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第六十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十七章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 天下、皆、我が道は大なるも、肖(に)ざるに似たりと謂う。 (天下の人は皆、我が道は「大」であるが、我という限定した者が実践しているのであるから広大であるようには見えないという) 「肖(しょう)」とは似ているということである。老子の頃には、ここにあるように思われていたのであろう。 それただ大、故に肖ざるに似る。 (しかし、それは我というものを越えて、つまり大小越えた大きさであるので、大きくないように見えるとされている) 「大」とは、「肖」たるところがないのであり、天のようなものなのである。どこに物で天に「肖(に)」ていないものがあるであろうか。 もし肖(に)たれば、久しいかな、それ細かなるかな。 (もし単に道が大なるものであれば、それは久しく続くものであろうか、大きければ細かでどのようなところにも及ぶであろうか) この部分は人がこれを語るに怪しいとするには足りないことであると分かる。 我に三宝有り。宝にしてこれを持つ。一に慈(いつくしみ)を曰い、 (私には三宝がある。これを宝として持っている。一つには慈を持つことである) 「慈」とは、物を愛するということである。 二は倹(つましさ)を曰う。 (二つには倹くあることである) 「倹」とは節約をするということである。 三はあえて天下の先と為らざるを曰う。 (三つにはあえて天下の先となることはないということである) 物と競うことがないのである。 それ慈たる故によく勇たり。 (よく慈を持っているからこそ勇ましくあることができる) 「慈」とは柔らかであるということであり、柔らかであればよく剛に勝つことができる。そうであるから「勇」とされるのである。 倹たる故によく広がる。 (よく倹しやかであるので、広くまで及ぶことができる) 「倹」とは浪費しないということである。浪費をすうことがないので、常に足りている。ために広がるのである。 あえて天下の先と為らず、故によく器長と成る。 (あえて天下にあって先となならいので、役に立つリーダーとなることができるのである) 「器」とは、形のことである。「長」とは、君のことである。君の長なのである。およそ形を持っているものは、我はすべてこれを「長」とする。そうであるから「器長」となるわけである。 今、その慈を舎てて、かつ勇たる。その倹を舎てて、かつ...

道徳武芸研究 形意拳の当身・七拳十四処打法(1)

  道徳武芸研究 形意拳の当身・七拳十四処打法(1) 形意拳には「七拳十四処打法」という打法の歌訣がある。これは頭、手、肘、肩、胯、膝、足を用いての「打法」の秘訣なのであるが、こうした部位を使う「打法」がどうして秘訣とされているのであろうか。それはこれらの「打法」が一般的な突きや蹴りとは異なるものであるからに他ならない。つまりそれは日本でいうところの「当身」というべきものなのである。「当身」は単なる突きや蹴りとは違っている。一般的な打法で用いられるのは七拳の中では手、肘、膝、足といったところであろう。一部に頭突きとして頭も用いられることもある。ただ頭突きの破壊力そのものはそれ程大きくはないので、これはむしろ「当身」ととらえる方が妥当であるかもしれない。つまり「当身」において肉体レベルでの破壊力を求めるのではなく、相手の意識を撹乱して戦闘意欲をなくさせることを目的とする。攻防において最も重要なことは相手の戦闘意欲を削ぐことにあることはいうまでもなかろう。かなりのダメージを体に与えても戦闘意欲が高い時には戦い続けることができるものである。一方、戦闘に限らず何事においても意欲がなくなれば人は何も出来なくなってしまう。

第六十六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十六章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、聖人は自らをよく卑下するものである、ことが述べられている。多くの谷川(百谷)の水も、最後には全て大きな川や海(江海)の中に入ることになる。つまり「江海」は「百谷」に尊ばれる存在なのである。尊ばれる存在であるからこそ「百谷」の下(流)についている。つまり天下の主となる者は、ただ天下の下に存している。そうであるから、聖人は他人を上に置こうとする(聖人は人を上にせんと欲し)のであり、卑下した言葉を使う(その言をもって下にす)、ということになる。「人を上にせんと欲し」とは、自分を後ろにするということである。聖人は人の上に立とうとすることはないし、人に先んじようとすることもない。下に居て、後ろにある。そうであるが道を実践しているので、人の上に居たり、先んずることになってしまうこともある。このようなことは自然にそうなるのであるから、例え人の上に立ったとしても、人に重圧を感じさせることはない。人の前に居ても、邪魔に思われることはない。自然とそうなるのである。そうであるから天下の人々にに楽しいことを押し広げる(天下の楽しみを推して厭わず)わけである。また人の下に居ても、人の後ろにあっても、他人と争うことがない。ただひたすらに争わない。そうであるから、つまりは天下に争いの生まれる原因がなくなってしまう(故に天下によく争うことなし)わけである。 (ここでは、聖人は単に相手を上にしたり、先にしたりして謙る、ということを述べているのではない。聖人と相手との関係は「推(お)」すとあるように、いうならば相手との直接の関係を断って高踏的な立場に自分を置いて相手に対しているのである。そうであるから「争」いが生ずることがない。悪く言えば「相手にしていない」からである。こうした関係性の希薄なところでは、そもそも争い自体が存在し得ない。そうはいってもどのようにすれば他人との関係を適度な希薄さに保つことができるのか。老子は相手を良い立場に押し上げることで「距離」を取るとする方法を教えている。聖人は例え上に立たせてもその人が必ずしも重んじられることのないことをも知っている。)

