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道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(4)

  道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(4) かつては日本や中国の武術を代表されるとされた「合気」や「発勁=寸勁」を改めて考えてみると、これらをして日本や中国の武術の「特徴」とするのは、やや早計であったことが分かる。一見して特異に見える「合気」も、その特異性が武術から生まれたものではないことが考えられるし、相手の攻撃を一旦は受け入れた上で相手をコントロールしようとする「合気」は太極拳などにも見ることのできる方法である。簡単に言えば「合気」や「発勁=寸勁」が特異であるのは、それが必ずしも有効ではないからである。ただこうした特異な技術は用い方によっては当然、相手は使えないことがほとんどなので有効とはなる。有効な攻撃を成功させるのに通常のやり方をひたすら練習するか、特異な技術の習得に時間を費やすかは、それぞれの判断であろう。重要なことは通常の方法と「合気」や「発勁」は違う道をたどるに過ぎないのであり、決して「合気」や「発勁」が特別に優位な技ではないという点である。

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(3)

  道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(3) 中国武術の「発勁」は実際には「尺、寸、分」の区別があるとされ、通常の突きは「尺勁」、ごく接近したところから突くのが「寸勁」、そしてほぼ密着した状態から発せられるのが「分勁」とされている。物理学的には攻撃に有効性を確保しようとすると一定の「速度」が必要とされる。これを得るには一定の「距離」がなければならない。そこで「尺勁」が一般的に用いられるのであるが、攻撃においては「距離」が長くなればなるほど当てることは難しくなる。そこで短い距離で加速する方法として「寸勁」や「分勁」が開発されたのであった。しかし、当然のことにこれらの威力は「尺勁」には及ばない。ブルース・リーは「寸勁(ワンインチパンチ)」でも相手を突き飛ばしていたが、実戦では「寸勁」を使うことがなかったように同一の人であれば当然のことに「尺勁」の方が強く打てるわけである。主として「寸勁」を使うのは太極拳や形意拳、八卦拳などであるが、これらにあっても「尺勁」は用いられる。つまり「寸勁」などは威力を犠牲にしても確実に攻撃をヒットさせたい時に用いるものなのである。それは暗殺者が威力を犠牲にしても小さな拳銃を使うことがあるのと同じである。

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(2)

  道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(2) なぜ「合気」という語からイメージされる相手が硬直して動けなくなるようなパフォーマンスが、大東流以外では見られないのか。それはその前提となる「両手持ち」が一般的な武術シーンでは考えられないからである。もちろん両手で掴んだり、抑えたりするケースはあるが、それは相手の片手に対する攻撃とならなければならない。つまり両手で相手の片手を制するから攻撃として有効になるわけであって、両手で相手の両手を抑えたのでは、力の配分は互いに同じということになる。そうなれば攻撃としての有効性は生まれなくなってしまう。こうした両手を互いに持つ形や足技を使わないことなどからすれば、大東流の発生の根源は「坐り相撲」のような遊芸があったことが考えられる。これは坐った状態で行うことでケガを防止することや攻防が単純化され、勝負がつきやすいといったことが認められる。入身投げや四方投げが相手に歩法を使われると掛からないなどのことも基本体に大東流の原点が「坐り相撲」のような形態であったことを伺わせている。つまり両手持ちという武術では考えられないスタイルをベースとしていることは、それが純粋な武術としての淵源を持つものではないことを示していると言い得るわけである。

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(1)

