道徳武芸研究 「純粋」経験としての武術〜孫禄堂の挑戦〜

 道徳武芸研究 「純粋」経験としての武術〜孫禄堂の挑戦〜

ここで言う「純粋」経験とは後天的な知識を得る前の状態においての思考、行動をいうものである。通常は何かを学ぶことで、より効率的、合理的な思考や行動をとることができるとされている。しかし中国の精神文化の中では、そうしたものを余計と考える傾向がある。むしろ後天的な知識がない方がより効率的、合理的な思考、行動がとれるとする考え方が根強く存しているのである。これを老子は「樸」や「嬰児」として表現している。「樸」は「あら木」のことであり、加工されていない木の意である。「嬰児」も後天的な知識を学習していない状態を示している。儒教ではこれをより明らかに「良知良能」としてその優れていることを明確にした。逆に禅宗では「教外別伝」で経典や戒律といったものに縛られることを良しとしなかった。それは釈迦が悟りを開いた時には経典も戒律もなかったからである。もし純粋に釈迦の悟りを追体験しようとするのであれば、悟りの前の釈迦に近い状態(仏教を知らない状態)でなければならないと考えるわけである。そして、その状態であることで、最も「純粋」な教えを悟ることができると考えたのである。


武術においても攻防の技術を知る前の状態が、最も純粋な動きを生み出す、と考えたのが近代形意拳の泰斗である孫禄堂であった。そして武術を知る前の状態を「虚」であり「先天」であるとした。つまり「実」である攻防の技術や「後天」的な攻防の経験などが無い、全く攻防について知らない時が「虚」や「先天」の状態なのである。ただ孫禄堂は先天後天の合一を唱えており、全く後天の技術を否定はしていない。孫禄堂は形意拳、八卦拳、太極拳は全て共通の「虚」から生まれたとして、それぞれの動きを抽象化することで、その共通性を見出して、そこに先天後天の合一があると考えたのであった。つまり、全ての動きのベースである先天の「虚」から後天の「実」として形意拳や八卦拳、太極拳が分派したわけである。そうであるからそれらを抽象化=簡易化することで「虚」から生まれたままの動きに近づけると考えたのであった。それは「虚」から生み出されたそのものではないが、限りなくそれに近いものであり、それを学ぶことで個々人においては「虚」から最も効率的、合理的な動きが得られるとしているわけである。


孫禄堂が「先天」の武術というものを考えた背景には、近代中国が直面した「知」の現状がある。清朝の始まる二百年くら前ではヨーロッパを凌ぐ知的水準にあった中国であるが近代になると大きく遅れを取っていることが明らかと成る。そしてその原因にあるのは「知」の閉鎖性であった。多くの優れた知見が公開されることなく、個々の学派(門派)の中で秘伝とされたために「知」の飛躍的な発展が阻害されていたのであった。こうした反省が中国武術にもあって特に「門派の弊害」が説かれるようになる。それが「国術」運動となり「強種強民」をスローガンとして唱えられたのである(孫文は「強種保国、強民自衛」をしばしば唱え、強い中国人が国の秩序を保ち、強い国民が侵略から衛る、とした)。この具体的な方法が日本の柔道に模索されたのが「国術」運動なのであった。それを展開するに当たって門派の壁を取り払い優れた武術を「国術」として国民に学習させることが意図されたのであった。まさに孫はそうした運動の中核にあった中央国術館の武当門の門長であったのである。


冒頭で中国精神文化において「純粋」経験が重視されて来たことに触れたが、道家では実際の修行においては、それが否定されて、導引や静坐などは「逆」修(無為自然ではなく有為の修行)とされていた。一旦、不自然な修行を経ることで真の「自然」を見出すことができるとするわけである。儒教では王陽明が「良知良能」を重視したが、この派では儒教の教典(四書五経)は必要ないとする派や必要であるとする派、参考程度には知っておくべきとする派に別れた。必要ないとする派は禅宗や道家と変わらないものとなり、必要である、知っておくべきとする派は朱子学に吸収されてしまった。特に興味深いのは王陽明自身もそうであるが弟子も教典を巡っては右往左往していることが書簡でよく知られる。そして実質的には陽明学は消失してしまう(日本では近代になって「陽明学」が再評価される)。これと同じことが孫家拳でも見られる。結局、人は経験「知」からしか行動や思考生み出すことができないのであり、生まれながらの状態からでは最も原初的なものしか生み出さないことが分かると、こうした先天へ回帰する志向性は顧みられなくなってしまったのであり、孫家拳のシステム的な破綻が知られるようになるのである。


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