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道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(3)

  道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(3) 肘打ちが日本で一般に知られるようになったのはキックボクシングがテレビで放送されるようになった1970年代頃からという。肘打ちそのものは猿臂として空手にもあったが、それが試合などで使われることはまず無い。頻繁に見られるようになったのはキックボクシングが初めてであった。それは肘打ちが通常の空手の間合いよりかなり近いところでしか使えないためでもあった。それは日本の柔術でほとんど肘打ちがない理由でもある。柔術は基本は対剣術であるので間合いは比較的遠くなる。それ以外では相手を取り押さえるのにも用いられたが、その場合には関節技は求められるものの肘打ちは必要ではない。ただ中国では「肘法」は一般的であり形意拳では「肘」が七拳(頭、肘、肩、拳、膝、臀、足)の中に入っている。あるいは太極拳では「採、肘、靠、レツ」として明示されている。1970年代のキックボクシング・ブームあたりから「肘打ち」の有効性が広く認識されたのであるが、これが「八極拳最強」のイメージと頂心肘という特徴のある形とも重なって「八極拳=肘打ち」のイメージが「八極拳=最強」伝説と共に形成されて行ったようであるが、八極拳の真の強さは「把子拳」にこそあると見るべきであろう。

道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(2)

  道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(2) 把子拳と称しつつ、またその拳の形も伝わっているのに、八極拳では専ら普通の拳をのみ使うのは解せないものがあろう。蟷螂手などもそうであるが、こうした特殊な手形には独特の意味合いがあるものであるからそれを使わないというのでは、その拳を修行する意義そのものが失われてしまうことになりかねない。しかし一方で蟷螂拳では套路においては「蟷螂手」が多用されてはいないという事実もある。これには、ひとつにはひじょうに重要である「蟷螂手」の意味を秘して公にしたくないということがあるのであろう。「蟷螂手で相手を拘束して技に入る」という秘訣を知らなければ「蟷螂手」を有効に使うことはできない。同様のことは「把子拳」にもいえる。八極拳では「把子拳」で相手を拘束してから技を用いる。八極拳といえば「肘打ち」のイメージが強いが、それを成功させるためにも前提として相手を捉える「把子拳」が有効に使われなければならないし、蟷螂拳でも「八肘」を使うには「蟷螂手」で相手を充分に補足しておく必要がある。これは八卦拳の「十二展肘」でも同じである。

道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(1)

  道徳武芸研究 八極拳雑感「把子拳」と癩伝説(1) 八極拳を伝える馬家にそれをもたらしたのは「癩」という人物であるとされる。その名からすればこの人物はおそらくはハンセン病(癩病)にかかってたのではないかと思われる。ハンセン病は身体が崩れることもあって感染を恐れた村人から近所に住むことを拒否されるケースが多くあった。日本でも「一遍上人絵伝」には河原で白い布を巻いた人が何人か描かれている。こうした人はハンセン病の患者であるとされている。おそらくは「癩」姓の人物もそうして住んでいたところを追われたのではなかろうか。また本当の名前を言わなかったのも故郷や親族に迷惑がかかることを恐れたためと思われる。八極拳は元は「把子拳」と称されたとされ「指を曲げる形」の拳を用いたという。またハンセン病では末梢神経障害の麻痺により指の変形なども生じるとされている。これが「把子」の形の由来ではないかと考えられるわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(56ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(56ー2) 知っている者はあえて、余計無いことを語ろうとはしない。 黙っていても道と自分とは一体である。これを「知って」いるのである。「語ろうとはしない」とは、心と道とが合一しているから、あえてそうしないのである。つまり無為に知り、無為に行うというのである。そうであるからあえて言語をして、それが語られることはない。こうしてあえて語らないことの方がより(道の表現においては)巧みということができよう。道を心に得たならば、心と道とは合一していることが分かろう。これは真を知るということであり、それをあえていろいろと言語化することはないわけで、こうしたことを「無為の教化(無為の化)」という。これを天下に実践したなら、それは全て「不言の教え」ということになる。そうであるから「知っている者はあえて、余計無いことを語ろうとはしない」と述べられている。 〈奥義伝開〉ここで老子は一見して本質とは違うように見える事例を二つあげる。次いでそのまま本質が認められる事例を二つあげている。それは本質というものつまり「道」はそれが分かりやすい形で見えている場合とそうでない場合のあることに注意を促している。そうであるから常に一応は反対の見方のあることを許容しておく必要があるわけである。意見が一方だけになった時にはそれは真実ではない可能性が高いと考えなければならない。他の見方を許容しないのは批判に脆弱であるからである。社会的な熱狂が過ぎ去った時、物事の本質が容易に顕になることがあるが、熱狂の渦中にある時はつまりは意見が一方に偏っている時はなかなか本当のことが見えて来ない。そうした時には真実が覆い隠されやすいわけである。

