投稿

4月, 2021の投稿を表示しています

第五章 合気道奥義・山彦の道(4)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(4) 入身は日本の武術だけではなく中国でも重視されていて、玉環歩であるとか七星歩と称されて秘伝とされていて、これらは歩法単独でも練習されることがある。八卦掌では円周を歩く練法が知られているが、これは専ら「斜」の入身を練っている。形意拳では基本であり奥義でもある五行拳では「劈、讃、崩」が「直」で、「崩(十字)、砲、横」が「斜」の歩法を用いている。こうして「直」では力の集中を養う一方、「斜」では攻防の妙味を知ることになる。太極拳では四正が「直」であり、四隅が「斜」となっている。これら推手において四正は基本であって、四隅が応用でこれが攻防への展開となる。これら推手の練法は、興味深いことに四正推手は合気道でいう「呼吸法」、四隅推手は「一箇条」とほぼ同じなのである。

第五章 合気道奥義・山彦の道(3)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(3) 植芝盛平は武田惣角から新陰流の伝書を得ており、また盛平の門弟で新陰流の免許でもあった下條小三郎から同流の指導を受けたこともあったらしく、道場に新陰流で使う袋竹刀の置いてあるのを惣角が見つけて「新陰流をやっているのか」と咎めたともいわれている。こうした盛平の新陰流への興味もあって合気道では「斜」の入身が多く用いられるようになったものと考えられる。また合気道では「直」の入身を「表」とし、「斜」を「裏」ともしている。

第五章 合気道奥義・山彦の道(2)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(2) およそ入身の歩法には「直」と「斜」があると中国武術ではされている。大東流は比較的「直」の入身を多く用いるが、合気道では「斜」が主となるので相手を右転、左転させるような技法が多くなっている。大東流が「直」の入身を多用するのは武田惣角が小野派一刀流を修行していたことと関係しているのかもしれない。剣術においては一般的に「直」の入身が多い。ただ新陰流では「斜」を用いて技術革新を試みた。この方法によれば愛相手の攻撃を直接受けないので、どのような強い攻撃であってもそれを考慮する必要がなくなった。また柔術において刀を持った相手に対する時には、どうしても素手で刀に対抗することはできないので斜めの入身を用いるしかない。斜めの入身は刀を持つことのできない武士以外の人たちや刀を使うことのできない殿中などで抜刀して来る相手に対抗する手法として近世にはおおいに発展して行くことになる。

第五章 合気道奥義・山彦の道(1)

  第五章 合気道奥義・ 山彦の道(1) 合気道の奥義として「山彦の道」や「網代(あじろ)に抜ける」の秘訣がある。「山彦」とは「あ」と声を出せば「あ」と応じる木霊(こだま)をイメージしたもので、相手の心身の働きを断って攻守を逆転させるのではなく、相手の攻撃の働きをそのままに受け取って「転換」させることを前提とする合気道の理合を教えている。そして「道」は「網代」と同じで相手の横に踏み出して斜めから入身をする歩法のことである。網代は網代編みなどもあるように竹や葦を斜めに編むことであり、合気道における「網代」には「斜め」よりの入身の意味がある。

外伝8 形意十二形を練る(17)

  外伝8 形意十二形を練る(17) 形意拳の十二形拳は一見して単純であるかのようにも見えるが、そこには実にいろいろな攻防の秘訣が含まれている。十二形は五行拳とも動きが似ているが、これらはすべて三体式へと還元される。こうした形意拳のシステムは動きの還元という点では優れているのであるが、個々の技の意味が見えにくくなるという難点がある。虎形を掌で打つものと解したのではあまり意味がない。これは相手の攻撃を引き落とすようなものとしなければならないのであり、掌での攻撃はあくまで二次的なものに過ぎない。そうであるからやたらに攻撃の威力を求めて十二形を練るのは適当ではないといわなければならない。

外伝8 形意十二形を練る(16)

