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宋常星『太上道徳経講義』第六十三章

  宋常星『太上道徳経講義』第六十三章 生死とは、性命の現れであり、それはすべからく至大、至難の事柄である。いまだ五行に属する物質が出現していない時、父母がいまだ生まれていない前、そこに生死の根源がある。つまり、そこに元始至尊が存している。本来の自己がそこにあるのである。こうしたところに入るには、特別な方法は必要ない。特別な努力も要らない。先天の気が元初と合一していれば自然に奥深いところに入ることができる。道を修行する人は「易」に「難」を見るのであり「細」に「大」を知る。まさにそうした視点に立つことで目が開かれる。無為、無事で、難易を越えて、自己を滅する。そこでは善悪を越えているので悪は働かない。そして天地と一体となっている。こうなれば必ず「誠の理」を知るであろう。「中正の道」に入ることになろう。「易」に「難」を見て「細」に「大」を知るとは、無為であることであり、無事であることである。この章では人が徳をして立つとはどういうことか、が述べられている。つまり、それは意図を以て物事を行わない(無事)ということなのである。 1、無為を行い、無事であり、無味を味わう。 (1−1)「無為を行う」のは聖人の行為である。それは「道」を行うことであり、「理」を行うことでもある。普通の人の行動の基準は「名誉」であったり「利益」によってである。つまり「名利」において行動するわけである。「欲」によって行うわけである。「無私」の行為とは、意図することなく、無為であり自然に事が成ることである。そこにおいて行為は強いてなされることはない。無為であり自然のままなのである。 (1−2)そうであるから聖人の心は「虚」や「静」を得ているとされる。聖人の「徳性」は渾沌と一体である。ただ、あるがままの心で居るのであり、どうこうしようと思うことはない。無為の行いにおいては、次に何を為すのかを予め考えることはない。そうであるからその行為にとらわれることもない。そのためあらゆる行為の可能性がそこには潜んでいる。そうであるから無為であっても為されないことはないわけである。行為にとらわれないので、自然であり「道」と一体となっている。そこに、あらゆる行為の可能性が秘められているのは意図して行うことがないからに他ならない。ここで述べられている「無為を行う」とは以上のような意味である。 (1−3)「無事であり」も聖...

道徳武芸研究 「先天の勁」を考える〜孫禄堂の武術思想〜

  道徳武芸研究 「先天の勁」を考える〜孫禄堂の武術思想〜 孫禄堂の『八卦拳学』には第十八章で「八卦拳先天後天合一式説」があり、第二十章には「八卦拳先天後天合一図解」がある(ちなみに第十九章は「八卦先天後天合一図」で図が示されている)。二十章の「八卦拳先天後天合一図解」では「先天は後天の体であり、後天は先天の用」であるとある。そして「後天」とは八式(八母掌)であるという。つまり八母掌は「用」つまり応用であり、そのベースとなるのが先天であるとしているのである。そうであるなら「先天」とは何か、ということになるが、そこには「先天の勁」があるとしている。「勁」とは武術的な力のことである。例えば「押す」という行為で単に押すことは誰でもできるであろうが、これを武術的な行為として「突き飛ばす」ことは、その手法を学ばない限りできるものではない。「押す」という行為が、相手を「突き飛ばす」という行為になるには相手の身体の中心を捉えること、そして溜めを作って一気に力を出すことなどがなさればならない。しかし孫禄堂はこうした力を人は生まれながらに有しているというのである。そうであるから八母掌は単に身体をして「勁」を表現しているに過ぎないということになる。つまり剣術であれば「刀」は先天的に有していて、武術の練習はそのバリエーションであるに過ぎないというわけである。 孫禄堂は「先天の勁」は「無形の勁」であるともしていて、これを「無形の八卦」であるともいう。そうであるからその「八卦」に形を付与すると八母掌となることになる。そして「先天の勁」は後天にあっては「陰陽」として現れ、それは「伸縮」の運動となる。そしてそれを手足を用いた旋転の動作で示すならば八母掌となるとしている。そして修練とはこうした「先天の勁」と後天の八母掌を合一させることにあるというのである。つまり人は既に「先天の勁」として「無形の八卦」を有しているのであり、それのままに動けば八母掌となることになるのであるが、そうなると理論的には全ての武術は八卦掌から派生するという理屈になってしまう。このことは孫派の八卦掌を解説している秦浩人の『中国仙道房中術』に「八卦拳というのは、八卦の原理を利用した拳法であり、あらゆる拳法の基礎です。どの門派の拳法を練習するにしても、まず八卦拳から始めなければなりません。なぜならば、八卦拳からはじまってい...

