宋常星『太上道徳経講義」(7ー2)

 宋常星『太上道徳経講義」(7ー2)

天は長く、地は久しい。天地はゆえによく長く、かつ久しく、もってそれ自らは生ぜず、故によく長生す。

この章では「無私」が説かれているが、それは「大道長久」ということを譬えているのである。天地は始めには混沌としていた。これが「天地の一静」である。混沌の後にそれが分かれて天地が成った。それは元の混沌と変わることなく高明であり、元のように広く厚い。そうであるからよく長く、かつ久しくあることができるのである。どう思われるか分からないが、天は大いなる父であり、地は大いなる母と私は深く思っている。父の道は、よく万物を生むのであり、母の道はよく万物を長養する。生まれ育てる天地の働きは尽きることがない。長く養われて絶えることなく成長し、休むことがない。そうなるのは天地が無私であるからである。休むことなく生まれ育てているのは、地の道が無私であるからである。つまりあらゆる働きは無私であることによっているのであり、それがなくして自ずから天地の造化が生じているのではない。つまり「自ずから生ぜず」とは無私のことであって、そうであればこそ天地はよく長生することができるのである。


〈奥義伝開〉天地が「長久」であるのは、「自らは生ぜず」であるからであり、それを「無私」であるとする。自分で天地は生まれようとして生まれたのではなく、自ずから生じたために「長久」であることができるという。「無私」とは「無為」と同じで、これにより全体と調和している。全宇宙と調和していれば、そのシステムが存する限りは、それを構成する「部分」である天地も存在し続けることができるはずである。


これをもって聖人は、その身を後にするも身は先んじ、その身を外にするも身は存す。

厳密に言えば、天地人は、本来は同じ理によっているのではないが、人はどうして天地が長く久しいことを知らないのであろうか。天地が長く久しく存しているのに、人がそうではないのは人は生きている間に、心に絶えることなく生きていたいと考えているからである。こうした思いはあらゆる人において大きく違ってはいないであろう。もし天地が、そうした思いを持っていたとしたら、天地は長くかつ久しく存することはできないであろう。聖人は天地の道を体しているので(生きることに執着しても長生きができるわけではないという)「空生の理」を会得している。ある人が先に生きて居て、そして自分も生きて居る。こうして天下においてその生存を争うことがないのが人の世であるが、これを「その身を後にし」としている。天は天を尊ぶように求めたりはしないが、人々は天を仰ぎ望むばかりである。これはすでに天を貴ぶ形になっているといわなければならない。天は我先に、その身を他人よりも先にして、人々に貴ばせるようなことはしていない。それは道徳をもって「本」として、幻身をして「末」としていて、自らの栄達を求めることはない。そのことを「その身を外にして」と謂っている。この世では貴ばれることなくして永く状態を保全していけるものなどない。つまり自分の身を貴び親しむことなくその身を永く存していられることなどないのである。そうであるから我先になって、天下の先を占めよとすることはしない。先ずは自分の身が存することを第一として、あえて長生きを求めようとはしない。そういったことをここでは「これをもって聖人は、その身を後にするも身は先んじ」とするのであり、「その身を外にするも身は存す」とあるのも、こうした意味がある。どうして人は、その為して来た「業(行為)」の「縁」によって、生き死にを迎えることになるのであろうか。そこには自分と他人とで違いのあることが認められるものの、その根本には「空性の理」があることを知ることはない。そうであるから「久長の道」と一体となることができない。つまり、それは「その身を後にする」ことを知らないからである。どうして自分の身を先にすることができるであろうか。自分の身を外にすることを認めることがなければ、どうして自身の身を保つことができるであろうか。


〈奥義伝開〉長生きをしようとするなら無意味な競争に加担しないとするのが老子の説く道である。「後にする」とは競争からの離脱である。世間の競争から離脱して、自分の道を歩むのであるから、自分が一番となる。「身は先んじ」ずることになるわけである。同じく同じカテゴリーで争わないのが「その身を外にする」といわれている。世間の競争のカテゴリーから離脱しても、生きることは可能なのであり、そうであるから「身は存す」とする。老子は離脱の方法として「後ろへと退く」ものと、「外に外れる」方法とがあると教えている。


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