丹道逍遥 小周天について

 丹道逍遥 小周天について

およそ仙道の瞑想法として最も有名なのが小周天であろう。本来、仙道ではテクニックを嫌う傾向があるので瞑想「法」は重視されてはいない。とにかく静かに坐ることが求められるだけで瞑想「法」は、その導入と考えられている。そうした考え方の根底にあるのが仙道の目指す「真人」が「本来の自分」であるからに他ならない。誰でも生まれながらに「真人」なのであるが、生まれてからのいろいろな「欲」によってそれを忘れている、と考えるのが仙道なのである。そうであるから余計なことはしないで、本来のあるがままに還れば良いわけなのである。一方、インドなどでは超越した能力を示すことのできるようないうならば「超人」となることが、悟りを開いた証とされる。低レベルの俗人から高いレベルの聖人になるわけで、それにはいろいろなテクニックが求められることになる。そうしたこともあって仙道では小周天による瞑想は中乗のレベルとされ龍門派という一部で行われていたに過ぎないが、いまでは広く練習されている。


日本で小周天が紹介されたのは1927年に伊藤光遠の『煉丹修養法』が始めと思われるが、広く知られるようになったのは高藤聡一郎の『仙人になる法』(1979年)からであろう。この本の八割くらいは許進忠の『築基参証』の翻訳である。ただ『仙人になる法』では『築基参証』の小周天に続く小薬を得る部分については訳されていない。他には本山博が『支那道教の修行法』(1979年 第3版)で紹介しているが、これはユングにも影響を与えたヒャルト・ヴィルヘルムの『太乙金華宗旨』のドイツ語訳からの翻訳で小周天の部分を中心にした抄訳である。ただこの本は中国語からドイツ語、そして日本へ語と翻訳を重ねたために言わんとしていることがかなり曖昧になってしまっている感がある。『太乙金華宗旨』そのものは湯浅泰雄、定方昭夫によって『黄金の華の秘密』(1980年)で中国語から翻訳されている。ただし原本は仙道独特の用語も多く、また訳者に仙道の経験もないので、これを見て修行の参考にできるレベルの翻訳とはなっていない。


本来的に小周天は小周天だけで完結するのではなく、その前段として築基があり、小周天に続くものとして得薬(小薬)などがあるが、これらは基本的にはイメージを使うもので築基では下丹田に「熱」を感じられるようにイメージする。それがある程度「具体的」に感じられるようになると身体を巡らせる周天に入るわけである。ただ「熱」を感じるのはイメージであるが、これにより実際に体温が上昇したりすることもある。こうした基礎的なイメージ訓練の後に「陽神」というものをイメージする場合もある。これは「本来の自己」を「嬰児」のようなものとして、それを育てる過程をイメージする。こうした「嬰児」のイメージは錬金術でいう「ホムンクルス」と同じである。錬金術が「金」を得るという化学的なプロセスばかりではなく内的な瞑想である証をこうしたところに見ることができる。小周天をめぐる一連のイメージ法は前段の「回光返照」と後段の「十月養胎、三年乳哺」に分かれる。


「回光返照」は禅宗で「えこうへんしょう」として知られていて瞑想による知恵の獲得を言うもので、これは仏教の教えに共通する考え方でもある。仏教瞑想のテキストである『天台小止観』では「止」すなわち「集中」をすることで雑念の交わらない認識である「観」を得ることができると教えている。これは仏教瞑想の基本でもあるし、インドのヨーガにもかなり普遍的に見ることができる瞑想のプロセスである。釈迦の説く瞑想では集中は呼吸を感じるだけであったが、それが後にはいろいろなテクニックを用いて集中を促そうとするようになる。そうした過程でバラモン教など仏教以外で行われていたヨーガの方法が取り入れられた。特に密教ではイメージを用いる瞑想が多く行われている。

「回光返照」の「回光」は「光を回(かえ)す」であり、通常は外に向けられている意識を内へと向けようとすることである(仙道の場合は「かいこうへんしょう」と読む)、また「返照」も同様で意識のエネルギーを内へと向けるものとする。しかし小周天を説く一派では「回」を「回(まわ)る」と解して仙道の周天との共通を見るのである。つまり「光」を身体の中で回すということであり、そうすることで内面を見つめるのが「返照」となる。仙道でもっぱら自己の内を見つめることと解するのは仙道では「正しい認識」を得るということを重視しないからである。一方、仏教では「正しい認識」を得ることが悟りであると考える。


小周天で問題となるのは「止め時」である。仙道の瞑想で最も重視されるのは「火候」である。「火候」とは「火加減」のことであるが「内的なエネルギーの充実の具合」のことである。これが苛烈すぎても心身の落ち着きが得られないし、低すぎては活性化が失われる。ちょうど良い具合に充実感の持てるくらいが良い「火候」なのである。こうした中で小周天は主として「火」の活性化を促すものである。そうであるから適度な時にこれを止める必要がある。およそ小周天の過程は以下のようなプロセスをたどるものとされている。

煉己    築基

煉精化気  小周天 小薬 温養

煉気化神  小周天 大薬 封固

煉神還虚  養胎 

還虚合道  乳哺

煉己

この中で、ただ静かに瞑想をするのが「煉己」である。この段階で「火候」が適切で、ただ瞑想をしているだけで適度にエネルギーが充実しているようであれば小周天をする必要はない。こうした状態となることを理想とするのが文始派で、小周天などの瞑想の技法を使うことを良しとしない派である。ただ多くの人はこの段階では心の落ち着きと多少の下丹田の充実が感じられるだけなので、その感覚をして小周天を行って、それを高めなければならない。

小周天をして一定程度の充実が得られるのを「小薬」を得たと称する。そうなると周天は止めてただ下丹田あたりの感覚を見守るだけにする。これが「温養」である。これでエネルギーの適度な充実が続けば良いのであればこれ以上、小周天を練る必要はない。しかし「火」が弱まるようであれば再度、小周天を行う。そして「火」が適度に充実したならまた下丹田を見守る。これが「封固」である。この段階で大体は小周天は終わることになり、後はひたすら瞑想をする「養胎」「乳哺」を行う。この段階になるとイメージを使うことはしない。「養胎」では「虚」を悟り、「合道」では「道」を悟ることになる。これらのプロセスは執着から脱するレベルの違いということができようか。こうしてまた無為自然の瞑想である「煉己」へと返って来る。要するにただ坐っているだけの瞑想である。


長くなるので、ここでは「陽神」については触れない。「養胎」「乳哺」はまさに読んで字のごとくで嬰児を生み育てる過程でもあるのであるが、これをそのままにイメージで「嬰児」を作り出すのをイメージする派もあるのであるが、これも最後には「嬰児」は虚空と一体となってイメージの世界からは離脱することになる。「陽神」のイメージ法を詳しく説明している趙避塵の『性命法訣明指』を見ると「オン、マニ、パドマ、フン」というチベット密教の真言を使っているところがあることからすると「陽神」をイメージする瞑想は、チベット密教の影響があるのではないかと思われる。


重要なことはあくまで小周天は「導入」のための方法であり、適切な時が来たらなら、それは止められなければならない、ということである。


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