宋常星『太上道徳経講義』(61ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(61ー4)
その「静」であるとは「受け身(下)」であるということである。しかし大国があえて小国を「受け身(下)」にある(攻撃をしない)と見たならば(そこには交わりは生まれることなく)小国を取ることになろう。小国が大国を「受け身(下)」にある(攻撃をしない)と見たならば、小国は大国を取るであろう。
静であり「受け身(下)」であるべきなのは大国に限ったことではなく、小国においてもそうである。それを前提として「しかし大国があえて小国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見たならば」としている。これは大国は「受け身」ではなく小国だけが「受け身」である場合である。そうなると大国は小国を従属させようとする。しかし、そうであっても小国をして栄えさせれば、それは「徳の信(まこと)」を行うことになる。大国は大国であることに執することなく小国を尊重しなければならない。これは大国が静をして小国に対するということである。「(小国を)取る」とあるのが、そこにあっても互いに道を同じくする、徳を等しくして、無為を主導(上)としていれば、小国は自然に大国に頼ることになろう。ここで述べられているように大国が一方的に小国を「受け身(下)」と見るならば、つまりは小国を「取る」ということになる。そうなると小国は大国を力のある国として仰ぎ見ることになり、貢物を送るような従属関係を結ぶことになろう。小国は大国に従属してなんとか自己を保とうとするわけである。このように大国に従属するのであれば小国だけが静にあるということになる。また小国が大国を「取る」こともあるが、そうなると大国の君主の威信も眼中になく、大国を侵略することで自国を保ち民を守って、永遠なる安楽と福恵を得ようとすることになる。海は安らかで川も清らかにして、民が永遠に苦しみを受けることもないのが自然のあるべき姿であろう。ここにある「小国が大国を『受け身(下)』にある(攻撃をしない)と見たならば、小国は大国を取るであろう」とは、以上のような意味である。もし静であり「受け身(下)」であることができないのであれば、小国であっても必ず大国と争うようになるであろう。また大国は必ず小国に攻め入ることであろう。そして国土を侵略し、経済的な利を争うであろう。また小国と大国の間に信頼関係が無くなり、国内にあっても上下は反目するようになろう。そうなると国の滅びの道がここに始まることになる。あらゆる不幸はここから生まれる。これは静であり「受け身(下)」であることができない故の害である。重要なことは慎みにあるのである。
〈奥義伝開〉ここでは「下流」が「下」であることが示される。つまり「受け身」であるということである。牝、牡の関係でも「牝」によって象徴されるのは「静」であったが、「下流」と「静」とをつなぐのが「下」であったのである。こうした自然のあり方としての「女性原理=玄牝」は国の大小とは関係がなく実行されるべきことが述べられている。大国であるからといって「受け身=女性原理=玄牝」が実行できないということはないし、小国であってもそれが行われるべきなのである。「国」は無為をして生まれることはない。それは「動」という働きによって生み出されたものであり、その最たるものが「大国」である。そうであるから「国」においては特に「静」が行われるべき必要があるわけである。