宋常星『太上道徳経講義」(8ー3)

 宋常星『太上道徳経講義」(8ー3)

衆人の悪(にく)むところに処(い)る。故に道にちかし。

「衆人の悪むところ」とは卑しい、汚くい、下賤であるようなところである。水の徳にあっては、人の上に居続けるようなことはない。衆人の情に逆らうようなことはない。水は高いところから下へと流れて行くのであり、その流れたり留まったりするのは水そのものの意図によるものではない。たとえ卑しい、汚い、下賤なところであっても、そこに流れないということはないのである。それがつまりは水の徳なのである。そうであるから水の徳は道の徳に近いとされる。人はどうして高いところを好み、貴いものを愛するのであろうか。権力を求めて争い、名誉を求めて争うのであろうか。利害や成功失敗の分かれ目(機)は、どこにでもあるのであり、長い、短いとか、高い、低い(下)といった相対的な位置感覚は、どこにでも存している。こうした妄心が生み出すいろいろなものは尽きることがない。聖人はそうしたところには居ることなく退いて(謙)、自分の世界にとどまっている。自らを卑下して世俗の競争の価値観から離れて安らかに居るのであり、自分が折れることで他人を良い立場に置こうとする。自分が高い地位にあることを望まず、自分が偉大であると振る舞うこともない。つまり水の善の「性」は、聖人の道と変わりはないのである。そうであるから水は「衆人の悪(にく)もところに処る」のであり「故に道にちかし」とされている。


〈奥義伝開〉人々が嫌うのは一定の価値判断によるものである。しかし見方を変えると価値のないものからも価値が見えてくる。人はどのような状態にあっても学ぶことはできるのであり、修行を深めることが可能なのである。「失敗から学べ」というのも「悪(にく)むところ」の価値のあることを教える言葉といえよう。


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