第六十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十六章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 江海は百谷の王たるゆえに、もってその善を下にす。 (大きな川や海は「王」である。そうであるから下流にあって「善」たる存在である) 「江海」は百谷の下流にある。 故によく百谷の王と為る。 (つまりいろいろな谷からの流れを受けているので大きな川や海は「王」とされる) 「王」とは、天下の帰するところのものである。 これをもって聖人は人を上にせんと欲し、その言をもって下にす。 (この自然の様相に学んだ聖人は他人を上に置こうとするので、丁寧な言葉を使って相手に敬意を示す) 「孤」や「寡」といった「言」は王侯が用いる自分を卑下する言い方である。 人を先んぜんと欲するは、その身をもってこれを後にし、 (他人を先に立たせようとするならば、自分自身がその後につく) 感じて動くのであり、どうしようもなくなってからやっと起つわけである。つまり身を後にするわけである。 これをもって上を処とするは、人重んぜず。 (そうであるから自分が上に立とうとする人は、他人を重んじていないことになる) 上にある物は下のものを圧する。つまり重さを感じさせるわけである。聖人は上に居ても、重さを感じさせることがない。 これをもって天下、推(いただ)くを楽しみて厭わず。 (そうであるからあらゆるところで、他人を良いところに上げることを楽しんでおり、それを厭うことなどない) 人々は聖人を主として推戴するのであり、人心の離れることはない。 それをもって争わざる。故に天下によく争うことなし。 (つまり争わないのである。このようであるから天下に争いの生じることがないのである)

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(6)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(6) 形意拳の五行拳が「肺」を開く劈拳から始まるのは、その前の三才式、三体式において「心」を開くプロセスがあったからに他ならない。一方、八卦拳の八母掌では丹鳳朝陽で「心」をそして白猿献果で「肺」を開いている。これはまた上下(心)と左右(肺)とすることもできる。これが交わって十字となるのが十字勁である。孫派では形意拳では左右の動き、つまり開合があまり強調されていないので、これを太極拳において明確にした。ちなみに孫派の八卦掌は上下と左右の動きだけで構成されているといっても良いほどシンプルで、呼吸を練るのにはひじょうに適している。これは余りにシンプルで八卦拳本来の「巧」とされる細かく複雑な力の使い方からすれば若干離れるところもあるが、まさに呼吸力を練る方法としては突出して優れている。また孫派の八卦掌をさらにシンプルにして、左右の開合を抜いて、上下の動きと左右の転換だけにすると養神館合気道の臂力の養成となる。そして費力の養成の腕にねじり(翻)を加えると三体式(劈拳をシンプルにしたもの)となる。ここで述べたいのは孫家の八卦掌、合気道の費力の養成、三体式が何れも呼吸力を得ることを前提とした鍛錬法であるという点に過ぎない。武術を比較して見る時には細部の違いを熟視することでもいろいろな発見があるが、また大枠の基本原理の共通性を認識することで得られることも少なくないのである。

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(5)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(5) 静坐でも形意拳(子午トウ)でも、八卦拳(丹鳳朝陽)でも「心」を開くのは上下の気の流れを整える必要のあることを先に見てきた。これは静坐では「坎離の合一」という。坎は腎で、離は心であるから坎と離とが合一するとは、腎と心がひつになることであるので、ここでも上下の気の流れを見ることができる。こうして「心」を開いて静を得る。そして次には「肺」を開いて「柔」を得るわけである。この時には静の呼吸が行われる。ここで興味深いのは日本刀の操法であろう。日本刀は基本的には人体の中心ラインを上下する運動を取る。つまりこうした運動は上下の気の流れを導くのであるから心を沈め、また肺を開く効果も期待されるわけである。これは刀を両手で使うということの意義を見出したからに他ならない。あえて言うなら劈拳の動きは日本刀の操法に極めて近いとすることも可能であろう。このように優れた武術には共通して「心」を開き、「肺」を開いて呼吸を開くというプロセスが見て取ることが可能なのである。

第六十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十五章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、智にとらわれることなく統治をするということが述べられている。古の聖人は、道をして民を治めていたが、それが明らかに知られることはなく、ただ愚かであると見なされていた。聡明である人は、「道」というものを規定してそれに依ろうとする。そうなると民を治めることが難しい。つまり智を使いすぎるからである。智を使い過ぎる人は、結局は必ず好むところの欲望に紛れて策略を用いることになる。こうしたところから乱れは生まれる。そうであるから「智をもって国を治めるは国の賊たり」とあるのであり「智をもって国を治めざるは国の福たり」なのである。つまり「智」とは国の賊であることを知らなければならない。不智とは国の福なのであり、そうであるから天下の法とすることができるのである。こうした「法」を知って違うことがない。その徳は玄であり、それは深いもので遠くまで及ぶものとなる。物質的なレベルに留まれば、智を貴ばないということはない。そうであるので、玄徳においては、これを「賊」とする。つまり「物と反し」ているのが智なのである。要するに智とは道に大いに順じるものではないことを知るべきなのである。 (老子は統治には二つの定石(楷式)があるとする。それは情報を統制する方法と、統制をしない方法である。老子は前者は「福」を招き、後者は「賊」を生じさせると教えている。老子は本来「道」を体得している人は、一般の人からは「愚」かに見えてしまうものであると言う。情報を統制する方法は衆愚政治であり、まさに「愚」かな方法である。ここでの「愚」は真に愚かなのであって、道を体得した見せかけの愚かさとは全く違っているが、「愚」かという点では同じなので、一定の秩序を得ることができるとする。しかし、こうした衆愚政治にあっては、それが真に愚かであることに気づく人も出て来る。これを「福」としている。道に気づく人が現れるわけである。一方、情報統制をしなければ多様な価値観を生むことになり、かえって正しい道が見えて来なくなる。こうした多様な価値観のからどのような弊害が生じるか分からないのでそれを「賊」としている。)

