道徳武芸研究 「先天の勁」を考える〜孫禄堂の武術思想〜

 道徳武芸研究 「先天の勁」を考える〜孫禄堂の武術思想〜

孫禄堂の『八卦拳学』には第十八章で「八卦拳先天後天合一式説」があり、第二十章には「八卦拳先天後天合一図解」がある(ちなみに第十九章は「八卦先天後天合一図」で図が示されている)。二十章の「八卦拳先天後天合一図解」では「先天は後天の体であり、後天は先天の用」であるとある。そして「後天」とは八式(八母掌)であるという。つまり八母掌は「用」つまり応用であり、そのベースとなるのが先天であるとしているのである。そうであるなら「先天」とは何か、ということになるが、そこには「先天の勁」があるとしている。「勁」とは武術的な力のことである。例えば「押す」という行為で単に押すことは誰でもできるであろうが、これを武術的な行為として「突き飛ばす」ことは、その手法を学ばない限りできるものではない。「押す」という行為が、相手を「突き飛ばす」という行為になるには相手の身体の中心を捉えること、そして溜めを作って一気に力を出すことなどがなさればならない。しかし孫禄堂はこうした力を人は生まれながらに有しているというのである。そうであるから八母掌は単に身体をして「勁」を表現しているに過ぎないということになる。つまり剣術であれば「刀」は先天的に有していて、武術の練習はそのバリエーションであるに過ぎないというわけである。


孫禄堂は「先天の勁」は「無形の勁」であるともしていて、これを「無形の八卦」であるともいう。そうであるからその「八卦」に形を付与すると八母掌となることになる。そして「先天の勁」は後天にあっては「陰陽」として現れ、それは「伸縮」の運動となる。そしてそれを手足を用いた旋転の動作で示すならば八母掌となるとしている。そして修練とはこうした「先天の勁」と後天の八母掌を合一させることにあるというのである。つまり人は既に「先天の勁」として「無形の八卦」を有しているのであり、それのままに動けば八母掌となることになるのであるが、そうなると理論的には全ての武術は八卦掌から派生するという理屈になってしまう。このことは孫派の八卦掌を解説している秦浩人の『中国仙道房中術』に「八卦拳というのは、八卦の原理を利用した拳法であり、あらゆる拳法の基礎です。どの門派の拳法を練習するにしても、まず八卦拳から始めなければなりません。なぜならば、八卦拳からはじまっていない拳法は、所詮は砂上の楼閣であり、いざというときには、ぜんぜん使いものにならなりません」と述べているが、こうしたことの理論的な背景は孫のいう「先天の勁」にあるわけである。


孫禄堂は「先天の勁」があるとするのであるが、これは「気」であるという。そして、この「気」は「混然の一気」であるとしている。初心の内は形とこの「気」が一致しないので四肢がうまく運用することが難しいのであるが、それは「意」の通りに四肢が動かないためであるとする。つまり「混然の一気」は働きにおいては「意」となるのであるが、またそれは心の働きの根源である「性」であるからであるとする。つまり「混然の一気=先天の勁=先天の八卦=意=性」となるわけである。このことをまた秦浩人は「拳法でいちばん大切なのは、決して手足ではありません。拳法でいちばん大切なのは、むしろ心であります。つまり、虚無のこころを持つことが、いちばん大切です」(前掲書)と述べている。これもまさに孫の言うことそのままである(ちなみに同書で述べられている房中術は本来の仙道からすれば邪なものに過ぎない)。



孫禄堂は人の心の根源である「性」はその働きとして「先天の勁」つまり「武術的な働き=勁」があるとしているわけである。そうであるから心のままに動けば、武術の形になる、という図式を得ることが可能となるのであり、ここに後天の経験や知識によらない「純粋」経験としての武術の成立の余地が見出されるわけである。しかし、そこで問題となるのは、こうした根源の能力である「良知良能」に攻撃的な要素はあるのか、という点であった。古来より人の心の根源は「善」であるとされて来た。そして「柔」が貴ばれ、「静」が良しとされていた。そこで孫派の武術の形には「柔」や「静」がベースになっている。形意拳も八卦拳も太極拳も柔らかでシンプルな動きになっていて、そこに闘争的な要素を見出すことは難しい。つまり孫のいう「先天の勁」とは相手を攻撃、撃破する「力」ではなく、相手の攻撃を避けるための「力」なのであった。そうした意図をもって孫家拳は「柔」であり「静」である套路に変更されているのである。しかし、そうなると形意拳や太極拳、八卦拳をそれぞれに修行する意味が見出し難くなってしまった。もし孫の理論で行くのであれば、全てを太極拳的な「柔」「静」の動きとするのではなく、先ずは八母掌で「静」「柔」を得て、実戦で定評のある形意拳では攻防の形を学び、太極拳でこれらを統合する、といった方法があり得るように思うが、これは既に八卦拳に見られるものでもある。つまり八卦拳では攻防の形の全くない八母掌から少林拳的な動きである羅漢拳、そして導引的な両儀之術を学ぶようになっている。あるいは孫にもこうしたイメージがあったのかもしれない。そのため自分の学んだ八卦「掌」をあえて八卦「拳」としたとも考えられよう。


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