宋常星『太上道徳経講義』(54ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(54ー6)

そうであるから個人は個人として(のレベルで善の実践が)見られるのであり、家は家として(のレベルで善の実践)見られ、地域は地域として、国は国として、天下は天下として(のレベルで善の実践が)見られるのである。

ここで述べられているのは、聖人が家や国家や天下をどのように見ているかであり、その視点は全てに共通している。聖なる王は、天下の人を自分自身のように見ていた。つまり自分自身を天下の人々と等しいと思っていたのである。それは自分の体を大切なものとして見るのと同じ気持ちで他人をも見ているということである。それは天下を大切なものと考えることにおいても同様であった。金は大切なものとされているが、そうなっているのは、そう思う気持ちがあるからである。天下を利するということは、聖人も民も等しく楽しみを得ることであるし、民と共に憂えることでもある。誰が聖人は天下を我が身と考えていることを知るであろうか。それは特に天下を我が身と等しく執着しているわけではない。ただ我が身のよう大切に思う気持ちを持っているということに過ぎない。自己が自己だけを見ているのではなく、自己を通してあらゆるところに自己を見ているのである。そうであるから日常の生活も修行も異なるところがない。個々人の体を見ていても、修行において自己を見つめているのと変わりはない。「個人は個人として見られるべき」とはこうした意味である。聖なる王は、ただ個々人を自分と等しく見ていただけではない、他人の家も自分の家と等しくして見ていた。家の中には父母も居るし、夫婦も、子どもも居る。天下における家は、どこでもこうした人たちで構成されている。聖人が天下の家の人を見るのは、自分の家の親を見るのと同じであり、他人の家も自分の家と等しく見ている。そうであるから自分の家の者を教え導くのと同じようにして、天下の人を教え導くことができるのである。それは自分の家の人を教え導くのと何ら変わりがないからである。個々の家にはそれぞれの人間関係によって守るべき道徳がある。人として行うべき人倫がある。天下の人において、それぞれに行うべき人倫がある。自分の家も他人の家も等しく行うべき道徳がある。そればどこの家でも同じであるという意味で「家は家として見られるべきであり」と述べている。聖なる王は自分の家も他人の家も等しいものとして見ているだけではなく、地域の人も同じように見ている。隣近所に居る一族が集まって小さな地域社会が出来ている。五つの家が集まっているのが「隣」である。さらに五つの「隣」が集まると「里」となる。四つの「理」が集まると「族」となる。五つの「族」が集まると「党」となる。五つの「党」が集まると「州」となる。五つの「州」が集まると「郷」となる。そうであるから「郷」には一万二千五百の家が集まっている。「郷」とはそういった規模で地域社会を構成している。聖人は一つの「郷」にあっても、天下のどこの郷をも等しいものとして見ている。自分の「郷」もその他の天下の「郷」も同じものとして考えている。そうであるから自分の郷の者を導くように天下の他の郷の人をも導くのである。つまり、それはまた自分の郷の者を導くのと変わりがないわけである。どこの地域に住む人であってもその風俗は美しいものである。どこの地域にあっても、聖人は自分の住んでいる地域と同じく教え導くということを「地域は地域として完結していると見るべきであり」としている。聖なる王は、自分の住んでいる地域を他の地域と等しいものとして見るだけではなく、国もそのように見ている。国には大国、小国の違いがある。隣国と本国との違いがある。聖なる王の行う道は天下のどこにあっても変わることがない。本国、隣国の違いを考えることはないのである。徳を民に施すのに大国や小国の違いはない。時によって理に従って教え導くのである。そうであるからあらゆる国は自分の住んでいる国と違いがないものとなる。徳を修めて慎み深くあることは、どこの国においても同じである。どこの国も等しいものと考えるのであり、国によって行うべき政治に違いがあるわけではない。全てが同じ心によって為されるのである。それぞれに違った心があるわけではないのである。そうしたことを「国は国として完結していると見るべきであって」と言っている。聖なる王の徳は、自分の住んでいる国も他国も等しいものと見るだけではなく、天下にあって、それを自己と等しいものとして見ている。天下は大きなものであるとはいえ、聖なる王の仁は遍く至るところにまで及んでいる。それぞれ国は違っていたとしても、それが遠い国であったとしても、そこに至る山河が峻険なものであったとしても、その仁が及ばないということはない。どのような国でも等しく、万民は暮らしを楽しんでいる。聖人はあえて天下を自分自身と等しいと「私」のレベルで見ているわけではない。天下を大いなる「公」ととらえている。あらゆるところはそれぞれに根本的な違いがあるわけではない。正しい教えをして、聖人は天下万民を導くのであるが、その時には場所による違いはない。天下の大いなる「公」を見て行っているのであり、天下を「一」なる心として見ているのである。聖人には全く「私」というものがないので、あらゆるところで等しく教えを説いている。それが「天下は天下として完結していると見るべきもの」ということである。


〈奥義伝開〉前回も今回も個人、地域、国家、天下のレベルで善がどのように展開されるかの話であるが、前回では個人の実践が家に及び、それが地域、国家、天下にも及ぶとされていた。しかし、ここでは個人は個人で完結しており、家は家、地域は地域、国家は国家、天下は天下でいづれも完結しているとする。それは前回が「善」という理念について述べており、今回は「善」の実践について触れているからである。「善」を実践しようとする場合には個人と家では違ってくるし、地域、国家、天下などそれぞれで違っている。個人や家のレベルで橋を掛けたりする必要はあるまいし、国家や天下のレベルで静坐による修養を求めるもの不適当であろう。そうしたことは個人のレベルで行われなければならない。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 「合気」の実戦的展開について〜その矛盾と止揚〜(3)

道徳武芸研究 両儀之術と八卦腿〜劉雲樵の「八卦拳」理解〜(2)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)