宋常星『太上道徳経講義』(56ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(56ー1) 「知っていても言葉にしない」という言い方では「知っている事」と「言葉にする事」を分けている。「名と形を忘れる」ということにおいては、天地の間にあって「名」と「形」をひとつのものとしている。「名」も「形」も天地に中にもともと存しているのではない。「名」は物の「形」を形容しているのであるが「物」にはもとから「名」があるわけではない。それに「物」にしても、決まった「形」があるわけでもないのであるから、きまった「名」はなおさらないということになろう。あらゆる「物」はただ存在としてあるのであり、それ以上でも以下でもない。あらゆる「物」の「形」は変化をする。そうした中において強いて「名」が付されているに過ぎない。修行者は、よく言葉にならないことに奥深い教えがあることを知っているであろうか。それは「言葉にならない真の言葉」と言うことができる。そこにおいては(言語を超越して)全てが語られている。また言葉として知ることのできない中に本当の「道」がある。これは「聞くことがなく聞くことのできること」とすることもできよう。こうしたことの分かっている人は「妙知」「妙言」「妙解」を得ているといえる。こうした天地と等しい境地にあっては、貴賤や親疎の違いはない。また自分というものもない。栄誉も恥辱もなく、我を縛る何ものをもないのである。この章では「不言の妙」がまさに語られている。またこれは道を貴ぶことでもある。道を知っている人は、自分を飾ることなく円滑に生きている。そして決して世俗に溺れることもない。道を修している人は「大同の妙」を知っている。それをして社会と対している。そうしたことを「玄同」という。生きていれば順逆、得失があるが、こうしたことの全ては修行者に影響することはないのである。 〈奥義伝開〉表向きは違いがあるように見えるものも本質においては等しいと老子を教えている。人であれば地位の高い人も居れば、低い人もいる。裕福である人、貧しい人、それぞれであり我々はそれらを一定の価値観をして見ている。しかし、あらゆる人が人である点においては何らの違いもない。全ての人は根本においては平等なのである。高い地位にある人もそれを失うこともある。貧しくても富貴を得る人も居る。つまり地位や富貴は変転極まりないのであるが、そうした中にあっても人は人であることには何...

宋常星『太上道徳経講義』(55ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー7) 若いものがすぐに老いてしまう。これは「道」と一体ではないからである。「道」と一体でないからすぐに老いるのである。 ここで述べているのは、気を意図的に使うことで健康・長寿を得ようとするのは誤った考えであるということであり、至虚、至柔であるべきことを教えている。それはまさに至道の妙というべきである。気を意図的に使って健康・長寿を得ようとするのは有為による誤りである。この世にあっては「道」は他に依存することなく働いているのであり、変化をすることもない。また「道」はあらゆるところにあって安定している。もし正道を行わないで、邪法を信じて、外から得た「気」によって健康・長寿を得ようとするならば、それは有為の邪気を使うことになる。これは全く徳の失われた状態でもある。これは柔でも和でもないし、自然の道でもない。そのような状態ではどうして常に久しくあることができるであろうか。あらゆるものは老いて行くのであり、死ぬものである。こうした状況で健康・長寿を得ようとして気を意図的に使うことは道から外れている。修行者は、直ぐに意図的なものを捨てなければならない。こうしたことを「若いものがすぐに老いてしまう。これは『道』と一体ではないからである。『道』と一体でないからすぐに老いるのである」としている。この章で述べられているのは、徳を得ることができれば和を体得することができるということであり、全て人は「虚」を得て「柔」を守るべきであることを教えようとしてる。大いなる道が真常(注 永遠に変わらない)であるのは全くそれが虚であり静であるからなのである。また大いなる道は全く柔であり、和でもある。そうであるから存在して不変なのである。人がこうした大いなる道によって生きて行けば、必ず「道」と一体となることができるであろう。徳もよく体得できることであろう。性と命は永遠で身体の中の和気は自然に動き、性における真常は自然に安定することであろう。こうして用いられる気は健康・長寿に有効である。 〈奥義伝開〉過度に心身の崩壊が進んでしまうのは心と身との調和(和)が得られていないからである。それは「道」と一体となっていないからである。生きているものは全て老いるが、それは自然であるべきであると、老子は教えている。早すぎても、遅すぎても良くないのである。人は「和」の状態にある...

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(16)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(16) 「柔(やわら)」の歴史で「柔術」から「合気柔術」への転換となったのは「間合い」の発見であった。「柔術」では梃子の原理を使うことなど力を合理的に使うことは見出されていたが、それ以前の接触する段階で攻防の大勢が決まっていることがわかり、それを「拍子」として表現するようになる。「一拍子」や「無拍子」などである。「一拍子」は相手の動きの起こりを捉えて制するもの、「無拍子」は相手の攻撃しようとする心の起こりを捉えて制するものである。こうした研究から相手からの攻撃を受ける前に相手を制することができることが発見されたのであり、「拍子=間合い」さえコントロールできれば力もスピードも全く関係ないことが分かったのであった。つまり相手の攻撃が発せられる前に相手を制してしまうのである。本来、合気上げは「間合い」の感覚を開くトレーニングであった。つまり大東流は大東流が編まれる以前に既に「合気之術」のレベルに達していたのである。それが大東流を編むにあたって「柔術」や「合気柔術」のレベルに後退することになったわけである。それが再び植芝盛平によって「合気之術=合気道」として再生されようとしていたのであるが、結果としては「合気柔術」から抜け出すことはできなかった。重要なことは合気道は争いに勝つためのものではなく、回避するためのものであるという点にある。争いに勝つためにはかつて「パワーカラテ」といわれたようなトレーニングが最短で有効である。何事においてもそうであるが、よく目的と手段をわきまえて修行をしなければ、迷路に落ち込むことになるので注意が必要である。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(15)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(15) 植芝盛平が「合気道は和合の武道」「愛の武道」としていたのは「合気」そのものは実戦に使えないことをよく知っていたからであろう。もともと大東流を習っていた時も関節技に実戦性を見ていた武田惣角の見解には同意することなく、早くから高度とされる多くの関節技を取り入れることはなかった。そして当身の重要であることを説いていた(合気は当身が七分)が、これは「間合い」のことで、拳で打つことではない。厳密に言えば拳で打つ動作も「間合い」を操作するものであれば盛平の言う「当身」に入るが、それはあくまで「間合いを操作する動き」という意味においてである。これにより争いを回避する。ここに合気道の最終的な目標を置いていたのではないかと考えられる。そのため大東流から受け継ぐ攻防の形を「気形」と称するものととらえていた。それは攻防の意味をなくす、ということである。打って来る相手を制するのではなく、ただ「手を降ろしながらやって来る相手を避ける」というだけのものとするのである。そうしたところには攻防は既に存在し得ない。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(14)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(14) 「柔術」「合気柔術」「合気之術」の段階において合気道は「合気柔術」のレベルにあると言える。大東流も「合気柔術」のカテゴリーに入れることができるが、合気道に比べればやや「柔術」寄りであるとしなければならない。一方、合気道はやや「合気之術」に近いと言えよう。また大東流でも武田時宗などは「柔術」的な志向が強く、堀川幸道は「合気之術」的な展開をしていた。格闘術としての側面を強くしようとすると「柔術」に近くなるわけであるし、合気の理念的な側面を強調しようとすると「合気之術」的な展開が模索されざるを得ない。こうした場合に格闘術としては必ずしも実質的には有効ではない「合気」が、高度な技であるためには、それが指導者しか使えないものとならねばならなくなる。つまり検証することのできないものとしなければ高度な実戦性を有する「合気」は存在し得なくなってしまうわけである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(13)

