宋常星『太上道徳経講義」(8ー4)

 宋常星『太上道徳経講義」(8ー4)

善地に居て、

「善地」とは安静無事な地のことである。もし、これが危険な地であったならば、「善地」とすることはできない。つまり、水の善の「性」とは、上から下に流れて、危険な地に留まることがなことなのである。静を守って、柔に順じていて、流れても、止っても、静や柔が失われることがない。その妙用は無限で、尽きるおそれさえもないとされる。そうであるからこうした水の善なる「性」を「善地」といえないことなどあるであろうか。人は高い地位を貪り、貴い権威を望むが、そうしたものも何時かは失われてしまうことを知らない。こうしたものがどうして「善地」といえようか。老子は功績により名誉を得ても、それにこだわることなく身を引けと教えている。これこそが本当の「善地」であるからである。


〈奥義伝開〉「善地」とは変化をする「地」のことである。それは社会的な地位でもあるし、財産や信条、常識とされるものであるかもしれない。そうしたものを死守しようとするとそこは「善地」ではなくなる。あくまで変化をするのが「善地」なのである。一見すればこうした「地」は「善地」ではないと思われるかもしれないが、自然の働きがそうなっているのであるから仕方がない。これを「あるべきもの」つまり「善」なるものと見るのが正しい認識であり、これをベースにしなければあらゆるものを正しく認識することはできないこととなる。


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