丹道逍遥 クンダリニー・ヨギ二ーとしての弁才天

  丹道逍遥 クンダリニー・ヨギ二ーとしての弁才天 弁才天の頭部には宇賀神という蛇体人頭の神が乗っている。しかしインドで生まれた神格である弁才天(サラスヴァティー)は琵琶(ヴィーナ)を持つ女神である(持ち物は琵琶以外である場合もある)。弁才天は密教では天部とされるカテゴリーに属する神格で、そこにはインドで信仰されていた多くの神が配されている。これらの神々の中で弁才天や大黒天、毘沙門天などが日本では特別に信仰されるようになった。弁才天は川を神格化された神であるが、おそらくは川のせせらぎの心地よい音(妙音)が、琵琶などの優れた演奏と同値されて芸能の神として信仰されるようになったのであろう。こうしてインドで信仰されていた弁才天は日本では密教化した八臂の姿(八臂弁才天)として多く信仰されたようである。こうした八本の腕を持つような形は中国では好まれないが、日本では他にも多く密教的な形での信仰が人気を得ていた。また「水」の神としての弁才天は、同じく「水」の神としての宇賀神との親和性はあったといえる。蛇(みづち)の「み」は「水」、「つ」は「の」、「ち」は「霊」ということであるので蛇は「水の霊」の力を象徴するものであったわけである。蛇体人顔の神としては中国神話の伏羲(ふくぎ)がいるが、宇賀神の神の形がどこから来ているのかは明確ではない。本来は普通の女性の姿であった弁才天が八本の腕を持つ形で信仰されるようになり、さらには宇賀神が乗る形になって行くわけである。こうした弁才天の姿の「変容」はどうして生じたのであろうか。 クンダリニー・ヨーガでは会陰のあたりにあるムラダーラ・チャクラにクンダリニー・シャクティが潜んでおり、それを覚醒させることが目的とする。またクンダリニー・シャクティは蛇の形で女性原理(シヴァ神の妃)とされている。一方で宇賀神は同じく蛇体ではあるが老爺の顔であるので男性原理であることが示されている。この違いは、どう理解されるべきなのであろうか。おそらくこれは修行者が男性か女性かによる違いであろう。クンダリ二ーの覚醒は自己における女性原理と男性原理の融合を行うことである。そうであるから男性の修行者は女性原理をクンダリニー・シャクティとして覚醒させることになるのであり、一方で女性の修行者である場合には男性原理としてのクンダリニー・シャクティが覚醒されることになる。宇賀神...

道徳武芸研究 「純粋」経験としての武術〜孫禄堂の挑戦〜

  道徳武芸研究 「純粋」経験としての武術〜孫禄堂の挑戦〜 ここで言う「純粋」経験とは後天的な知識を得る前の状態においての思考、行動をいうものである。通常は何かを学ぶことで、より効率的、合理的な思考や行動をとることができるとされている。しかし中国の精神文化の中では、そうしたものを余計と考える傾向がある。むしろ後天的な知識がない方がより効率的、合理的な思考、行動がとれるとする考え方が根強く存しているのである。これを老子は「樸」や「嬰児」として表現している。「樸」は「あら木」のことであり、加工されていない木の意である。「嬰児」も後天的な知識を学習していない状態を示している。儒教ではこれをより明らかに「良知良能」としてその優れていることを明確にした。逆に禅宗では「教外別伝」で経典や戒律といったものに縛られることを良しとしなかった。それは釈迦が悟りを開いた時には経典も戒律もなかったからである。もし純粋に釈迦の悟りを追体験しようとするのであれば、悟りの前の釈迦に近い状態(仏教を知らない状態)でなければならないと考えるわけである。そして、その状態であることで、最も「純粋」な教えを悟ることができると考えたのである。 武術においても攻防の技術を知る前の状態が、最も純粋な動きを生み出す、と考えたのが近代形意拳の泰斗である孫禄堂であった。そして武術を知る前の状態を「虚」であり「先天」であるとした。つまり「実」である攻防の技術や「後天」的な攻防の経験などが無い、全く攻防について知らない時が「虚」や「先天」の状態なのである。ただ孫禄堂は先天後天の合一を唱えており、全く後天の技術を否定はしていない。孫禄堂は形意拳、八卦拳、太極拳は全て共通の「虚」から生まれたとして、それぞれの動きを抽象化することで、その共通性を見出して、そこに先天後天の合一があると考えたのであった。つまり、全ての動きのベースである先天の「虚」から後天の「実」として形意拳や八卦拳、太極拳が分派したわけである。そうであるからそれらを抽象化=簡易化することで「虚」から生まれたままの動きに近づけると考えたのであった。それは「虚」から生み出されたそのものではないが、限りなくそれに近いものであり、それを学ぶことで個々人においては「虚」から最も効率的、合理的な動きが得られるとしているわけである。 孫禄堂が「先天」の武術というものを...