第六十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十五章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 古の善を道と為すは、もって民に明らかにするにあらず。まさにもってこれを愚かとす。 (かつて「善」なる行いを「道」として実践していた人たちは、それを人々に知らせることはなかった。そうであるから人々はそうした人を愚かと見なしたのであった) 道を実践していることを他の人に知らせることがない。つまりは無欲なのである。 民の治まり難きは、もってそれ智の多きなり。 (民衆を治めるのに困難であるのは、民衆が多くのこことを知り過ぎて「善」が何であるかを見失ってしまっているからである) 細かなところまで知り過ぎるわけである。 故に智をもって国を治めるは国の賊たり。 (そうであるから余りに多くを知らせて、人々に何が「善」であるかを見失わせた状態にあって国を治めようとするのは価値の乱立を起こすことになる) 国に害をなすことになるのである。 智をもって国を治めざるは国の福たり。この両者を知るは、また楷式たり。 (民衆に多くを知らせるのではなく、無為自然をして「善」の実践できる状態にして国を治めようするのは、本来あるべき幸福な統治を得ることができるものである。こうした二つのことを知っているのは、統治の典型を知るといえるであろう) 「楷」とは真似をするということである。「式」とは法ということである。 これを玄徳と謂う。玄徳は深し。遠し。 (以上のような過度な知識によることのない「善」の実践を玄徳という。玄徳は深く、広く及ぶ普遍的なものである) 「玄徳」とは、つまり玄同の徳ということである。下に徹底しているのを「深」としている。周辺に及んでいるのを「遠」としている。 物と反し、よって大順に至る。 (物や知識にとらわれることがない。そうであるから大いなる順応、無為自然に至るのである) 物に反するとは、つまり道に順じているからである。

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(4)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(4) 合気道の呼吸力は、形意拳の劈拳つまり「肺」を開く練法と見ることができる。ちなみに八卦拳では初めが丹鳳朝陽で「心」を、次が白猿献果で「肺」を開くことになっている。つまり八卦拳では始めに「心」を開き、次に「肺」を開くことになる。また既に触れたが形意拳では砲拳が「心」に相当する。こうした違いはどのように理解したら良いのであろうか。八卦拳の丹鳳朝陽は上下に手を伸ばす形である。これは上下の気の流れを整えるもので、静坐では小周天とされるものと同じである。それでは形意拳にそうしたものがないのかといえばそうではない。三体式がそれにあたる。三体式は別名、子午トウとも称されるのであり、これが子午つまり上下の気のラインを整えるものであることが分かる。形意拳ではあえていうなら三才式(無極、渾沌、渾元を養うものでこれは子午・上下の生まれる前とする)、三体式が内的な身体を開くものであり、五行拳は外的な身体を開くものと位置付けることが可能なのである。つまり砲拳の「心」はいうならば外的身体におおきく関与するもので、八卦拳のシステムでは「胸」を開くと解するべきであろう。

第六十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、道は形をもっては現れていないが、かすかにその兆しを見ることができることの妙について述べている。世の人は安易に道を保持していると考えている。兆しのない時点では、いろいろな計画も立てやすい。脆いものは分解してしまいやすいし、微細なものは集約することが難しい。そうであるから事をなそうとするのであれば、それが現れていない内に行わなければならない。乱を治めるのは、いまだ乱が生じていない内にこれを治めてしまうべきである。一抱えもあるような大木も、小さな一本の木から始まっている。九層のひじょうに高い台も、一層から積み上がっている。千里の彼方に行くのは、ひじょうに遠くいことになるが、これも一歩の近いところから初められる。こうして治乱、禍福の寄ってくる初めはその「形」の現れていない時期であることを知ることができよう。それは他のどのようなものでも変わりはない。またその時点では有為が用いられるべきではない。世の人はこうしたところが分かっているであろうか。これは事を為さないことに執着しようとするのではない。どうなるか分からないようなことを無闇に行おうとするのではない。こうした有為によって行動をする人は、必ず失敗をするまで止めることがない。聖人はただ為さざるを為すのであり、執着することなくただ関わるのである。失敗とはどうして起こるのであろうか。それは人々が何かをしようとして、それを成功させようとするものの、そうならなかった場合に「失敗」となる。それは有為によって行われているからである。無為をして行い、しかも慎みをもって行動しいる。そうであれば最後も慎みをもって終わることになる。始まりをから慎んでいれば(結果を気にすることはないので)、必ず「失敗」はない。そうであるから聖人は欲しないことを欲するのであり、学ばないことを学ぶのである。内外は共に空にして明らかであり、穏やかで無為である。ただ万物の自然のままにして、その功を為すしてこだわることがない。ただそれだけであり、それによって微かに現れた道を照らすわけである。 (「無為」であれば敗れることはない。「無執」であれば失うことはない。この「無為」「無執」は「慎(つつしみ)」という語によって象徴される。これは朱子学や陽明学で重視される「敬(つつしみ)」と同じといえよう(日本語の読み...

第六十四章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十四章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 その安(やす)らかなるは持つこと易く、 (安らかな状態であれば、その状態を保つことは容易である) 安らかな状態であれば保持することが容易である。危険な状態であれば保持することは難しい。 そのいまだ兆さざるは謀(はか)ること易く、 (いまだ始まっていない時には計画を立てることが容易である) 「いまだ兆さざる」とは形になっていないということである。物事が形を持たない時点では謀(はかりごと)をするのが容易であるが、形として現れてしまってからでは難しい。 その脆(もろ)きは判(わか)れ易く、 (脆いもには簡単に分裂してしまう) 「脆」とはいまだ固まっていない状態である。「判」とは破れ分かれるということである。 その微(かす)かなるは散り易し。 (つながりが希薄である物は散乱してしまいやすい) 「散」とは明らかではないということである。 これをいまだ有らざるに為し、 (いまだ形を持たない内に行う) あえて行わないことを行う。そうなれば天下にあえて行われることはなくなる。もし意図的に何かを行えば、ますます行いにとらわれることになる。 これをいまだ乱れざるに治め、 (乱れが形として現れない内に治めるのである) あえて治めないことをして治めれば、天下は自然と治まるものである。もし社会に乱れが生じて、それを意図的に治めようとしたなら、ますます混乱することになる。 合抱(ごうほう)たる木は、豪末に生まれ、 (両手で抱える程の大木も、小さな小枝から生まれている) 「合抱」とは、それが(両手で抱える程の)大木であるということである。「豪末」とは生まれて間もない枝のことである。ここに小さいものから大きなものが生じているのを見ることになる。 九成の台(うてな)は、塁土に起ち、 (九層もの高台も、一層の土を盛るところから始まる) 「塁土」とは平地に積まれた土である。積まれた土の高いことを見て、その下のあることを知ることになる。 千里の行も、足下に始まる。 (千里の遠い道も、第一歩を踏み出すことから始まる) 「足下」は、どこに行くにしてもここから始まることになるところである。そうして遠いということを知れば、また近いということも分かることとなる。 為すはこれ敗れ、 (有為で為したことは、成功することがない) 有為をして成功させようとすればかえって...

