宋常星『太上道徳経講義』(55ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(55ー2)

本来的な徳(含徳)をそのままに(厚)持っていることは、赤子に例えられる。

「含」とは明らかには見ることができないが持っている、ということである。「厚」とは完全であって欠けていないということである。本来、心の中は空浄(注 とらわれがなく清らか)であり、物への執着などはない。こうした状態にあることを「赤子」としている。人の天の徳(注 道と一体となった徳)は、賢者でも愚者でも、貴くても、卑しくても、それぞれが有してる。そしてそれを守り養っている。しかし、欲に汚染されれば徳は失われてしまう。そうなれば人は道から外れることになる。(徳の現れとしての)仁には愛があり、義にはけじめがあり、礼には敬いがあり、智には悟りがある。これらは全て徳がその中に含まれているからそうなるのである。徳があるからそうしたことを実践できるのである。人ははたしてよく天命の性(注 本来的な心のあり方)を動静の行為において、物の理に従って、見たり聞いたりする中で、その柔和であることを涵養できているであろうか。ここでの鍵は「性」が「性」として完全であることにある。それは常に虚静でなければならず、そうでなければ、天地の徳は日々明らかになることはない。徳が全く純粋なものであれば、欲望も自ずから消えてしまい、(何ものにもとらわれない)混沌とした中に物事の理は自然に明らかとなって、徳が純粋に熟することなる。天地の働きは大規模であるが、そこでもただ徳が涵養されているに過ぎない。いくら物が多くあっても、すべてはこうした自然の徳の働きによって存在しているのである。心身、内外、家、国、天下、全てそれらには徳があることで成り立っている。つまり、そこには純粋な徳が有されているわけで、その点においては「赤子」と何ら違いはない。そこにあっては元気(注 根源の生命エネルギー)は純粋であり、元神(注 意識の根源的なエネルギー)は寂静で、知らない内に神と気はともに抱きあって、無為であり意図的な働きはない。そこにある徳はまったく純粋であるから「本来的な徳(含徳)をそのままに(厚)持っていることは、赤子に例えられる」と述べている。


〈奥義伝開〉生まれたばかりの「赤子」を本来の「人」そのものであるとするのは儒教でも同じである。これが次第に学びを重ねることで欲望を肥大化させて本来「人」が有している徳を見失わせてしまう。これが道家、儒家に共通した人間観といえよう。太極拳でも、技を学ぶのは技の動きで「人」を固めてしまおうとするのではなく、それにより本来の動きを導き出そうとしている。これは少林拳などとは全く発想を異にしている点である。少林拳ではあえて「人」が本来的に持っていないことを習得することで攻防において優位に立とうとするわけである。しかし、そこには無理、矛盾があるので、心身に決して良い影響をもたらすことはない。


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