  道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(1) かつて日本の武術には「合気」があり、中国武術には「発勁」があるとされていた。この場合の「合気」とは「主として腕の操作により相手のバランスを失わせて動けなくさせるもの」であった。一方で「発勁」は「短い距離から有効な突きを発するもの」とされていた。そしてこれらは日本あるいは中国の武術を特徴付けるものとして知られるようになって行ったわけである。「発勁」については古くはブルース・リーが「ワンインチパンチ」として、中国武術の優位性を示すパフォーマンスとして見せていたこともある。また日本の武術に独特のものとされる「合気」も太極拳の「化」や「走」「粘」などがそれと同じなのではないかとする見方もあったし、「発勁」でも空手やボクシングをやっている人の中から「寸勁(ワンインチパンチ)」と似たことは可能である、とする見解も提示されていた。加えて日本の武術で「合気」は普遍的に使われているわけではない。それに「発勁」についても、この言い方は主として北方の武術で使われるもので、中国武術全体では「発力」などと称されることも少なくない。厳密に考えれば「合気」と「発勁」をして日中の武術を代表する概念とするには、やや早急であったようにも今にしては思わないではいられない。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー15)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー15) 大いなるものは窮まりがない。 「大いなる」人には、限りがない。内も外もないし、東西南北を限るようなこともない。四隅や上下を分けることもない。つまり「道」は無極であり、無限なのである。大いなる虚を包みこんでいて、天地もその中にある。そうであるから「大いなるものは窮まりがない」とされている。これは聖人を例えているのであって聖人はなんのこだわりもなく、なんの執着もない。心は限りなく広く、小さく限るようなものは存しない。こうしたものが「大いなる」ものなのである。 〈奥義伝開〉「大いなるもの」とは限りないもの、ということである。以下、四つは「大」に関する「格言」が続いているが、次の「大器晩成」を除いては大小の「大」ではなく、限りない「大」なるものということで、それは第十八章の「大道」や第二十五章の「道大、天大、地大、王大」と同じ「道」と等しいものとしての「大」なのである。「格言」は論理学的なアプローチで真に「大」なるものは限定のないものであるとする。限定があればどれ程、大きくても、それ以上のものが出現する可能性があるので、小さなものとなる可能性があるが、無限定の大きさであれば比較を超越しているので、それは永遠に「大」なるものであるということである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー14)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー14) 真を質(ただ)すは改むるが如し。 本当に誠実な人は、見かけは素朴であるが、思いやりの深い心を持っている。生まれつきそうなのであり、他人にそうしたことを知られるのを望まない。高潔な人とされることも良しとしない。ただの人のように見えるので「改められなければならない」ことがあるように思われてしまう。それは汗が出れば染みができるように当然のことであり、まったく窪地は暗いのと同じく当たり前であろう。そうであるから「真を質(ただ)すは改むるが如し」とされている。 〈奥義伝開〉余りに真実を追究し過ぎると本質を見失ってしまう、ということである。何のために真実を求めているのか、それをよく考えていなければならない。自分の身を守るために武術はあるのであるが、それも鍛錬をし過ぎると身体を壊すしてしまう。自分の命を守るための修練がかえって寿命を縮めることにもなる。これが本来の意味である。老子は「道」を規定しようとする行為への注意喚起と捉えていよう。つまり「道」を仁であるとか、愛あるいは、縁起や空などとしてしまうと「道」の本質を見失ってしまうのである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー13)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー13) 徳を建つるは偸むが如し。 徳を「建てる」ような人は、それを必ず行っている人である。そうなれば、それは功績とされる。聖賢は自分の思いのままに徳を為すのであって、それは天地の心と同じであり、天地の心を聖賢は己の心としている。徳を実践して功績が建てられるのは活発に行為したからである。しかし心の中では徳の実践が足りていないのではないかと常に考えている。「偸む」とは自分が持っていないから盗るわけである。徳をよく実践している人は、自分ではそれで十分であるとは考えない。どれ程、徳を行ってもそれで良いとは思わない。どのような時でも謙譲の気持ちを持っている。そうであるから「徳を建つるは偸むが如し」とされている。 〈奥義伝開〉「建てる」には「知らせる」という意味がある。つまり「徳」を行っていることを他人に知らせるということなのであるが、それは「徳」に似せた行為を誇示して、自己の利益を偽りの「徳」によって偸むような行為であるとの「格言」である。「徳」の持っている本来的な意義を失わせるものであるということである。つまり偽善ということである。こうしたことは多く行われている。老子はこれを有為によって行われるのは本当の「徳」ではない、ちう理解でここに示している。

道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(4)

