老子 宋常星『太上道徳経講義』(62)
宋常星『太上道徳経講義』(62)
道には一般には知られていないことがあるとされているが、それは影も形もないのであり、限りない存在でもあるということである。それは大きいとするなら果のない存在といえよう。それを小さいとすれば極小な存在ということにもなろう。道は天地、万物の他に存しているのではない。天地、万物の中には全て道がある。それは陰ではないし、陽でもないが、あらゆる陰陽の存在は道を本としている。動でもないし、静でもないが、あらゆる動静は道を蔵している。理をして道を考えるに、それは陰陽のエッセンスであるということができる。大いなる道は「衆妙の門」とすることができる。天地をして道をよく考えたならば、それは「蔵機の時」ということになる。修身ということからすれば「産薬の源」といえる。修行者はよくこのことを知っているであろうか。無為の性はそのままで完全であり、無形でとらえ難いものである。その変化は無窮で、どこに隠れているのか、現れているのか予測することは難しい。それはあらゆるものに通じており、心の働きと等しく動いている。つまり「性」が道なのである。「心」がつまりは道なのである。天下において貴きものであるとすることができる。この章では物をして道を明らかにしている。道には形がないが、それはあらゆるところに存している。道をこれとして評価することはできないが、その尊さは並ぶものがない。もし、こうした道の奥義を知ることができれば、それは教えの根源であるということができる。それは「善」であり、それを修すれば、それをあらゆるところで用いることができるのであり、それは「善」なる行為となるのである。
〈奥義伝開〉ここでは道は普遍的な存在であり、あらゆる社会の価値観を超越したところにあるとする。そうであるから「善人」でも「不善の人」にも等しく道は有されている。また天子や重臣のような社会的な高い地位よりも尊いものであり、そこにあっては「罪」も罪として認められることはない。そうした価値観をも超越しているからである。しかし一方で道は何時でも何処でも得ることのできるものである。それは道が普遍的な存在であるからであり、人はその存在に気がつけば道を得ることができるのである。
1、道は万物の奥にある。
「奥」とは深いということである。万物の深奥に大いなる道はあるのであるのであり、そこには生成の根源が存している。そうしたことを「奥」としている。それは無極であり太極であるのであって、道は陰陽を貫いてあるのであり、動静ともに存している。往くところにもあるし、来るところにもある。道のないところには何も正常に動くことはないし、一切のものが生まれることも無くなることもないのである。一切の形あるものを制御しており、先天の先にもとからあった。後天においては最後にまでそのままである。これが万物の造化の本当の始めである。万物の生成の根源なのである。生まれて変化をする。その理は道にある。つまり道は生成の根源にあるわけである。天地の奥に道がなければ、天地は何ものをも覆い乗せることはできない。万物が道を持っていなければ、生成をすることはない。つまり万物は道によって統合されているのである。古今を貫いて道でないものはない。しかし道を見ようとしても見ることはできず、これを聴こうとしても聞くことはでない。これを取ろうとしても取ることはできず、これを捨てようとしても棄てることはできない。ただ天下の人は、日に道を用いているがそれを知ることはない。日に道によって行為をしているが、それを見ることはない。もし、あるいは道を知ったり、見たりすることができたと思っても、それは道そのものではない。ここに述べている「道は万物の奥にある」とはこういったことなのである。
〈奥義伝開〉道は普遍的な存在であるが、これを具体的にひとつのものと決めることはできない。つまりあらゆるものには一定の法則や合理性が存しているわけであるが、伝わり方でも熱であったり、電気であったりすれば、それそれに道(法則)があるわけである。「奥」とあるのは法則そのものは普遍的であるが、個々の法則は場合、場合で異なっているということを言っているのである。
2、善人の宝であり、不善の人もそれを有している。
