丹道逍遥 文始真経(三極篇二十六一〜二十七 四符篇一〜三)静坐秘伝「繋心守竅法」

 丹道逍遥 文始真経(三極篇二十六一〜二十七 四符篇一〜三)静坐秘伝「繋心守竅法」

この方法は仙道というよりヨーガに近いものである。ヨーガの語源(ユッジュ)がそもそも「繋ぎ止める」であるからまさに「繋心」と同じなのである。ヨーガの場合にはチャクラに心を繋ぎ止める。一方、仙道では丹田が集中の部位となる。丹田は上、中、下がある。一方でチャクラは7つあるとされる。仙道では下丹田を「根源」として、派によっては中丹田、上丹田と手中の部位を移行させるが、これもヨーガでムラダーラ・チャクラから始めるのと同じである。他には眉間(上丹田)に集中することもある。これはヨーガではアジナー・チャクラの部位であり「第三の眼」として重要なチャクラとされている。

チャクラは「丸く光を発行する部位」のように思われているが、こうしたチャクラ観を提示したのは神智学協会である。本来のインドではチャクラの中に梵字や象や神などを観るとする。勿論これは自然に見えるのではなく、脳の異常状態を生起させて幻視状態に入らなければならない。つまりチャクラを観るとは、精神の統合が失われて本当は見えないものを観ている状態なのである。ちなみに丹田への集中はそうしたものを観ることはないので、精神の統合が損なわれることはない。7つのチャクラを開いて行くと精神の統合はますます失われて行く。結果として幻聴が起こり(これがクンダリーニの覚醒とされること)、失われた精神の統合が回復する。これはどうしてそうなるかは分からないが経験的に、人にはそのような自然治癒の現象のあることが見出されたのであろう。ただ、こうしたプロセスで統合が戻らない場合も考えられるので安全な方法とは言えまい。幻視と幻聴がチャクラとクンダリーニの覚醒であるのなら空海が求聞持法を成就した時に「明星来影して、谷響を惜しまず」と感じたのはアジナー・チャクラ(明星)が開いて、クンダリーニ(響)が覚醒した状態とすることができよう。つまり求聞持法は中国星辰信仰とインドのヨーガが融合したクンダリーニ覚醒法であったのである(求聞持法の原典はインドでは見出されおらず中国で作られたのではないかとする説がある)。阿字観を広く紹介した山崎泰廣は密教とクンダリーニ・ヨーガとの関係を説いており、その著書では求聞持法にも触れているが、求聞持法がクンダリーニ覚醒法であることまでは述べていない。空海が求聞持法に執着したのは、それが密教の核心であるクンダリーニの覚醒のための方法であることになんとなく気づいていたのではないかと思われる。


ただ仙道では特定の部位への集中をあえて行うことはない。上丹田へ意識を置くことも「守黄庭法」とする。ちなみの「黄庭」とは「重要な部位」という意味であり、必ずしも上丹田に限るということはないが、ここでは「守」とあることに留意されたい。「守」とは「自然に心がそこに鎮まる」という意味なのである。ただ初心者で、どうしても心が落ち着かないという場合には「繋心守竅法」のようにある程度、意図して特定の部位に意識を集めることがあるのであるが、以下のような秘歌も伝えられている。

「道家の法は三千六百門の道があり、

修行者はそれぞれ一つの苗根を守っている。

誰が知っているか、玄関の竅のあることを。

三千六百門に知る者は居まい」

「苗根」は心身のエネルギーを養うための特定の部位である(因みに、これを「黄庭」「丹田」とすることもできる)。既に述べたように「守」は自ずから心が鎮まるところに心が収まることをいうのであり「守中守一」と称することもある。こうした部位こそが真の「玄関の竅」なのである。文始派では、心を鎮めるのはこうした自然に心が鎮まる部位でなければならないとしているし、ヨーガのようにあえて精神の統合を損なうようなこともしない。


                                 (参考 蕭天石『道海玄微』)



(二十六)

関尹子が曰れた。

いうところの「聖人の道」とは、

どうして単に小さなものであろうか。

どうして単に明らかなものであろうか。

どうして単に虚しいものであろうか。

どうして単に好ましいものであろうか。

それはあらゆる物に渡っているが、これといった特定のものではない。

そうであるから「聖人の道」はあらゆるところに及んでいるのである。


(二十七)

関尹子が曰れた。

雲がいろいろな形であるのは、

鳥や虫が空を飛べるのは、

それらが虚空の中にあるからである。

虚空の中にあるものは変化して極まることがない。

これと「聖人道」は同じである。


四符篇

(一)

関尹子が曰れた。

水は(何もしなくても)分けることができるし、ひとつにすることもできる。

それは「精(体のエネルギー)」が個人に関係なく働いているのと同じである。

火は油によって、薪によって生じるものである。

それは「神(心のエネルギー)」が個人に関係なく働いているのと同じである。

こうしたことは(自然である現象は)耳を覆ってしまえば聞くことのできる人は居ないのと同じである。

(自然の一部を切り取った)「知識」を崇める人が居なければ、

(人は自然を自然のままに見るので)何ら不思議なことはなくなってしまう。

冬には枯れて、秋には実る。

これは人によってそうなるのではない。

黒い色はどのような色と混ぜても黒いままである。

それは人によってそうであるのではない。

健康長寿も、人が望んでできるものではない。

それは個々人の「精(体のエネルギー)」によって、そうなるのである。

舌に歯があるからものを言うことができる。

それは個人がそうしようと思ってしていることではない。

礼儀を尽くせば、自らは謙(ひりくだ)ることになるが、

それは自分がそうしようと思わなくても、そうなるものである。

夏があるから春がある。

それは個人に関係なくそうなるものである。

赤は色を交じると別な色になる。

それは個人がそうしなくても、そうなるものである。

南が(五行では「火」となる「夏」にあたるので、年齢では「朱夏」となる)「夭(若さ)」を示しているが、

それは個人に関係なく、そうなっている。

それは神と精の関係で、そうなるわけである。

(注 青年、朱夏、白秋、玄冬に分けることがある)

玄米からもみ殻を取り除くと白米となる。

このように「神」を取り去って「精」だけになると、人は生きていられない。

神霊が物に憑依すると(ポルターガイストのような)不可思議な動きをする。

これは「神(神霊)」と「精(物体)」とがひとつになって起こっている現象であり、

多くの人は「神(神霊)」だけに着目して「精(物質)」のことを顧みることがない。

「精」が介在していることが分かっていれば、神霊が物を動かすのも当然であることが分かる。

これがあれば、あれがない。

神には理解できる面と理解できない面がある。強く表れることもあれば、そうでないこともある。

何れにしても、それはそうなる理由があるのである。


(二)

関尹子が曰れた。

精と神とは、水と火と同じである。

五行は互いに関係をしており生成、衰滅をしている。

その関係においては始めも終わりもない。

自己の「精」は全く形を持たないものである。

自己の「神」も全く形を持たないものである。

それは形もないし、それを意図して有している人も居ない。

始まりも、終わりもなく霊的な天地と一体となっている。


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