道徳武芸研究 「簡易」と「簡化」の太極拳〜簡化太極拳の場合〜
道徳武芸研究 「簡易」と「簡化」の太極拳〜簡化太極拳の場合〜
先には「「簡易」と「簡化」の太極拳〜鄭曼青の求めた奥義〜」として主に簡易式について論じたが、今回は簡化太極拳について考えてみたい。簡化で特徴的なのは起勢からいきなり野馬分鬃に入ることである。太極拳からすればこれは攬雀尾でなければならない。太極拳は楊家から武家、呉家、孫家、陳家といろいろな門派に分かれて発展して行ったが起勢から攬雀尾の流れは全てにおいて共通している。勿論、鄭曼青の簡易式でも同様である。しかし簡化ではそうなっていない。つまり、これは「新中国」になって旧時代の太極拳ではなく新しいプロレタリアート(人民)のための太極拳、「太極拳運動」として制定されたことを表そうとしたためと思われる。
これはいうならば武術から体操への変化であった。従来の武術としての太極拳ではなく人民の体操としての太極拳が共産革命を経た新しい中国で制定されたということである。これは中国風にいうなら「功夫」から「武術」へ、ということになろう。「功夫」は中国で武術という意味であり「武術」は功夫を基にした体操をいう語である。
新中国で提唱されたのはこうした功夫(武術)の体操化であった。こうした中で簡化も編まれたのであり日本のラジオ体操のように労働者の健康管理のひとつとして用いられることを意図したのであるが、この流れは後には競技化(床運動競技)の方に大きく進展して行き簡化もその中で主として伝承されて行くことになる。一方「太極拳運動」つまりラジオ体操的な役割は気功の方に受け継がれる。気功は簡化よりも更に簡単であるし、超能力(特異効能)が得られるともされている。
また簡化で特徴的なことはあえて武術的な要素を排除している点である。太極拳の武術性は「勢」を得ることにある。これは「綿綿不断」という途切れの無い動きで養われるが、そうしたことを鄭曼青は「盪」としていたわけである。しかし簡化ではあえて流れ(勢)を生じさせないように構成されている。例えば野馬分鬃は指先が前を向いていなければ肩で体当たりをして体勢を崩した相手を跳ね飛ばすことはできないが、簡化では横を向かせている。また白鶴亮翅も腕を外に返さなければ相手の攻撃を受けることはできない。これらは勁の流れが外に向かないようにする動きであり、武術というより導引的な色彩の強いものといえる。
以下に示したのは簡化の拳譜であるが、アンダーラインを付しているのは簡易式には入っていない技である。これらは鄭曼青が「盪」の観点からして本来の太極拳の動きではないと考えた技になる。鄭曼青は張三豊が作った本来の太極拳にいろいろな技が付加されて108式とされる近現代の太極拳になったと考えていた。そして張三豊の時代の太極拳とは専ら「盪」を練るものではなかったかと考えたのである。「盪」を練るための身法としては「両手、正面」の動きでなければならない。一般的な武術は「片手、半身」である。これは半身であることで相手からの攻撃目標となる部分を少なくすることと、左右の手どちらでも牽制と極めを行って単純ではない攻防を展開するためである。つまり太極拳では原則として「正面」をとることで左右どちらにも変化できる体勢を練ることを重要と考えるわけである。そして手も左右で時に応じて牽制にも極めにも変化できることを重視する。つまり「半身」になることで一定の形式化された効率性を得るよりも多彩な変化を重視しているわけである。
鄭曼青の重視した「無招は万招に勝る」の「無招」は技がないということで、これは技を生む根本である「盪」をひたすら養っていれば、状況に応じて適切な技が生まれてくるとする考えである。簡化は個々の動作の連環性が弱く、全く「盪」を養う動きにはなっていない。ただ労働者は日々の労働では専ら外へ注意力を使うことになる。そうであるから簡化で内への流れを養うことで心身のバランスを保つことが可能となるわけである。このような新たな時代の「武術」として配慮が簡化では考えられていたのであった。
簡化太極拳拳譜(下線は簡易式にない技)
一、起勢
二、野馬分鬃
三、白鶴亮翅
四、搂膝拗歩
五、手揮琵琶
六、倒巻肱
七、左攬雀尾
八、右攬雀尾
九、単鞭
十、雲手
十一、単鞭
十二、高探馬
十三、右蹬脚
十四、双峰貫耳
十五、転身左蹬脚
十六、左下勢独立
十七、右下勢独立
十八、左右穿梭
十九、海底針
二十、閃通臂
二十一、転身搬欄捶
二十二、如封似閉
二十三、十字手
二十四、収勢
起勢(一)から野馬分鬃(二)
太極拳において攬雀尾は最も重要な技とされており、起勢の次に行うのが通常であるが、簡化ではいきなり「片手」の野馬分鬃に入る。あるいは攬雀尾も「片手」で動いているように見えるかもしれないが、攬雀尾は全て「両手」の動きである。なぜここに野馬分鬃が入るのかについては既に述べた。ただ攬雀尾が冒頭にあるのは太極拳としての心身のテンションを整えるためである。その意味でも野馬分鬃をここに置くのは適当ではないのであるが、そもそも簡化が武術的な力である勁を練ろうとしているのではないので実質的には問題はない。
白鶴亮翅(三)搂膝拗歩(四)手揮琵琶(五)倒巻肱(六)