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(13) 鶴山晃瑞が出していた「柔術」「合気柔術」「合気之術」の区分がおもしろいのは、これを柔術史の発展過程として見た場合である。つまり「柔」ということが技術として展開して行くプロセスをこれを通して見ることができるわけである。日本の武術で特に重視されるのは「力を使わない」という点である。現在では合気道や太極拳だけではなく空手や柔道などでも広く言われておりシステマが関心を持たれるのもそうした側面があるからであろう。ちなみに中国では「太極拳は力を使わない」という言い方は為されない。リラックス(放鬆)は強調されるが、それは「力み過ぎない」ということであって、太極拳には太極拳で要求される力があるとする。それが「勁」と称されるものである。「勁」は「そのシステムを運用するために必要な力」のことであるから、太極拳以外のシステムではまた違った力になる。太極拳では力を抜きすぎた状態を「惰(虚実が不分明である)」であるとか「空(中心軸が出来ていない)」であるとかの語(字訣)をして戒める。  

宋常星『太上道徳経講義』(55ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー6) 生きることに好ましいのを「祥」と言う。心が気を使うのは「強」と言う。 普通の人は衣食に貪欲であり、富貴にこだわりを持っている。こうすることが「生きることに好ましい」と思っている。もし修行者が誤った運気をしたり、金石を薬として服用したりしていることを「生きることに好ましい」と思っているなら、また気が外より来るのが「祥」であると思っていたとしたならば、はたして日々にそうした「祥」を得ていることが、本当に性や命に良いのであろうか。意図をして気を使う。こうした「気」は真陰、真陽の真気ではない(注 心が身が一体となっていない状態)。その「気」は中和もしていないし、柔順でもない。それは「心が気を使」っているからである。そうしたところには等しく真水、真火の変化が生ずることがない(注 本来の「人」のあり方に復することはない)。これらは皆、徳を含んだ自然の働きではないからである。あるいは生きることに良いようにと思って意図して気を使っても、それは返って身を害する基になるのであり、それは決して「赤子」のような性命の根源の働きと一致することがないものである。もし始まりも、終わりもない元神(注 本来の意識の働き)によって性と命とを共に修める(性命双修)ことの大事を悟ることがなければ、天元、地元の元気(注 根源的な生命エネルギー)を悟ることがなければ、ついには「骨弱、筋柔の和気」を得ることは難しい。これを得ることができれば元神を知ることができるのであるが、個々人の今の意識(神)が、そうした乾坤の始めにあるもの(元神、元気、元精)を認識し得ているわけではない。元精は、父母の生まれる前から存在しているのであるが、神は自然にそれに感応する。そうした感応が元精との間であれば精もまた自然に円滑に動くようになる。そうであるから「生きるのに好まし」いように意図して、何かをする必要はないのである。それではどうしてそうした必要がないのか。それは気が意図的に動かされてしまえば心も動いてしまい、心が動いてしまえば神もまとまることがないからである。そうなれば肉体のエネルギー(精)も消耗されて心身は一つになることなく、神と気は分離してしまう。陰陽は合一を得られず、それをひとつにすることができない。老子は後の人がこうした害にあうことを危惧して「生きることに好ましいのを『祥...

