道徳武芸研究 葛洪の武術修行

 道徳武芸研究 葛洪の武術修行

葛洪は抱朴子と号する三世紀頃の中国の人である。その著書の『抱朴子』でよく知られている。同書はかなり大部の文献であるが最後に「自叙」があって自伝を記している。その中に武術修行にも触れているのである。三世紀といえば日本では弥生時代の終わる頃であるが、当時の中国にはかなりの数の本があって、葛洪はそれを熱意をもって求めていたようである。先ず子どもの頃には「擲瓦」や「手摶」をしたとある。瓦投げや相撲といったところであろう。これは単なる遊びであり、武術の修行というものではなかったと思われる。自分でも運動能力は低く、同輩に及ばなかったと記している。青年になってからは儒教の学習の一貫でもあるので弓術を習ったらしい。儒教には六芸として礼法、音楽、弓術、馬術、書法、数学を学ぶことになっている。日本でも「弓馬の道」というように弓や馬は武術の中でもより高く評価されていたのはこうした背景があったのである。


葛洪が弓を選んだのは、護身に役立つことと狩りにも使えることがあったとする。後の実戦では騎馬兵二人と馬を射て生き延びたと述べている。日本ではあまり馬を射るということは聞かないが、中国では斬馬刀などもあって、馬そのものも攻撃の目標となっていたようである。ちなみに斬馬刀は漢の頃からあったが、当時は斬馬「剣」とされていて、明代になって斬馬「刀」とされるようになる。それは日本の太刀の影響によるもののようで鄭成功が使ったのが最初とされる。日本の太刀は中国の刀より大きいので、その重さを振り回した時の遠心力を使うことができる。そうであるから斬馬刀は馬も人も一太刀で斬るとある。その他に葛洪の学んだものとしては「刀盾」「単刀」「双戟」などもあったようである。この中で「刀盾」と続けて書いてあることからすれば片手に刀、片手に盾を持っての闘い方であったことが考えられる。「双戟」も両手を用いての武器である。中国武術ではそれぞれの手に武器を持って闘うことも特色といえるであろう。そしてこれらには「口訣」や「要術」があって、こうした「秘法」を学んで初めて「入神」の境地に入ることができるとある。これからは既に三世紀の中国では、かなり体系として整えられた武術のあった様子をうかがうことができる。


そして晩年には七尺の「杖術」を学んだとある。当時の一尺は25センチくらいなので、七尺であれば175センチくらいになる。現在、日本の杖術は130センチくらいであるから、今のイメージであれば棒術に近いとすることができる。そしておもしろいことに、この杖術は「白刃」や「大戟」を制することができるとある。「白刃」には「入」、「大戟」には「取」とあるから杖を用いて刀や剣、大戟を絡め取るような術であったのかもしれない。そうした高度な使い方には「口訣」や「要術」が必要であったと思われる。ただ葛洪はこうしたものは「不急の末学」であるという。必ずしも学ばなければならないようなものではない、ということである。それは技術的には高度であるが、こうした技術を使うシーンはよくあることではなく、生きる上ではより重要な身につけるべき術(長生きのための金丹術)があると考えていたからである。葛洪の時代ではないが日本の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「杖刀人」と記されていた。これは大王の警護をしていた人物のようであるからここにあるような武器を制する技術が日本にも杖術として伝わっていたのかもしれない。


葛洪が杖術と共に無用の術としてあげているものに「麟角」と「鳳距」がある。これは現在は「麟角鳳距」の語として無用なものの例えにされている。意味は「麒麟の角と鳳凰の嘴」のことであるとする。「麟角鳳距」が無用のものを表す語とされたのは『抱朴子』からと思われるが、ここでは武器術の流れて杖術と並んで実戦では使うことのほとんどないものとして挙げられているのであるから、これらも武器と解するべきであろう。つまり「麟角」は麟角刀であると思われる。麟角刀は麒麟の角のように先が二つに別れている刀である。「鳳距」は現代にそれに相当する武器を見出すことができないが「距」には「爪」という意味があるので、鈎状のものの付いた「鈎爪」のような武器と考えられる。ブルース・リーの「燃えよ!ドラゴン」の鏡の部屋のシーンで最後に敵のハンが使った武器と同様のものであろう(映画では「鳳」ではなく「熊の爪」となっている)。こうした変わった武器ものもこの頃からあったようである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)