  道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(4) 「引手」の重視がシステムとして「守り手」から「攻め手」への変容を促したことは既に述べたが、それはまた技術的には「遠心力」から「求心力」への変更でもある。柔道に伝わる古式の形は「遠心力」をベースとしている。これは柔道の「引手」を中核とする「求心力」のシステムとは違っている。また柔術も「遠心力」を使う。合気道も同様である。ちなみに植芝盛平は「合気道は引力の鍛錬」としているが、これはば始めに「引力」により「中心」を作って(合気)、そこから「遠心力」を用いて投げる(呼吸力)ということである。そうであるから技としては合気道でも「遠心力」が使われている。中国相撲でもそれは同様である。常東昇は「花胡蝶」として有名を馳せたが、それは始めの技が掛からなくても違う技を掛け、その動きが花の周りを飛ぶ蝶に似ているからである。これは「遠心力」を使うシステムでは技は掛けにくいということを示してもいる。古武術や中国相撲で「引手」を強くしないのは、自分の体に相手の体を密着させるような投げであれば、自分の体勢をも崩しやすいからである。もつれて倒れても柔道の試合であれば問題ないが、実戦では武器を使われる危険もあるので「求心力」を使うような技は用いられなかったのである。嘉納治五郎は柔術や剣術をも講道館で「柔道」として見直し、継承して行こうと考えていたが、結局は講道館の柔道にシステム上の変更が生じたために、柔術との断絶を生んで、嘉納が考えていたような壮大な計画は継承されることがなかったのは誠に残念なことであった。

道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(3)

  道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(3) 合気道は柔術そのまま「受け手」のシステムを有している。柔道でも古式の形などは、同じく「受け手」主体であることからすれば、講道館柔道と柔術では根本的な変化があったと考えなければならない。嘉納治五郎が強引な「引手」が柔(やわら)の道としての「柔道」と矛盾していることに悩んでいた事実からすれば、それは嘉納が意図したことではなく、試合の中で自然に変わって行ったものと考えられる。柔術で「引手」を重視しないのは、前提として相手からの強い攻撃があるからであることは前に触れたが、これは積極的に技を掛けて行くためにはどうしても強力な「引手」が必要であるということでもある。現在の試合を見ても明らかであるが試合で勝とうとするなら強い「引手」を欠くことはできない。現在では試合の冒頭で強引な「引手」を用いて相手の体勢を崩してしまい、なるべく技を使わせない内に倒そうとする選手が多いようである。こうした試合中心の流れの中では、武徳会や高専などで、いろいろな技を研究して勝とうとしても「引手」といういう前提を欠くことができない中にあっては技の優位性を活かすことが困難となって行ったのである。こうした流れが最終的には現在のような講道館柔道へと総ての「柔道」が同質化する趨勢を招いたわけである。

道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(2)

  道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(2) なぜ講道館の柔道が柔術に対してシステム上において優位を占めることが出来たのか。それは本来「守り手」であった柔術から「攻め手」への変更があったことにあると考えている。もともと柔術は相手の攻撃に対するもので「守り手」をベースとするシステムであった。形を見れば明らかであるが、ほとんどの技が攻撃して来る相手に対する形になっている。しかし試合においては相手は必ずしも攻撃をして来るとは限らない。そうした中で「守り手」をベースとする柔術はシステム上、後手にならざるを得ず、結果として不利になる。そうした中で試合を稽古の中心とした講道館では早い内から「引手」が重視されるようになった。その結果、講道館の「柔道」は「攻め手」のシステムとして変容して行ったのである。柔道における「引手」の重視については、嘉納治五郎も「柔道というが剛の動き(引手)も入っている」ことを悩み、合気道の研究を初めたとされる。試合は柔術が近代スポーツとして発展して行くには欠くことのできない要素であった。しかし、それが結果として柔術との断絶を生み、日本の優れた文化である柔術の「遺産」を継承することを不可能にしてしまうのではないかという不安を嘉納の慧眼は捉え得ていたのであろうが、既に柔道が試合を中心に広まってしまっており、どうすることもできなかったようである。

道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(1)

