宋常星『太上道徳経講義』(53ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(53ー2)

自分が僅かに知っているのは、大いなる「道」を行う時には、ただ注意をして行うということである。

「(自分)が」とあるのは、老子だけが知っているというのではない。自分も知っているが誰でも分かっていることである、という意味がここにはある。誰であっても、大いなる「道」を知っているのであり、そうでなければ無為の「道」を行うことはできない。このような意味を込めて老子は「(自分)が」としている。そうしたことを踏まえた上で、自分が僅かに知っているのは、大いなる「道」であるとしているわけである。そして、それを行うのは実に容易であるから、ただ注意をして行えば良いとする。これはどういうことか。大いなる「道」を軽視してはらなないということである。天下に「道」を行うに時には、それに外れていないかどうか、よく留意しなければならない。大いなる「道」には無為の深い教えがある。大いなる「道」が、あらゆる所で働いているのは周知のことであろうが、それはそれを行おうとして行われているのではない。大いなる「道」は行われるべきものではなく、為されるべきものでもない。天下を統治しようとする者が、もし有為をして法を定め政治をすれば有為の国政ということになるが、そうなれば、世は乱れてしまうであろう。民はどのようなことをしても、(為政者が勝手なことをするので)先の見通しが立たない。そうした状況では、いろいろな問題が出て来ることであろう。大いなる「道」を行うことをよく理解していれば行為が「道」を離れることはない。気をつけなければならないのは、こうしたことである。そうであるから古の聖人が統治をしていた時は、民は大いなる「道」のままの生活をしており、統治する者と統治される者の間に何らの齟齬も生ずることはなかった。共に楽しく安らかでいることができた。これは、まさに無為のおおいなる「道」が実践されていたからなのであり、これが天下に行われていたわけである。太古の聖なる王の時代が終わると、人々は名利を争うようになり、弱肉強食の世となって、国は乱れて民の生活も安定を欠くものとなる。統治する者と統治される者との間は和することない。そうなれば無為の「道」を行うことはできない。老子は現在の世の誤りを憂いて古を見ている。そうした気持ちを持って「自分が僅かに知っているのは、大いなる道を行う時には、ただ注意をして行うということである」と述べている。


〈奥義伝開〉ここで「注意して」と訳したのは「畏」である。つまり「恐れをもって」ということである。大いなる「道」はそれ自体を見たり、直接に使ったりすることはできない。結果として自然に物事が成っていれば一応は、無為の「道」が実践されたとすることができるに過ぎない。太極拳でゆっくり動くのは心身の調和が常に保たれているか、中庸を得ているかを自己点検しながら拳を練るためである。太極拳では心身の調和(次に「夷(たいらか)」として出てくる)がとれた状態が最も安定していると考える。そしてその調和は自分を超えておおいなる宇宙、つまり大いなる「道」に通じているのであるから、そこには争いという「矛盾=不調和」の生まれることはない。大宇宙は完全な調和が保たれている。そこに調和を得ていない人が存するとすれば、宇宙と人とは矛盾して存在していることになる。こうした「矛盾」は自ずから解消される。つまり「矛盾」を持った人が自滅するわけである。


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