宋常星『太上道徳経講義』(55ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー5) 「和」を知ることを「常」と言う。「常」を知ることを「明」と言う。 心と「神(注 意識のエネルギー)」が一体となっているのが「和」である。「和」とは太和の気のことでもある。それは自然の中では陰陽の正気となる。人では「谷神の元気(注 「谷神」は第六章で出ている。道と一体となった状態をいう)」である。自己の中での「造化」は気に依る。つまり性(注 本来的な意識の働き)や命(注 本来的な身体の働き)の元はここにあるのであり、それは気に依って働いている。また、その気は(欲望に汚染されていない)純然たる気であり、至柔、至順(注 円滑に身体の中を循環している)で「和」の状態にあると言うことができる。「常」となるのは無欲、無為であるからで、変化することがなく永遠に存在している。性と命が乱れていないことを「常」と言う。「明」とは「性」がとらわれのない状態(虚霊)であることを言う。日々内省をするのが「明」である。修行をする人は、よく邪な思いにとらわれないで居ることができているであろうか。誤った考えにとらわれることがなければ「一」なる元気(注 道と一体となった気)を守ることができる。柔和の正気を養うことができる。こうして修行をしていれば、天地が永遠である理由を悟ることもできるであろう。ある時に悟りを得て不壊不滅の門に入ることも可能となろう。天地と一体となっていれば、例え社会が変化をしても、自己の性命は何ら傷つけられることはない。これが「『和』を知ることを『常』と言う」である。古くは「我が身は何かと問うならば、精と気が元神と一体となっていることである」である。私(宋常星)はこれを「真常の理を明らかにすること」と言いたい。一粒の「玄珠」を糧として、これを幻視することで「和」と「常」の妙を知ることができる。すべては一粒の「玄珠」の中にあるのである。この「玄珠」は真常の道を悟ることができれば得られることであろう。それは自己の中の「性」は自然なるものであるから、秋の月のように輝いている。我が心は、自然であるから冬の沢のように静かである。こうして「性」が安定すれば、欲にとらわれることがない。そうなれば真人となることができる。そうなれば心は乱れることなく「性」には何のとらわれもない。瞑想の境地は静であり、そこでは乾坤(注 天地と一体となった陰陽の感覚)が...

宋常星『太上道徳経講義』(55ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー4) (自然のままであれば)体格が貧弱(骨弱)で、力が無さそう(筋柔)でもしっかりと握ることができる(固握)し、男女(牡牝)の交わりを知らなくても勃起をする。それは精が充実しているからである。また一日、声を出していても、枯れることはない。完全に(自然と)和しているからである。 「固握」というのは、手でしっかりと掴むということである。「牡牝」は男女のことである。「勃起」するとは性器が立つことである。「枯れる」とは疲れて声が出にくくなることである。赤子は無心であるから自分と他者を区別することはない。そうなれば(そこには自他の区別がないので)それに害を加える「他者」も存在し得ないことになる。体格が貧弱であったり、力が弱ければ強く握ることはできない。物を掴むのは難しいかもしれない。しかし握ることにとわれることがなければ(無駄な力を使わないで)自然としっかりと握ることができるであろう。男女の交わりを知らず、常に無欲であっても勃起をする。それと同様に意図しなくて泣いたならば、その鳴き声で声が枯れることはない。もし意図して固く握ろうとしたり、勃起をしようとしたりしたのであれば、あるいは意図して泣いたのであれば、その心は乱れているといえる。その気は散じているといえる。そうなれば肉体のエネルギー(精)は過度に消耗されてしてしまうので、すぐに枯渇をしてしまうであろう。自然にそれが起こるのであれば、例え一日、固く握っていたり、勃起していたり、鳴き声を出していても疲れることはないであろう。ただ、そうしたことが可能であるのは精気が至純でなければならない。精と気が融合して(至和)いなければ、そうしたことにはならない。そうであるから「(自然のままであれば)体格が貧弱(骨弱)で、力が無さそう(筋柔)でもしっかりと握ることができる(固握)し、男女(牡牝)の交わりを知らなくても勃起をする。それは精が充実しているからである。また一日、声を出していても、枯れることはない。完全に(自然と)和しているからである」とされているのである。人はよく「赤子」のようであることができるであろうか。全てが太和の気に満ちており、無心の境地に入ることができているであろうか。そこでは大いなる道が我が身と一体になっている。天地と一体となっているのである。そうなれば元神(注 根源的な意識の...

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(12)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(12) オイリュトミーは感覚概念を身体で表現するもので、それを通してより深い感覚が開けるとする。シュタイナー的にいえば「霊的器官」が作られるということもできるかもしれない。人の脳は身体を通して開かれる部分が多いという。相手の怒っている動きを真似ることで、その感情を理解できるようになる。相手の身体動作を真似ることで相手の感情を深く知ることができる。そうしたことは周知のことでもあろう。そうであるから憧れの人の「真似」をしたくなるわけである。同じ行動をとることで、そうした人と同じ感覚を持つことができ得るからである。植芝盛平は最終的には合気舞を通して「合気」の感覚を伝えることができると考えていたようで、その感覚を敷衍して「和合=合気=柔」の世界を構築しようとしていた。しかし多くの合気道の継承者はその「柔術」的な、晩年の盛平にとっては大東流の残滓ともいうべき部分にのみ関心を持った。結果として開祖の語った神道的な世界観は行き所を失うことになるのである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(11)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(11) 大本教を研究して、そのままに植芝盛平の語る合気道の世界観が理解できないのは、盛平の語っていることがあくまで「合気」の感覚をベースにしているからである。それは王仁三郎が得ていた大本教の「感覚」とは別なものであるということができる。盛平は神道的な神秘思想の中に自己の「感覚」を語ることのできるもののあることを予測していたわけであり、そのために大本教以外でも多くの神道オカルティストとの交流があった。盛平がそうした「感覚」の「言語化」にこだわったのは、既に触れたように「感覚」を物的な事象つまり「技」と結びつけるためであった。そうであるから現在の合気杖術は正勝(まさかつ)棒術でなければならず、合気剣術は松竹梅(しょうちくばい)の剣でなければならないのである。そしてそれは最終的には「合気舞(あいきまい)」「合気神楽」として結実されようとしていた。合気舞は言霊の舞とも言われ『武産合気』にそれを実見した様子が記されている。それは盛平が「あ〜」とか「い〜」とかの言霊を発して舞うもので、人智学のオイリュトミーに近いとも言えよう。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(10)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(10) 植芝盛平が神道的な神秘思想に晩年は特に執着したのは「合気」が感覚によるものであり、それを如何に表現するかに苦慮したためである。神秘思想とは「感覚」によって外的な事柄を捉えるもので、ある場所が神聖であると感じれば、そこを聖地とする「感覚」による世界観が構築されることになる。盛平が述べていたものは、その「合気」の感覚によって体得した世界観である。それによって感覚と物的な世界(技)がリンクされる。つまり「感覚」である「合気」と、物的世界である「技」とが統合されるわけであり、ここに「合気」と「柔術」の矛盾が解決され得る(止揚)ことを盛平はある程度は意識していたものと思われる。かつては大本教を研究すれば盛平の述べていることが分かるのではないか、と思われて出口王仁三郎の『霊界物語』などの世界観を研究した人も居たようである。確かに盛平の使っている言葉には大本教のそれが多い。しかし結果的には合気道の教えに資するようなものを得られることはなかった。それは世界観の基盤が違っているからである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(9)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(9) 「合気」は感覚的なものである。そうであるから植芝盛平は「宇宙と一体化する」とか「引力の鍛錬である」というような抽象的な表現を取るしかなかった。それを「抽象的」であると批判するのは「合気」が全く分かっていないからである。一方で武田惣角は「合気」を手首の操作によって相手の重心を奪う関節技としてとらえていたようである。そして、その技術を教えることが合気を伝授することであると見なしてたようなのである。しかし正確に合気を行うためには関節技を掛けるにしても、やはり感覚的なものを排除することはできない。皮膚感覚が鋭敏でなければ細かな操作の調節ができないからである。大東流で「合気」が秘伝として重視されるように成れば成る程、そこに「感覚」の介入する部分が増えてくるようになる。そうなると次第に「触れないで倒す」や「触れないで固める」という夢想的な展開(それは感覚的な展開でもあるが)を招来することにもなるのである。こうした弊害は合気の持つ必然ともいえる。