  道徳武芸研究 なぜ柔道は柔術に勝てたのか(1) 嘉納治五郎は柔術を近代スポーツの観点から見直し、国民体育として新しい社会に活かして行こうとする意図をもって講道館柔道を考案した。現在「柔道」は講道館柔道のみをいうが、戦前には武徳会や学生柔道(高専柔道)などがあった。それらが戦後に講道館柔道だけになったのは、本来の柔術とシステムにおいて大きな乖離があったためではないかと思われる。本来、柔術は相手の攻撃を受ける形で発達した。柔術がもっぱら「柔(やわら)」の技術であることができたのも積極的な攻撃をしないからであった。それが試合をよくする講道館においては「攻め手」を中心とするシステムへの変容して行ったのである。講道館の草創期には柔術との試合が行われ、柔道が優位を占めたことからその後の評価を高めることとなったのは周知のことであろう。こうした事実は小説『姿三四郎』で脚色を施され一般にも知られるようになった。加えて『姿三四郎』は映画、テレビなどにもされてさらに多くの人が柔道の優越性をイメージするようになった。そこでは柔道は新しい時代の開明的なスポーツとされ、柔術は旧弊を象徴するもののようにも扱われた。また既に述べたように「柔道」でも戦前は講道館の他に古武道の各派の集まる武徳会でも特色のある「柔道」が行われていたし、学生では寝技を深く研究した高専柔道もあった。しかし、戦後は講道館の柔道が「柔道」としての独占状態を作っている。こうしたことの原因を「守り手」から「攻め手」への技術的な変更によるものと考えるのが本稿である。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー12)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー12) 広き徳は足りないが如し。 広く徳を実践している人の心は天地と等しく、その広さは海にも匹敵しよう。聖人は己のいまだ達していないところまでも学ぼうとするが、それで名を成そうとも思っては居ない。むしろ自分には徳の実践が足りないのではないかとさえ考えるのであり、決して自分の徳の実践が行って余りあるものとは思わない。日々に徳を行っても、それで良いとすることはない。善を為しても、それを行ったと自負することもない。そうしたことを「広き徳は足りないが如し」としている。 〈奥義伝開〉「徳」と「道」とは同じである。「道」を実践すると「徳」となり、「徳」の原理が「道」である。そうした「徳」を広い範囲で見れば、そこには足りないところ、「徳」の及んでいないところがあるように見えるものである。しかし、無為自然に過不足無く「徳」が行われるのが行われているなら、そこは過不足がないのであるから他の人からは何か為されたのかどうかが分からない。武術でも真に優れた武術家は戦う前に相手を制しているので、戦うことがない。そうなると武名も上がらない。そして、こうした武術家はあたかも奥義に達していないかのよう見えてしまう。「足りない」ように見えてしまうのである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー11)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー11) まったき白きは汚れが目立つ。 全くの悪いところの無い人は、心が広くゆったりとしており、それは空にかかる名月のようで、一片の雲の掛かるのを見ることもない。他人と貴賤を争うこともないし、殊更に是非を言うこともない。自分を卑下してあえて出しゃばることもない。そうであるのを「まったき白きは汚れが目立つ」としている。 〈奥義伝開〉「完全であるほどほころびが見えやすい」という「格言」である。「道」は「白」に偏ることもないし「辱(けがれ)」に偏ることもないのは既に縷々述べているところである。中国人はこうした考え方を良しとしていて「易」でも最後を「未済(びせい)」としている。その前が「既済(きせい)」で、これで完結しているのであるが、あえて最後には完結していない卦を持って来ている。あらゆるものは変化を続けるという考えがここにはある。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー10)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー10) 優れた徳(上徳)は谷(の空間)のよう。 優れた徳を実践する人の心は大いなる虚にある。その心の徳は天地ほども広大である。それは谷の空間と同じく、どのようなものも受け入れてしまう。これが「優れた徳(上徳)は谷(の空間)のよう」ということである。 〈奥義伝開〉これは『老子』の第十一章にあった「無用の用」と同じ考え方である。何もない空間があるからこそ車輪や器、部屋は有用であるという考え方である。また「谷」は老子の好むイメージで「谷神」(第六章)などの語も見られるが、これは「天地の根」とされている。また第六章は「綿綿(緜緜)若存、用之不勤」とあり、太極拳の拳訣である「綿綿(めんめん)不断」と深い関係を有している(「緜」は綿の正字)。それは「綿綿不断」で動いていれば「勤(つか)れず」ということで、それが可能となるのは「綿綿」の動きをすることで「天地の根」である「谷」が開かれるからに他ならない。この「谷」はまた「丹田」とも言われている。人体の根である下丹田を開くことは、つまりは上徳を養うことにもなるのである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー9)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー9) 「道」は希(まれ)であると共に類するものもある。 