白鶴亮翅から搂膝拗歩、手揮琵琶までは本来の太極拳と同じである。倒巻肱は正式には肘底看捶からの技であるが、肘底看捶と手揮琵琶は似ているので、ここまでの流れは概ね円滑である。ただ手揮琵琶は相手の腕の肘を極める技(勢は後ろになる)であるが、肘底看捶は右手で相手を掴んで、左掌で顔を打つ技(勢は前となる)である。これに続く倒巻肱の勢は後ろなので、前後、左右など相対する勢(太極)を連環させていく太極拳の勢の流れとしては手揮琵琶とは繋がり難い。
左攬雀尾(七)右攬雀尾(八)単鞭(九) 雲手(十)単鞭(十一)高探馬(十二)右蹬脚(十三)
この部分も大体、本来の流れと変わらない。ただ左攬雀尾を入れたのは正式な攬雀尾である右攬雀尾に繋ぐためである。右から左への攬雀尾の転身はやや円滑性を欠いているようである。特に攻防を考えた場合には、後の技が前の技を補って途切れなく続く太極の連環性において全く適当ではないことになる。高探馬からは右分脚が本来であるが、簡化では蹬脚に変えている。これは本来の「右蹬脚から双峰貫耳」という部分の流れを優先したためのようである。結果として簡化では分脚を練ることができなくなってしまい簡化の蹴り蹬脚だけになってしまう(正式には分脚、擺蓮脚などもある)。これも攻防を視野に入れていないことの証左であろう。
右蹬脚(十三)双峰貫耳(十四)転身左蹬脚(十五)
ここは本来の流れと同じであるが、簡化では「転身」が明確ではない。本来は左蹬脚から転身をして、その勢のまま右蹬脚に入る連続蹴りの技なのであるが、簡化では本来の技の勢は失われている。
左下勢独立(十六)右下勢独立(十七)左右穿梭(十八)
下勢独立は本来は(単鞭)下勢(右)と金鶏独立である。下勢は身を低くして相手の攻撃を避ける金鶏独立の全段階となる動きである(蓄勁)。簡化では最終的な目的である金鶏独立(攻撃の蹴りと防御の蹴りを連続して行う)が攻撃の蹴りだけで技として完結していない。また左右穿梭はこれをもう一度繰り返して「玉女穿梭」とするのが正式である。これは転身の勢を利用して四方に掌を打ち出す技であるが簡化ではそうした勢を見ることはできない。この部分は金鶏独立にしても玉女穿梭にしても本来の武術としての動きが完成されることなく攻防からすれば実に不十分のままとなっている。これらからは共に技を完結させないことであえて攻防の勁(ちから)を生まないようにしていることが明らかである。
海底針(十九)閃通臂(二十)転身搬欄捶(二十一)
この部分は本来では閃通臂から撇身棰そして搬欄捶になり、攻防の技としては撇身棰(右裏拳左掌、右拳と連続三回攻撃をする)が中核となるが、肝心の撇身棰で攻防の動きが省略されている。
如封似閉(二十二)十字手(二十三)収勢(二十四)
この部分は太極拳そのままである。
簡化が始めて日本人に伝えられたのは1959年10月で日本の国会議員代表団として訪中をしていた松村謙三や古井喜実であったとされている。この時、指導をしたのが李天驥であった。ただ日本での普及は楊名時によるところが大きい。現在は「楊名時太極拳」として簡化二十四式とは別のものとする立場にあるが、楊名時太極拳の優れているところは全く武術的な要素を入れていない点である。これは簡化の本来の意図からすれば最もあるべき形であるといえよう。また楊名時は簡化と同時に八段錦をも教えている。簡化が「動」の導引であるとすれば、八段錦は「静」の導引でありバランスも良い。加えて「立禅」も指導されている。立禅といえば太気拳のやり方がよく知られているが、本来の立禅は楊名時が指導していたようにただ立っているだけのものである(混元トウ)。太気拳のものは馬歩トウ功であり、厳密にいえば立禅ではなく武功の訓練のひとつ(武功)となる。ちなみに立禅(混元トウ)は文功に属する。楊名時は簡化を「白鶴の舞」と称していたようであるが、あるいは楊名時太極拳よりの「白鶴の舞」という方が文功としての名称としては適切かもしれない。
なぜ簡化ではあえて武術的な要素を排除したのか。それはこれが広まって大衆が武術的な力を得ることを警戒したという一面があるのではなかろうか。それは武術家が中心になって起こされた拳匪の乱(義和団事件1900年)の記憶も背景としてはあったのかもしれない。また現在の法輪功の過剰な弾圧でも分かるように大衆が精神でも、武術でもある種の「力」を持つことに中共はひじょうな警戒をしているものと思われる。確かにそうした危うさのあることは中国の歴史を見れば明らかなことでもある。簡化はシステムとして武術的な力を得ることはできないように作られている。しかし日本ではその導引的な価値を認めて現代社会において大きな意義のある運動として人々に練習されている。これはむしろ大陸よりもあるべき姿として簡化が広まったといえるのではなかろうか。
最後に簡化が何故二十四式なのか、であるが、これは形意十二形から来ているものと思われる。李天驥の兄の李天池は形意拳の十二形を気功導引の形として形意健身功を考案している。簡化もこれと同じく太極二十四形とする理解がベースにあったのではなかろうか。そうすると個々の動作の連環性の不自然さも容易に理解されるところである。つまり太極拳のひとつひとつの形を導引功と捉えて、それを繋いだのが二十四式であるということである。これは娘の李徳芳が四十八式を考案したのも同じで、それぞれの動作を基準としたもので太極拳の本来の眼目である「綿綿不断」からすればいささか「距離」を感じるものとなっている。それは基本的な発想に形意十二形があるからであろう。12が24になり48となったのであって、これらは全て12を基本としているわけである。