老子  宋常星『太上道徳経講義』(62)

  宋常星『太上道徳経講義』(62) 道には一般には知られていないことがあるとされているが、それは影も形もないのであり、限りない存在でもあるということである。それは大きいとするなら果のない存在といえよう。それを小さいとすれば極小な存在ということにもなろう。道は天地、万物の他に存しているのではない。天地、万物の中には全て道がある。それは陰ではないし、陽でもないが、あらゆる陰陽の存在は道を本としている。動でもないし、静でもないが、あらゆる動静は道を蔵している。理をして道を考えるに、それは陰陽のエッセンスであるということができる。大いなる道は「衆妙の門」とすることができる。天地をして道をよく考えたならば、それは「蔵機の時」ということになる。修身ということからすれば「産薬の源」といえる。修行者はよくこのことを知っているであろうか。無為の性はそのままで完全であり、無形でとらえ難いものである。その変化は無窮で、どこに隠れているのか、現れているのか予測することは難しい。それはあらゆるものに通じており、心の働きと等しく動いている。つまり「性」が道なのである。「心」がつまりは道なのである。天下において貴きものであるとすることができる。この章では物をして道を明らかにしている。道には形がないが、それはあらゆるところに存している。道をこれとして評価することはできないが、その尊さは並ぶものがない。もし、こうした道の奥義を知ることができれば、それは教えの根源であるということができる。それは「善」であり、それを修すれば、それをあらゆるところで用いることができるのであり、それは「善」なる行為となるのである。 〈奥義伝開〉ここでは道は普遍的な存在であり、あらゆる社会の価値観を超越したところにあるとする。そうであるから「善人」でも「不善の人」にも等しく道は有されている。また天子や重臣のような社会的な高い地位よりも尊いものであり、そこにあっては「罪」も罪として認められることはない。そうした価値観をも超越しているからである。しかし一方で道は何時でも何処でも得ることのできるものである。それは道が普遍的な存在であるからであり、人はその存在に気がつけば道を得ることができるのである。 1、道は万物の奥にある。 「奥」とは深いということである。万物の深奥に大いなる道はあるのであるのであり、そこには生成の根源...

道徳武芸研究 葛洪の武術修行

  道徳武芸研究 葛洪の武術修行 葛洪は抱朴子と号する三世紀頃の中国の人である。その著書の『抱朴子』でよく知られている。同書はかなり大部の文献であるが最後に「自叙」があって自伝を記している。その中に武術修行にも触れているのである。三世紀といえば日本では弥生時代の終わる頃であるが、当時の中国にはかなりの数の本があって、葛洪はそれを熱意をもって求めていたようである。先ず子どもの頃には「擲瓦」や「手摶」をしたとある。瓦投げや相撲といったところであろう。これは単なる遊びであり、武術の修行というものではなかったと思われる。自分でも運動能力は低く、同輩に及ばなかったと記している。青年になってからは儒教の学習の一貫でもあるので弓術を習ったらしい。儒教には六芸として礼法、音楽、弓術、馬術、書法、数学を学ぶことになっている。日本でも「弓馬の道」というように弓や馬は武術の中でもより高く評価されていたのはこうした背景があったのである。 葛洪が弓を選んだのは、護身に役立つことと狩りにも使えることがあったとする。後の実戦では騎馬兵二人と馬を射て生き延びたと述べている。日本ではあまり馬を射るということは聞かないが、中国では斬馬刀などもあって、馬そのものも攻撃の目標となっていたようである。ちなみに斬馬刀は漢の頃からあったが、当時は斬馬「剣」とされていて、明代になって斬馬「刀」とされるようになる。それは日本の太刀の影響によるもののようで鄭成功が使ったのが最初とされる。日本の太刀は中国の刀より大きいので、その重さを振り回した時の遠心力を使うことができる。そうであるから斬馬刀は馬も人も一太刀で斬るとある。その他に葛洪の学んだものとしては「刀盾」「単刀」「双戟」などもあったようである。この中で「刀盾」と続けて書いてあることからすれば片手に刀、片手に盾を持っての闘い方であったことが考えられる。「双戟」も両手を用いての武器である。中国武術ではそれぞれの手に武器を持って闘うことも特色といえるであろう。そしてこれらには「口訣」や「要術」があって、こうした「秘法」を学んで初めて「入神」の境地に入ることができるとある。これからは既に三世紀の中国では、かなり体系として整えられた武術のあった様子をうかがうことができる。 そして晩年には七尺の「杖術」を学んだとある。当時の一尺は25センチくらいなので、七尺であれば...