  外伝8 形意十二形を練る(16) また龍形は太極拳の秘伝である採腿と同じともいえる。採腿は動きとしては太極拳のトウ脚と似ているが、これは力の集中を練るもので、太極拳では「全体力」の秘訣を伝えている。体を「合」から「開」へと移すことで力を発するわけである。基本的には足裏に力を集めるのであるが、これに習熟すれば拳や肘などにも力を集めることが可能となる。龍には特に「縮骨」の秘訣が伝えられている。これは既に述べた「合」と同じであり、形意拳では一般的には「束」と称される。ただニュアンスとしては「束」が体の中心軸に力を溜めるような感じになるのに対して「縮骨」は体全体が縮まり「団子」になるようなニュアンスがある。そしてその一角が開放されてホースで水が発せられるように一気に力が開放されることで力を発するのである。こうした身法を練るのが龍形であるといえよう。龍形の「縮骨」は八卦掌の「縮身」とも似ている。こうしたところから形意拳に伝わる八卦掌が往々にして龍形を冠して伝えられるのである。

外伝8 形意十二形を練る(15)

  外伝8 形意十二形を練る(15) 龍形は崩拳の狸猫倒上樹とほぼ同じである。これも既に述べたように派によっていろいろな練り方があるが、青龍探海の拳訣がある。崩拳の狸猫倒上樹が踏み込むような腿法を用いて相手を引き倒す用法があるのに対して、龍形では低い姿勢のままで真っ直ぐに蹴りを出す。これは狸猫倒上樹の腿法の基本ということもできるが、同時に形意拳のあらゆる歩法においてこの腿法が含まれてもいる。前に出る拳の勢いで足を出すわけである。これは拳での攻撃が受けられたような場合にその勢いをそのままにそれを腿法へと転換して使うことを可能とする身法、腿法となっている。

外伝8 形意十二形を練る(14)

  外伝8 形意十二形を練る(14) 鶏形の金鶏食米に対して猴形は白猿盗桃の拳訣がある。猴の場合は手の動きが身法を導くという梢節の使い方に妙味を持つということができるであろう。猿が美味しそうな桃のあるのを認めて思わず手を伸ばしてしまう。そういった感じが白猿盗桃の拳訣にはある。こうして体の動きを見せることなく手が動くと同時に間合いを急激に詰めるのが猴形である。猴の顔を拭うような身法は転身を、次の腕を伸ばす身法は入身を行うためのものである。猴形にも派によっていろいろな形があるが、梢節を中心として動きを導くことが核心となっていることに違いはない。

外伝8 形意十二形を練る(13)

  外伝8 形意十二形を練る(13) 猴形と龍形は既に述べたように「上上段」と「下下段」に属する。これらは他の形拳とは違い全ての動きに応用できるものである。猴は初めに顔を拭うような動作をし、続いて左右と掌を出す。これは鶏形と同じである。この動きは形意拳において重要とされており、鶏形四把とする連続した套路もある。形意拳には連環拳など幾つかの連続した套路があるが、十二形の名称が取り入れられているのは鶏形のみであることからもこうした動きの重要性が理解されよう。また王樹金もこの手をよく使ったという。これは指先による攻撃のように解されることもあるが、金鶏食米の拳訣があるように嘴が地面に突き刺さることなく、うまく地上に巻かれた米粒を拾う、そのように、相手の攻撃を引っ掛けて力の方向を左右に少しずらせることに妙味を持つ。

外伝8 形意十二形を練る(12)

  外伝8 形意十二形を練る(12) 「践」には虎(上段)、馬(中段)、タイ(下段)がある。これらは「斜」の歩法と両手を使うことに特徴がある。「践」が「両手」を示すものであることはすでに触れたように「践」の右側が正字では「戈」を二つ重ねる形であることで知ることができる。「斜」の歩法は威力を求めるよりも巧妙さを会得するための技において見られる。虎は引き落とすような動きで瞬時に相手のバランスを奪うものであって、必ずしも両掌で打つことは第一の目的とはしない。同じく馬も拳で引っ掛けるようにしてバランスを奪うと同時に交差法(カウンター)によって攻撃を入れる。馬は派によっては片手で左右と拳を打ち出す「直」の歩法で行うやり方もあるが、これは原則からは外れている。タイは外から巻き込むように相手のバランスを上へと崩す。こうした手の甲を下にした使い方は古い拳法では見ることができ、八卦拳の羅漢拳でも用いられる。このように「践」の原則は相手の攻撃を巻き込み交差法により攻撃をするものとなっている。

