姚姫伝『老子章義』(第六十章から第六十四章)四書五経のオカルト学〜経書と緯書と〜

 姚姫伝『老子章義』(第六十章から第六十四章)四書五経のオカルト学〜経書と緯書と〜

儒教では「四書五経」という学問体系がある。四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)は、何れも儒教の教えが記されているものであり、五経(『易経』『詩経』『春秋』『礼記』「書経」)は古典ともいうべき文献で、これらに儒教の説く倫理思想の根拠があるとされている。また四書五経などの儒教経典は「経書」ということもある。その一方で「緯書」という予言の書などもある。「緯書」で有名なものに不可思議な絵の記された『推背図』なるものも知られている。そして、その絵には「予言」が示されているというのであるが、これはストラダムスの予言と同じで、意味の分からない「曖昧な情報」に後に適当な「事実」を当てはめて、当たっていると言っているに過ぎない。ちなみに「経書」と「緯書」は「経(たて糸)」と「緯(よこ糸)」の意であるが、これは仏教の「スートラ(経)」と「タントラ」と同じ考え方である。つまり「緯書」とは密教的な文献、秘教的な文献のことであり、一般には秘されるべき「真実」が記されているとされるものなのである。「予言」も一般に知らせると社会の混乱を招くことになる。そこで、そうした「真実」は「緯書」として秘されなければならない。またタントラも心身の根源的なエネルギーである性的なエネルギーを直接に扱うので公にされないのである。性的なエネルギーは人の心の根源に関係しており、それに触れることは往々にして精神的な混乱を招くことになり、それは最終的には自滅へ至ることにもなりかねないわけである。

つまり意識の面でいうなら「経書」とは表層の意識を扱うものであり、「緯書」とは深層の意識を表すものと解することができるのである。こうした視点から四書五経を見るならば「四書」は「経書」で「五経」は緯書とすることができるわけである。広く「経書」をとれば既に説明しているように四書五経は「経書」となるのであるが、これを細かに見れば「四書」は「経書」で「五経」はもとは「緯書」であったということができるのである。つまり『易』は「緯書」であるが、それに儒教的な見方を加えた『易経』となると、これは「経書」に含まれ得るということなのである。実際に『易』などの五経とされるものは「緯書」も作られており『易』は『易緯』なるものがある。他にも同様にして「七緯」が作られたとされている。これは五経の他に『書経』(五経には『楽経』を入れる場合と『書経』を入れる場合がある)や『孝経』などが加えられて「七緯」とされたものであるが、四書にはそうしたものが作られていないことを見ると、やはり五経のもとになった文献は、それを「緯書」と見る考え方があったことが分かるのである。

「緯書」が占いの書とされるのは誤解である。これは『易』も同様で、孔子は『易』に人の心のあり方そのものの表出を見たのである。およそ占いは人の欲望がダイレクトに表出されるものである。こうした何の規範も無い中で表明される心の働き(性)、その中に真に倫理的なものがあるのを孔子は見出したのであった。他にそうしたものを見出すことのできるものとして文学(詩)や政治(楽)、慣習(礼)、歴史(春秋)などがあったわけである。つまり同じ文献でも倫理的なものを見れば「経書」であるが、心の働きそのものを見ようとするだけならば「緯書」ということになる。

「緯書」が予言の書と見なされるのは「予言」が、それが蔓延する社会の深層心理を如実に反映しているからに他ならない。本来的に「緯書」は予言が当たっている云々ではなく、ある種「予言」などのオカルト説が受け入れられる社会の深層心理(集合無意識)を知るための方途となり得る資料として読まれるべきものなのである。「緯書」とは「オカルト的な読み方のできる文献」のことである。そうであるならあらゆる文献が「緯書」として読めるのではないかということが陽明学では考えられていた。それは陽明学が「ありのままの心の働きが正しい行為を促す」としていたからである。これについては疑義ももたれているが、とにもかくにもいろいろな文献をオカルト文献と読む「緯書」という考え方はおもしろいものではある。



姚姫伝『老子章義』(【 】の部分が姚姫伝の注)

大国を治めるのは、小さな生魚を煮るようにするべきである。

【「小さな生魚を煮るようにするべき」とは、謙虚であるということである】

「道」をして天下のことを見れば、鬼神も(「道」の中に存在しているのであるから、そこには何ら)不可思議なもののないことが分かる。そうであるから鬼神が(理不尽に)祟るようなこともないわけである。それと同じく(「道」の中にある)聖人も他人を傷つけるようなことはない。鬼神も聖人も共に相手を傷つけるようなことはないのである。それは鬼神も聖人も道の中にあるのであるからであり、その行為は徳をして行われているからである。