お知らせ

 3月13日より配信方法を一部変更します。 今後は月と木に、まとめて配信します。 月曜は従来通りの「老子」と「丹道逍遥」が隔週となります。 木曜はこれまでと同じ「道徳武芸研究」です。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー6) それぞれは、その欲望のままにことを行っているわけである。そうであるから「力のあるもの(大)」はよく「受け身(下)」であるべきなのである。 ここでは、この章の総括が述べられている。まとめともいえる部分である。大国が小国を「受け身(下)」であると見なせば、小国は大国の威に従属することになる。しかし、そこにおいて大国は徳を抱き恩を施すべきである。また小国が大国を「受け身」であると思うと、その従属は大国を国家の枠を越えた普遍的な存在と見なすことになるのであり、虚心で自己に執着することなく(大国に「臣下」として仕えるという)徳を行うものとなる。しかし謙譲や卑下をすることなく大国であることの威を堅持していれば、例え小国に従属する気持ちがあっても、決してそれが実行されることはなかろう。こうした状況にあっては小国は自己の力の無さを認識することもなく、小国、大国がそれぞれにかってな思いを持ち、大国も小国を併合することにおいて徳を行うことがない。今この二つの国が、それぞれがあるべき状態にあるとすれば、おおよそ大国も小国への思いやりを持つことであろう。また小国は大国が徳を実行しよとする志をよく受けて、それぞれの思いをひとつにして、共に一心となるであろう。つまり共に大国であるとか小国であるとかにこだわらないということである。そうであるから大国は小国の存在を保証するものとなるのであり、小国は大国を助けることになるのである。天下の大きさとは、多くの国があるということにあるのであるが、そうした中にあっても大国は重んじられる。そうではあるが大国は「受け身(下)」の立場にあらなければならない。こうしたことが「そうであるから『力のあるもの(大)』はよく『受け身(下)』であるべきなのである」として述べられている。この章は、大国だけではなく、小国であっても虚心であり己に執着することがないようにしなければならないと教えている。それは「受け身(下)」であり謙譲の徳を持つということでもある。大国が小国に対してただ「より蓄えようとする(兼蓄)」欲望だけで併合に動いたならば、小国は大国に従属することでしか存続して行くことができなくなってしまう。ただこうした時でも小国が主従の徳(忠)を行えば、それによって大国に徳化の影響を及ぼすこともできよう(礼)。修身の道を考えてみ...

