道徳武芸研究 静坐と武術(16)
道徳武芸研究 静坐と武術(16) 中国での静坐と武術、日本での禅と武術、インドでの瞑想と体位(体操)法、こうしたものが時代や地域をこえて必然として修されるようになるのは、こうした組み合わせが心身のコンディションを調えるのに適しているからに他なるまい。ここで重要なことはこうした修行を経ることで枠組みにとらわれない自由さが見出される可能性が生まれたことにある。つまり二つの視点を得ることで実際のエクササイズの方法という枠組みから離脱する契機をつかみやすくなったわけなのである。人は体というものを持つ以上、それに何らかの作用を及ぼそうとするなら一定の「枠組み」を用いざるを得ない。しかしそれに囚われすぎると、場合によってはかえって不調を招くことにもなる。前回に触れた白隠は禅ということに囚われ過ぎて具合を悪くしてしまった。そこで一旦、別の方法をとることで禅のとらわれから脱することができたわけなのである。つまり二つ目の「視点」を得ることで囚われの危機を脱することができたのである。静坐にしても武術にしても本当に重要なことは自分自身をどのようにあるべき形にして行くかに他ならないのであり、自分を一定の枠組みに入れ込むことではない。