宋常星『太上道徳経講義」(8ー2)

 宋常星『太上道徳経講義」(8ー2)

上善は水のごとし。水は善にして万物を利して争わず。

水とは物質であり、五行の始めに位置する。太極の初めでもある。水は「一」から生まれて、六(陰)となる。気は五行に分かれているが「一(土)」に集約される。水の「性」とは、太陽の「精」でもある。水の「質」とは、万物の形の多様さの「妙」でもある。そうであるから「上善」とされる。水はそれぞれの物に利益をもたらす。それぞれの時に応じて適切に働くが、特定の物だけに限って働きをなすようなことはない。それぞれに適切ではない働きをすることもない。高いところの水は下に流れるし、流れる時には流れ、止まるべきところではその流れを止めている。すべてはあるがままで自然にそうなる。自然の妙がそこにはある。そうであるから「万物を利して争わず」とされている。聖人は道徳を人に教えるのに、仁義を説いて善を勧める。聖人は自分の能力を誇ることもなく、他人の善の実行についてどうこう言うこともない。ただ他人のことを考えて(捨己従人)、相手の立場に立って私を重視することのないのは水の徳と同じである。そうであるから争いそのものが生まれることがないのである。老子は「上善は水のごとし」「水は善にして万物を利して争わず」ということでこうした意味を説いている。


〈奥義伝開〉老子は「善」を見出す静坐の境地を「淵」をして形容している。その流れで、ここでは上善を「水」をもって説明しようとする。しかし水害というものがあるではないかといわれるかもしれないが、老子のいう「利」とは自然の働きをそのままに行わしめる、ということであって、けっして人間にとって有益であることに限らない。水が増えて堤防が決壊するのは自然のことであり、それは人が自然と争って堤防を築いているところに原因があると考えるのである。


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