外伝8 形意十二形を練る(11)

  外伝8 形意十二形を練る(11) 「讃」である力の集中を練るのが鷂(上段)、鶏(中段)、燕(下段)である。ここで興味深いのは十二形における「讃」がすべて鳥のイメージによっている点であろう。中国では鷹爪拳や金鷹拳などかなりの数の拳術が鳥をシンボルとして有している。太極拳にも金鶏独立がある。鷂は形意連環拳では白鶴亮翅とされる動きに近く体を大きく開くことで強い力を発する。鶏は左右と掌を出した後に劈拳の掌打をする。鶏は派によっては斜めの歩法を使い腿法(蹴り)を用いると解釈するが、形意拳における力の集中である「讃」は順の歩法(右手が前なら右足が前となるなど)でなければならない。斜は「裹」で見たように相手の力を避けるための歩法である。燕は「燕子抄水」のイメージである。これは燕が水面をかすめるようにして飛んでいる様子とされる。一般に体を低くした時に後足は後方45度に開けるが、燕では前方45度を保ったままとする。これは次の掌で打つ勢いを確保するためである。同様の歩形は九九(双辺)太極拳の金鶏独立にも見ることができる。

外伝8 形意十二形を練る(10)

  外伝8 形意十二形を練る(10) 「裹」の熊鷹、ダ、蛇は柔らかに相手の攻撃力を受けることができるので九九太極拳でも取り入れられている。熊鷹はラン雀尾で上ホウとしてほぼそのまま鷹捉の動作を見ることができる。ダは雲手に、蛇は斜飛や野馬分ソウなどに類似の動きがあるが、これは呉家太極拳に多用されている動きでもある。呉家では両腕を合わせる形意拳でいうなら「束」の動きを多く用いている。太極拳ではこうした蓄勁の動作を「合」とする。「束」も「合」も同じようなもので九九太極拳で呉家の動きが楊家と並んで多く取り入れられているのは、形意、太極、八卦の三拳合一の考え方から蛇形と等しい動きが多く形意拳との共通性が認められることも原因していよう。

外伝8 形意十二形を練る(9)

  外伝8 形意十二形を練る(9) 形意拳の十二形拳の具体的な用法を知ろうとするのであれば「三体式」よらなければならない。先ずは「裹」であるが、これは熊鷹(上段)とダ(中段)、蛇(下段)で構成されている。いづれも相手の攻撃を受けた接触点を移動させることでその力を絡め取ろうとする。劈拳の初めの拳を出す動作がこれである。劈拳は拳を押し込んで相手の攻撃力を絡め取ると同時にその姿勢を崩すことを意図している。これが形意拳としては理想的な戦法であるが、相手の力がひじょうに強い時には引いて受けなければならない。こうしたいうならば「裏」の技法が十二形になっている。熊鷹拳の「裹」は「鷹捉」とされるように柔らかに受ける。これはダも同様である。熊鷹の「裹」が上へ接触点をずらすのに対して、ダは横にずらす。一方、蛇は下である。また熊鷹やダでは腕の内側を使うが、蛇は外側を用いている。この蛇の動きも劈拳の拳を出す動きに含まれている。このように熊鷹、ダ、蛇はいずれも劈拳の初めの動作の秘訣である「裹」の奥義を練るものとなっている。

外伝8 形意十二形を練る(8)