通常はあり得ないただ平らかな変化のない道を行くようなことを「希(まれ)」とする。同じようなものというのが「類するもの」である。唯一の「道」を知る人は、それを口に出して説明することはできない。それと同時に特別な行動をすることもない。まったく平凡で、貴賤賢愚も存することはなく、それはただ一つなのである。上下高低もなく、動静や吸う息、吐く息などの別もない。もし「道」が一定したものであって、他の人と同じものとして歩まれるのであったならば、そこには前を進んでいる人も居れば、後を歩んでいる人も居ることになろう。しかし「道」はそうしたものではない。そうであるから「『道』は希(まれ)であると共に類するものもある」とされている。 〈奥義伝開〉ここでは「希」と「類」が挙げられている。「道」とはただ合理的な法則のことということなのである(希)が、その具体的な現れは多岐にわたる(類)ということである。「道」の原理的なところを見れば「希」となるし、応用としての働きを見れば「類」するものが多くあるわけである。しかし、究極的には「道」は「道」であってそれ以外ではない。また「希」と「類」は個人は個人として活かされ、また共生も可能であるとする「道」の特性を言うものでもある。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー8)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー8) 「道」を進むは退くなり。 「道」を進むことは、有為なることではないし、実態を持つものでもない。意志を持って行ったり、身体を動かして為されるものではないのである。「道」を歩んでいる者は、それと分かることはない。「道」を養っている者は、それを養っていると知ることはない。あえて他人の上に立とうとすることもないが全く不満を抱くことはない。そうであるから「『道』を進むは退くなり」とあるのである。 〈奥義伝開〉ここでは「進」と「退」とが対比されている。言わんとすることは前と同じで「道」の本来には「進」も「退」もないわけである。宋常星はここでの説明を「道」を修することして解している。それは内的には心境が進んでいても、進歩している実感がないことを言っているとする。また外的には謙譲の態度をとっているように見えても、実際は「道」を実践しているだけであり、そこには全く自己を卑下しようとする意図は無いわけである。ただ要は「道」という無極・無限定の世界には「進」も「退」も究極的には存していないということである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー7)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー7) 「道」は知る者は知らないように見える。 「道」を明らかにしようとする人は、巧みな知恵を用いてはならないし、先入観を持ってもいけない。ただ人の心の本来的なあり方(性)によるべきであり、分析などの知恵をして知ることのできるものではない。そうは言っても「道」を理解するのに、全く言語を用いることを否定してしまうものでもない。また「道」を実践しようとする時に他人が自分をどう思うかにとらわれることはない。それはあたかも愚鈍な者のように振る舞い、何も分かっていないようにも見えるものである。そうであるから「『道』は知る者は知らないように見える」とされている。 〈奥義伝開〉ここでは「明」と「昧(くらい)」とが対比されている。「道」にはこの二つの面があるというわけである。ただ本来の「格言」は「知る者は愚者の如し」といったところであったであろう。しかし、老子は「明」によれば自ずから「昧」が現れることの教えとしていると思われる。「道」は無極であり、何らの偏りもない。しかし一旦「明」に偏れば、そこには「昧」が出て来ることになる。これを逆に言えば「明」も「昧」にも限定されないのが「道」なのである。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(8)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(8) 合気道の練習において、霊的な力の獲得が主要な目的でなくなった時、過度な「万有愛護」へのこだわりも必要のないものとなった。「愛の武道」としての「合気道」も一般的な倫理レベルでそれを捉えれば良いものとなったわけである。植芝盛平は最後まで霊的な修行と合気道とを一致させることはできなかった。それは弟子たちの無関心にもあったのであろう。弟子たちはひたすら開祖・植芝盛平の武術的な力を求めたのであった。そして、それを受け継いだ吉祥丸は組織の拡大のためには、特に神道的な色彩を色濃く持つものは不必要と考えて合気道における霊的な要素を排除してしまった。結果として盛平の抱えていた「矛盾」はその存立の基盤を失った。しかし「愛の武道」としての「合気道」という名称は残照のように残り、「愛」と「武道」との間の矛盾はいまでも残っている。現在、こうした矛盾のあることには、多くの人が目を瞑(つむ)ったままであるが、合気道が純粋な徒手武術としての技法に掛けにくい関節技を主体とするという不十分さを有している以上(盛平が「霊的な能力」を求めた一因はここにある)、この矛盾を見ないで、単なる徒手武術としての道を歩もとするなら早晩、その存在価値を失ってしまうのではないかと思われる。