宋常星『太上道徳経講義』(61ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(61ー6)

それぞれは、その欲望のままにことを行っているわけである。そうであるから「力のあるもの(大)」はよく「受け身(下)」であるべきなのである。

ここでは、この章の総括が述べられている。まとめともいえる部分である。大国が小国を「受け身(下)」であると見なせば、小国は大国の威に従属することになる。しかし、そこにおいて大国は徳を抱き恩を施すべきである。また小国が大国を「受け身」であると思うと、その従属は大国を国家の枠を越えた普遍的な存在と見なすことになるのであり、虚心で自己に執着することなく(大国に「臣下」として仕えるという)徳を行うものとなる。しかし謙譲や卑下をすることなく大国であることの威を堅持していれば、例え小国に従属する気持ちがあっても、決してそれが実行されることはなかろう。こうした状況にあっては小国は自己の力の無さを認識することもなく、小国、大国がそれぞれにかってな思いを持ち、大国も小国を併合することにおいて徳を行うことがない。今この二つの国が、それぞれがあるべき状態にあるとすれば、おおよそ大国も小国への思いやりを持つことであろう。また小国は大国が徳を実行しよとする志をよく受けて、それぞれの思いをひとつにして、共に一心となるであろう。つまり共に大国であるとか小国であるとかにこだわらないということである。そうであるから大国は小国の存在を保証するものとなるのであり、小国は大国を助けることになるのである。天下の大きさとは、多くの国があるということにあるのであるが、そうした中にあっても大国は重んじられる。そうではあるが大国は「受け身(下)」の立場にあらなければならない。こうしたことが「そうであるから『力のあるもの(大)』はよく『受け身(下)』であるべきなのである」として述べられている。この章は、大国だけではなく、小国であっても虚心であり己に執着することがないようにしなければならないと教えている。それは「受け身(下)」であり謙譲の徳を持つということでもある。大国が小国に対してただ「より蓄えようとする(兼蓄)」欲望だけで併合に動いたならば、小国は大国に従属することでしか存続して行くことができなくなってしまう。ただこうした時でも小国が主従の徳(忠)を行えば、それによって大国に徳化の影響を及ぼすこともできよう(礼)。修身の道を考えてみると、全くこれと同じであることが分かる。自己の本来的な心のあり方(性)も、本来的な行為のあり方(命)も永遠に変わることのない「理」においては、まったく大国や小国の「理」と等しいものがあるのである。身中の陽が陰を受けることの教えは、牝が牡を受け入れることの「理」と等しいし、乾剛、坤柔であってもその関係性は変わることがない。動であるものは動きを持ち、静であるものは静かである。性は陽であり命は陰である。尊ばれるものは自ずから尊ばれるのであり、卑下されるものは自ずから卑下される。陰は静であり、陽は動である。動は出るものであり、静は納まるものである。動であるものは自ずから動き、静であるものは自ずから静まる。これは陰陽の配合であって、それぞれが「理」を得ている。動静はそれぞれに立場があり、それぞれの働きをしている。もし陰陽があるべきとろになければ、水と火は交わることなく、身中の神と気はひつになることはない。そうなれば身中の五行は乱れてしまう。そうであるから大国は「より蓄える(兼蓄)」だけではいけないのであり、小国はあえて「介入しようとする(入事)」することがないようにするべきである。そうでなければ小国も大国もあるべきを失い、まさに国家の危機に臨むことになろう。そうであるから修行をする人は心を乱すことなく、我欲にとらわれないで「私」を捨てるべきである。そうなるには内には自己への執着をなくし、外には物へのこだわりを忘れる。大国にあっての「より蓄える(兼蓄)」ことにおいて実行される徳(つまり受け身であること)を尊重して、柔をして道を用いるのである。小国が「介入しようとする(入事)」ような気持ちを持っていても、その気持ちを察して本来の心のあり方(性)へと帰るように導くのである。こうして大国と小国とがひとつになることは乾坤をひとつにすることであり、牝牡が交わりを持つということでもある。そうして身中の陰陽は自然にひとつとなって、その性命は自然に交わることになる。静をして「受け身(下)」であるのは、真に大いなる道の秘要であるということができるわけである。


〈奥義伝開〉ここではまた冒頭の大国に話を戻しているが、単に「大国」としないで「大」として、その教えを普遍化していることが分かる。冒頭の「大国」は「下流(受け身)」であれ、ということを、これは国に限ることではなく、力のある者はということで「大」として抽象化している。それは力のない者(小国)が力のあるもの(大国)へ介入することは困難であり、まれであるからに他ならない。現実的には力のある者の戒めとするのが適当であるということである。そうであるから「力」を得ることを目的とする武術を修行する者が第一に求められるのが「静」なのである。そして原理的にそれを武術のシステムとして構築し得たのが太極拳であり、合気道なのであった。


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