  外伝8 形意十二形を練る(8) もうひとつの見方に「三体式」がある。三体式は「讃、裹、践」である。「讃」は力の集中であり、「裹」は相手の力を包み込むことで十二形拳では「鷹捉」などがよく知られている。「践」は歩法の力を使う。形意拳には郭雲深が人を打って獄につながれた。その時、長く手枷をされていたので、出獄した時に「功夫は失われたか」と問われ「失われず!」と言うとともに、相手を飛ばしたとされるエピソードがある。これは形意拳の打撃力が腕によるものではなく、歩法によるものであることを教えている。また「践」の右は本字では「戈」を重ねている。これには切り刻むという意がある。両手の戈で切り刻むというイメージであろうか。形意拳では戈が2つで「両手」を示すものとしている。

外伝8 形意十二形を練る(7)

  外伝8 形意十二形を練る(7) さて十二形拳であるが、これは先にも述べたように三才式の変化を核として考えなければならない。三才式は「半身の構え」であるが、そこに天(上段)、人(中段)、地(下段)の変化を内包しているとする発見が形意拳ではなされた(伝説では岳飛によって)。三才式から十二形での天、人、地の技法を分けると以下のようになる。 天 熊鷹、虎、鷂 猴(天の天) 人 ダ、馬、鶏、 地 蛇、タイ、燕 龍(地の地) この中で猴は跳躍するので天の更に上、いうならば上上段とすることができるし、龍は地の更に下の下下段とすることができる。こうして見ると熊鷹はひとつの技であるから天、人、地にそれぞれ三つの技法が配されていることが分かる(猴と龍は既に述べたように別格とすべきであろう)。ちなみに龍形もこれを跳躍して行う系統もあるが、九華派では低い姿勢のまま左から右へと歩を進める。よく見られるもののように飛んで左右を入れ替えることはしない。その場で左右を入れ替える時にも頭の高さを替えないで左右を入れ替える。これは練法として存している。

外伝8 形意十二形を練る(6)

  外伝8 形意十二形を練る(6) 他に形意拳には連環拳や鶏形四把、雑式捶などの「套路」があるが、これらは形意拳が漢族に学ばれるようになって生まれたものと思われる。おそらく形意拳は回(イスラーム)族の中で生まれたもので、八極拳や譚腿も同様であるが、回族の武術の特色は套路ではなく、比較的簡単なひとつひとつの動きを練ることが中心となるところにあると思われる。譚腿は「套路」のようであるが、実際は単純な動作を繰り返すのみに過ぎない。八極拳は小八極と大八極の套路が中心とされているが、興味深いことに八極拳には「六」と「八」の体系がある。「六」は六肘頭であり六大開である。一方の「八」は金剛八式、八大招などである。おそらくイスラムの時代の八極拳は把子拳と称されており、六肘頭、六大開などがあったのではなかろうか。次いでこれが漢族の間で練習されるようになって八極拳と称され、「套路」である小、大の八極拳が考案された。さらには今度は八極拳なので「八」を基本とする金剛八式や八大招がエッセンスとして考案されたと思われる(金剛八式は少林拳のエッセンスによるともいわれている)。

外伝8 形意十二形を練る(5)

  外伝8 形意十二形を練る(5) 形意拳の基本は「三才式」にある。三才式は岳飛が考案したものと考えられる「中段の構え」である。これが何故、大きな発見であったのか。それは動きの変化の基本が三才式にあることを解明し得たところにあった。三才とは「天、人、地」で、これらは「上段、中段、下段」を表している。中段の構え(三才式)のみが、容易に上段、下段への変化を可能とする。このことが岳飛によって示されたのであった(実際は岳飛ではないかもしれないが、形意拳ではそうなっている)。「三才式」は三才式を移動して練る「三体式」、そして五行拳では「劈拳」、十二形拳では「熊鷹形拳」としてシステムの基幹をなすものとなっている。そうであるから十二形拳のシステムを考える上でも、「熊鷹形拳」が中心とならなければならないわけである。ちなみに崩拳には半歩崩拳があるが、これは「三体式」や「劈拳」と同じく、順と逆で構成されている。「順」とは右手が前なら右足が前となる姿勢で、「逆」は左手、右足となる組み合わせである。わざわざこうした動きを崩拳に加えたのは如何に形意拳において「三才式」(その変化としての三体式、劈拳)が重視されていたかを示していよう。