大国は奢るべきではない。天下の交わりは、牡牝(オス・メス)の交わりと同じである。常に牝は「静」であり牡の「動」をコントロールしている。「静」とは謙虚であるということである。そうであるから大国は小国を属国とすることができる。しかし小国を殲滅しようとするならば、大国を破り逆に打ち負かすようなことも起こり得る。そうであるから大国は小国の立場を尊重することで、小国を属国とすることができるのである。そうした状況では、大国は小国を征服しなくても、有能な人材が得られて良い。一方、小国は統治権を失わないで、大国との交流ができて良いことになる。こうしたことは、それぞれに利があるわけである。そうであるから「大」なるものは謙虚であるべきなのである。

(注 こうした統治の形は冊封体制という。大国である中国に周辺諸国は貢物を贈ることで、それ以上の品をもらい、直接に統治されることもない)

道は万物の奥に隠れている。それは善人の宝であり、不善の人もそれを有している。聞き良い言葉は(例えそれが真実ではなくても)多くの人が好むものである。優れた行為というものが認定されれば(例えそれが真実ではなくても)多くの人が、それを行おうとするものである。こうした(真実ではない)不善も使うべき場合があればそれを使うことも悪いことではなかろう。

【善人であるから「聞き良い言葉」を発せられるのであり、不善の人は本来的にそうした言葉を発することはできない。「聞き良い言葉」が人に好まれるのは「糸を織ることをしないでは布は得られない」あるいは「田畑を耕すことなく穀物は得られない」のと同じ当然の結果なのである。善人はもとより優れた行為を行うものであり、不善の人はそうした行為をすることはできない。つまり、そうした「優れた行為」は見習うべきであり、誰もが模範とするべきなのである。決して聖人の行う「優れた行為」を顧みないことがあってはならない。そうであれば誰でも「善人」となることができるのである。不善の人も善人を見習うことで悪いことをしないで済むのである】

(注 ここの注釈は本文とは違っている。姚姫伝は善人の行為と不善の人の行為を分けているが、老子は普通の人には明確な区別をつけることはできないとする。それは不善の人も、生きている限りは「道」の中の存在であるからである)

そうであるから皇太子を立てる時には(「善人」の役割をする三人の補佐官である)三公をつけるのである。国王と成って大軍を指揮するようになっても、その行動は(三公に代わる「善」なる」「道」の教えによるべきである。古くから重視されているのが「道」である。「道」を実践して得られるべきものとは何であろうか。それは罪を犯しそうになっても、それに及ぶことがないところにある。そうであるから「道」が重視されて来たのである。

「無為」を実践する。そこでは、あらゆる為すべきことが行われている。「無味」を味わうと大小多少がある(注 あらゆる味がある)。

【大小多少の下には続く文があったのではないか。あえてこの部分をこのまま解釈しなくても良かろう】

「怨」に報いるのに「徳」をもってする。

「難」しいことの中に「易」しいことのあるのを見る。「大」きなことの中に「細」かなことのあるのを見る。あらゆる難事には、必ず易しいことのあるものである。あらゆる大事には、必ず細かなところがあるものである。聖人は大事をただ大事とすることはない。そうであるから大事の中に行いやすい細かな部分を見つけてやって行くので、結果として大事を成し遂げることができるわけである。何かを軽んずるとは、それを重視することがないからである。ただ簡単だと思ってしまうと、必ずそうした中にある難事を見逃してしまうことになる。そうであるから聖人は簡単なことでも、それを単に簡単であるとせず、難事である、と言うこともあるのである。このように難と易とを共に知ることで、いたずらに難しいとだけ思うことも無くなる。もとより簡単なことであっても、それが簡単そうでなければ、難しいのではないかと思ってしまう。簡単であっても、そう見えなければ難しいことのように見なされてしまう。行為をしなければ難しいも、簡単もない。統治しようとしなければ反乱を起こされることもない。木を抱えようとしても、育っていなければ抱えることはできない。大きな建物も基礎がなければ建てることはできない。千里の道も一歩を踏み出さなければ歩きつくすことはできない。始まりは「足下」にあるのである。

行おうとするから失敗をするのを畏れることになる。執着をするから無くすのが気になる。そうであるから聖人は何かを行おうとはしない。ために負けることはないし、執着することもない。無くすのを心配することもないのである。しかし普通の人が何かを為そうとする時には、何らかの成果を求めるものである。そうなれば失敗の恐れがある。重要なことは過大な結果を始めから求めないことである。そうであれば失敗を恐れることもない。つまり聖人は「求めない」ことを自己に求めるのである。得られないものは大切と思うことがない。何かを学んでも、それをこだわることはない。また多くの人の間違いも、

【「『求めない』ことを自己に求めるのである。得られないものは大切と思うことがない。何かを学んでも、それをこだわることはない」は、これだけで一章としても良いくらいである】

それが普遍的な自然の中で生じたものと考えて、特に気にすることもない。


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