道徳武芸研究 静坐と武術(5)
道徳武芸研究 静坐と武術(5)
「善」が開かれるのは天機によるもので、それを意図的に行うことはできない。また「善」が開かれるのは特別なことではなく、日常的に多く開かれている時がある。その事例を示したのが「五経」である。五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」であるが、「易経」はいうなら占いの記録である。そこには古代人の欲望が包み隠すこと無く表れている。そうした中であるからこそ意識の根源にある「善」を最もよく知ることができるわけである。「書経」は政治、「詩経」は文学、「礼記」は習俗、「春秋」は歴史を記したものであるが、そうした中にも「善」の現れを見ることができる。つまり人々の普通の生活の中に「善」は発現しているのである。そうした事例を自覚的に見出そうとするのが「五経」として「易」などが儒教に取り入れられた理由であった。つまり「善」は静坐をしたから発現するものではない。「善」そのものは常に現れているが、それを自己において定着させるには内面を見つめることができなければならない。そこで静坐が求められるわけである。