宋常星『太上道徳経講義』(55ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー3) 「赤子」は毒虫も刺すことはないし、猛獣も襲わない。猛禽も羽で打つことはしない。 「毒虫」とは蜂やサソリのことである。「猛獣」とは虎や狼などのことである。「猛禽」とは鷹や鷲のことである。赤子には何かを傷つけようとする気持ちはない。そうであるから自然に赤子は傷つけられることがないのである。「毒」を持っていると、それを使いたくなるものである。「猛(たけき)」ものがあれば襲いたくなるものである。羽で打つことができれば、そうしたくもなろう。しかし赤子は(そうした「力」を持っていないので)内にはそうした心の働きが生じることはないし、外にはその働きを表すこともない。全てに執着することがないのである。そうした存在は、むやみに害を加えられることはない。こうしたことを「赤子は毒虫も刺すことはないし、猛獣も襲わないし、猛禽も羽で打つことはしない」としている。 〈奥義伝開〉ここで述べられている「赤子」は実際の赤子ではない。いまだ人間の欲望に汚染されていない状態を象徴するものとしての「赤子」である。そうであるから、それ自体は実際に存在はしていない。実際の赤子は生まれた時から自己の欲望を達成するために泣くという方法を身につけている。不快なことがあれば泣けばそれが改善されることを知っているわけである。そうであるから実際の赤子は毒虫にも、猛獣にも、猛禽にも襲われてしまう。儒教では生まれたままの状態を「白」に例えて、色が染まっていないとするが、それと同じ考え方である。ここで老子が「赤子」で示そうとしているのは「人」は本来的に「和」の気持ちを持っているということである。これをベースに「人」の行為は考えられなければならないということである。

宋常星『太上道徳経講義』(55ー2)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー2) 本来的な徳(含徳)をそのままに(厚)持っていることは、赤子に例えられる。 「含」とは明らかには見ることができないが持っている、ということである。「厚」とは完全であって欠けていないということである。本来、心の中は空浄(注 とらわれがなく清らか)であり、物への執着などはない。こうした状態にあることを「赤子」としている。人の天の徳(注 道と一体となった徳)は、賢者でも愚者でも、貴くても、卑しくても、それぞれが有してる。そしてそれを守り養っている。しかし、欲に汚染されれば徳は失われてしまう。そうなれば人は道から外れることになる。(徳の現れとしての)仁には愛があり、義にはけじめがあり、礼には敬いがあり、智には悟りがある。これらは全て徳がその中に含まれているからそうなるのである。徳があるからそうしたことを実践できるのである。人ははたしてよく天命の性(注 本来的な心のあり方)を動静の行為において、物の理に従って、見たり聞いたりする中で、その柔和であることを涵養できているであろうか。ここでの鍵は「性」が「性」として完全であることにある。それは常に虚静でなければならず、そうでなければ、天地の徳は日々明らかになることはない。徳が全く純粋なものであれば、欲望も自ずから消えてしまい、(何ものにもとらわれない)混沌とした中に物事の理は自然に明らかとなって、徳が純粋に熟することなる。天地の働きは大規模であるが、そこでもただ徳が涵養されているに過ぎない。いくら物が多くあっても、すべてはこうした自然の徳の働きによって存在しているのである。心身、内外、家、国、天下、全てそれらには徳があることで成り立っている。つまり、そこには純粋な徳が有されているわけで、その点においては「赤子」と何ら違いはない。そこにあっては元気(注 根源の生命エネルギー)は純粋であり、元神(注 意識の根源的なエネルギー)は寂静で、知らない内に神と気はともに抱きあって、無為であり意図的な働きはない。そこにある徳はまったく純粋であるから「本来的な徳(含徳)をそのままに(厚)持っていることは、赤子に例えられる」と述べている。 〈奥義伝開〉生まれたばかりの「赤子」を本来の「人」そのものであるとするのは儒教でも同じである。これが次第に学びを重ねることで欲望を肥大化させて本来「人」が有している...