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(4)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(4) 踏み込む蹴りが「採腿」であるのであるが、そうであるなら相手を捉える「採」はどこに見られるのであろうか。右手で相手を捉えるところであろうか。そうではない。これは八卦拳を見ればよく分かる。八卦拳では暗腿や截腿があり、これを七十二種類あるなどとしている派もあるが、暗腿や截腿は拳理であるとするべきであろう。暗腿を広い意味で「相手から見えないところでの腿法」とすれば、暗腿の中に截腿は含まれることになる。「採腿」の形からいうなら相手の膝や脛を蹴って出足を止める截腿はまさに採腿そのものである。ちなみに狭義の暗腿は「入身で相手の死角に入ってからの腿法」で、入身で相手の前足の奥にまで入って、足を掛けて体勢を崩すのが暗腿となる。実は太極拳の採腿にも、この動きが先に含まれている。そうであるから「採」腿なのである。先ずは相手の体勢を崩して、そして相手がバランスを崩して前に倒れて来た時に踏み込むように蹴るわけである。八卦拳ではこれを扣歩というが「扣」には「ボタンを掛ける」という意味がある。ちなみにこの腿法には「掛」字訣がある(相手の足を引っ掛けるという意味)。つまり暗腿には明確に「採」の働きが見られるのである。ある意味で採腿で肝心なのは、最後の蹴りよりも始めの崩しにあるといえるであろう。野見宿禰が相手のあばら骨や腰骨を踏み砕くことができたのは、足を使っての崩しを用いていたからと考えられるのである。そして陳炎林が採腿を「秘伝」として最後の蹴りしか示していなかったのは、その前に「採」のあることを暗示していたわけなのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(3)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(3) 陳炎林は採腿について「足心で相手の膝頭を踏む」ようにするとある。この腿法は形意拳の狸猫倒上樹でも見ることができる。狸猫倒上樹は龍形拳と似ているが、狸猫倒上樹の重心は前足に移るのに対して龍形拳は後ろ足のままである。採腿と同じ「踏み込む」勢いを持つのは狸猫倒上樹の方である。龍形拳で重心が後ろにあるのは「上」へと出るためである。「上」に出て左右の足を入れ替える。これで相手を引き倒そうとするわけである。一方、狸猫倒上樹は「下」に踏み込むような勢いで、相手の膝を踏み砕くのを主たる動きとする。それに対して狸猫倒上樹で「倒」とあるように、その見た目は「狸猫(ジャコウネコ)」が樹を登るようではあるが、これの技が踏み込むところにあるためにあえて「倒」の字を加えているのである。つまり狸猫倒上樹では勢いは「上」ではなく「下」になる。形意拳でも狸猫倒上樹はどの技においても暗蔵(見えない形で含まれている)されている。おもしろいことに孫派では足を上げるだけで、あえて前に蹴る動きを明確にはしないようにしている。それはより「採」を強調した動きにするためである。このように形意拳でも太極拳でも足を出して踏み込む時には全て採腿が暗蔵されているのであり、そうであるから陳炎林は太極拳で「多用」されていると述べているのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(2)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(2) 採腿の特徴は「踏み込むように蹴る」にある。ここで興味深いのは相撲の起源とされる野見宿禰と当麻蹶速との試合で、野見宿禰が当麻蹶速の肋骨と腰骨を「ふみ折った」とあることである。相撲に関心のある人からはこうしたシーンが理解できなく、倒れた当麻蹶速を蹴っているとする絵もあるようである。確かに肋骨や腰骨を蹴り折る程の威力を考えたならば倒れている相手への蹴りとするのは妥当であるかもしれない。しかし、そうであるなら倒してという描写がなければなるまい。『日本書紀』では「互いに蹴りあって」とある後に「ふみ折る」という事態があったことを記している。考えられるのは、この時「採腿」が用いられたのではないかということである。それは「採腿」が強力であるとされていることとも合致している。「採腿」は沈身の拳訣を得ればこのように強い蹴りとなるのである。

道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(1)

  道徳武芸研究 太極拳・秘伝の「採腿」について(1) 陳炎林の『太極拳刀劍桿散手合編』には「採腿」について触れた部分がある(採は足篇の場合もある)。そこでは、この腿法は秘伝であり、太極拳では多用されているとも述べている。これはトウ脚に似た腿法であるが同書の説明には右手で相手を引きつけて、左掌で相手の顔を打つと共に、右足で蹴る技となっている。疑問となるのは、こうした腿法が太極拳の中で「多用」されているか、という点である。蹴り方からすればトウ脚が近いが、それは套路の中で多くは出てこない。ただ重要なことは採腿が踏み込むように蹴るとしていることで、トウ脚のように前に蹴るのとは違っている。拳理からいうと採腿は太極拳の四正四隅の拳訣である「ホウ、リ、擠、按、採、肘、レツ、靠」の中にある「採」にあたるものとされる。あるいは「採」腿があえて足篇にすることがあるのは、この時の「採」が手ではなく足を用いるものであるからであろう。しかし「採」は四出四隅の拳訣では「原理」を示すものであるからあえて「捉える」という行為を手と足に分ける必要はない。ただ採腿では実際のところ「足」の使い方に重点があるのはまちがいのないことではある。

