宋常星『太上道徳経講義』(61ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(61ー5)
つまり「受け身(下)」にあるとみなされたならば、そのれは相手からの収奪を受けるのである。こうしたことからは大国では「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、小国では「介入しようとする(入事)人」と同じようなことを見ることができるのである。
ここで述べられているのも先の文の補足である。「受け身(下)」とあるのは先に「大国があえて小国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」や「小国が大国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見た」ということである。ただ自然にあっては大国は天であり、小国は地である。天は尊くそこには君子の道が行われ、地は卑しく臣下の道が行われていている。つまり大国の君主は、その徳が天の如くであって虚心で己に執することがなく、それは太虚があらゆるところに及んでいるのと同じで、あらゆるものを育んでいるのである。一方で小国が「受け身(下)」であるとは、小国の君主は機能させられないのが当然であり、その徳は地の如くで柔順であって、その根底(坤元)にあるのは天の徳をあまねく受けることなのである。天の徳に柔軟に順じる。これが地の徳といえる。また大国が「受け身(下)」であると小国が見たならば大国も侵略を受けることになる。こうしたところからすれば大国が「受け身(下)」であって小国を攻撃する気配がないならば小国は大国を侵略しようとするであろう。これは小国も自己が「受け身(下)」であると見なされると侵略されるのと同じである。こうしたことは「より蓄えようとする(兼蓄)人」と同じであり、このように動くのは小国でも大国でも同様で違いはない。その大小は関係なく、すべからく人の心を「受け身」であるように育てて行く。そうなれば「天下は一家」となり、小国や大国の差異も生じなくなる。こうして天下を化育して、あらゆるところに徳を及ぼす。しかし現実は往々にして「大国はただ『より蓄えようとする(兼蓄)』の人と同じ」なのであり、また「小国はただ『介入しようとする(入事)人』と同じ」である。そうであるからよく「受け身」で、勤勉に働き、上に奉仕して終日、慎み深くあって、世の一隅を守るようにすべきである。そうすることが、よく民を治めて、その身を保つことになる。そうして国を安定させて君臣は共に大国に見られるような「より蓄えようとする(兼蓄)」な気持ちが起こらないようにする。そうなれば小国はよけいなことをすることもないし、民を治めようとする時でも大国や小国といった事情の違いは、共に天の「理」によることで解決できるのである。それは自己に執着することなく、天地の心と一体となって、君臣がひとつになることなのである。
〈奥義伝開〉ここでは「兼蓄」と「入事」の人のことが突然に出てくる。大国は小国を飲み込んで併呑しようとする。これが「兼蓄」である。一方、小国は大国の一角でも占領しようと攻め込む。これが「入事」である。侵攻の欲望を持つことは大国であっても小国であっても変わりはないが、小国が現実に行動に出ないのは、勝てないからに他ならない。歴史に見られるように大国であっても重臣の不和や内政の混乱が生じていれば小国が大国を倒したり、その一部を奪うことは往々にしてあった。ここで示されている「兼蓄の人」や「入事の人」も当時、よく言われていたことなのであろう。簡単に言えば「貪欲な人」であり「お節介な人」ということができるかもしれない。こうした人は等しく自分の意のままに相手をコントロールしようとする人である。立場が違えばその現れ方は異なるもののその根底にあるものはひとつであると老子は教えていて、そこには「静」の欠如があるとする。