大いなる道の「理」を明らかにすることで、その真の姿を得ることができる。大いなる道のあらゆる働きを得ている。それが善人である。大いなる道の理が明らかでなく、その真の姿を悟ることがなけく、大いなる道の働きを知らないのが不善の人である。善人は道と一体となっている。自分がつまりは道なのである。それは心の本来の働きである「性」とも一致している。「性」とはつまりは大いなる道なのである。大いなる道を修して、これを社会で用いる。大いなる道によって行動をする。それは春風の和気のようであり、それに感化されないものなどない。それを得て人は生まれる。それは雨が降ってあらゆるものを潤すのと同じである。そこにあって道によらないものはない。あらゆるものは道によって動いている。そうであるから大いなる道は「善人の宝であり」とされている。ただ不善の人は、大いなる道の至理の真の姿を得ておらず、道そのものと一体となってはいない。至善であるとは、大いなる道を知っているということである。つまり大いなる道は人の至宝なのである。もし生まれながらの聡明さを持つことがなければ、大いなる道にであってもそれを道と認識することはできないであろう。それを持ち続けることはできないであろう。その真の姿を悟ることもできないであろう。ただ道なるものに固執しようとしても、そうして一時的でも道を得ようとしても、それを継続することはできない。ただ一時、道とひとつになったように思うだけである。しかし、どうであっても大いなる道を失うことはないのであり、その「宝」をそのままに持っている。そうであるから「不善の人もそれを有している」とあるのである。
〈奥義伝開〉善、不善は社会的な価値によって決まっているに過ぎない。そうであるから普遍的な存在である道はそうしたものを超越しているわけである。自分が道を有していると気づいているのが「善人」であり、そうでない人が「不善の人」とされているだけである。「不善の人」は道による行為をしていて反発を受けている人と、道を知らないで不適切な行為をしている人がいる。そうであるから「不善の人」の中には道を宝としている人と、そうでない人がいるわけである。しかし一様にどのような人でも道を有してはいるのである。
3、良い言葉は使われるべきであり、良い行いは実行されるべきである。
根本である道から出た言葉は、天下に意味深い言葉を満たす。天の理のあるべきあり方を示している。人の心の状況を如実に現す。善人は道にある。そうであるから善人の言は必ず優れたものとなる。ここで言う「良い言葉」とは自己に都合の良い言葉というのではない。多くの人が認めることのできる言である。それは交わりを持って、快く思わない人はいないような言である。人々がこうした「良い言葉」に触れたならば、人々はより道に近づくことができるであろう。これらは全て「良い言葉」が使われることにおいて見られるものである。そうであるから「良い言葉は使われるべきであり」とあるのである。根本である道によって行動する。これは社会において最も尊ばれるべき行為となる。それは内的には個々人の「性(根本的な心の働き)」や「命(根本的な体の働き)」と一体となっているのであり、外的には家庭や国家、社会をよく治めることのできる行為となる。そうであるから善人の行為は必ず尊いものとなるのである。そうであるから「良い行い」は自己において行われるべきなのであり、他人とも共有されるべきものなのである。「良い言葉」や「良い行い」は、何もなくても物を贈れば人は受け取るものであるように、人々は道に接すればそれを尊ぶものである。つまり人は道を行うのであるから皆、それを喜んで行うことになる。そうであるから「実行されるべきである」としているのである。
〈奥義伝開〉他人が聞いて心地よいのが「良い言葉(美言)」であり、為されて心地よいのが「良い行い(尊行)」である。ここで注意するべきは「善言」「善行」となっていない点である。「善言」「善行」は道によって発せられる言葉であり、為される行いである。「良い言葉」や「良い行い」は道によって
いるものと、そうでないものとがある。
4、人の不善は、これを棄てるべきであろうか、そうではない。
ここにあるのは、前の「実行されるべきである」をより詳しく述べている。その意味していることは、人は天地に生まれるのであるが、それが不善の人であれば、例えその人が大いなる道の至理の奥義を得ていないとしても、その本来の徳性においては、大いなる道がそこに無いということはないのである。つまり人には本来的に良知があるのであり、そうしたものを有していない人は居ない。そうであるから善人は大いなる道による「良い言葉」を社会に向けて使うのであり、大いなる道による「良い行い」は、これを世の人々に施すべきなのである。その言うところには、誤った考えはなく、誠がある。常に新たに「良い言葉」を発して、もし不適切であれば改める。その行いは、大いなる道と一体であるかどうか細かく注意されており、もしそうでなければ改めようとする。そうして善なることを努めて行うのである。不善とはすべからくそれを変じて善とするべきなのである。そうであるからここで不善をどうして捨てるべきなのか、としているわけである。
〈奥義伝開〉「不善」の中にも道は働いている。一見して「不善」と思われることも、時が変われば「善」と求められることもある。またその反対もある。つまり「不善」は「善」の反対であり、それをよく見ることで何が「善」であるかを知ることもできるわけである。「白」を知ろうとするのは「白」だけを見てもよく分からない部分があるであろう。それは「黒」を知ることでより正しく「白」を認識できるのである。「不善」は取るべきではないが、その存在を許さないというのは好ましいことではないのである。