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(3)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(3) 呼吸の鍛錬ということでは合気道においても重視されている。合気道はその技を行うだけで呼吸が鍛錬できるようになっている。これは大東流とは大きく異なっている点であろう。合気道において何故、大東流のような「合気」が無くなったのか。それは第一に呼吸の鍛錬を重視したためということができよう。植芝盛平は呼吸をひじょうに重視して、多く呼吸、息などについて語っている。また合気道には大東流にない呼吸投げなる技法群も存している。盛平は合気道を「引力の鍛錬」としていたが、これはまさに「呼吸の鍛錬」ということも可能である。合気道の技は基本的には「相手の力の流れを引き込んだ(引力、合気)上で、それを反転させ(転換)て投げる」といった形となる。「呼吸力」はこうした一連の流れによって生み出される「力」なのである。「引力」を使う時には自然と息を吸うし、投げる時に吐くことになる。つまりこうした一連の動きをすることで呼吸力の鍛錬となるわけである。それを大東流のような合気を使うと、こうした一連の流れを作ることが難しくなってしまう。つきつめていうなら「合気」とはこの存在世界のあらゆるところに作用している根本原理なのであり、そうした原理を武術として展開するためには呼吸力が用いられなければならないことになるわけである。これまでの形意拳や八卦拳の説明を踏まえれば「合気」は内的身体、「呼吸力」は外的身体に関係する概念と認めることも可能であろう。

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(2)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(2) 形意拳の最も重要な拳訣は「起落翻讃」である。これが最も端的に示されているのが劈拳で、それでは特に「起落」を練る。これは単純な動作に還元すれば、手を上げるのと下げるものと見ることもできるわけで、こうした動作が呼吸と深く関係していることは言うまでもあるまい。大体において腕を上げる動作は息を吸うことに適しており、下ろす動作は吐くことに適しているとすることができよう。こうした劈拳の動作が呼吸の鍛錬、すなわち「肺」を開くことになるわけである。ちなみに「翻讃」は腕をねじる(翻)ことで力を集中させる(讃)ための秘訣である。これが「起落」と一体となって行われるわけで、こうしたことが形意拳の動作の特徴となっている。この秘訣はもちろんのこと五行拳すべてに共通しているが、劈拳以外はすべて劈拳の変化とする見方もある。こうして見てみると興味深いことに「起落」は内的な身体の動きを、「翻讃」は外的な身体の動きを教えるものであることが分かる。また内的な身体を動かそうとするのであれば、必ず外的な身体の動きを借りなければならないし、内的な身体においても外的な身体と無関係ではアプローチすることがきわめて困難なのである。

第六十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十三章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では、道は無為の中に存している、ということを述べているのであるが、心についても、これを軽視するものではない。無為であるとは、どのようなことであろうか。それは無事を事とするということ(つまり無為自然であること)であり、無味を味わうということ(つまり自然のままの味を味わうということ)なのである。天下は本来、清らかで、静かなのであり、正しくないものなど存していない。聖人は事物の来るところを知っている。大小、多少はそれが「どれ位いである」ということはできない。そうであるからこれを論ずることが好まれないのである。世の人は怨みには報復をしようとする。しかし聖人は徳をもって怨みに対して、それを受け入れる。受け入れて正しい道に導くのである。こうしたところに報復など存することはできない。こうしたことを延長すれば、困難や大事をもたらすことを心配する必要がどこにあるであろうか(困難な簡単なものからできているのであり、大事は細かな事の積み重ねであるに過ぎない)。そのため天下には難事などないということにもなる。大事がないということにもなる。困難に遭遇した後にいろいろと考える。大事になってやっと行動を起こす。こうした時には、いろいろと考えるべきではないし、為すべきではない。もし困難なことを簡単にしようとするのであれば、大きいものを細かなものとしようとするのであれば、自然とそうなるのである。ここにおいて困難なことは、必ず簡単なことから生じていることを知るべきである。大きな事は、必ず細かな事から生じていることを知るべきである。そうであるから聖人は、必ず大きなものも、細かなものと同じと考える。このように大きなものを、ただ大きなものとするべきではないのである。これは、つまりは大きなものは終始、大きいわけではない、ということである。つまり細かなものも、積み重なれば大きくなるということである。つまり細かなものと、大きなものとを同じと考えることもできるわけである。あるいは物事を軽く行えば、必ず見誤って失敗をして信頼を失うことになる。つまり心だけを変えて、事をなそうとしても、多くは失敗するであろう。聖人は事をなすに、こうしたところに至ることはない。つまり何時も、困難なことは困難と認めて、それと同時に(困難なことが容易な部分によって構成されるている...

