姚姫伝『老子章義』(第五十五章から第五十九章)現代の神話・念力
姚姫伝『老子章義』(第五十五章から第五十九章)現代の神話・念力
「念力」は超能力とされる。また潜在能力という場合もある。古くは通常の人が持っていない、あるいは特別な修行をしてしか得ることのできる能力であるとして超能力とされていたが、後には本来、誰でも持っている能力で、どれ自体は既に開花しているのであり、気づけば「念力」などを使うことができる、として潜在能力とされたこともあったわけである。
「念力」の「念」は形而上的世界の働きであり、「力」は形而下的な世界の働きとすることができようか。本来、別のシステムである形而上の世界と形而下の世界が繋がっているとすると、そこに「念力」が実在することになる。一般的には形而上の世界、精神と、形而下の世界、物質とは繋がっていないと思われているので「念力」はない、ということになる。ただ全く形而上と形而下の世界が繋がらないかというと、人体においては繋がっている。「右手を上げる」と思うのは形而上的世界の働きであるが、実際に右手を上げるのは形而下的な世界の働きである。このように人体というひとつのシステムにおいては形而上と形而下が繋がっているわけである。しかし「紙が動け」という精神の働きと、紙が動くという物質の働きは連動しない。それは人体と紙が別のシステムにあるからである。そうであるから紙を叩いても痛みを感じることはない。
「念力」があるとの妄想は人というひとつのシステムにおいては形而上と形而下が繋がっているので、その延長として人と物とが別のシステムにある物のに繋がっていると誤解するところに生まれて来ているわけである。「念力」は同じシステムの中では働くが、別のシステムの間では成り立たないのである。
また「念力」に魅了を感じるのも、同様な「異なるシステムへの超越」の発想によるもので、誰もスプーンを曲げたくて「念力」を得ようとは思わないであろう。「念力」を得たく思うのは、スプーンに「念」が作用するように、金銭や地位など、他のいろいろなものにも作用させ得るのではないか、と考えるからである。しかし例え「念力」でスプーンを曲げられたとしても、それは他のことにも同様に及ぶとは限らないわけである。
最近では物質化なども話題であるし、武術では触れないで倒すようなものも関心が持たれている。物質化はサイババが有名であったが、バラバラと小石のようなものが降って来るのは「天狗つぶて」と呼ばれているものと似ている。一方、触れないで倒すのはかつては「気合術」などと称されていた。個人的に「念力」で思い出すのは「念力護摩」で、これは阿含宗の桐山靖雄ができる!としていた。念力だけで護摩の火を発火させるのであるが、この「秘宝」は桐山以前に師僧である北野恵宝が行っていたものとされる。北野は宇宙人とコンタクトしたとしてレコードにまで出ている(「未知なる訪問者」Youtubeで聞くことができる)。北野はチベットで修行して「第三の眼」を開くべく眉間に宝石を埋め込まれたらしい。これはロブサン・ランパの『第三の眼』と同じである(ランパは銀色の木片とある)。
つまり、こうした「世界」(念力、宇宙人、UFOなど)はひとつらなりのものなのであり「現代の神話」と言えることなのである。そうであるから本来、真偽をもって語られるべきではない。こうしたことを理解するにはユングの『現代の神話』が有益である。また三島由紀夫の『美しい星』も興味深い。
個人的には「念力護摩」のような「おもしろい念力現象」が出て来ることは密かに心待ちにしている。
姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)
徳をよく有しているのは赤ちゃんである。赤ちゃんには毒虫もそれを刺すことなく、猛獣も害することなく、猛禽も襲うことはない。赤ちゃんの筋肉は弱いが、固く握ることができる。性の交わりを知ってはいないが、性的な変化が体に生じることがある。それは精がよく働いているからである。赤ちゃんは終日、泣いているが声の枯れることはない。それは自然と一体であるからである。「和」は普遍的なものであるから、それを知っていれば「常(=普遍性)」が分かっていることになる。「常」が分かっていれば「和」が理解されているので、これを「明(=理解)」という。「生」に益することは良いことなので、これを「祥」という。心をして気を使うことは自然ではないので「強」いるという。物が「壮(さか)」んであれば次には「老」いて行くしかない。つまり「強」いて早く「壮」んにさせて「老(=衰退)」いを早めるのは「不道」である。「不道」であれば物事は自然であるより早く老いて(衰えて)行くことになる。