外伝8 形意十二形を練る(4)

  外伝8 形意十二形を練る(4) 例えば「猿」であれば猴形拳では「白猿盗桃」で示される部分のみを学ぶことが重要であると考えている。人と猿や燕、蛇はその形状があまりに異なっている。そうした中において、それら「動物」の動きを単に模倣することはあまり意味がない。また「何故、動物の動きを真似ようとするのか」という問いを持った時に、そこで学ばれるべきは「性」であり「能」であるとの結論に形意拳では至ったのであり、そのためには「形」一般を真似ることは返って不都合な部分のあることも分かって来たのであった。猴形拳で学ぼうとするのは「白猿盗桃」で象徴されるような猿の「性」と「能」なのである。猿の「性」は巧みであることにある。力で相手を制するのではなく、知性によって相手を攻防を制御する、それが猿の「性」とされる。また「能」は軽霊であること、つまり速い動きをするところにある。そうであるから猴形拳では、自在に角度を変えることと、跳躍をして間合いを自在に使うことで猿の持つ「性」と「能」を体得しようとすたのであった。

外伝8 形意十二形を練る(3)

  外伝8 形意十二形を練る(3) さて形意拳であるが、形意拳の十二形拳は「象形拳」に属するとはいっても、よく「動きが似ていない」と指摘される。多くの猴拳では、あたかも猿の動きをそのまま真似たようなシステムを有しているが、形意拳の猴形拳は跳躍しながら掌を右、左と出すだけで、ひと目でこれが「猿」の動きであると見るのは難しいかもしれない。もちろん予め「猴形拳である」と知らされていれば「なるほど猿的なところがある」と納得されはするであろう。形意十二 形拳が動物の動きを模倣することを主眼としていないのは、ただ動物の動き一般を真似るのではなくその「性」と「能」を取り入れるという原則があるためであって、その「形」は重視するところではないことが原因といえよう。多くの象形拳は動物の「形」を模倣することでその「性」や「能」を体得できると考えたのであるが、形意拳では人と動物は体の形も意識の状態も違うのでただ「形」を模倣しただけでは「性」や「能」を体得することはできないと教えている。

外伝8 形意十二形を練る(2)

  外伝8 形意十二形を練る(2) 一方、日本の武術では動物の動きを模倣するということはあまり行われなかった。中国の兵法書である『武備志』には日本の剣術・影流の伝書が掲載されているが、そこでは猿が剣を取って形を演じている。この「伝書」の原本は倭寇が持っていたものとされているので、日本でも動物をイメージした剣術の流派があったことが分かる。影流の流れをくんだ新陰流の柳生宗矩は猿をペットとしており、その猿はよく剣を使ったという。これは影流の伝書とあわせて考えると影流は猿をシンボルとするものであったとも思われるのである。

外伝8 形意十二形を練る(1)