5、そうであるから天子を立てて、三公を置くとして、それが「大きな宝」であるとしても、先ずは四頭立ての馬車に乗って「道」を進むべきであろう。
ここで述べているのは、例えをして、道は社会を助けるということを述べている。「天子を立てて」とは天下で最も尊い存在を立てる、ということである。「三公を置く」とは、重臣を置くということである。それは他でもない、ただ道をして社会を助けるということなのである。つまり天子は社会に君臨している。その道をして三公を使って社会を治めることになる。この天下を治める道は、玉でできた圭壁のようなものであり、天子の手にするものである。四頭立ての馬車の四匹の馬はひとつとして働くのであり、それは天子が玉の圭壁を持つのと同じで、もとよりそれは尊いものなのであるが、それは道と一体となっていなければならない。大いなる道をして天下を治めるということである。確かに壁を持つことは貴いものを持っているのであるが、四頭の馬を御するのは、つまるところ大いなる道の本筋を行けば良いだけである。坐るのも、進むのも、有為であってはならない。あえて行うことなく、その自然のままである。こうしたことを深く行えば、そこにおいて大いなる道に通じないことはない。社会は根本において自立している。社会のいろいろな出来事も、それぞれが自立して発生している。人々の心も自然であれば正しくある。天子や三公は道をして社会の事を行うのである。そうであるから「天子を立てる」「三公を置く」は壁を持ち、四頭立ての馬車に乗ることになるのであるが、それよりも道を行うべきであろう。
〈奥義伝開〉天子や三公の位を得るのは「大きな宝」であろうが、そうした人の乗る四頭立ての馬車が行く道は、単なる道路ではなく「道」でなければならないとする。こうした社会的に価値の認めらえれるところにも当然なことに「道」はあるわけである。
6、昔から道を尊いとしているのは、それを得るのに特定の日があるわけではなく、罪があったとしてもそれを逃れることができるからである。そうであるから天下において道は尊いのである。
ここでは反語を用いての強調がなされている。そして道が貴ばれるべきものであることを述べている。古の聖人のことをして、ここでの教えを始めて道を説き初めて以下は道を実行すればどうなるかに触れる。それは始めに説かれた道を受けて述べられているわけである。そうであるから天が立つことの根本にある道は世々に受け継がれているのであり、あらゆる時代において道は尊ばれていたのである。よく古は尊い時代であったとされるが、それはかつての時代を尊いとしているわけであるが、その尊さとは如何なるものであろうか。天子は道をして統治をしていた。そして日々、道が行われていたのである。三公も道を実践していた。そうして行動をとっていたのである。日々に道を考えて、日々に道を実践する。そうして自己を修めて止まない。そうであるから社会は適切に治まるのである。もし日々に道を考えることがなければ、日々に道に外れることになる。日々に道を実践しなければ、日々に道を忘れることになる。道に外れ、道を忘れてしまえば、そこに「罪」を得てしまうことになる。こうした状況でどうして「罪」を逃れることができようか。もし、よく道を求めてそれを得たならば、もしそこに「罪」があったとしても、それが「罪」とされることはない。それは道を得た「我」は社会と等しくあるからである。「我」と天下は等しく尊い存在となるのであり、それ以上でも以下でもない。こうなれば「我」には「罪」はないことになるのであり「我」は社会と等しく尊い存在であるのである。「我」は社会の「法」であり、それ以外ではない。それ以下でもない。社会は尊い以外のなにものでもない。そうであるから「昔から道を尊いとしているのは、それを得るのに特定の日があるわけではなく、罪があったとしてもそれを逃れることができるからである。そうであるから天下において道は尊いのである」とあるのである。もし、そうしたことが分かっていなければ、道の奥義を知ることはできない。善人の宝は「我」にある。それを語れば「良い言葉」となり、そこを行えば「尊い行い」となる。壁を抱き、四頭立ての馬車に乗っても、その尊さは道に及ぶものではない。「罪」を逃れることもできるのである。そうであるからあえて古のことに及ぶ必要はないのである。そうしなくても道は社会において尊いのである。
〈奥義伝開〉道の普遍性は空間的だけではなく、時間の壁をも超越している。古くから道は普遍的なものとして尊ばれて来たのである。道は誰でも有しているのであるから、それに気がつけば道は得られることになる。「罪」も社会的な法律や価値判断によって決められるものであるから、道の普遍性からすれば「罪」をも超越することになるわけである。