宋常星『太上道徳経講義』(55ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(55ー6)
生きることに好ましいのを「祥」と言う。心が気を使うのは「強」と言う。
普通の人は衣食に貪欲であり、富貴にこだわりを持っている。こうすることが「生きることに好ましい」と思っている。もし修行者が誤った運気をしたり、金石を薬として服用したりしていることを「生きることに好ましい」と思っているなら、また気が外より来るのが「祥」であると思っていたとしたならば、はたして日々にそうした「祥」を得ていることが、本当に性や命に良いのであろうか。意図をして気を使う。こうした「気」は真陰、真陽の真気ではない(注 心が身が一体となっていない状態)。その「気」は中和もしていないし、柔順でもない。それは「心が気を使」っているからである。そうしたところには等しく真水、真火の変化が生ずることがない(注 本来の「人」のあり方に復することはない)。これらは皆、徳を含んだ自然の働きではないからである。あるいは生きることに良いようにと思って意図して気を使っても、それは返って身を害する基になるのであり、それは決して「赤子」のような性命の根源の働きと一致することがないものである。もし始まりも、終わりもない元神(注 本来の意識の働き)によって性と命とを共に修める(性命双修)ことの大事を悟ることがなければ、天元、地元の元気(注 根源的な生命エネルギー)を悟ることがなければ、ついには「骨弱、筋柔の和気」を得ることは難しい。これを得ることができれば元神を知ることができるのであるが、個々人の今の意識(神)が、そうした乾坤の始めにあるもの(元神、元気、元精)を認識し得ているわけではない。元精は、父母の生まれる前から存在しているのであるが、神は自然にそれに感応する。そうした感応が元精との間であれば精もまた自然に円滑に動くようになる。そうであるから「生きるのに好まし」いように意図して、何かをする必要はないのである。それではどうしてそうした必要がないのか。それは気が意図的に動かされてしまえば心も動いてしまい、心が動いてしまえば神もまとまることがないからである。そうなれば肉体のエネルギー(精)も消耗されて心身は一つになることなく、神と気は分離してしまう。陰陽は合一を得られず、それをひとつにすることができない。老子は後の人がこうした害にあうことを危惧して「生きることに好ましいのを『祥』と言う。心が気を使うのは『強』と言う」としている。そうして後の者が迷わないように注意をしているのである。
〈奥義伝開〉「祥」は神からもたらされる恵みのことであるが、ここでは自然に得られる恵みがイメージされている。それに対して「強」は強いて行うことである。意図的に運気を行うような健康法は今でもあるが、そうしたことは好ましくないとしている。失われた本来の「人」の状態を回復するために限られた範囲では意図的なテクニックを用いることもあるが、それは抑制的でなければならない。本来的には人はあるべき状態で生きていれば問題の生ずることはないわけである。強いて(強)とはまた中庸を欠くことでもある。