道徳武芸研究 静坐と武術(2)
道徳武芸研究 静坐と武術(2)
また静坐では雑念を払うということはできないし、必要ないと考える。人は意識がある限りにおいて何らかの思念は発生するものであり、それを無理に生じないようにさせることに意味はないとするのである。また瞑想には坐法は呼吸法、手印などの基本的な姿勢から「集中」「観想」「三昧」などの意識状態を表す教えも存している。「集中」や「観想」はいうならば雑念を払うための方法である。雑念を生じさせないように別のものに集中をする。また神仏の姿を強くイメージすることで意識に雑念の入り込む余地をなくさせる。これは雑念の代わりに別のものを置き換えているだけということができよう。密教では「身、口、意」として「身」には手印を、「口」には真言を、そして「意」には観想を行うことを求める。およそ人の意識の及ぶところにすべて何かをして、思念の発生をコントロールしようとするわけである。このように雑念を払うために別のものに集中したのでは根本的に雑念を払ったことにはならない。これはまた「雑念」を「正念」に置き換えたとすることもできようが、こうしたことは「教義」を深く心に刷り込む働きが一方ではあるり、教義」を提唱する側には、修行者をコントロールするのに便利であるが、修行者にとっては大きな心的抑圧となる。