丹道逍遥 文始真経(三極篇十六〜二十)静坐秘伝「泯外守中法」

 丹道逍遥 文始真経(三極篇十六〜二十)静坐秘伝「泯外守中法」

この秘訣は「外を泯(ほろぼ)し、中を守る」法である。この仕組みは外的なものに煩わされることがなくなれば自ずから内的なものが明らかになる、という人の心の仕組みを用いている。ただ「泯す」といっても、あえて外的な事象との交わりを断つわけではない。また現実的に、そうしたことはできない。インドでは釈迦が瞑想をしている近くで千台もの戦車が通っても釈迦は心を乱すことはなかったとされる。また瞑想をして周りの木が育って枝に体が包まれているような修行者を優れた瞑想の成就者である、とされていたりすることもある。これらは外的な刺激などの情報が完全に断絶された状況を示すものでもあろう。しかし仙道では特に「中」を重視して、外と内とを共に否定することなく、その「中」つまり「バランス」を重視する。現在の我々は内へ向かう意識の流れが、ひじょうに少なく、専ら外に向いているので、修行としては内への意識の流れを作ることが求められるわけである。

老子も第五章で「中を守るにしかず」と述べている。これは静坐の秘訣で、「泯外守中法」と同じことを教えているわけである。老子は「中」のあるところとして「象」「物」「精」「信」をあげる(第二十章)と同時に、また「道」「天」「地」「王」が「中」を表すものとしている(第二十五章)。特に第二十五章では「道の大」「天の大」のようにあえて「大」を付しているが、これは外に表れた「道」と、その内にある「道」の二つがあるからである。中国仏教でも「空有二辺にあって中道を行う」ことが強調されたが、天台大師・智顗(ちぎ)はこうしたことを「空仮中」として「中」の重要であることを説いている。このように「中」を得ることが外と内とを適切に結びつけバランスを取る上で重要なのである。こうしたバランスを取るためには外的な事象への強い執着を弱めなければならず、そうすることで自ずから「中」を得ることができるわけである。つまり自己の内面を見つめる時を作ることで外に向かう意識だけではなく、内に向かう意識の流れを作ることが可能となるのである。

                                 (参考 蕭天石『道海玄微』)


(十六)

關尹子が曰われた。

「自己」という(内面の)ものが無くなると、

自ずから(外的な)「形」だけが残っていることが、明らかとなる。

「自己」と「形」は水のように関係を持って動いている。

「自己」と「形」は鏡のように互いを映し合っているが、それぞれは静かで能動的に動くことはない。

光の先は消えゆくが如くである。

(それは光の中に闇があるからであり、闇の中に光があるからである)

静寂は(その中に音を含んでいるが)音が交じることのない状況である。

(光と闇、静寂と音のように)相関係するものは和するものである。

得たものは失う。

(それは「得る」の中に「失う」があるからである)

そうであるから私は他人に先んじることもないし、

他人に従うこともない。



(十七)

関尹子が曰われた。

混沌としており、広々としている。

そこにあるのは「太初」である。

それは「金」である。

それは「玉」である。

それは「糞」である。

そうした「物」は去り、またやって来る。

(盛り上がって)「山」となり、

(凹んで)「淵」となる。

それは取るに足りないものであり、

一時的なものであるに過ぎない。

それは狂気のものであり、愚かなるものでもある。


(十八)

関尹子が曰われた。

うまく琴を弾くことのできる人は、

悲しい心を表す時には、その音が痛ましく聞こえるものである。

慕う心を表す時には、(思いが届かないように)その音がなかなか届かないように聞こえるものである。

怨む心を表す時には、その音は迷っているように聞こえるものである。

愛する心を表す時には、その音は(愛で包み込むように)ゆったりと聞こえるものである。

つまり悲しい心、慕う心、怨む心、愛する心の表現は、

技巧にあるのではない。

琴が竹で出来ているからではない。

琴の糸によるのではない。

琴が桐で出来ているからではない。

それは演者の心によっている。

それによって琴を弾いているので、いろいろな心情の表現が出来ているのである。

人の道も同じで、心と物との「中=中道=関係性」によって表されている。



(十九)

関尹子が曰われた。

聖人は「言葉」を発し「行為」をし「思考」をする。

しかし、一般の人は真の意味で「言葉」を発することも「行為」をすることも「思考」をすることもない。

そうであるから聖人は一般の人と異なっているのである。


(二十)

関尹子が曰われた。

利害の心が、いよいよ明らかになれば、

親とも仲良くしては居られない。

賢愚の心が、いよいよ明らかになれば、

友であっても仲良くしては居られない。

しかし、そうしたことを明確にすることがなければ、

それほど不仲が明らかになることはない。

よく醜い心が明らかになれば、仲良くはなれない。

ただ聖人は欲望にまみれた「醜い心」を完全に排してしまうこともない。

(それは「醜い心」と「清らかな心」は別のものではなく、ひとつの「心」であるに過ぎないからである)


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