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道徳武芸研究 「心身統一の四大原則」を考える〜合氣道と合気道〜

  道徳武芸研究 「心身統一の四大原則」を考える〜合氣道と合気道〜 心身統一合氣道において「心身統一の四大原則」と「心身統一合氣道の五原則」は、ひじょうに重視されており、道場でも掲げてられていることが多いようである。一見すると何でもないような心得のように思われるが、よく内容を吟味したならば、そこには深い意味が示されていることが分かる。特に武術的には「心身統一の四大原則」は相手の心身の働きを利用する「陰(かげ)」流の基本であると言えるし、「心身統一合氣道の五原則」はその応用が示されているのである。一般的に格闘術では、相手の「体の動き」を重視する。しかし「陰」流ではそれと同時に「心の動き」をも知ることで、より優位に立ち得ると考える。そうしたことを行うための基本となる心身を作る方法が「「心身統一の四大原則」なのである。心身統一合気道では、これを基本として合氣道として応用しようとするのであるが、その時の秘訣は「心身統一合氣道の五原則」となる。 今日の武術界で合気道といえば塩田剛三が有名である。塩田が代表するのはいうならば「戦前」の合気道である。この時期、植芝盛平は「大東流の関節技をどのようにすれば使うことができるのか」を考えており、その答えが「当身」であった。この時の「当身」が象徴するのは「間合い」であり「呼吸」である。こうしたことの延長線上に戦後、盛平が打ち出したのが「心身統一」であった。「心身統一」は武術的な攻防に限定されることなく宇宙的な真理、つまり人としてあるべき状態を得る方途として合気道は捉えられて行った。この段階で合気道の技は「気形」とされなければならないと盛平は考えており、藤平光一もそうした武術的要素を含みながらも「脱武術」的な傾向を色濃く受け継いでいる。一方、合気会を受け継いだ植芝吉祥丸は戦中あたりの盛平が最も学ばれるべきとしており、こうした中での矛盾が藤平光一を合気会から離れさせた要因となっていたようである。 つまり「心身統一」とは、このように大きな視野においての教えであるから、これは合氣道・合気道だけではなく、太極拳や瞑想などにも有効なのである。それは、 一、臍下の一点に心をしずめ統一する。 二、全身の力を完全に抜く。 三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。 四、氣を出す。 であり、これらのひとつでもできれば「心身統一」の状態が得られる...

姚姫伝『老子章義』(第五十五章から第五十九章)現代の神話・念力

  姚姫伝『老子章義』(第五十五章から第五十九章)現代の神話・念力 「念力」は超能力とされる。また潜在能力という場合もある。古くは通常の人が持っていない、あるいは特別な修行をしてしか得ることのできる能力であるとして超能力とされていたが、後には本来、誰でも持っている能力で、どれ自体は既に開花しているのであり、気づけば「念力」などを使うことができる、として潜在能力とされたこともあったわけである。 「念力」の「念」は形而上的世界の働きであり、「力」は形而下的な世界の働きとすることができようか。本来、別のシステムである形而上の世界と形而下の世界が繋がっているとすると、そこに「念力」が実在することになる。一般的には形而上の世界、精神と、形而下の世界、物質とは繋がっていないと思われているので「念力」はない、ということになる。ただ全く形而上と形而下の世界が繋がらないかというと、人体においては繋がっている。「右手を上げる」と思うのは形而上的世界の働きであるが、実際に右手を上げるのは形而下的な世界の働きである。このように人体というひとつのシステムにおいては形而上と形而下が繋がっているわけである。しかし「紙が動け」という精神の働きと、紙が動くという物質の働きは連動しない。それは人体と紙が別のシステムにあるからである。そうであるから紙を叩いても痛みを感じることはない。 「念力」があるとの妄想は人というひとつのシステムにおいては形而上と形而下が繋がっているので、その延長として人と物とが別のシステムにある物のに繋がっていると誤解するところに生まれて来ているわけである。「念力」は同じシステムの中では働くが、別のシステムの間では成り立たないのである。 また「念力」に魅了を感じるのも、同様な「異なるシステムへの超越」の発想によるもので、誰もスプーンを曲げたくて「念力」を得ようとは思わないであろう。「念力」を得たく思うのは、スプーンに「念」が作用するように、金銭や地位など、他のいろいろなものにも作用させ得るのではないか、と考えるからである。しかし例え「念力」でスプーンを曲げられたとしても、それは他のことにも同様に及ぶとは限らないわけである。 最近では物質化なども話題であるし、武術では触れないで倒すようなものも関心が持たれている。物質化はサイババが有名であったが、バラバラと小石のようなものが降...

