宋常星『太上道徳経講義」(8ー5)
宋常星『太上道徳経講義」(8ー5)
善淵を心とし、
深く測り難いのを「淵」とする。水は無心ではあるが、その中には光明が沈んでいる。静が沈んでこれを「外」において養うのである。よく万物の「性」を知って、よく万物の
「形」を見れば、生物の「機」を知ることができるであろう。物が変化をする微妙な様子は見ることができない。すべては水の「性」である無心の心徳によっているからである。「淵」は深い。それにおいて示されている「理」は至微である。その「道」は至深である。そうであるので「善淵を心とす」と述べられている聖人の心は、静をして万物の理としているのであり、その深いことは知るべくもない。また動をして万物の用としているのであり、その働きは尽きることがない。要するに「善淵」とは奥深いということである。
〈奥義伝開〉先にも述べたように老子の「静坐」は「淵」の感覚を得ることをひとつの目安としていた。これは更にそこに「光」を感得することを宋常星は述べている。これは「静坐」の実体験によるものであろう。内丹では心境の変化を「陽光三現」として三度を限りとして、光の体験をすると教えている。つまり三度以上の光の体験は「静坐」が幻覚など誤った道に入っていることを示すとする。『莊子』には「虚室生白」の教えも見えている。