宋常星『太上道徳経講義』(61ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー5) つまり「受け身(下)」にあるとみなされたならば、そのれは相手からの収奪を受けるのである。こうしたことからは大国では「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、小国では「介入しようとする(入事)人」と同じようなことを見ることができるのである。 ここで述べられているのも先の文の補足である。「受け身(下)」とあるのは先に「大国があえて小国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」や「小国が大国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」ということである。ただ自然にあっては大国は天であり、小国は地である。天は尊くそこには君子の道が行われ、地は卑しく臣下の道が行われていている。つまり大国の君主は、その徳が天の如くであって虚心で己に執することがなく、それは太虚があらゆるところに及んでいるのと同じで、あらゆるものを育んでいるのである。一方で小国が「受け身(下)」であるとは、小国の君主は機能させられないのが当然であり、その徳は地の如くで柔順であって、その根底(坤元)にあるのは天の徳をあまねく受けることなのである。天の徳に柔軟に順じる。これが地の徳といえる。また大国が「受け身(下)」であると小国が見たならば大国も侵略を受けることになる。こうしたところからすれば大国が「受け身(下)」であって小国を攻撃する気配がないならば小国は大国を侵略しようとするであろう。これは小国も自己が「受け身(下)」であると見なされると侵略されるのと同じである。こうしたことは「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、このように動くのは小国でも大国でも同様で違いはない。その大小は関係なく、すべからく人の心を「受け身」であるように育てて行く。そうなれば「天下は一家」となり、小国や大国の差異も生じなくなる。こうして天下を化育して、あらゆるところに徳を及ぼす。しかし現実は往々にして「大国はただ『より蓄えようとする(兼蓄)』の人と同じ」なのであり、また「小国はただ『介入しようとする(入事)人』と同じ」である。そうであるからよく「受け身」で、勤勉に働き、上に奉仕して終日、慎み深くあって、世の一隅を守るようにすべきである。そうすることが、よく民を治めて、その身を保つことになる。そうして国を安定させて君臣は共に大国に見られるような「より蓄えようとする(兼蓄)」な...

宋常星『太上道徳経講義』(61ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー4) その「静」であるとは「受け身(下)」であるということである。しかし大国があえて小国を「受け身(下)」にある(攻撃をしない)と見たならば(そこには交わりは生まれることなく)小国を取ることになろう。小国が大国を「受け身(下)」にある(攻撃をしない)と見たならば、小国は大国を取るであろう。 静であり「受け身(下)」であるべきなのは大国に限ったことではなく、小国においてもそうである。それを前提として「しかし大国があえて小国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見たならば」としている。これは大国は「受け身」ではなく小国だけが「受け身」である場合である。そうなると大国は小国を従属させようとする。しかし、そうであっても小国をして栄えさせれば、それは「徳の信(まこと)」を行うことになる。大国は大国であることに執することなく小国を尊重しなければならない。これは大国が静をして小国に対するということである。「(小国を)取る」とあるのが、そこにあっても互いに道を同じくする、徳を等しくして、無為を主導(上)としていれば、小国は自然に大国に頼ることになろう。ここで述べられているように大国が一方的に小国を「受け身(下)」と見るならば、つまりは小国を「取る」ということになる。そうなると小国は大国を力のある国として仰ぎ見ることになり、貢物を送るような従属関係を結ぶことになろう。小国は大国に従属してなんとか自己を保とうとするわけである。このように大国に従属するのであれば小国だけが静にあるということになる。また小国が大国を「取る」こともあるが、そうなると大国の君主の威信も眼中になく、大国を侵略することで自国を保ち民を守って、永遠なる安楽と福恵を得ようとすることになる。海は安らかで川も清らかにして、民が永遠に苦しみを受けることもないのが自然のあるべき姿であろう。ここにある「小国が大国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見たならば、小国は大国を取るであろう」とは、以上のような意味である。もし静であり「受け身(下)」であることができないのであれば、小国であっても必ず大国と争うようになるであろう。また大国は必ず小国に攻め入ることであろう。そして国土を侵略し、経済的な利を争うであろう。また小国と大国の間に信頼関係が無くなり、国内にあっても上下は反目するよ...