道徳武芸研究 原理主義としての程派八卦掌〜白玉才の場合〜

  道徳武芸研究 原理主義としての程派八卦掌〜白玉才の場合〜 Youtubeで白玉才なる人物が居るのを知った。そこでは低い姿勢でひじょうに柔らかな八卦掌が、ゆっくりと演じられており、あたかも楊家の太極拳を見る思いであった。白玉才がおもしろいのは、これが程派八卦掌の原理的に到達するべき「極北の境地」ではないかと考えられるためである。白は八卦拳五代目にあたる。董海川から程廷華そして父親が程と昵懇であったという劉斌が三代目、劉は王文魁に技を伝え、王は白に教えを授けたのであった。今は白から二代を経た七代の時代となっている。こうして代を重ねることである派は他の拳術を取り入れて、その影響を受けることがあったのであり、またある派は純粋に程派の理論を深めて行ったのである。 白の八卦掌はかなり純粋に程派の理論を突き詰めて行っているようであり、練功は走圏を最も重視する。 具体的にはどうかと言えば、走圏転掌を「行トウ」としており、掌法も単換掌、双換掌、順勢掌を主として練るという。「行トウ」とするとは、ゆっくり歩く練法をとるということである。こうした練法は「原伝八卦掌」とされており程廷華の伝えた本来の形の八卦掌であるとされている。また原伝八卦掌は「トウ功八卦掌」とも称される。つまり程廷華の伝えた最も本来の形に近い八卦掌は攻防の形というより「トウ功」をベースとするものであったというわけである。ここでの秘訣として「鬆活円順、以走転為本(走転を以て本と為す)」が伝えられている。つまり「鬆」とは「腰鬆」のことで適切に走圏をして行くと「腰」が「鬆(やわらか)」になるとされているわけである。走圏で「腰鬆」が得られるのは構えをして円周上を歩くので腰にねじりが加わるからである。練習を積んで腰にねじりが生まれると、腰が沈んで姿勢が安定するようになる。八卦拳では「平起平落」の秘訣があり、これは一般的には足の裏を地面から平行に上げて、下げることとされているが、白玉才などの「腰鬆」を重視する系統では「走圏の時に頭が上下しないこと」とする理解も伝わっているようである。そして「腰鬆」を練ることで「綿綿不断」の動きが得られるという。「綿綿不断」は太極拳の秘訣で、動きが連なって途切れることのないことをいう。まさに白玉才の動きはこれをよく体現しているといえるのである。 こうした八卦掌を「トウ功」とする見方は、八卦掌...

丹道逍遥 文始真経(三極篇十六〜二十)静坐秘伝「泯外守中法」

  丹道逍遥 文始真経(三極篇十六〜二十)静坐秘伝「泯外守中法」 この秘訣は「外を泯(ほろぼ)し、中を守る」法である。この仕組みは外的なものに煩わされることがなくなれば自ずから内的なものが明らかになる、という人の心の仕組みを用いている。ただ「泯す」といっても、あえて外的な事象との交わりを断つわけではない。また現実的に、そうしたことはできない。インドでは釈迦が瞑想をしている近くで千台もの戦車が通っても釈迦は心を乱すことはなかったとされる。また瞑想をして周りの木が育って枝に体が包まれているような修行者を優れた瞑想の成就者である、とされていたりすることもある。これらは外的な刺激などの情報が完全に断絶された状況を示すものでもあろう。しかし仙道では特に「中」を重視して、外と内とを共に否定することなく、その「中」つまり「バランス」を重視する。現在の我々は内へ向かう意識の流れが、ひじょうに少なく、専ら外に向いているので、修行としては内への意識の流れを作ることが求められるわけである。 老子も第五章で「中を守るにしかず」と述べている。これは静坐の秘訣で、「泯外守中法」と同じことを教えているわけである。老子は「中」のあるところとして「象」「物」「精」「信」をあげる(第二十章)と同時に、また「道」「天」「地」「王」が「中」を表すものとしている(第二十五章)。特に第二十五章では「道の大」「天の大」のようにあえて「大」を付しているが、これは外に表れた「道」と、その内にある「道」の二つがあるからである。中国仏教でも「空有二辺にあって中道を行う」ことが強調されたが、天台大師・智顗(ちぎ)はこうしたことを「空仮中」として「中」の重要であることを説いている。このように「中」を得ることが外と内とを適切に結びつけバランスを取る上で重要なのである。こうしたバランスを取るためには外的な事象への強い執着を弱めなければならず、そうすることで自ずから「中」を得ることができるわけである。つまり自己の内面を見つめる時を作ることで外に向かう意識だけではなく、内に向かう意識の流れを作ることが可能となるのである。                                  (参考 蕭天石『道海玄微』) (十六) 關尹子が曰われた。 「自己」という(内面の)ものが無くなると、 自ずから(外的な)「形」だけが残っ...