道徳武芸研究 静坐と武術(3)

 道徳武芸研究 静坐と武術(3)

また静坐では「三昧」を求めない。「三昧」も意識の集中であるが、神仏像や炎などに「集中」したり、「観想」をして熟達すると「三昧」に入るとされる。「三昧」に入ると無念無想となり、近くで大きな音がしても心が乱れることはないとされる。また「三昧」の結果「悉地」という悟りの境地に入るとされる。インドでは悟りを実証するものとして超能力が求められるようである。ヨーガの経典などでも悟りと超能力は関係ないが、悟れば自ずからそうした力は偉えるとする。仏教でも「神通」としていくつかの超能力をあげている。静坐ではこうした能力はまったく顧慮することがない。川の水の上を歩いたり、前世がどうであるかを知ったりすることに現実的な意義がないからである。現在から見ればこうした「超能力」はトリックが妄想によるもので、人には「超人志向」というものがあるらしく、これは超自然な能力の妄想まで行かなくても、オリンピックやはては大食い選手権でも見ることのできるものであるが、儒教ではこうしたことを試みること自体が「中庸を外れた不適切な行為」と考えるのである。


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