  外伝8 形意十二形を練る(1) (注 ここでは形意拳の十二形拳を解説するが、その動きは伝承系統によって必ずしも同じではない部分がある。ここで述べているのは九華派八卦掌に含まれる形意拳の套路であるが、陳ハン嶺の伝えたものである) 形意拳には五行拳と十二形拳という大きな体系がある。十二形拳は動物などの動きを真似たもので、こうした類の拳術を一般的には「象形拳」と称する。象形拳にはジャッキー・チェンの映画「蛇拳」でも知られた蛇拳などがある。他には猿の動きを真似た猴拳、また南拳の名拳としては鶴拳も広く練習されている。ブルース・リーが修行したこともあって何度も映画にとりあげられている詠春拳も鶴拳から派生した一派である。往々にして南拳というと剛力のイメージがあるが、詠春拳などは柔らかな部分もあって相手の力を抑えて封じてしまう高度な技術を有している。蟷螂拳は北方でも南方でも存している。また実在はしないが龍は広く武術に取り入れられており、八卦拳も龍をイメージした動きがベースとである。中国でどのような動物が武術に取り入れられているかを調べることは、中国文化の中ででどのようなイメージが「動物」について涵養されていたかを知る良い手がかりとなり、いうならば「動物の精神史」を知る手がかりともなるものである。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(18)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(18) 合気道の呼吸法は太極拳でいうなら聴勁を養うものである。それに二人、三人と相手を増やすことで多くのコントロールポイントが出てきて複雑化する。さらには離れたところから数人が攻撃してくるとこれに位置関係だけではなく、相手が移動するため時間的なコントロールポイントも出てくる。これは太極拳では凌空勁と称する。さらに空間と時間のコントロールはそのまま日々の生活におけるコントロールにも応用できる。これを神仙道では「天機を知る」「天機を盗む」などともいう。自然や社会の変化の変わり目をよく知って対応できるようになるのである。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(17)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(17) 合気道の特色ある稽古法に多人数捕がある。これは次々と掛かって来る相手をさばいて行くものであるが、これこそが合気道の「実戦」の形なのではないかと思う。ただ相手をさばくだけが、合気道の究極の形なのではないであろうか。そう考えてみると植芝盛平からヒントを得た空手家の小西康裕が体捌きの形を考案している意味も理解できよう。「合気道の技はどうしたら掛けることができるのか」といった従来の攻撃を主体とする武術の考え方ではなく、防御をベースとするものとして捉えなければ、合気道技法の真義は理解されない。これは太極拳の推手も同様であろう。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(16)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(16) 思うに合気道の体系は攻撃ではなく防御を主とするものであり、もっぱら「逃げる」ことを目的としたのではなかろうか。植芝盛平は大本事件の時は東京に逃げていたし、第二次大戦の時には岩間に逃げていた。西郷頼母も会津戦争を経て生き残っている。こうした「術=呼吸」を御信用の手は伝えていたのではなかろうか。そしてその技術は現在の呼吸法(座り技)とその応用としての入身、四方など大体、合気道の座り技として練習されているようなものがあったと考えられる。そして立ち技としては棒と剣で力のさばきと集中を習得する。棒の動きは多数取りに展開し、剣は当身へと展開される。盛平はこれらは松竹梅の剣、正勝棒術として体系化しようとしていた。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(15)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(15) つまり合気道の「技」はすでに植芝盛平が「気形」と称していたように、これは鍛錬のための動きと捉えなければならないのであって、従来の「攻防の形」の技として捉えてはひじょうに不充分なものとなってしまうのである。つまり合気道の技は太極拳でいえば推手と同じく聴勁を磨くためのものということができるであろう(ただ現代の推手も多くはただ押し合うだけになっていて本来の目的を知らない人が多いようである)。思うに大東流は本来は「護身」のためのシステムであった。それが武田惣角により技が増やされる過程で「拿=逆手術」として攻撃的な展開をしたが、植芝盛平は逆手は実戦では使えないことを知り、当身に活路を求めることになる。盛平の甥で合気道をやっていた井上鑑昭は「自分は惣角の弟子ではない」として、惣角の相手をしてもその逆手をことごとく返したという。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(14)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(14) 合気道や大東流の「技」がどうして試合では極端に使えないのか。