそこに矛盾のあることが分かる。

宋常星『太上道徳経講義』(52ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー7) (光のない)そこに光を用いることができれば、明かりは戻ることになる。(こうして細部まで明らかぬすることができれば)身に災いの生ずることもなくなるのである。 先には小さなことまで見て、柔を守ることが述べられていた。それはつまり「明」の働きがあるからである。それは「明」るい光を用いることで、細部まで「明」らかに知ることができるわけである。「明」とは、心の徳をして気持ちを内に向けること(心徳内照)である。「光」とは心の徳を外に向けること(心徳外応)である。「光」を用いるとは「明」に帰するということである。つまりここには基本と応用が共に存しているのである。「光」の基となっているのは「明」である。「明」るいのは「光」があるからである。つまり「明」るさの中には既に「光」が含まれていることになる。また「光」の中にも「明」るさがあるのであり、そうであるから「光」を使うと「明」るさが得られるわけである。つまり「明」るさは「光」であり、「光」は「明」るさなのである。こうしたことがあるので「(光のない)そこに光を用いることができれば、明かりは戻ることになる」とあるのである。ただ人はよく「明」を基として「光」を用いることができるであろうか。その「光」を内に向けて、その「明」に帰することができるであろうか。つまり「光」の働きは外に向かうことにあるのである(注 意識により外的な事柄を認識すること)が、そうするだけではなく、内にある「明」の中へと「光」を帰するのである(注 内を見つめることと、外を見ることの二つが行われなければならない)。「明」であれば「昧(くらい)」くなることはない。内外が一致して、基本と応用がひとつになる。これがどうして我が身に害となるであろうか。そうであることを「身に災いの生ずることもなくなるのである」としている。これは天地にあっても、善と悪とが共に忘れられ、自分にも他人にも共にとらわれることがない。「明」の働きは「光」の奥深い働きにある。つまり「明」とは「光」の働きでもあるということである。「光」と「明」は渾然と一体となっている。本来的には基本も応用もないのである。 〈奥義伝開〉老子が述べているのは、光があれば明るくなる、ということで、そうなれば小さなものまでよく明らかにすることができると言う。この場合の「光」とは明晰な意...

道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(4)

  道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(4) 八卦拳では「ネイ身」を得ることで「軽」が得られるとされる。速く変化をすることが可能な身法が得られるわけである。また八卦拳が「龍」のシンボルを持っているといわれる所以(ゆえん)もこうしたところにある。以上に述べたことは中国武術で重視される外三合と基本的には同じである。つまり「手、肘、肩」「足、膝、股」は八卦拳では「掌、肘、肩」と「脚、膝、腰」となるわけである。しかし、問題なのはこの外三合をどのように「合」つまり協調させるかにある。八卦拳の場合にはそれぞれにネジリが加えられていなければ外三合を得ているとはいえない。また太極拳であれば太極拳の外三合があるし、形意拳でもまた違ったそれがある。大原則はどの門派も変わりはないが、それぞれの門派で求められる特色をよく理解して練習をしないと充分な成果が得られなくなってしまう。

道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(3)

  道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(3) 八卦拳において身体を八卦に細分化させるのは前回に触れた両儀が上半身と下半身、そして四象は上半身を「頭」と「肩」に分け、下半身を「腹」と「腰」に分ける。そして八卦では、これに手足が加わって「掌」「肘」、そして「膝」「脚」となる。つまり手足は上半身、下半身の一部とみなすわけである。こうして身体を細分化させるのは、それぞれにネジリを加えるためである。始めは上半身と下半身にネジリを加えて、横向きの構えを取り、次いで「頭」と「肩」「腹」「腰」にネジリを加えることで身体はやや傾くことになる。これにより歩を進める勢いが得られる。さらに「膝」「脚」にネジリを加えることで、内夾勁を得て扣歩、擺歩が可能となる。また掌や肘にネジリを加えれば八母掌への変化が得られる。これが「ネイ(手偏に寧)身」であり「龍身」でもある。これを練習の段階でいうならば両儀は静態、八卦は動態で、四象は静態から動態への変化となる。

道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(2)

  道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(2) 八卦拳において八卦は身体を分割する概念としてとらえられる。つまり両儀は上半身と下半身で、八卦拳では下半身は前を向いて、上半身は横を向く、これは基本姿勢であり、この両儀から八卦(拳)が始まるわけである。そして両儀は四象となる。両儀の「陽」は「陽陽」と「陰陽(陰から陽へ)」に分かれ、「陰」もまた「陰陰」と「陽陰(陽から陰へ)」に分かれる。そして四象のそれぞれが更に細分化されて八卦が得られることになる。つまり四象では「陽から陰」「陰から陽」への変化のみが示されていた(二段階の変化)のであるが、その間にも陰陽が入り(三段階の変化)、さらにその変化が細密に八卦として表現されるわけである。つまり「陽から陰」の間に陰陽が入るのであるから「陽(陽)陰」(兌卦)「「陽(陰)陰」(震卦)となり、「陰から陽」は「「陰(陽)陽」(巽卦)、「陰(陰)陽」(艮卦)となるわけである。また「陽」と「陰」も「陽陽陽」(乾卦)と「陰陰陰」(坤卦)、それに「陽から陽」「陰から陰」の変化もあるので、これが先の乾卦と坤卦の他に「陽(陰)陽」(離卦)「陰(陽)陰」(坎卦)も考えられて、あわせて八つの変化を得ることになる。このように八卦拳での八卦とは、身体を次第に細分化して行くことであったわけなのである。