宋常星『太上道徳経講義』(61ー3)

  宋常星『太上道徳経講義』(61ー3) 天下の国々と友好関係を築くことができるとは、牝が常に静であることで牡よりも優れているのと同じである。 ここで述べられているのは先の文の補足である。陰は牝であり、陽は牡である。牝は静を主とし、牡は動を主とする。陰気は静であるから陽と交わることができる。そこが陰が常に陽より優れている点である。陰は静である。そうであるから陽の動を受け入れることができるのであり、交わりが成立するのは専ら陰の働きによるわけである。こうした点が牝は牡よりも優れているとされる。大国の君主も保身を望むのであれば攻撃的ではなく受け身であるべきである。つまり「下流」につくべきなのである。こうして小国と交わりを持てば、自己が(小国からの攻撃を恐れて)疲弊することもないので、これは優れた方法であると言えよう。大国が受け身であれば、近隣の小い国々は喜んで交わりを持とうとするであろうし、遠くにある国々からも交流を求められるようになるので、天下は平らかとなるであろう。それは流れる水が海に帰するような自然の姿でもある。受け身で交わりを持つことで、多くの友好関係が生まれるのである。そうであるからここにある「天下の国々と友好関係を築くことができるとは、牝が常に静であることで牡よりも優れているということと同じである」ということになる。 〈奥義伝開〉老子は「友好関係(交)」の根底に「静」のあることをいう。ここで「牝」という語を使っているのは、これが「女性原理」をいうものであるからで、第六章にある「玄牝の門」というのと同じである。老子は「玄牝の門」が「天地の根」であるとしている。人は往々にして「動」は「陰」と交わることが無ければ新たなものを生み出すことはできない。そしてその「交」わりを主導しているのが「静」なのである。老子は生成の根源にあるのは「動」ではなく「静」であると考えた。それは「動」はよく注目されるが「静」はそうでないのであえて注意を促しているわけである。太極拳などにおいてあえて「静」を練るのは日常の全ての行為が「動」をベースにしているためである。「静」を練ることで「動」とのバランスを取るのである。

道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(8)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(8) 意拳を考案した王向斉が道功と武術を統合するものとして考えていたのは「混元トウ」である。これは如何なるものであるのか。『拳学新編』には三つが示されている。その一は、足を60度に開いて立ち、両手を体側に垂らすというものである。その二は馬歩で両手は肩くらいに上げる。その三は前後に足を開いて両手を上げる、とされている。太気拳の立禅は二に、半禅は三に近いと思われる。一方で王向斉の弟子の李見宇は一に近い形を混元トウとしている。そして娘の王玉芳は三で腕を下ろした形をそれと示す。『意拳正軌』では降龍トウ、伏虎トウ、子午トウ、三才トウなどのエッセンスを含んだ究極の形のように紹介しているが、それが三種類もあるというのも困ったものである(後に王は『意拳正軌』の内容を否定したとされる)し、伝承者で違った「混元トウ」があるのも判断に迷うところであろう。これは道功(内)と武術(外)の矛盾をどのように解決しようか王が悩んだ結果であろうと思われる。そうして見れば孫錫コンのように道功は道功で練り、武術は武術で修して結果として自然な統合を得る、とするのが妥当なのかもしれない。現在、意拳では「混元トウ」についてあまり語られることがないのも結局は武術と道功を融合した「混元トウ」を確立することができなかったためであろう。

道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(7)

  道徳武芸研究 『八卦拳真伝』と千峯老人・趙避塵〜武術と静坐〜(7) 意拳では初期の頃の「立禅(トウ抱式)」は深く腰を落としていたが、次第に姿勢は高くなり、現在「意拳」として見られる形は太気拳などよりかなり高いものである。道功を武術を共に練ろうとする場合に問題となるのは道功は意識を内へと向けることを第一とするのに対して、武術は外に向けるというところにある。これを同時に行うことはできないので、道功と武術とは別々に練習されて来たわけである。陳微明の『太極拳答問』でも静坐の特徴に「回光返照」があげられているが「回光」は「内視」と称されるような自己の内面を見つめる意識状態に入ることをいうものである。これは仏教瞑想も同じで止観の「止」は内面を見つめることで「回光」と同じ意味となる。そして「返照」が外界を見つめることである。止観では「観」がそうであり、ここに正しい認識が得られるとする。あるべき意識状態(止)で、外界を見る(観)から正しい認識が得られるわけである。こうしたことを武術でも使おうとしたのが道功との併修であった。