道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(3)

 道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(3)

植芝盛平は「黄金体化」によって武術を練習する究極の目的として「万有愛護」があるとの確信を得たとされる。そのために最後まで「愛の武道としての合気道」の名称にこだわった。しかし盛平の弟子たちはこうした「矛盾」を余り気にすることはなく、武道修行で一般的に言われる倫理的なレベル以上でそれを捉えることはなかった。どのような武術・武道であっても、相手を殺傷することを第一の目的と提唱することはあるまい。その組織が社会の中で生き残って行こうとするのであれば、社会常識レベルの倫理観を無視しては居られない。しかし盛平にとって「万有愛護」はそれ以上の「意義」を有するものであった。それは単なる倫理として捉えられるものではなく、武術の根幹にかかわる「霊的な力」を得る上で欠くことのできないものであったのである。盛平は「霊的な能力」があるのを信じており、それが武術において有効であるとも考えていた。また自らがそうした能力のあることを誇示する演出もしていた。それは時に「外に、この道場に来ようとしている者が居るので案内してやれ」と言ったり、急に電車を降りたりすることもあったとされる。「道場に」というのはたまたま当たったことがあったので、それを門人が記憶して報告しているが、電車は特別なことがなかったらしく、それは不思議な気まぐれ以上の「霊的な能力」としてはカウントされてはいない。


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