道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(8)

 道徳武芸研究 植芝盛平の神秘体験(8)

合気道の練習において、霊的な力の獲得が主要な目的でなくなった時、過度な「万有愛護」へのこだわりも必要のないものとなった。「愛の武道」としての「合気道」も一般的な倫理レベルでそれを捉えれば良いものとなったわけである。植芝盛平は最後まで霊的な修行と合気道とを一致させることはできなかった。それは弟子たちの無関心にもあったのであろう。弟子たちはひたすら開祖・植芝盛平の武術的な力を求めたのであった。そして、それを受け継いだ吉祥丸は組織の拡大のためには、特に神道的な色彩を色濃く持つものは不必要と考えて合気道における霊的な要素を排除してしまった。結果として盛平の抱えていた「矛盾」はその存立の基盤を失った。しかし「愛の武道」としての「合気道」という名称は残照のように残り、「愛」と「武道」との間の矛盾はいまでも残っている。現在、こうした矛盾のあることには、多くの人が目を瞑(つむ)ったままであるが、合気道が純粋な徒手武術としての技法に掛けにくい関節技を主体とするという不十分さを有している以上(盛平が「霊的な能力」を求めた一因はここにある)、この矛盾を見ないで、単なる徒手武術としての道を歩もとするなら早晩、その存在価値を失ってしまうのではないかと思われる。


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