道徳武芸研究 静坐と武術(14)
道徳武芸研究 静坐と武術(14)
それでは「強兵」を作るためには如何にして「門派の壁」を越えれば良かったのか。それは日本のように柔道や剣道といったひとつのものに統一してしまわなければならなかったのである。柔道、剣道はよくできていて、安全に試合もできるし「闘争心」や「団結心」を養う西洋体育の側面も有している。「強兵」にあっては自分で考えて行動してはならない。上からの命令に服従すれば良いのであり、そうしたものが競技を通して養われることになる。また軍隊や警察などの「武術」は基本的な攻防の動きがわかっていれば十分なのであって、精緻な心身の働きを会得する必要はない。あえて故人が生き残る必要もないわけである。合気道などが試合を廃しているのは目先の勝ち負けにこだわるのではなく、精緻な心身の働きをじっくりと会得させようとするために他ならない。精緻な心身の働きを観察するのは「静坐」も同様で、武術も静坐も本来、基本的な立ち位置は同じなのである。人の体は千差万別である。それに合わせて、いろいろな形が考案されて、それが門派となった。重要なことは修行者自身、あるいは指導者が我欲にとらわれることなく自分の求める動きを追究することである。つまり「門派の壁」など本来的にはなかったのであり、それがあるように思えたのは人の欲望(名誉欲、金銭欲など)が作り出した幻想に過ぎなかったのである。