よく知っている者は、余計なことを語ることはない。余計なことまで語るのは、よく分かっていないからである。これは穴があれば穴を塞ぎ、門があれば門を閉じるのと同じ当然のことである。その鋭さを挫けば、和らぎ混乱を解くことができる。それは光が塵を照らすのと同じなのである。こうしたことを「玄同(=大いなる合一)」という。特にそうしようとしなくても親和性を持っているし、特にそうしようとしなくても適度な距離が確保されている。特にそうしようとしなくても利されることがあるし、特にそうしようとしなくても害せられることがある。特にそうしようとしなくても貴ばれることもあるし、特にそうしようとしなくても賤しくされることもある。このように自然のままであれば結果として天下に貴ばれることになる。
一般的な方法で国を治めるのは政治による。特殊な方法で国を治めるのは軍事である。
【清静であることが一般的には、あるべきである。これと同様に国を治めるのは一般的な方法である政治によるべきである。これより他には用いられることのほとんど無い道として、軍事による統治があるが、軍事による統治は用いられるべきではない】
何をしなくても天下を取ることができる。自分はどうして、そうした方法を知っているのか。
【「(第四十六章の)天下に道があれば」は、ここに移されるべきであろう。それに続けて「(大いなる)道は軍事を用いることを正しいとはしない。そうであるから道を歩く馬は軍事に用いられるものではなく(注 ここではタオとしての「道」と通路としての「道」を掛けて同じものとして説明をしている)、その糞が肥料として使われるべきである。軍事を用いるのは「道」にもとることである。軍馬は「道」にもとるものであるから異民族は郊外で馬を育てているのである(ここまでが第四十六章、以下は前の本文に続く第五十七章)。人々の不満が増えれば、働く気も起こらず社会は貧しくなってしまうのである」とあるべきである】
人々の不満が増えれば、働く気も起こらず社会は益々貧しくなってしまう。人が多く便利なものを使うようになれば、国家はますます複雑になって混乱して来る。人がいろいろな技巧を駆使するようになれば、ますます余計なものが増えて行く。法令がますます詳しくなれば、それにより罪を犯してしまう者も多くなる。そうであるから聖人は「聖人は無為をして人々を道へと導くのである。聖人は(無為である)静の実践を良しとするが、それをして民をあるべき生き方へと自然と導くわけである。聖人は特別なことをしないが、民は豊かになって行く。聖人は無欲なので民は自然に素朴な生活を送るようになる」と述べている。政治が道理にかなっていれば、人は余計なことをしなくなる。
禍は福があるから存している。福は禍のない状態でもある。誰が福と禍が対極にあり、容易に転換するものであることを知っているであろうか。それはどちらが正しい、間違っているということはない。どちらかが正しいとすれば、一方はそうではないことになる。正しいことも、それが転じて正しくないことになることがある。善いことも、それが転じて善くないこととなってしまうことがある。こうして価値判断は容易に反対に転じてしまうので、人は迷ってしまい、そこからなかなか抜け出せないで居る。そうであるから聖人は、一方だけに偏ることはない。明らかに対にあるものをも共に見て、違うものとはしない。「直」はただ真っ直ぐであるだけではない(その中には「曲」が含まれている。そうであるから「直」がなければ「曲」もあり得ない)。「光」はただ輝いているだけではない(その中には「闇」を含んでいる。そうであるから「光」のあるところには「闇」があるのである)。
人を統治するのには、あるがままにさせるべきであり、細かな法を設けてはならない。そうした方が容易に統治をすることができる。早くこうした自然のままの状態にすることができれば、民はより徳を積むことができる。より徳を積むことができれば、それは何よりであろう。
【統治するとは、その行為をするということである。あるがままであるとは、自由にやらせて人々を疲弊させることのないことである。こうなれば、どんなこともできるであろう。何かをしようとする前に既に徳を積むことのできる状態になっているのは、最もあるべきであり、それを第一とする。この章で述べられているのは韓非子の言う「先に失ってしまえば、後に全 ての人は失うことになる」ということと同じである】
何よりであるとは、どちらかの極みにのみ依ることがないということである。そうなれば国を統治することができる。こうした(統治の根本原則たる)「国の母」があれば、国を永く保つことができる。それは「深く根付いている」ことでもある。これこそが「長生久視の道」なのである。
【付記】
最後の方で『韓非子』について触れられているが、これは「解老」篇にあるもので「道を失えば後に徳を失うことになる。徳を失えば後に仁を失うことになる。仁を失えば後に義を失うことになる。義を失えば後に礼を失うことになる」とあるところである。これによれば韓非子は「道→徳→仁→義→礼」の順を考えており、儒家の上に道家を置いていることが分かる。
そして「道」は「国の母」であり「深く根付いている」「長生久視の道」でもあるわけである。「道」は統治の根本(国の母)で、民情そのもの(深く根付いている)であって、個人にあっては長生きの秘訣(長生久視の道)でもあるわけである。