かつて「王者の座」というフィルムが撮られた。そこでは晩年の植芝盛平を紹介しているが、その中でアメリカ人と思われる巨漢に合気道の技を掛けるというシーンがある。はじめに藤平光一が掛けようとするものの、なかなか掛からないので最後には柔道の投げ技で対処している。これは植芝盛平も同様でうまく掛けることができていない。しかし、塩田剛三はロバート・ケネディの護衛官を簡単に投げたではないか、と言われるかもしれないが、それは正座から技を掛けたためである。正座などしたことのない大きな体躯のアメリカ人は座った時点で体勢が崩れてしまっている。こうした武道センスの良さが塩田にはあった。また、このことは合気道の技が本来は「座り技」であったことを証ししているともいえよう。入身投げでも、四方投げでも、座り技でこれを用いれば問題は無いが、立ち技として使おうとするとなかなか掛からない。こうした事実は合気道の技とは、実は呼吸法の応用であり、「座り技」の形をベースとするものであったたと思われるのである。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(13)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(13) 先に「御信用の手」と山伏の関係に触れたが、密教では「護身法」という法があり、これは修験では九字を切ることでもなされる。つまり「御信用」は「護身用」ではなかったかと思われるのである。つまり「拿」を核とするシステムである大東流、合気道の原点には「護身用(御信用)の手」であったのである。そうしたことからすれば攻撃を受けてからの技ばかりの構成になっていることもうなずけるものがあろう。ちなみに密教で見られるように我が身を護るという意味での「護身」は古くからある語である。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(12)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(12) 西郷頼母の養子の姿三四郎のモデルとされる西郷四郎は孫文など東アジアの政治運動に関わるが、その素地が頼母にあったことは充分に考えられる。頼母自身も西南戦争や民権派の結集を目指した大同団結運動に関係したとされている。すでに触れたが大東流は本来は「御信用の手」であり、頼母によってこれが「大東流柔術」とされた。そして『合気之術』という本が話題になったことを受けてそれに「合気」が加えられ「大東流合気柔術」という名称になったのではないかと思われる。明らかに大東流の伝書は不自然に増やされている。大東流は初伝とされる「大東流柔術」の伝書で一応の完結をしている。そこに話題になった「合気之術」を加えたりして伝書を増やした人物が居たことがうかがえる。ただこの場合は時流に乗っただけのようなので、頼母のような高い教養を有する人物とはし難いようにも思われる。なにはともあれ伝書を作ったのは惣角ではないようなので、このあたりが明らかになれば大東流の歴史も明らかになるのではなかろうか。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(11)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(11) 大東流の武田惣角は植芝盛平に新陰流の伝書を与えている。また私見によれば大東流はもとは「御信用の手」と呼ばれていたのではないかと考えられる。これは大東流柔術の伝書を見れば最後に「右 御信用の手」云々とあることからも分かる。大東流の伝書ははじめに清和天皇を置くもののそれから惣角までの伝承は明らかではない。こうした伝書が見られるのはサンカや木地師といった山の民においてである。そうしてみると大東流は山伏など山の民の間で伝承されて来たものではないかと思われる。一方「大東」はかつてはこれを「やまと」と読ませており、「やまと(大東)流柔術」であったと思われるが、「大東」に「やまと」の意味のあることは確かで、こうした名称をつけるその背景にはかなりの教養人の存在がうかがえる。そうしたところからすれば、あるいはこれは西郷頼母によるものなのかもしれない。

第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(10)

  第四章 合気道技法の「実戦性」とは何か(10) 日本の武術の伝統をひとことで言うなら「やわら」に尽きよう。「やわら」が特に意識され出すのは近世の「柔術」からであるが、その技術的な伝統は中世末期の陰流によって開かれていた。陰流は「影流」でもあり、それが後に新陰流となる。「影」とは相手に気づかれないということで、そこからは知らぬ間に相手を倒しているというイメージを認めることができるであろう。影流が出現したころには摩利支天の信仰が盛んであった。摩利支天は陽炎を神格化したもので、それに祈ることで相手に気づかれないと考えられたのであった。「影」流はそうした信仰とも無縁ではあるまい。それはともかく影(陰)流のベースにあるのは「殺人剣」から「活人剣」への展開であり、新陰流ではさらに「無刀」の境地をも模索されていた。「殺人剣」は攻撃してくる相手を殺傷して争いを治める術で、「活人剣」は相手を活かして制する術、「無刀」は争いそのものが生じないようにする術である。最後の「無刀」のレベルは心の法ということになるであろう。