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(7)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(7) 「霊能力」が万有愛護の実践によって開かれるならば、大東流のような「武術」の修行はそれを阻害するものともなりかねない。しかし、武術好きな盛平はそれを捨てることもできない。また「霊的な能力」を得て、それを武術において発揮したい、そうした欲望が盛平にはあった。ここに絶対的な矛盾が生まれることになる。加えて大本教に居た頃に伝授されたものの中に大東流の「合気之術」があった。「合気」つまり「気を合わせる」とする言葉の中には殺傷技術としての武術ではなく「万有愛護」を武術と矛盾なくつなぐものがあるのではないか、そう盛平は考えたのかもしれない。こうした中で武田惣角が「高度な技」として巧みな関節技を教えようとすればする程、盛平の心は大東流から離れて行ったようである。そして晩年は大東流の技は「気型」であるとして、その武術的な意味合いをできるだけ希薄化しようと試みたのであった。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(6)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(6) 植芝盛平は「霊的な能力」の開発にはひじょうに熱心で、王仁三郎に師事したことで、そうした能力が開かれたと考えていた。そして晩年に至っても霊能者とされる人物にはかなりの金を注ぎ込んで「霊的な能力」を開く修行をしていたらしい。息子の吉祥丸の語るところでは、それはしばしば家計を圧迫する程であったという。また具体的には息が掛からないように半紙を口にして蝋燭の炎を見つめていたりしたこともあったらしい。念力で炎を操ろうとしていたのであろう。植芝盛平は自己の霊的な能力は王仁三郎によって開かれたと確信していた。王仁三郎の著書である『大本の道』が別に「愛善の道」とも称されるように、大本教において「愛」や「善」の実践は、神の働きの実践そのものであったのである。そしてそれを行うことで「神からの力」つまり「霊的な能力」が得られると盛平は考えていたようなのである。そうであるから盛平はかたくななまでに「万有愛護」にこだわったのであった。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(5)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(5) そこで植芝盛平の神秘体験であるが、その時には「我即宇宙」と「万有愛護」が感得されたことは既に冒頭でも触れたが、より詳細に言えば黄金体となった時に「我即宇宙」を感得して、そして「万有愛護」のメッセージを得たとされている。「我即宇宙」といった体験は神秘的体験によく見られるもので、一般には「自我の肥大化」とされる。自分が最も貴い存在であるとする「自己の絶対的肯定感」が獲得されて、これまで抱えていた「矛盾」が一気に解決されるのである。それは後に盛平が合気道道「主」を名乗ることにおいても知ることができる。盛平は出口王仁三郎から守高の号を与えられて気に入って使っていたが、そうであるなら合気道道「守」とする謙虚さがあっても良かったと思われるが、そもそもが絶対的な自己肯定体験を出発点としていたので、盛平には道「主」以外の選択はなかったのかもしれない。また「万有愛護」においては武術の究極が「万有愛護」であると悟ったとされている。この「万有愛護」は大本教の「愛善」の考え方と同じものである。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー6)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー6) そこでここで「道」について述べておこう。 「述べておこう」とは、明らかにするということである。愚かな人は「道」を聞いても、それを理解することはできない。ただ優れた人のみが、それを重要なものと思うわけである。以下では「道」の説明である。 〈奥義伝開〉ここまでで「道」についての老子の説明は終わっている。以下は当時の「格言」を引いて「道」を補足的に説明しようとする。この章では十三もの「格言」が引用されている。当然のことに一般的な「格言」の教えと老子の「解釈」とは同じではない。老子は「格言」の真の意味を解くという形で「道」の説明をする。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー5)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー5) 愚かな人が笑い飛ばさないようであれば、それを「道」と認めるべきではなかろう。 「道」とは至高、至貴なるものである。もとより愚かな人の理解できるものではない。もし、そうした人物が笑い飛ばさないようであれば、それは「道」とするに足りないものである。そうであるからここでは「愚かな人が笑い飛ばさないようであれば、それを『道』と認めるべきではなかろう」としている。 〈奥義伝開〉八卦拳で円周上を歩く、太極拳でゆっくりと動く、こうしたものを見て「これでは戦えない」と笑う人は多い。それはまさにここで老子の言っている通りの人である。それではどうして笑うのか。それは意味が理解できないからであり、自分が理解できていないことが分かっていないからである。また普通の人は「古くから伝えられていることであるから」と盲信して、ひたすら練習を繰り返す。この場合たまたまうまく練習ができていれば、正しい成果を得ることができるが、そうでなければ本当の八卦拳や太極拳の価値を得られない。

