丹道逍遥 文始真経(三極篇二十一〜二十五)静坐秘伝「冥心守一法」

 丹道逍遥 文始真経(三極篇二十一〜二十五)静坐秘伝「冥心守一法」

「冥心守一」とは「心を冥(くら)くして、一を守る」ということであるが、「一」について老子は「道は一を生む」(第四十二章)としている。そして「一」から万物が生まれるとする。つまり「守一」の前にある「冥心」は「道」への覚醒なのである。そうであるから「「冥心」となれば「守一」を行うことができるわけである。「道は一を生む」のであるから「冥心は守一を生む」のである。「一」とは「凝」といわれる統一状態を示している。「道」を得ることができれば、心身の安定した統一状態である「一」となってもいるのである。

そうであるなら「一」とは何か、ということになる。老子は「一」は天にあっては「清」をもたらすものであり、地にあっては「寧(やすらぎ)」を、万物にあっては「生(いのち)」を与えるものとする。そして人には「貞(まこと)」をもたらすとしている(第三十九章)。つまり「一」とは「清」であり「寧」であり「生」であり「貞」なのである。こうした感覚を得ることが「一」を得ることになるわけで、それはまた「道」の感覚であり、これに触れる(覚醒する)ことができれば、余計な心の働きは無く成って行く。これが「冥心」である。静坐をしていれば自ずから「清」「寧」「生」「貞」こういった感覚が得られる。これらが感じられた体験を「曇りの日の晴れ間」という場合もある。「晴れ間」の感じが統一感でもあるので、その感覚を育てるようにして行けば良い。


                                 (参考 蕭天石『道海玄微』)

上士、中士、下士が「道」を知ると

老子は第四十一章で「上士は道を知ったならば勤めてこれを行おうとする。中士は道を知って、それを実践することもあるし、しないこともある。下士は道を知っても、笑ってしまうことであろう。下士が笑い出さないようでは、それは道と認めるに足らない」としている。これは一般には「上士」は「道」をよく理解しており、中士はそこそこ理解している。しかし下士は全く理解できていない、とされている。ここで問題となるのは、どうして下士は道を知って、それを笑ってしまうのか、である。また中士も道を行うこともあるし、行わないこともある、とする。どうして、このように行動が分かれてしまうのか。

以下に引用している『文始真経』では、中士を「賢者」、下士は「愚者」そして上士を「聖人」とする。つまり中士の賢者と下士の愚者は共に道を本質的には理解し得ていないわけで、例え中士が道を行っているように見えても、それは真の意味で道の実践ではないのである。つまり賢者は聖人の行為の「善い」ところをまねて行おうとする。しかし「愚かしい」ところは、それを行わないわけである。そうであるから実践するところと、実践しないことが生じるわけである。愚者は聖人の行いが「当たり前」のものとしか見えない。ただ、当たり前のことをしているだけなので嘲笑されることになるわけである。しかし愚者には、その「当たり前」のことを行うことはない。行うことはできない。



(二十一)

關尹子が曰われた。

世の中の愚かな人は、聖人の「愚かさ」が分かったような気になっている。

(聖人といっても俗人とたいして変わらないと誤解してしまう)

聖人は時に「愚か」に見えることもあるが、時には「賢く」見えることもある。

ある時は劣っているようであるが、ある時には優れているように見える。

そのことを愚かな人は分かっていないのである。


(二十二)

關尹子が曰われた。

「聖」であることをして聖人を師とするのは賢人である。

「賢」であることをして聖人を師とするのは聖人である。

(賢人は聖人の「聖」なる部分をよく理解しているが、聖人の「俗」なるものは見ようとしない。それでは真に聖人を理解したことにはならない。一方、聖人は聖俗にこだわらない自然と一体となった「叡智」のあることをして、見るべきことと認めているわけである)

「聖」であるから聖人を師とするのは、ただそれに従っているに過ぎない。

「道」を忘れて「賢」なるをもって聖人を師とするのは、聖人が「聖」なる存在であることにこだわることがないので(聖俗を越えた)「道」とひとつになり得ているのである。


(二十三)

關尹子が曰われた。

賢人はあるべきを行って、そうでないものを顧みることをしない。

俗人は一般的なことだけを行って、優れた方法を行おうとはしない。

聖人は一般的なことにも、優れたことにも通じている。

聖人が俗人や賢人と比べて、あるべき存在であるのは、俗に居ないからである。

これ以外に聖人たるものは存在し得ないのではなかろうか。


(二十四)

關尹子が曰われた。

天下の「理」とされるのは、

夫の言う事に妻は従うものである。

オスが走れば、メスも走るものである。

オスが鳴けば、メスは応じるものである。

である。

これらは「常識」かもしれないが聖人は、その言行において、このような決まり切った「理」に盲従することはない。

賢人は世間一般の常識としての「理」にこだわることはないのである。


(二十五)

關尹子が曰われた。

聖人の「道」においては、虎が事に応じて態度を変えるように、事に応じて変化をする。

しかし、それは慎重に行われる。

(聖人の変化は無為自然をして行われるのである)

聖人の行いは、行き当たりばったりのように見えても、

そこには一定の秩序(つまり「道」)があるのである。



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