道徳武芸研究 静坐と武術(4)

 道徳武芸研究 静坐と武術(4)

つまり「中庸」とはいうならば「日常」ということで、静坐が見ているのはあくまで日常生活をどう生きるのか、である。人が人としてあるべき行動をする根底にあるのが「善」であり、それは人の本来である「性」に備わっているものと考える。「善」とは「他者との共存の実践」である。人類学的にもホモ・サピエンスは体格が優れたネアンデルタール人が生き残れなかったのに、現在まで繁栄を続けることができたのは「群」化する能力があったからとされる。いろいろなことを共同して行うことができたので生き残ることが可能であったとされている。静坐ではこうした「善」を開くのであるが、「善」そのものはかなり頻繁に現れている。冬の日だまりで気持ち良くなった時や桜の花の咲いたのを見た時、あるいは入学式や結婚式など、いろいろな場面で「善」なる心が開かれることがある。そこには多幸感や感謝の気持ちなども含まれている。そこで問題なのはこうした「気持ち」がその時だけで忘れられてしまうことである。天機を得て「善」が開かれても、それをそのまま流してしまう。その原因は何かというと意識の内向が十分ではないからとされる。儒教ではこれを「敬(つつしみ)」がない、道教では「廻光返照」ができていないとする。天機を得た時、意識の内向が生じているのであるが、日常的にそうした意識の流れを扱うことをしていないので、しばらくすると内向する流れは消えてしまい、何時もの外向する流れだけとなるわけである。


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