宋常星『太上道徳経講義』(55ー1)

  宋常星『太上道徳経講義』(55ー1) 天地には自然の道があり、そしてそれにより無為にて天地が働いているとされる。赤子にも自然の徳があって、それは計り知れない働きをする。つまり人には自然の徳があるのであり、そのために安心して生活して行けているのである。もし、本来の人の心のあり方である「性」が寂静でないならば、気も沖和(注 自然の道のままに和している状態)とはならず、意識(神)も安定することはない。もし、人が自然の道を得ていないならば、そこで「性」は純粋なる徳を持つことはなく、神と気も和することはない。生命の根本(命根)は固まらず、命を削ることとなり早々にして命を落としてしまうことであろう。しし、よく物事の理に従って行動をしていたならば、時々の喜びが得られるであろうし、それにより他者の批判を受けることもないであろう。怒るべき時に怒っても度を越えることがないのは、そこには徳があるからである。そうした徳の持つ奥深さは自然のままの天地と同じであり、赤子と等しいのである。そうして自然のままであれば、決して不都合なことが生じることはない、この身に害となることが起きることはない。ここで老子はこうしたことを教えている。そうであるから最初に(欲によって道と隔たりを持つことの未だない)赤子のことを挙げているのであり、これをして本来、人が有している徳のことを教えようとしているわけである。 〈奥義伝開〉ここで述べられているのは、まさに太極拳の奥義である。老子は第十章で「道」と一体となった状態を「もっぱら気を柔らかにする。それは嬰児の如くである」と述べているが、それと同じことをここでも述べている。第十章とでは「嬰児」と「赤子」の違いがあるが、あえてここで「赤子」としているのは「嬰児」が実際の子どもで「赤子」は純粋な徳を持っている人という理論的な存在を象徴的に示そうとしているからである。それはともかく、よく「柔」であることで生命力を阻害することなく生きられることを老子は発見したわけであるが、そればかりではなく「柔」であれば自然で合理的な力の使い方のできることまでも知っていたことが示されている。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(8)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(8) 「柔術」と「合気」は「合気柔術」において統合されているかに見えるが、実はそうではない。その証拠に武田惣角は「柔術は教えるが合気は教えない」と言っていたことでも明らかであろう。本来は御信用之手の展開としての大東流柔術で完結していたのであるが、後に合気柔術、合気之術が加えられることとなって「合気」が重視される傾向を持つようになる。それが矛盾の原因となったのである。「合気」あるいは「相気」は近世の伝書にも見ることのできる語であり、それらは相手の動きにのまれてしまうことを戒める文脈で出てくる。そうであるからもとの大東柔術のように御信用之手と柔術であれば何ら構造的な問題はなかったわけである。それは太極拳で「合」と「出」との間に矛盾がないのと同様である。これを「合気」として日本の「柔」の起源につらなる「和」の理念との関連が出て来てしまったところに構造的な矛盾が生まれるようになるのである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(7)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(7) 合気道における最大の矛盾は「争わない」とか「和合」とか言うものの実際は相手を投げたり、固めたりをひたすら練習しているところにある。そうしたことが前提となって新たな攻撃技への展開が困難になっている。こうした合気道を巡る矛盾を解決するためには、鶴山晃瑞の提示した「柔術」「合気柔術」「合気之術」という概念区分が参考になる。鶴山は『護身杖道』でこれらの概念を詳しく説明しているが、ここではそれを更に敷衍して「柔術」は攻撃技法、「合気柔術」は防御技法、そして「合気之術」を合気上げとして規定してみる。現在は大東流も合気上げから入るようなので「柔術」と「合気柔術」の区別は実質的にはないし、「合気之術」も「合気柔術」と特段の違いは見られない。私見によれば大東流の基になっている「合気」は「御信用之手」であり、それを「合気之術」とすることができると考えている。これに柔術的な技法が加えられれば「合気柔術」となる。惣角以降の大東流では「合気之術」への指向性が強くなって行った。一方で、ハプキドーなどでは「柔術(関節技)」化が進んでいる。その原因として考えられるのは「合気上げ」についての惣角の解釈である。惣角は「合気上げ」を手首の関節を極める技と理解していたようで、その延長線上に複雑な関節技を展開させている。それとハプキドーの展開の方向性が似ていることからすれば、ハプキドーが大東流との関係をいうのも何ら根拠のないことではないようにも思われる。一方、植芝盛平は「柔術」へとの展開に実戦性を模索しようとする惣角に帯して「合気之術」への展開を考えていた。惣角と盛平が袂を分かたなければならなかったのは、その志向するところが全くの反対であったためであるからといえよう。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(6)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(6) 柔道はその合理性が追究されて攻撃技法としてのシステムを整えることができた。本来は防御のシステムであった「柔」の技術を攻撃用に再編成したわけである。柔道に柔術からの変容のあったことは、柔道に伝わる古式の形を見れば、そこに攻撃の技がないことをして知ることができよう。西郷四郎は柔道の崩しの部分に「合気」を使っていた。これは「合気」の実戦への展開としておもしろいが、引手により相手を崩すことが主流となってしまうと、嘉納治五郎も強引な崩しが見られることをして合気道の研究の必要を感じるようになっていたようである。柔道の崩しに「合気」を取り入れることで、なんとか本来の「柔」を残そうと考えていたのであろうが、試合が中心となった柔道では簡単に使える強引な引が専ら用いられるようになって行った