第六十三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十三章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 無為を為し、 (無為であるようにして) 無為であるが為さないことはないのである。 無事を事とし、 (無為自然で物事を運んで) 努め行うことがなくして、またよく事を集めるのである。 無味を味わい、 (自然のままの味を味わい) 特別に強い味を求めないでいれば、本当の味を知ることもできる。 大小、多少、 (大きいもの、小さいもの、多い、少ないのあることを知る) 事物の状態を言っている。 怨みに報いるのに徳をもってす。 (怨まれるような行為の中にも徳の存していることを見ようとする) 怨みを忘れれば、徳を見ることができる。そうなれば怨みを見ることはない。 難をその易に図る。 (難しいことの中にも、そこに含まれている簡単なことを使おうとする) いまだ難を見ない内にそこに易のあることを思うのである。 大をその細かきに為す。 (大まかなことの中に細かなことを見出し、細かなことを行うことで大まかなことを行う) いまだ大となっていない内に細かなもののそこに存することを思うのである。 天下の難事は、必ず易に作る。天下の大事は、必ず細かなるに作る。 (この世のあらゆる困難な事は、必ず簡単な事によって構成されている。この世の大きな仕事は、必ず細かな仕事によって構成されている) 「作」とは始まるということである。 これをもって聖人は終に大を為さず。故によくそれ大と成る。 (そうであるから聖人は大きな事もそのままに大きな事として行うことはない。つまり細かなことを積みあげて大きな事をなすのである) 細かなところに大を為すとは、大とすることなくして大となるということである。 それ諾(うべな)うこと軽るければ、必ず信ずること寡(すくな)し。 (軽々に認められたことは、必ず深く信じられることはない) 軽いというのであるから、つまりいまだ必ずしもよくそれに応じることがないのである。 易なること多ければ、必ず難きこと多し。 (簡単なことが多ければ、そこには必ず難しいことが多く含まれているものである) 易きことのあるを見れば、つまり必ずしもそれだけで終わることはないのである。 これをもって聖人はなおこれを難くす。 (そうであるから聖人は簡単なことをあえて難しいことと見るのである) いまだそうなる前に「これを難くす」るのである。 故に終に難きこと無し。 (そ...

道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(1)

  道徳武芸研究 形意拳、八卦拳で「心」を開く(1) 門派として構成されているシステムにおいて最も重要とされるのは「母拳」である。形意拳では五行拳が、八卦拳では八母掌が「母拳」とされる。ために姜容樵には『形意母拳』なる著作があり、五行拳を解説している。こうした母拳において興味深いのは、これらにはその門派における身体観が示されている点である。ちなみに五行拳では劈拳が金で肺を、讃拳が水で腎、崩拳が木で肝、砲拳が火で心を開くものとしている。横拳は土であり五行思想ではこれを脾に当てるが、形意拳では肺、腎、肝、心の働きを整えるものと考えることが多いように思う。また八卦拳では内的な身体と外的な身体に分けて、内的な身体を内四掌(心、肺、肝、腎)で開き、外的な身体は外四掌(頭、胸、腹、腰)で開くとする。八卦拳では内的な身体と外的な身体を別に開くシステムとなっているのであるが、形意拳では内的な身体を練れば自ずから外的な身体も開かれると考える。こうした身体観において興味深いのは形意拳が「肺」を第一として、八卦拳が「心」を第一とすることであろう。こうした違いはどうしたところから生じているのであろうか。

第六十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では道が貴いものであることが述べられている。道は万物を統べるものである。それは物の奥深くに蔵されているようでもある。ために善人は道をして宝とする。不善の人は道をあえて保とうとする。道の存するところ本来は善と不善の区別は無い。天下にいう美なるものは、それをあえて売り買いされるべきである。尊い行いなるものは、これを人に施すべきである。道を有している者は、殊更に美に執着することはない。また尊い行いということも同じく執着しない。つまり人の不善なる点は、道をあえて保とうとすることにある。どうしてこれを棄てないのであろうか。天子を立て、三公を置いて、道をして人を救うだけである。貴重な玉(拱壁)は実際、貴いのであり、四頭立ての馬車の良馬に乗って進み行く人は地位の高い人である。しかし、どうせ進むのであれば、道を進むのが第一である。そうであるから古い時代には道を貴んでいたのである。どうしてであろうか。善人は自ずから善なる存在で居る。しかし不善の人は、見たり感じたりして善なることと見なされているものを意図的に取り入れようとする。そうして罪に落ちることを防ごうとする。しかし、そうしたものを超越したこそ道が天下の貴いものとされるのである。 (罪とは人が決めたものであり、それは道よりも下位にある。道の観点からすれば法律を犯すことに何ら問題はない。道とは善なるものである。善なるものと無為自然であることとは同じである)

第六十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十二章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 道は万物の奥たりて、 (道は万物の奥に隠れたようにして存している) 部屋の奥にある。深く蔵されているわけである。 善人これを宝とす。 (善人つまり無為自然の生活をしている人は、こうした道を重視して宝としている) 賢者は道をして宝とするわけである。 不善の人これを保つ所とす。 (しかし不善の人つまり意図をもって生活している人は「道」と考えるものを失わないように努めている) 賢者でない人は道をして強いてこれを保とうとする。 善言はもって市とすべし。 (善言は多いに集められるべきである) 「市」とは物を売る所である。 善行はもって人に加えるべし。 (善行は多いに行われるべきである) 行うことが善であれば人は敬服するものである。 人の不善なるは、何を棄てることこれ有らん。 (人の有する不善なるものも、どうしてあえてそれを棄てる必要があろうか) 道を有している者は、天地の大きさに等しいのであるから、不善であってもあえてそれを棄てることはない。 故に天子を立て、三公を置く。拱壁(きょうへき)有り、シ馬をもって先にすといえども、この道に坐し進むに如かず。 (そうであるから天子が居て、その下に三公が配され、国には貴重な玉も存している。そうした立派な国で四頭立ての馬車に乗って道を行くような身分になるよりも、道にあって道に坐して道を歩み進み方が良い) 「拱碧」とは貴重な宝のことである。「シ馬」とは良馬のことである。良馬に乗って進むのも良いが、道をして進む方が貴重といえる。 古のもってこの道を貴ぶところは、何なる。求めてもって得ると曰(いわ)ず。 (古くにこのような道を貴んでいるのは、どうしてであろうか。それは求めても得ることができないからである) つまり所謂、善人の宝ということである。 罪有るももって免れるや。 (罪を得てそれから逃れることが可能であろうか) つまり所謂、不善の人があえて保とうとするところのものである。 故に天下の貴きを為す。 (それは天下で貴いとされていること、つまり道にあれば人が決めた罪にとらわれることはない。尊ぶべきは道なのである)

道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(6)

