宋常星『太上道徳経講義」(7ー1)
宋常星『太上道徳経講義」(7ー1)
天地は大道の「用」の表れであるとされている。それは至誠であり、無妄であるとされる。大道の「体」は万物として表れており、およそ物で大道を「体」としていないものはない。すべては穆(ぼく つつしみ)に包まれており、万物は生まれ生まれて尽きることはない。天地は無私であり、聖人も天地と同様に無私である。道を行うにあたっては親しくても疎遠であっても、貴い相手でも卑しい相手でも、常に徳をして対するのであり、相手が賢くても愚かでも、身分が高くても低くても、無私で対する。それは天地は万物を生むのが、それは天地による「私」的な行為なのであるが、実際は「無私」の行いとしてなされるからである。聖人が万物を成すのは確かに私的な行為であるものの、それは天地の無私と同様なのである。これはつまり聖人の行為は、天地の大道の明らかな表れであるということである。この教えの悟りを得た者はこうしたことをよく考えてもらいたい。
無私とは、あらゆる物が無我であるという道のことである。至誠、無妄でなければ「有」として存在することはできないのであり、他人と自分が一体でなければあらゆる行為も行うことはできないのである。聖人は無私である。そうであるから天下において行われることを「私」的に実践することができるのである。