宋常星『太上道徳経講義』(41ー4)

  宋常星『太上道徳経講義』(41ー4) 愚かな人(下士)は「道」を知って笑い飛ばしてしまう。 普通の人の次にあるのが愚かな人(下士)であり、俗の世界に没入している者である。ただただ貪欲で「道」を聞いてもそれを行おうとはしない。「道」を聞けば無為を大切なものと知り、自然を貴ぶようになる。また自然の生成の働きは有為であるように見えるかもしれないが、実際は全く有為ではない。もし自然を有為であるとするような愚かな人は、こうした「道」の働きのことを笑い飛ばしてしまうであろう。このように物事を理解できないのが愚かな人である。 〈奥義伝開〉自分の考えの他に別の考え方のあることが理解できない人を「愚かな人」としている。こうした人は知識の多い少ないとは関係なく存している。脳にはいろいろな働きがあって知識を多く蓄えることのできている人が必ずしも深い洞察が得られているとは言えない。現在の多くの人は学校的な「一定の知識を覚える」ことが、脳の働きの良し悪しのように思い込まされているが、実際はそれ程、単純なものではない。「知」とは多様なものであり、そうしたことを受け入れられない人は「愚かな人」といえよう。

道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(8)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(8) 太極拳ではゆっり動くことで、その形が攻防において意味のないものとなる。太極拳が知られ初めた頃は「あのようにゆっくり動いてどのように戦うのか」との疑問も呈されたが、それはそもそも太極拳のゆっくり動く形は攻防をするためのものではなく、攻防の執着から離れるためのものであったのである。こうした方法が見出される以前には形からの離脱は別に瞑想などが行われていた。それを形そのもので行おうとするのが太極拳であり、この点において太極拳は画期的な発明であるのである。「静」を得るとは攻防の動きを更に抽象化することであった。太極拳における「突き」は既に「腕を伸ばす」という動きに還元された。それはリモコンを取ろうと「腕を伸ばす」のと全く同じ行為となってしまったのである。少林拳の「突き」の動きで、リモコンを取る人は居るまいが、太極拳のゆっくりした「突き」の動きであればそうした動きでリモコンを取ることは通常あり得ることであろう。このように動きを抽象化することはまた日常の動きの全てを武術化、攻防化するものでもあり、これは大きな実戦性を獲得するものでもあった。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(4)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(4) 植芝盛平の「霊的な能力」へのこだわりを知るには合気道は「魂の比礼振(ひれぶ)」であるとしたり、合気道の修行は「勝速日(かちはやひ)」を会得するところにあるといった言い方においても見ることができる。また合気道を「禊」とするなど単なる攻防の技法とすることを極力避けていた。これは当初から大東流の厳しい関節技を取り入れなかったところにも伺える。武田惣角などは大東流の「奥義」として複雑な関節技を教えたがっていたようであるが、けっして盛平はそれを受け入れることはなかったのである。一方で多人数を同時に相手にする技には、ひじょうなこだわりを見せている。数人に棒を持たせて一気に投げ飛ばす、数人に囲ませて同時に攻撃して来るのを投げ飛ばすなど、「威力」を誇示することにはかなりの執着があった。また武術的には関節技は攻防では使えない、ということも副次的な要因としてはあったのかもしれない。関節技は一時的に戦闘能力を喪失した相手には有効であるが、そうでない時には腕をとって逆を掛けることはほぼ不可能である。実戦であればわざわざ相手を取り押さえる必要はなく、更にダメージを与えたり、逃げたりすれば良いわけである。