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(6) 日本で両手を使うものとしては宮本武蔵の二天一流がよく知られている。ただ、大刀と小刀を両手にする刀法は一般に広まることはなかった。中国の双子刀、双剣のように左右の手に同じ武器を持つのであれば、ある程度は使えるが、大刀と小刀のように違う武器を持つのでは極めて使いにくいからである。ちなみに武蔵の「二刀流」は必ずしも二刀を使うことを目的とするものではなく、二刀を腰に帯びているのであるから、これらを適宜、共に使えるようにするという一種の「発想の転換」を促すものであった。大刀が折れたらそれで終わりというのではない。小刀も充分に戦力にもなる。また近くの棒や石ころも有効であればそれを使う。こうした刀に執着しない発想の転換を促すという点では新陰流の「無刀」と何ら変わりはない。「無刀」は刀を持たないのではなく、刀にとらわれないということである。「二刀」と「無刀」は表現としては正反対であるが、意味するところは同じといえる。「レツ」もそれが示しているのは自在な動きであり、それは「引進落空」の秘訣につながる。相手が引いても、押して(進んで)も、ともにそれを包むこんでコントロールしてしまう。それが「レツ」の教えなのである。

道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(5)

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(5) 四隅の「レツ」は両手を連動させて使う秘訣である。一般的な武術では左右の手をそれぞれ別に使っている。左で受けて、右で突くというような使い方である。例えば太極拳の提手上勢では右手で相手の攻撃を受け流して(下への勢)、左手で相手を崩して攻撃をしている(上への勢)。手揮琵琶ではこれと左右の働きが反対になる。右手が下への勢であり、左手は上への勢となっている。これらは攻防において相手の動きを絡めるうようにして捉えるための力の使い方であり、これは太極拳ではまた「粘」と称されるものでもある。中国武術では双剣や双刀に見られるように両手を使う練法が広く存している。ブルース・リーで有名になったヌンチャク(双節棍)は、三節棍の変形であり、三節棍は両手で使う(双節棍も同じ)。本来、双節、三節棍は「棍」とあるように棍を2つまたは3つに切断した武器なのである。これを伸ばせば棍としても使うことができるし、節で分けて使えば短棍として、或いはチェーンのようにも使える。このように両手を使う目的はひとえに多くの変化を生じさせるために他ならないのである。

第六十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では大国、小国を例えにして、道を悟った人について述べられている。それは謙遜のできる人であり、静かな人でもある。「大国」であれば、よく自らを卑下して、世界各国(天下)とよく和する。それは下につくということである。こうしたことは「牝」と例えることもできる。「牝」は静をもってして「牡」に勝つ。ただ静であり、ただ下にいる。つまり「牝」であるからこそ勝つことができるのである。道の悟りを得た人はこれに習っている。そうであるから「大国」は「小国」を下るのである。こうなれば必ず「小国」を従えることができる。また「小国」は「大国」に下る。こうなるには必ず「大国」に受け入れられる。つまり「あるいは下り、もって取る」こともあるし、「あるいは下して取る」こともあるが、これらは共に、その心を得るわけである。つまり「大国」は過欲を求める(小国を滅ぼす)ことはない。そして人を集める(国力を増す)のである。「小国」は過欲(により更に領土)を求めることはない。つまり世論の赴くところに従うのである。これらは共に自らを卑下している。そうすることで、それぞれがその欲するところを得ている。つまり道の大なることを悟った人は、常に謙遜、卑下であるべきことを知っているのである。 (老子は「国の力」を「領土」に限定して見る必要はないと教えている。それは結局は「人」にあると教えるのである。一般的に為政者は国力を上げるには覇道をして領土を拡大しなければならないと考える。しかし王道をして人の智慧や団結力を充分に汲み取る方法もあるのである。王道でも覇道でもどちらも国力を増すことはできるが、争うを避けるという点において老子は後者を取るべきと教えている)

第六十一章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十一章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 大国は下流たれ。 (大国は覇道をもって小国を抑圧してはいけない。上流を受けいれる、つまり小国の言うことを受け入れる「下流」でなければならない) 天下(世界の国々)は大国に帰するものである。それはあらゆる流れが下流に帰するのと同じである。 天下の交わりたれ、 (「下流」とは、天下の誰でも交流できるところである) 「交」とは出会うということである。 天下の牝たれ。 (「下流」とは、天下のどの国であっても受け入れる「牝」つまり女性原理を有しているところである) 大国は「牝」で象徴される。 牝は静をもって牡に勝つ。 (「牝」は静かに「牡」の動静を窺うことで力の強い「牡」にも勝つことができる。視点を変えれば「下流」であることは不利ではない) 「牡」は動であり、「牝」は静である。「静」は益を受け入れられるので、「動」に勝つことができるのである。 静をもって下と為る。 (それは「静」で居て、相手を受け入れる、つまに下手に出て、相手の情報を多く取り入れているから優位に立てるのである) 「動」が上にあって、「静」は下にある。そうであるから「静」を下としている。 大国は小国を下す。すなわち小国を取る。 (大国が小国を破って下す。そうなれば大国は小国を取ることができる) 「下」とは謙譲するということである。「小国を取る」とは、小国を大国に従えさせるということである。 小国は大国を下す。すなわち大国を取る。 (小国が争って大国を下せば、つまりは大国を取ることができる) 「大国を取る」とは、大国が小国を吸収するということである。 故にあるいは下り、もって取る。 (つまり、王道により自分が「下」になって、相手の国を取ることもできるし、) よく下すことができれば、小国が大国を取ることもできるのである。 あるいは下して取る。 (または覇道により相手の国を打ち破り、下して取ることもできる) 下すことができれば、大国が小国を吸収することができる。 大国は過欲せず、兼ねて人を蓄える。 (大国は欲望を逞しくして小国を取ろうとするのではなく、つまりは人を集めれば国力は増して行くことになる) 「蓄」とは、人を大切にすることである。 小国は過欲たらず、人に事(した)がう。 (小国も領土を拡大しようと過度な欲を持つのではなく、小さなグループなのであるから人々の...