道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(1)

  道徳武芸研究 八卦拳と「輪」(1) かつて雑誌「武術(うーしゅ)」に蘇昱彰が八卦掌を紹介した時、身体に五つの「輪」があることを示唆していたように記憶している。改めて雑誌を見直せば良いのであるが、今回はそれについて述べることを目的としているわけではないので確認はしていない。あるいは、蘇昱彰の説明は、宮宝田から劉雲樵を通して伝えられた八卦拳の教えであるとも考えられる、ということを指摘しておくまでである。ただその説明では頭、肩、腹、腰のあたりに「輪」が示されていて、もう一つの「輪」については明かされていなかったように思う。これを八卦拳の見地からいうなら「膝」とすることができる。こうした「輪」の考え方は、八卦拳の身体観をいう時にはよく用いられる概念であって、「輪」はネジリを意味している。

宋常星『太上道徳経講義』(52ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー6) 小さいことを見ることができることを「明(あきらか)」という。柔からさを守ることを「強(したたか)」という。 人にあって生涯、救われないのは、小さなことに慎みを欠くことではなかろうか。しかし、小といえでもそれを積み上げると大きなものとなる。そうなれば必然的に災いが降りかかることにもなろう。もし「柔」を持っていなければ「柔」ではなく「強」を使うならば、それは必ず利害の影響を受けることとなる。君子たる者は、よくいまだ形にならないものを見ることができる。その細部をよく知ることができる。また虚心にして対するべきの「理」を知る者でもある。そうしてよく「柔」「弱」を用いることができれば、問題が発生する前にそれの生まれる「理」を知ることができるものである。また問題の発生する時機をも知ることができる。そうなれば、その人は(物事の理を)「明」かにし得ているということができよう。有為(の計算に)にとらわれることなく、行為を行うのは「勇」であるといえる。外的なことにとらわれて事を運ぼうとしなければ、本当の運用が分かるであろう。「守」るとは、そういうことであり、これを「剛」とすることができる。そうであるから「小さいことを見ることができることを『明(あきらか)』という。柔からさを守ることを『強(したたか)』という」とされている。天下の事柄を詳しく見てみるならば、小さなことまで見ることのできるのは「明」である。それが見えないのは「昧」である。物事の働きを有しているのは「得」である。しかし強いて無理をするとその働きは「失」となる。これらはすべて「一」なる機の働きによって決まっている。もし機というものを見ようとしなければ機とひとつになることができる。機とひとつになれば「身、心、性、命」は機に従って働くであろう。家でも、国でも、天下でも、機に従って動いているから適切にあるのであり、そうした適切性が失われるのは「一」なる機を知る慎みを失って誤ってしまうからに他ならない。こうした機の転ずる時は、ごく小さな間であるが、それを誤ったことによる害は大きなものとなる。そうであるからよく謹んで天の機を失わないようにしなければならない。 〈奥義伝開〉ここでは「明」と「強」について述べている。外的な事と交わりを持つ場合にその危険を回避するには「明」と「強」がなければなら...

宋常星『太上道徳経講義』(52ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(52ー5) 兌(あな)を開けば、(外的な)物事に係ることになり、身は亡くなるし(危険から)救われることもない。 ここで述べられているのは、守「母」を失った時の害についてである。聴く、見る、言う、行動することにおいて自重することがなければ、正しく見ることはできないし、正しく聴くこともできない。また正しく言うことも、行動することもできはしまい。名や利を追い求めて、内には心を疲弊させてしまう。本来、心というものは一定の過度にならない範囲で用いられるべきものである。そうでなければ、その行為が適正であることはできない。性(注 本来の心のあり方)において善なる性を働かせることができなくなってしまうのである。そうした状況で身を滅ぼさないで居られた者はない。心の中の真心を失わないで居られた者はないのである。日々、心は外的な事柄にとらわれていて、その根本(である「道」と一体であること)を自ら壊してしまっている。つまり「母」が「子」を失っているようなものである。身の根本を養おうとしても、それが既に無いならば、性と命を長く保つことはできないであろう。それは「子」を知らないということであり、そうなれば「母」自身にも害を及ぼすことになるわけである。そうであるから「兌(あな)を開けば、(外的な)物事に係ることになり、身は亡くなるし、(危険から)救われることもない」としている。今、修行をしている人で、見たことにとらわれることなく忘れてしまうようであれば、それは無極を潤すことができる。もし耳で聴いたことにとらわれることがなければ、その心や意識は常に深いレベルにあることができる。身の中の「子」と「母」は自然に適正な状態となり、あらゆることにおいて自然にその本質(つまり道)を知ることができるようになる。我が「性」「命」も、それを助けようとしなくても、自ずから助かっていることになるし、物事の根源(である「道」)を知ることも思いのままとなるのである。 〈奥義伝開〉外的なものと交渉を持つと危険も招くことになる。また亡くなることから逃れることも叶わない。そうならば、どうすれば良いのか。それは次に述べられる。人は外的なことと全く没交渉であることもできないし、かといってそうしたことに係ると大なり小なり危険に遭遇することになる。そこでできるだけ危険を回避するには、事態をよく観察...