宋常星『太上道徳経講義』(55ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(55ー1)
天地には自然の道があり、そしてそれにより無為にて天地が働いているとされる。赤子にも自然の徳があって、それは計り知れない働きをする。つまり人には自然の徳があるのであり、そのために安心して生活して行けているのである。もし、本来の人の心のあり方である「性」が寂静でないならば、気も沖和(注 自然の道のままに和している状態)とはならず、意識(神)も安定することはない。もし、人が自然の道を得ていないならば、そこで「性」は純粋なる徳を持つことはなく、神と気も和することはない。生命の根本(命根)は固まらず、命を削ることとなり早々にして命を落としてしまうことであろう。しし、よく物事の理に従って行動をしていたならば、時々の喜びが得られるであろうし、それにより他者の批判を受けることもないであろう。怒るべき時に怒っても度を越えることがないのは、そこには徳があるからである。そうした徳の持つ奥深さは自然のままの天地と同じであり、赤子と等しいのである。そうして自然のままであれば、決して不都合なことが生じることはない、この身に害となることが起きることはない。ここで老子はこうしたことを教えている。そうであるから最初に(欲によって道と隔たりを持つことの未だない)赤子のことを挙げているのであり、これをして本来、人が有している徳のことを教えようとしているわけである。
〈奥義伝開〉ここで述べられているのは、まさに太極拳の奥義である。老子は第十章で「道」と一体となった状態を「もっぱら気を柔らかにする。それは嬰児の如くである」と述べているが、それと同じことをここでも述べている。第十章とでは「嬰児」と「赤子」の違いがあるが、あえてここで「赤子」としているのは「嬰児」が実際の子どもで「赤子」は純粋な徳を持っている人という理論的な存在を象徴的に示そうとしているからである。それはともかく、よく「柔」であることで生命力を阻害することなく生きられることを老子は発見したわけであるが、そればかりではなく「柔」であれば自然で合理的な力の使い方のできることまでも知っていたことが示されている。