道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(4)

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(4) 防御を固くして先手を取るには中段の構えでなければならない。これは両手が体の前にあるために容易に相手の攻撃を防ぐことができるし、手が前に出ていることは早い攻撃を可能とする。さてこうした構えをいう太極拳の秘訣には「中定」の他に「ホウ」があることは既に述べた。「ホウ」は太極拳ではよく言われる「ホウ」勁のことである。ここでよく混乱するのが四正の「ホウ」と「ホウ」勁であろう。四正を「ホウとリ」「擠と按」のように対の関係で解く場合には「ホウ」は「斜め上への崩し」とされ、力の発し方をいう「ホウ)」勁とは別であるとされる。「ホウ」勁は太極拳独特の力の出し方で「高いところからガラスの板を落として、それが割れて破片が四散するよう」と形容される。これは、体を緩めた状態から一気に力を発することで可能となる。そうして発せられた力は、どこからそれが発せられているのか分かりにくい。そのためそれを交わしたり、受けたりすることも難しい。「ホウ」勁は「リ」でも「擠」でも「按」でも使われるので、これは対の関係でとらえるよりは「ホウ」を「中」としてあらゆる場面で展開されるものと解した方が妥当であろう。

第六十章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第六十章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 「有国の母」を得て国を治める。それは「大」きい国であっても、何ら難しいことではない。「小鮮を烹る」とは、崩してはならないということである。「大国を治める」には、 めんどうなことをしてはならないのである。めんどうなことをしてしまえば、人は疲れる。それは小さな魚が崩されるのと同じ「必然の理」がそこにはある。聖人は道をして天下に臨んでいる。「無為」「無事」であって、人をして外では乱れることなく、内では畏れることがない。つまり物によって犯されることがないのである。その極限に至るのである。そうなれば「鬼は神たらず」ということになる。どうしてこう言えるのであろうか。「鬼」とは「道」でもある。そうであれば「神」でないということはない。そうであるから「神」ではないとは、陰陽が静と和して、六気が等しく調うのである。「万物が成る」とは、群生をして失われることがないということである。その「神」は人を傷つけることはない。つまり、その「神」が人を傷つけないということではない。そうであるから「傷つけず」とは、聖人が「道をもって天下に莅(のぞ)めば」、人をしてその性を乱すことがないのであり、その徳を失わさせることがない。激しく悦ぶことも、激しく怒ることもない。そうして陰陽の和を求めるのである。それれはつまりは聖人がまた人を傷つけることがないということでもある。聖人は人を求めるものであり、人を全く素樸であらしめ、これを傷つけることはできないのである。そうであるから人はその性を失ってしまえば、常に不順となる。寒暑の和は生まれず、人が和が生まれないために神を傷つけられることが多くなる。そうであるから神ははたして人を傷つけることができるのであろうか。それはただ大きなところでは政治、かそけきところでは鬼神、これらは共に傷つけあうことはない。そうであるから人と鬼とは心を交わらせることになるのである。徳はどうしてこうしたところに至らないということがあるであろうか。 (この章で問題となるのは「大国を治むるは、小鮮を烹るがごとし」であろう。「小鮮」を小さな魚として、小さな魚を煮る時にはあまりそれを触っていると煮崩れてしまう、意味を取って余計なことをしてはならないことの教えと解する。しかし、「小鮮」の「小」は「大国」の「大」に対しての語であり、これは「鮮」の方...

第六十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第六十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 大国を治むるは、小鮮を烹るがごとし。 (大国を統治するのは、小さな生魚を煮る時のようにあたりまえのことをするだけで良い。余計なこと、つまり祖先神などのおかしな力を借りようとしてはならない) 「小鮮を烹る」とは、小さな魚を煮ている時にかき回すと身が崩れることをいっている。「大国を治める」とは、あえて国を治めようとすれば、かえって乱れるということである。「清浄無為」「安静不擾」これが国を治めるための道なのである。 道をもって天下に莅(のぞ)めば、その鬼も神たらず。その鬼、神たらざるにあらざれば、その神、人を傷つず。 (道である無為をして天下に対したならば、祖先神である鬼も意識されることはない。祖先神である鬼が、意識されることがなければ、つまりはそれにより人が害されることはないわけである) 聖人は無為をして天下を治める。神の犯すところがあるとしても、それを用いることはない。聖人はこれをして神としないというのではない。神として存していても自ずから人を傷つけることはないということである。 その神、人を傷つけずにあらず。聖人もまたこれを傷つけず。 (意識レベルの迷信により人が傷つけられると迷信している人も居るが、そうしたことはないのである。それは自然に反している働きであるからであり、自然と一体である聖人も同様に人を傷つけることはないのである) 聖人は人を傷つけることはない。そうであるからその神も人を傷つけることはないのである。 その両つは相い傷つけず。故に徳は交わり帰する。 (神(意識)と徳(意識の働き)は共に人を傷つけることはないのである。そうであるから神と徳は交わってひとつになるのである) つまり人と鬼とは、共に傷つけあうことはないのは、既にあるように聖人であるからに他ならない。つまり徳は聖人と交わり、聖人に帰するのである。

道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(3)

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(3) 太極拳における「中」は五歩では「中定」であり、四正では「ホウ」で、四隅では「レツ」となる。これらは何を示しているかといえば、それは「構え」なのである。所謂「中段の半身の構え」である。鄭曼青はこれを重視して提手上勢、手揮琵琶を「合」、単鞭を「開」として基本の構えを練る功法として教えている。単鞭は套路では左だけなので、右も練る。また新架(楊澄甫架)では提手上勢と手揮琵琶は動きがやや異なるが、簡易式(鄭曼青架)では同じであるし、老架(楊露禅架)でも同様である。これは新架が用法を取り入れたために生じたことである。呉家でも用法を重視しているので提手上勢と手揮琵琶とでは動きが大きく異なっている。それはともかく「中定」「ホウ」「レツ」は太極拳の「変化の基本」の秘訣であり、これは既に述べたような構えに示されている。「中定」は中庸の構えであるから、これは中段でなければならない。上段の構えは下への変化しかできないし、下段の構えでは上への変化しかできない。それに対して中段の構えは上でも下へも変化をすることが可能となる。最近では空手の試合などで上段の構えをとる人も少なくないようであるが、それは中段への攻撃を誘うためである。試合であれば素手で打たれるだけなので、問題はないかもしれないが、実戦ではナイフなどの武器を持っている場合もあるためこのような体への攻撃を許容するような方法は採られない。実戦では防御を固くして先手を取るのが必勝の戦略となる。