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(5)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(5) 太極拳において「合」と「出」の分離が技法として明確に分かるのはラン雀尾の按である。これは相手の攻撃を下に抑えて無力化する方法(合)であるが、最後には両掌で前に推す形(出)が加えられている。よく最後の推す動作が按であると勘違いしている向きがあるが、正確には抑えるところで按は終わっている。これは按で相手が崩れたところを両掌で攻撃するという展開である。そうしたこともあって陳家太極拳では両掌で抑えるところだけで、推すところは省かれている。つまり両掌で抑えるのが「合」で、推すのは「出」という構成がここに見られるわけなのである。このように「合気」と攻撃技法は相容れないものであるところに「合気」を柔術として展開しようとした近代以降の展開において矛盾が生まれることになったわけである。一方、こうした矛盾を解消したものに韓国の「合気道」ことハプキドーがある。これは合気道を完全に関節技の体系と捉えた上での展開である。この場合はいうならば「出」だけのシステムとして合気道を捉えているので「合」と「出」との間に矛盾が生ずることはないのであるが、そうなればそもそも「合」気道を修行する意義が失われてしまうことにもなろう。

宋常星『太上道徳経講義』(54ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー7) 私は天下はそうしたものであることを知っている。つまりはそうなるのである。 ここで述べられているのは、これまでの総括である。ここまでは身を修める徳について述べられているのであり、その徳は天下に及ぶとする。「私」つまり老子は、どうしてこうした「一」なる徳の天下に及ぶことを知っているのであろうか。天下には、いろいろな場面で「善」が実践されている。「一」なる徳が成り立てば、それは天下において、いろいろな場面で徳の理が実践されることになる。徳がどのように実践されているとしても、全ては等しく徳なのであるが、天下にあって「徳」そのものを見ることは出来ない。天下における「一」つの個人、天下における「一」つの家、天下に「一」つの国、天下における「一」つの天下、どのようなところであっても、徳に別な徳があるわけではない。皆が等しく行っている「善」は、どこにあっても「善」であり、その実践が「善」でなくなることはない。それは至「一」の理(注 大いなる道の理ということ)であり、その他に理があるわけではない。そうしたことを「私は天下はそうしたものであることを知っている。つまりはそうなのである」として述べている。聖なる王が天下を治めるとは、あらゆる所、あらゆる時に「一」なる身の徳を広めることである。それは個々の家に及んで、個々の国にも及んで、天下に行き渡る。天の道を仰ぎ見るに、風雲、雷雨であっても、遍く徳の感応において生じている。伏して地の理を見るに、山川、河海においても、その徳が働いていないところはない。こうした不可思議な働きは「神明」ということができよう。古今を通して「善」によらないで行われていることはないのであり「善」を抱いて離すことがない。これを無窮の妙(注 不変の教えの意)という。 〈奥義伝開〉老子はこの世の中の道理を知っているから、ここで述べたような社会の関係は熟知していると最後に結んでいる。全ては合理的であるというわけである。何事も道理をよく考えてみなければならない。釈迦は肉体的な苦痛に耐えることは、物事を正しく見て正しい認識を得ることにつながらないことを発見して苦行を否定したが、後の人はどうあっても苦行をして「充実」を得たいようである。しかし、それは既に釈迦の説いた道からは大きく乖離している。このように理論が明らかに示されているにも...

宋常星『太上道徳経講義』(54ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー6) そうであるから個人は個人として(のレベルで善の実践が)見られるのであり、家は家として(のレベルで善の実践)見られ、地域は地域として、国は国として、天下は天下として(のレベルで善の実践が)見られるのである。 ここで述べられているのは、聖人が家や国家や天下をどのように見ているかであり、その視点は全てに共通している。聖なる王は、天下の人を自分自身のように見ていた。つまり自分自身を天下の人々と等しいと思っていたのである。それは自分の体を大切なものとして見るのと同じ気持ちで他人をも見ているということである。それは天下を大切なものと考えることにおいても同様であった。金は大切なものとされているが、そうなっているのは、そう思う気持ちがあるからである。天下を利するということは、聖人も民も等しく楽しみを得ることであるし、民と共に憂えることでもある。誰が聖人は天下を我が身と考えていることを知るであろうか。それは特に天下を我が身と等しく執着しているわけではない。ただ我が身のよう大切に思う気持ちを持っているということに過ぎない。自己が自己だけを見ているのではなく、自己を通してあらゆるところに自己を見ているのである。そうであるから日常の生活も修行も異なるところがない。個々人の体を見ていても、修行において自己を見つめているのと変わりはない。「個人は個人として見られるべき」とはこうした意味である。聖なる王は、ただ個々人を自分と等しく見ていただけではない、他人の家も自分の家と等しくして見ていた。家の中には父母も居るし、夫婦も、子どもも居る。天下における家は、どこでもこうした人たちで構成されている。聖人が天下の家の人を見るのは、自分の家の親を見るのと同じであり、他人の家も自分の家と等しく見ている。そうであるから自分の家の者を教え導くのと同じようにして、天下の人を教え導くことができるのである。それは自分の家の人を教え導くのと何ら変わりがないからである。個々の家にはそれぞれの人間関係によって守るべき道徳がある。人として行うべき人倫がある。天下の人において、それぞれに行うべき人倫がある。自分の家も他人の家も等しく行うべき道徳がある。そればどこの家でも同じであるという意味で「家は家として見られるべきであり」と述べている。聖なる王は自分の家も他人の家も等しいもの...