道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(7)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(7) 語学学習における「実際の会話」で武術に相当するのは「真剣勝負」である。かつては真剣勝負も行われていたが、これは回復不可能な負傷をすることもあるし、命を落としてしまう危険もある。武術の修行をするにはかなりリスクの高い手段で軽々に日々行えるというものではない。塚原卜伝や宮本武蔵の時代の真剣勝負は大体が就職活動のためであった。真剣勝負に勝つことで名をあげて大名などに召し抱えてもらおうと考えていたわけである。ただ技術を研究するためだけに真剣勝負を行うのはあまりに得策とはいえない。そこで考え出したのは真剣勝負によって形に執着する「意識」を変えるのであるならば、それだけを行えば良いのではないか、ということである。つまり真剣勝負によらないで「意識」を変えて形への執着から離脱してしまうわけである。そこで見出されたのが「静」の「意識」の獲得であった。それは意識の働きを外に向けて、つまり相手に向けるのではなく、内に向けることで攻防そのものの執着から離脱してしまおうとするものであった。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(3)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(3) 植芝盛平は「黄金体化」によって武術を練習する究極の目的として「万有愛護」があるとの確信を得たとされる。そのために最後まで「愛の武道としての合気道」の名称にこだわった。しかし盛平の弟子たちはこうした「矛盾」を余り気にすることはなく、武道修行で一般的に言われる倫理的なレベル以上でそれを捉えることはなかった。どのような武術・武道であっても、相手を殺傷することを第一の目的と提唱することはあるまい。その組織が社会の中で生き残って行こうとするのであれば、社会常識レベルの倫理観を無視しては居られない。しかし盛平にとって「万有愛護」はそれ以上の「意義」を有するものであった。それは単なる倫理として捉えられるものではなく、武術の根幹にかかわる「霊的な力」を得る上で欠くことのできないものであったのである。盛平は「霊的な能力」があるのを信じており、それが武術において有効であるとも考えていた。また自らがそうした能力のあることを誇示する演出もしていた。それは時に「外に、この道場に来ようとしている者が居るので案内してやれ」と言ったり、急に電車を降りたりすることもあったとされる。「道場に」というのはたまたま当たったことがあったので、それを門人が記憶して報告しているが、電車は特別なことがなかったらしく、それは不思議な気まぐれ以上の「霊的な能力」としてはカウントされてはいない。

道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(6)

  道徳武芸研究 なぜ形は実戦に使えないのか(6) 形の練習に疑問が持たれるのは、形がそのままでは使えないことにあることは既に説明した。それに就いては古くから「守破離」の教えがある。初めは形を学ぶ時期なので、それをよく「守」って形通りを練習する。それに熟達したら応用を考えて、形の動きを「破」ることになる。そして元の形を忘れて形から「離」れてしまうレベルに入らなければならないというわけである。これは基礎体力をつける基礎功から、それを武術的な動きで行う基本功、そしてさらに精妙な攻防を学ぶ套路(形)、相手との間合いなどを学ぶ対打、自由に撃ち合う散手といろいろな方法を加えることで形から最終的に離れることを目指すことを教えている。語学でいえば例文、例題から実際の会話を練習することで例文、例題を忘れて語彙、文法、表現技法などを自由に使うことができるようになるプロセスである。ただ武術で問題となるのは「実際の会話」は普通はできないことである。

道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(2)

  道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(2) およそ神秘体験をするのは、その人が解決できない矛盾を抱えている時である。理性をしては解決できない問題は、それを「解決不能」としてしまえば問題はないのであるが、それが出来ない場合には心身に大きなストレスを抱えてしまうことになり、はては体の不調や心の不調を招くことにもなる。こうしたことを回避する「人体の知恵」として神秘体験がある。神秘体験を経ることで論理・理性を超越して矛盾を肯定的に受け入れられるようになる。そうであるなら盛平の抱えていた「矛盾」とは何であったのか。それを解く鍵は勿論、盛平の感得した「我即宇宙」と「万有愛護」の中にある。およそ武術とは、相手を殺傷するための手段である。人として他人を殺傷する行為は、とても好ましいとは言えない。一方で儒教では「仁」が人として行うべき最も理想とする行為であるとするし、仏教では「慈悲」、墨子は「兼愛」を唱えている。ここに盛平は武術における大きな「矛盾」を感じたのであった。ただ、これが神秘体験を必要著する程の大きな矛盾とであったのは、ここに盛平の希求して止まない「霊的な能力」との関係があったからである。