道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(2)  

  道徳武芸研究 太極拳の「レツ」を考える(2)   また四隅に至っては「採、肘、レツ、靠」で、これでは全く「対の関係」を認めることはできない。それは考えてみれば当然のことで十三勢は本来「太極=対の関係」においてシステムが成立しているわけではないからなのである。十三勢は「中」とそこから派生する動きによって構成されている。これが明確に見られるのが五歩であり、中定から「前後」「左右」へと展開する。「中」とは中庸であり、儒教では「過不足の無い最も適切な行為」へと変化し得るものということになる。こうした「中」を変化のベースとする考え方は武術では槍術において顕著である。槍が「諸武器の王」とされるのは、それが中段の構えを基本としているからである。中国武術における四大武器とされるのは剣、刀、槍、棍であるが、この中では剣や槍が優れていると考えられている。武器として優れているというのは変化が多いからである。刀は大体において引いて斬るだけであるが、剣では突くことも、押して斬ることも、引いて斬ることも可能である。棒は打つことを主とするが、槍は突いたり、巻き込んだりすることも可能である。このように武器にしろ拳にしろ中国武術で重視するのは「変化」なのである。これは中国文化全体にも通じることで、中国で最も重視されている古典が変化の書である『易(経)」であることはいうまでもあるまい。太極拳が「中」を核とするシステムを構築しているのはそれが「変化」を重んじているからに他ならない。

第五十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

  第五十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】 この章では「人を治めること」「天に事(つか)えること」について述べられている「人を治めること」とは、人が人により人を治めるのではない。つまり、人はそうしようと思わないでも人を治めることができるような状態でなければならないのである。「天に事えること」とは、天をして天が天であるためには、天は天だることに従わなければならない(事える)ということである。つまり天下とは、そのままでそれに仕え、従うべきものなのである。あるいは精神を四方に及ぼせば、四方の極みまで届かないということはない。天は万物を変化させて育てる(万物化育)のであるから、「天」という名も「帝」と等しいものとすることができよう。つまり人は人であるから人なのであり、天は天であるから天なのである。純粋素樸な道においては、ただ神(意識)がそれを守っていて、安定した状態が失われることがない。神と万物とが一つになっているのである。そうなれば人はそのまま、何もしないでも治まっているのである。天はつまりは、そのままで事(つか)えるものなのである。そうであるから「やり過ぎではいけない(嗇(おし)むにしくはなし)」とされている。つまりその「嗇」とは、ただ精と神とを浪費することがないように、ということなのである。そうなれば早々に元気はもとに戻る(早服)ことになる。いやしくも「嗇」むことをしないで、精や神を費やすようなことがあれば、神は働きを失い、精は疲れ果ててしまうことであろう。なんとかして元気を回復しようとしても、どうすることもできなくなる。しかしこれも手遅れということはない。ただ「嗇」むことを早々に行えば良いのであり、そのことを「早服」と謂っている。これは人において見られることである。本来、徳が足りていれば、それは「誠」が実践される。よく「嗇」んでこれを早々に行えば(早服)、つまりは日々に徳が益々充実することになる。そのためこれを「「重ねて徳を積む(重積徳)」としている。「「重ねて徳を積む」ことは、誰もこれを好ましくないこととはしないし、物にあって徳の実践は、物欲によってそれを傷つけられることはない。それは徳を実践して、物欲に克つということではない。つまり克たないというのは、もし道に極まる時があれば、それは克たないところはない、ということになる。しかし、どうして極みを知る...

第五十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

  第五十九章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕 人を治め天に事(つか)うるは、嗇(おし)むにしくはなし。 〔人を統治したり(政治)、自分を安らかに保ったり(養生)、天に使えたり(祭祀)するには、やり過ぎないのが第一である〕 外においては人を治める。内にあっては天に事(つか)える。これらは全て「嗇む」ようにする。内に謹み、外に対して閉じている。内より心は外に出て混乱することもなく、外よりの影響を心は受けることがないのである。 それただ嗇む、これを早服と謂う。早服これを「重ねて徳を積む(重積徳)」と謂う。 〔つまりは惜しむ(嗇)ことである。これを「早服」という。「早服」は「重ねて徳を積む(重積徳)」と謂う」 「服」とは内には、その心を治める(服)ことであり、外には、その形を治める(服)ことである。「早」とはすぐにということである。「重ねて徳を積む(重積徳)」とは既に徳の積まれているところに、更にまた「嗇」を養うのである。つまり徳を積むに加えて、それを養うわけである。 「重ねて徳を積む(重積徳)」なれば、すなわち克(さだ)まらざる無し。克まらざる無ければ、すなわちその極を知ることなし。 〔「重ねて徳を積む(重積徳)」を行えば、その徳はどのようなところでも安定して実行することができるようになる。そうでなければ「極」みとはどういったものかを知ることはできない〕 「克たざる無し」であるから、物はよく勝つことができない。「その極を知ることなし」とは、これを用いても窮まることがないということである。 (両儀老人、曰く。「克」は世祖は「克つ」「勝つ」の意としているが、訳文では「定まる」を取っている) その極を知ることなければ、もって国有るべし。国の母有れば、もって長久す。 〔極みとはどういったものかを知ることがない者が国を作ろうとする。しかし、国も生成の根源である道(母)によって生まれていることを知っていれば、極端なことをして「極」を求めることがないので、その「国」は長く保たれることになる〕 道は万物の母である。そうであるから道を得れば、つまりは国を長く久しくすることができるのである。 これを「根を深め柢(ね)を固める(深根固柢)」と謂う。「長く生き久しく視(やしな)う(長生久視)」の道たり。 〔こうした根源を知ることを「深いところまで意識を至らせ、体のエネルギーを安定させる(...