宋常星『太上道徳経講義』(54ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(54ー5) 「善」を身に修めれば、その徳は真(普遍的な真理)となり、それを家に修めれば、その徳は他にも及ぶことになる。これを地域に修すれば、その徳は広く及び、これを国に修すれば、その徳は尽きることがない。これを天下に修すれば、その徳は遍く及ぶことになる。 ここで述べられているのは、全て道徳を修したならばどうなるか、ということの妙である。それを行えば必然的にそうなるということの意味である。しかし、純粋に道徳を修することがなければ、その影響が適切に広がることはない。そうなれば道徳を堅持することはできなくなってしまう。そうであるから道徳を有する者はそれを離してはならない。そうでなければ先祖への祭祀を維持することもできはしない。あらゆる物には根がある。あらゆる事には起こりがある。つまり根があるから枝葉も出来てくるわけである。その起こりが正しくあれば、あらゆる事が成り立ち得る。つまり天下の起こりは国にあるのであり、国の起こりは地域社会にある。地域社会の起こりは家にある。家の起こりは個人にある。個人が人として立ち得る起こりは徳にある。徳があれば個人はそれを修することが出来る。そうなると家も整うことになる。地域社会も安定するし、国もよく治まる。天下も泰平になる。こうしたことの根本には、個人が徳を修するということがある。天と一体となった徳を修していれば、そこには私欲というものは入り得ない。これは私欲が全く起こらないというのではない。私欲が内に納まってしまい、徳そのものが表に出て来るのである。そうして徳が外に発せられれば、それは形を持つことになる。心身内外、全てが徳の実践となる。進退出入のあらゆる行動が、徳の実践となる。例え困難なことがあっても、それにとらわれなければ徳が害せられることはない。生死の際にあっても、それにとらわれなければ、また何ら徳の実践に支障を与えるものではない。とらわれることがなければ、どのような状況にあっても徳の実践の揺らぐことはないのである。そうして徳は個人において正しく修され、その徳が正しいものであれば、それは個人に留まるだけではなく家においても実践されるであろう。親には孝が為され、兄を尊敬し、弟には友愛をもって接して、妻とは仲良く、子を慈しむことができるようになる。こうしたことの根本は自分自身にある。一家の老人も幼い人も...

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(4)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(4) 「合気」と「攻撃」の分離は太極拳にも見ることができる。拳訣の「打手歌」には「合即出(合えばすなわち出る)」とある。この「合」は「合気」のことで、太極拳では「合気」を「粘」と称する。そして「出」が「攻撃」である。この拳訣は、合気で相手の体勢を崩したならば、すぐに攻撃をせよと教えている。太極拳では必ず「攻撃(出)」をする時には「合」がなければならないことを教えているわけである。これについては「試合に勝った」と意気軒昂な楊班侯を父の露禅が「惜しいかな!袖が敗れている」と戒めたエピソードが有名である。これは「合」が使えていないことを指摘したわけであるが、このように相手をコントロールする「合気(粘)」はあくまで防御法、離脱法に留まるのである。剣術の裏技とし練習されていた時には「出」は剣術を使えば良いのであるから「合気」は相手を崩すことだけの修練で良かったのであるが近代以降、剣術と独立して大東流という単独の柔術を展開しようとした場合には「合気」だけでは不十分となり、武田惣角は多くの関節技を考案する。一方、植芝盛平は関節技よりも投げることを重視して新たに「呼吸力」という概念を打ち出す。つまり「合即出」でいえば「合」は「合気」で「出」が「呼吸力」ということになる。この「出」という段階が「攻撃」となる。柔道の嘉納治五郎は既に柔道というが柔だけでは攻防が出来ないことに悩んでいたとされるが、それは「柔」も「合気」と同様に「攻撃」のためのものではないからである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3) 一般的に合気道は「剣の間合い」と教えられるが、これは四方投げなどを見ればよく分かる。四方投げは剣を構えている時に両手を抑えられた時の技で、先ずは右足を引いて身体を開き、相手の足を裏から斬る。これで腕を離してくれれば良いが、執拗に離さない時にはそのまま転身をして投げるわけである。これを単に柔術的な技として捉えると、わざわざ転身をする意味が見いだせない。通常の柔術であれば、これは「腕搦(うでから)め」とされるもので、相手の腕を折りたたんで後ろに投げれば良いだけのことである。そうであるのにあえて危険の大きい転身(同時に転身をされると技が掛からなかったり、背の高い相手に強く引かれると体勢を崩される等の危険がある)をする必要性はないわけである。つまり剣術の裏技としての柔術とは攻撃技ではなく、相手の攻撃から離脱することを第一としているのである。つまり「合気」と「攻撃」は構造的に相容れないものなのであったのである。

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(2)

  道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(2) 現在、多くの武術が知られるようになって来ているが、合気道の技を試合で使おうとしても、なかなか思うようには行かないようである。十段を許された藤平光一ですら「王者の座」の中では外国人を相手にして柔道のような技を使うことでなんとか投げている、この時には触れた瞬間に相手をコントロールする「合気」は全く見られないし、合気道の技法(関節技や入身投げ等)も使われていない。その後の植芝盛平の「試合」でも、なんとか合気道の技を掛けるが、かなり無理があるように見える。けっしてきれいに技は極まっていない。これは合気道のシステムから由来するものであり、こうした事実をもって合気道の実戦性を云々することは勿論できない。本来、関節技は掛けにくい。投げるのであれば関節技ではなく柔道のような技を使う方が遥かに合理的である。これは合気道のもとになった大東流が剣術の裏技をベースとしており、あくまで剣術をサポートする範囲での柔術技法(相手の攻撃から離脱するもの)であれば良いとされていたことに起因している。近代になって武田惣角は攻撃的な技を増やして行ったが、それも基本となっている関節技の延長であったために限界が生じている。